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東アジア古代史に於ける日本

1名無しさん@おーぷん:2015/10/15(木)07:32:29 ID:kR9()
縄文末期、弥生、古墳、飛鳥と言う遷移と大陸、すなわち、「渭水流域(中原)、関中盆地、巴蜀、西域、長江流域(呉越楚)、燕、満蒙、楽浪郡、帯方郡」の関わりを考察したい。
「倭」とは何ぞや?
「大和」とは?
「日本(ひのもと)」とは?
つまりは、東アジアに於ける、と言うか、ユーラシア世界島文明に於ける海洋勢力「日本文明」とは?
20名無しさん@おーぷん :2015/12/20(日)19:22:00 ID:D0U()
私の家は数代前の実家の姓を佐比と言い、そこから別の姓として、別れ(分家し)、私で現在の苗字の6代目だ。
佐比氏と言うのは、物部金弓から出た氏族で、私の本籍地には物部所縁の地名が多い。
近畿の物部は大和朝廷に゛国譲り゛した物部で、云わば、プレ・大和朝廷、倭国オリジナルの裏切り者であろう。
これに対し、岐阜県(美濃)以東に蟠踞し、゛毛人゛、゛東戎゛と言う呼称で一括されて来た豪族たちとは、゛神武東征゛として伝えられるいわゆる、大和朝廷による新秩序を肯(がえん)ずる事を拒絶した倭国オリジナルに忠誠な物部、及び、縄文人直系倭人の子孫であったのだろう。

東戎(あずまえびす)、不破の関以東の東国の倭人が最も憎んでいたのは、大和朝廷内に於ける中枢を担って参った我が家の先祖たち、国譲りに応じた近畿の物部であったと推測する。
大和朝廷が東国を安定させ、その人心を収攬するには、我が家の遠い先祖である近畿の物部たちの処遇を重大変更させる必要があり、蘇我馬子の時代、それは政策として、実現したのだろう。
21名無しさん@おーぷん :2015/12/20(日)23:49:12 ID:2sP
>>18
蘇我蝦夷は明らかに、東北地方の蛮族、蝦夷の名前を押しつけられた可哀想な被害者だろう。
山岸涼子の名作漫画『日出処の天子』では、
蘇我毛人という事になっている。
(読みは同じ「えみし」)
22名無しさん@おーぷん :2015/12/26(土)20:44:20 ID:1zG()
古事記に仁徳天皇の時代にあった゛枯野゛と言う快速船を詠んだ歌が(それに纏わるエピソードとともに)紹介されている。

枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り 掻き弾くや 由良の門の 門中の 海石に ふれ立つ なづの木の さやさや

原文


加良怒袁 志本爾夜岐 斯賀阿麻理 許登爾都久理 加岐比久夜 由良能斗能 斗那加能伊久理爾 布礼多都 那豆能紀能 佐夜佐夜
23名無しさん@おーぷん :2015/12/26(土)20:55:22 ID:1zG()
歌にある゛由良゛と言うのは淡路島洲本市の由良だ。

で、少し、安直に過ぎ、申し訳ないが、便利なのでwikiから抜粋する。


『先代旧事本紀』の記述によれば、
「一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」
と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するという。
24名無しさん@おーぷん :2015/12/26(土)21:17:09 ID:1zG()
つまり、仁徳天皇時代に存在したとされる快速船、゛枯野丸号゛のエピソードの淡路とは現洲本由良であり、その地名は「ひふみの祓詞」の゛由良゛に由来するのであろう。

歌の「ふれたつ なずの木の」と言う「ふれたつ」の「ふれ」とは動詞、「ふる(布留)」の活用形の連用形であろう。
この歌の謎は未だ解明されていないが、我々(←この゛我々゛は我が家の先祖代々と言う謂い)淡路島の物部末裔にとっては、ゆるがせに出来ない謎だ。
奈良天平年間には既に物部は没落し、過去の氏族になり果てていたのであるが、古事記、日本書紀はその頃に成立したのである。
25名無しさん@おーぷん :2015/12/26(土)21:32:40 ID:1zG()
快速船、「枯野丸号」が難波の宮殿に運んだとされる淡路の清水とは、古神道奥義及び、プレ大和朝廷時代から伝承され来たった血流の事ではないだろうか。
老朽化した快速船、枯野を塩田の燃料として使ったと言うエピソードは粛清された、と言う意味に思われる。
一部、余った(粛清されずに済んだ)生き残りの存在が上記の歌の「琴に造り」であろう。
26名無しさん@おーぷん :2015/12/26(土)21:34:22 ID:1zG()

「なずの木」 X

「なづの木」 ○

だった。
27名無しさん@おーぷん :2015/12/26(土)21:36:09 ID:1zG()
なんか、悲しいね。
28名無しさん@おーぷん :2015/12/27(日)13:48:06 ID:piN
http://teikoku-denmo.jp/history/honbun/taika.html
http://teikoku-denmo.jp/history/honbun/taika2.html

大化改新について、面白い考察サイトが有ったから紹介しておく
29名無しさん@おーぷん :2015/12/27(日)20:07:38 ID:PVK()
>>28

ありがとー。

超絶、興味深い。
如何にも、如何にも、(可能性ありそう)ですな。
結構、論理的な推理だと思う。
30名無しさん@おーぷん :2015/12/27(日)20:33:06 ID:PVK()
隋の南北朝統一が598年か。
で、唐朝の開闢が610年。
「大化の改新」(最近は゛オッシの変゛て言ってるらしいが)645年か。
物部守屋の滅亡は587年。
「隋」による南北統一開闢の2年前だ。

馬子
「大和朝廷は南朝シフトが長かった(と言うか常態化していた)ので統一されると既存のコネが消滅し、困る豪族がいたんだな」
守屋
「ふーん。そうなん」
馬子
「あんたの事やんか!」
31名無しさん@おーぷん :2015/12/27(日)22:57:33 ID:PVK()

隋 598 X

隋 589 ○

だった。中学校で習ったのにね。
32名無しさん@おーぷん :2015/12/31(木)03:51:09 ID:wgn()
卑弥呼が魏に使者を送ったのは3世紀半ば。
魏と邪馬臺國の蜜月時代だ。だが、曹氏の魏王朝は司馬氏の晋に取って代わられてしまう。
その晋(西晋)も同族相い食む八王の乱等の内訌の果て、自らが招き登用した北方異民族の謀反、永嘉の乱によって313年(実質は311年)滅んでしまう。

卑弥呼と魏の蜜月の中心的場であった帯方郡が四周(主に北方)の侵攻により、カタストロフを迎えたのは、おそらく、右の永嘉の乱の直後ではないだろうか。
西晋壊滅の報は帯方郡にとってのロジスティックスの消滅を意味し、ツングース(高句麗)は根なし草を刈り取る如きイメージでその接収を図ったものであろう。
それに対する現地(帯方郡)漢族(中原文化を自負する魏・晋の派遣官僚組織)とその結盟的パートナーである所の邪馬臺國従(よ)り出向せる゛東夷在地登用任官団゛の反撃が広開土王碑文の高句麗vs倭の激突の真相ではあるまいか。
卑弥呼の邪馬臺國の魏・晋的秩序のキャリア登用を受けた現地採用任官の倭人は亡国、魏・晋の帯方郡残置官僚組織の漢族と古代中原文化のインテリジェンスと言う親和性で心理的カテゴリーを形成する土壌があったのであろう。
高天ヶ原と渭水流域、中原。これが記紀に叙述された天孫降臨の真相背景に思われる。
33名無しさん@おーぷん :2015/12/31(木)03:58:04 ID:wgn()

うわっ!
酷い、バカっぽ文章になっちまった。
だが、発想の骨子はぎりぎり、伝わると思う。
申し訳ありません。
清書せず、ダイレクトにカキコしたので殆んど、口述筆記の殴り書きです。
34名無しさん@おーぷん :2015/12/31(木)04:04:29 ID:wgn()
神武東征の時の畿内の抵抗勢力と神武サイドの血統的共通項、ニニギノミコト、天の磐船乗船組、すなわち、天孫族のホームランド、蘆原中つ國と言うのは渭水流域の中原文化であろう。
35名無しさん@おーぷん :2015/12/31(木)04:05:35 ID:wgn()
だから、徐福伝説があるんじゃね。
36名無しさん@おーぷん :2015/12/31(木)04:09:56 ID:wgn()
徐福はBC3世紀。卑弥呼はAD3世紀。約、400数十年間の開きがある。
だから、400年ぶりのお互いの邂逅時に発見した共通項には深い感動があったと思う。
37名無しさん@おーぷん :2015/12/31(木)04:12:21 ID:wgn()

>お互いの邂逅

これは倭人の任官組と帯方郡の魏・晋の官僚たちの出会い、つー事だよ。
38名無しさん@おーぷん :2015/12/31(木)04:28:13 ID:wgn()
東漢直(やまとのあたえ)氏ってのは、結構、傍流扱いなんだよね。
だから、神武東征の幹部は東漢直氏(魏・晋遺民)ではない。
帯方郡で現地採用された倭人本国から出向した純粋倭人たちであった、と思われる。

>>34

>ニニギノミコト X

>ニギハヤヒ ○

だった。致命的書き損じです。
申し訳ありません。
天の磐船乗船組=ニギハヤヒノミコトの子孫。
39名無しさん@おーぷん :2015/12/31(木)04:38:44 ID:wgn()
私の推理では大和朝廷とは、卑弥呼の時代に手に入った半島利権、謂わば、゛親魏倭王バブル゛の相続者、任那派遣の倭人エリートたちが帯方郡の遺産と言う゛親魏倭王バブル゛の威力を倭人本国の畿内に向けた事で成立した、と思う。
帰国子女組(神功皇后&武内宿禰)が天下を奪取したのが大和朝廷ではありますまいか。
40名無しさん@おーぷん :2015/12/31(木)04:42:03 ID:wgn()
東漢直(やまとのあたえ)と言う氏族の訓読みとその見事に陰の薄い傍流ぷりが全てを語っていると思う。
41名無しさん@おーぷん :2015/12/31(木)04:58:40 ID:wgn()
高句麗と倭の4~5世紀にかけての強大化は過程が似ている。
卑弥呼の邪馬臺國は帯方郡経由で魏の冊封を受けた。
高句麗は前燕の冊封を受けた。
ともに上部構造の崩壊後、在地の遺産を接収して力を得た。
似ていると思う。
42名無しさん@おーぷん :2016/02/06(土)12:37:01 ID:WDr
「ぼくのかんがえたさいきょうのやまたいこく」はもう沢山w
43へんくつ者 :2016/02/15(月)14:56:07 ID:iRG
旧唐書に倭人伝とは別に日本伝があり、日本伝の方に「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。」
とある。ある時期、倭国と日本が同時に存在し、その後日本のみになったということになる。

大雑把に考えれば、天孫降臨の直系は倭国なのだが、そこからわかれた神武天皇を祖とする日本が分家として存在し、
8っ世紀ごろ主導権が日本に移ったと考えるべき。本家の倭国はその後衰退し滅びた。
44名無しさん@おーぷん :2016/02/16(火)23:18:26 ID:xKN
倭国と大和朝廷が別系統の王朝だった可能性は無いの?
45名無しさん@おーぷん :2016/02/17(水)20:25:13 ID:uiw()
>>44

そりゃ、別系統デソ。
「神武東征」って自画自賛してるぐらいなんだから。
゛東征゛されちまった側とは明らかに別系統。
46名無しさん@おーぷん :2016/02/17(水)20:31:12 ID:uiw()
変な例えだけど、豊臣政権→徳川政権のような内部昇格、創業者一族を凌駕した筆頭重役によるトップ交替があったのでは?
47名無しさん@おーぷん :2016/02/17(水)20:42:23 ID:uiw()
で、仮に倭の五王による宋への朝貢の時代、6世紀は既に大和朝廷になっていた、とする。
すると、「国譲り」は卑弥呼の時代から倭の五王の存在した6世紀の間であった事になる。
卑弥呼は大和朝廷の直接の血縁者か、国譲りさせられた前王朝側か?
何とも言えませんな。
私自身の勘では、譲らされた前王朝側の人のような気がする。
48名無しさん@おーぷん :2016/02/17(水)20:44:32 ID:uiw()
>>39は勘でカキコした、と言う事になるが……
49名無しさん@おーぷん :2016/02/18(木)18:27:10 ID:QQk()
再び、仮に、ですな。
いわゆる、大和朝廷と邪馬臺國が別系統の王朝であり、4~5世紀の何処かで内部昇格的政権交代があった、と帰納法的推論を採用した場合だ。

卑弥呼の時代(3世紀)には我が国は未だ統一されていなかった。
所が、国宝稲荷山出土の金錯銘鉄剣は5~6世紀のものだ。
銘文中の゛ワカタケル゛とは倭王武、すなわち、雄略天皇だと想定する説がある。
すなわち、5~6世紀には埼玉県に大和朝廷の影響力が及んでいた訳だ。
一方、6世紀の大和朝廷は任那の一部を百済に割譲したり、新羅に横領略取されたりしていた。
喪失したと言う事は元は所有していたと同義であるが、5~6世紀の大和朝廷は3世紀の卑弥呼の邪馬臺國と比較すると半島と東日本の分、支配エリアが拡大されている。
この間に大変な膨張、バブルがあった、と考えざるを得ない。
50名無しさん@おーぷん :2016/02/18(木)18:30:42 ID:QQk()
卑弥呼の邪馬臺國(3世紀)と倭の五王の大和朝廷の間にあった、政権交代及び、支配エリアのバブル的拡張の相関性を考察したい。
51名無しさん@おーぷん :2016/02/18(木)18:40:28 ID:QQk()
卑弥呼の時代の外交的成功がもたらせた半島利権である。
これを原資として、残余の未だ帰服せざる東日本の土着勢力に河内を本拠とするプレ大和朝廷(邪馬臺國)は支配力を強化せしめる事が出来たのではありますまいか?
この半島利権の拡大及び、その本州東日本浸透への活用に於ける最大の功績者が内部昇格し、政権交代せしめたのが大和朝廷であるのかも知れない。
52名無しさん@おーぷん :2016/02/18(木)19:03:29 ID:QQk()
この仮説には前提として、彌生時代の倭は支那中原(もしくは、辺境)から渡来して来たった漢字文化圏の者が強い影響力を有する社会だった(地域的群小コミュニティーの割拠状態)だった、と言う命題を必要とする。
で、彌生時代の群小勢力割拠状態の倭人世界の上部階層の一部に漢字文化圏の渡来人の子孫が存在し、これらの者にとっては対馬海峡も朝鮮海峡も越えられぬ絶縁帯ではなかった、むしろ、北九州や山陰、北陸の支那系彌生人にとって、半島南部は十分、行動範囲だった、と言う仮説である。
この華人文化の色濃い渡来系彌生人の影響により、彌生時代の倭人の活動範囲に半島南部が組み入れられ、現地に倭人コミュニティーが成立したと推測する。
これが邪馬臺國の卑弥呼登場直前の状況の部分的スケッチだ。
53名無しさん@おーぷん :2016/02/18(木)22:50:17 ID:QQk()
漢書地理志に

「夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国と為る。歳時を以て来り、献見すと云ふ」

彌生時代の我々に関して、交流のあった事実がされている。
54名無しさん@おーぷん :2016/02/23(火)13:04:28 ID:5Wk
なんだこのスレ…
55へんくつ者■忍法帖【Lv=5,あばれザル,bqr】 :2016/03/13(日)20:36:43 ID:f9P
>>4
魏志倭人伝には邪馬台国とは書いてなく邪馬壹國としか書いてない。
だからヤマタイコクとは読めない。
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」
56名無しさん@おーぷん :2016/03/15(火)21:24:16 ID:Z51()
水行十日陸行一月の解釈な。
ま、ふつーは地続きで徒歩なら、(郡都から出発して)1ヶ月かかる。湊(みなと)から湊(みなと)に水路直行すれば、十日だ、そー言う事だよ。
漢江上流域の何処かに群都があったとして、そこから十日の行程だと九州はレングスの内側過ぎじゃわな。
57名無しさん@おーぷん :2016/03/15(火)21:30:57 ID:Z51()
確か、岩波文庫のツーキューディデースの「戦史」の脚注の何処かに古代地中海世界の帆船の一日の到達距離を60~80キロメートルと考察していたよーな記憶がある。
58名無しさん@おーぷん :2016/03/15(火)21:56:20 ID:Z51()

120キロメートルだったかも知れんな。しかし、ツーキューディデースは紀元前だからね。
卑弥呼はAD2世紀。昼間12時間航行して、寄港、停泊しなけりゃならんよーな性能だと、玄海灘の荒海を航海出来んだろ。
ましてや、黄海を渡り、山東半島から帯方群都(漢江上流の何処か)にまで、魏国本土の援軍、物資を届けるロジスティックスの任は果たせないわな。
外洋航海可能な性能の帆船だったはず。
59名無しさん@おーぷん :2016/03/15(火)22:11:46 ID:Z51()
今、グーグルマップを使った距離測定サービスのサイトで調べたら、大阪ーソウルの直線距離は830キロメートルだった。

実際は黄海を通り、対馬を経て玄海灘に洗われつつ、瀬戸内海に入る訳だから、その1.5倍、千二百キロメートルぐらいの行程であろう。
一日、百二十キロメートルの性能の帆船で、十日だな。
60名無しさん@おーぷん :2016/03/15(火)22:14:44 ID:Z51()
徒歩で一日40キロメートル踏破すれば、1ヶ月で千二百キロメートルだし。
61名無しさん@おーぷん :2016/03/15(火)22:22:04 ID:Z51()
古代の大阪湾は上町台地(今の中央区、天王寺区)が半島として突き出た地形で、此花区や港区、大正区、西成区の辺りは海だった。
大和朝廷の外港は上町台地の天王寺区辺りにあったはず。
62名無しさん@おーぷん :2016/04/02(土)20:12:30 ID:NXt()
三十年以上前の書籍だと思うが、書名は忘れた。
囲碁の呉清源先生がインタビューに応えられ、曰く、
「最近、将棋界の第一人者の某氏が講演等で将棋を喩え話に使い、所々で教訓を垂れ流しているようだが、棋士は思い上がってはならぬ。
これは非常に重要な点であるが、囲碁や将棋と実社会の諸現象は根本的に違う、位相の異なった、互いに相通じない、別次元の体系事象なのである。
故に、洒落や言葉遊びなら許されるとしても、互いの求道に関し、真摯な意味での助言など、専門外の立場から、おいそれと口を挟めるはずがない。
(仮にアドバイスを)求められたとしても、偉そうに説教じみた講話なんぞ、慎むべきであろう」

と言う意味の苦言を呈せられていたが、私はひどく、感心し、一層、先生への敬服の念を深めたのである。
それで、呉清源先生の仰せは、深層(真相)を穿つ正論である事を百も承知の私であるが、敢えて、方便知的に囲碁を喩え話として、直後の次レスで↓使おうと思う。
63名無しさん@おーぷん :2016/04/02(土)20:51:18 ID:NXt()
大阪湾である。古くは、大坂湾だ。
明石、鳴門の両海峡を経、瀬戸内海に通じている。
この海の回廊に関する考察だ。
古代の都市は囲碁の盤上の一石(浮き石)に喩える事が出来る。
この浮き石は包囲され、ロジスティックスを絶ち切られると、死ぬ(飢餓死する)のである。
故に、強力な都市(策源地)とは、糧道(ロジスティックス)の確保された、連繋のある石を指して使われる表現なのである。

そこで、古代、大和朝廷の難波(なにわ)の宮に視点を移すと、その糧道が大坂(大阪)湾、瀬戸内海と言う海の回廊によって、九州、四国、山陽の穀倉地帯と繋がっている事が分かる。
陸路ではなく、内海、ここが重要なのだ。
古代の帆船は一昼夜で120キロメートルは進める。人間が12時間歩いても、50キロメートルだ。水路は、古代、物流のハイウェイであったのだ。
大和朝廷(河内)の地勢学的立地は、物流集積速度が他の内陸拠点、すなわち、軍事施設(敵の居城)よりも二倍~三倍の速度で後背地からの支援を得られる、と言う優位性と同義語であった、と申す事が出来る。
゛瀬戸内海の突き当たり゛には、そのような意味があったのである。
囲碁で申すなら、瀬戸内海は山陽、四国、九州のロジスティックスの厚みそのものであった。
この河内時代の大和朝廷の゛厚み゛に匹敵する物流ハイウェイは畿内はもとより、不破の関以遠の東国の何処にも存在しなかったのである。
64名無しさん@おーぷん :2016/04/02(土)23:16:28 ID:NXt()
付け加えると、海上兵站の重要性は船舶(古代~近世)のペイロード(最大積込キャパシティー)が車輌に比べ、非常に大きい、と言うコスパの点だ。
帆船の乗員水夫と車輌の小荷駄人夫の単位作業費用に大きな差が生じるのだ。
クセルクセスがサラミースの海戦で破れた後、戦意を喪失したのは海上兵站線が危殆に瀕する事態に陥った事を悟ったからである。
百万の軍勢の兵站線をコスパの見地から海上輸送により多くシェアを割いていた事が分かる。
65名無しさん@おーぷん :2016/04/02(土)23:24:12 ID:NXt()
小荷駄で運ぶ米俵と千石船で運ぶ効率の差だ。
瀬戸内海は西日本に於ける天然の飛脚アウトバーンだった訳である。
支那の渭水流域に数珠玉の如く都市国家群が成立していたのも同じ理由であろう。
この場合は大河の水上兵站線である。
66名無しさん@おーぷん :2016/04/03(日)18:45:56 ID:llV()
日本(世界)最大であるとされる仁徳天皇稜(大仙稜古墳)、それに次ぐ応神天皇稜(誉田御廟山古墳)、これらのスーパー・メガ墳墓が河内に存在するには歴史的必然性があった、と思われる。
67名無しさん@おーぷん :2016/04/12(火)17:03:32 ID:DMI()
イラストの直角三角形⊿の点Cを帯方郡都、点Aを済州島、点Bを大阪(大坂)と考えた場合だ。
帯方郡都の位置は不明だが仮にソウルを近似点とする。
Googleマップで距離を調べると、
CA、ソウル市-済州市は453キロメートル

AB、済州市-大阪市(茶臼山)は837キロメートル

CB、ソウル-大阪市(茶臼山)は830キロメートル

故に、総旅程は
線分CA+線分AB=453+837
=1290キロメートル

帆船一昼夜の到達距離を130キロメートルとすると
130km x 10日 =1300km
徒歩1日の到達距離を43キロメートルとすると
43km x 30日 =1290km

水行10日、陸行30日だ。
メルカトルの地図に定規を宛がっても無駄だ。
Googleマップの二点間距離測定サイトで調べれば一発正解だ。


68名無しさん@おーぷん :2016/04/12(火)17:14:28 ID:DMI()
文学部東洋史学科の学生は卒論で使える仮説だと思うぞ。
↑イラスト線分ABとは
肥前沖ー対馬ー博多ー関門海峡ー瀬戸内海ー大阪市の航路の事である。
69名無しさん@おーぷん :2017/01/24(火)22:55:13 ID:a4o
>>1
「倭」、隋書倭国伝に「有阿蘇山其石無故火起接天者 俗以為異因行禱祭」とある。
倭国には阿蘇山があって信仰されている。これで倭国の場所はわかるよな!

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