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任那と伽耶(加羅)をピンポイントに語ろう

1名無しさん:2014/04/17(木)20:42:03 ID:TXhqAwD8C()
加羅は三韓の一つの弁韓を母体とする。

『日本書紀』では、加羅と任那が併記されている。

伽耶(かや)は加羅(から)の現代韓国に於ける表記。また加羅諸国
(からしょこく)は、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部に
おいて、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。


広義の任那に含まれるが狭義の任那とは位置が異なる。
36名無しさん@おーぷん :2014/05/31(土)18:21:27 ID:49i3U8XUM
>>35

超遅レス(10日後)申し訳ない。
考古学的出土では、
奈良纒向>北九州
だろう。

文献学的には、未だ、五里霧中ではないだろうか。
37名無しさん@おーぷん :2014/05/31(土)18:29:31 ID:49i3U8XUM
親魏倭王ね。

親邪馬臺国王ではないんだよね。

「魏」と言う国号だけど、「魏」の文字の中に「委」の字がある。倭に対する「親魏」の意味は部首の共通性だったように思われる。

「」倭
38名無しさん@おーぷん :2014/05/31(土)19:03:30 ID:49i3U8XUM
魏志倭人伝の一節↓

「その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす」

人偏「イ」に「委」に「鬼道」に事える→人偏、すなわち、◯◯する人+「委」+「鬼(道)」→魏に事える人

魏の心証の共感の現れを象徴するエピソードかも知れない。
39名無しさん@おーぷん :2014/05/31(土)21:17:21 ID:Murory06b
鬼道が原始道教と関係あったのかどうか。これも問題。
40名無しさん@おーぷん :2014/06/08(日)01:14:46 ID:rtGNq5GIM
三国志に他の「鬼道」の用例はないの?
まずはそこから始めないと滑稽であるよ
41名無しさん@おーぷん :2014/06/14(土)14:58:49 ID:FRZkPxlyU
>>40

ないと思う。

だからみんな困っている。
42名無しさん@おーぷん :2014/06/14(土)15:00:03 ID:FRZkPxlyU
ただし、当時の中国の文献では儒教にそぐわない体制を「鬼道」と表現している用法がある
ことから、呪術ではなく、
単に儒教的価値観にそぐわない政治体制であることを意味するという解釈がある。
43名無しさん@おーぷん :2014/09/24(水)00:53:41 ID:SufbUtOsJ
なにいってんだよw 三国志で鬼道といえば五斗米道じゃないの?
44名無しさん@おーぷん :2014/09/25(木)20:06:46 ID:X2h7ebhGG
景初三年(238年)、公孫氏の滅亡によって遼東半島支配が瓦解した。
帶方郡が魏の支配下に入ったのはその時以降である。

同じ年、邪馬臺国は初めて、魏に使いを送っている。

そうした経緯を経て、数年後、卑弥呼は「親魏倭國王」の称号を与えられた。
卑弥呼が得た「親魏倭國王」の称号は魏の帶方郡支配の開始と言う当時の実態動静と密接に関係する。
単なる顔繋ぎの挨拶と儀礼形式の結果の肩書きではない。帶方郡都の統治理念を体現する称号なのである。
45名無しさん@おーぷん :2014/09/25(木)21:37:56 ID:X2h7ebhGG
とは帶方郡都の節度使(当時は゛節度使゛と言う言い方は存在しないが)がいた城塞の場所は謎だが、郡都より見て馬(真南)の方向の韓で馬韓、辰の口(南西)の方向の韓で辰韓である。すると、辨韓とは?「辨」とは、わきまえる、分別する、判別する、と言う字義である。

ところで、それとは別に、先ほどの辰韓の「辰」についてであるが、東夷傳の韓の条に「辰韓とは古(いにしえ)の辰國である」とある。推測の域を出ないが公孫氏の燕國時代の分國名か、僣称的な公孫王朝下での擬似的な柵封体制下に於ける東夷ローカル君主国名だったのだろう。公孫偽王朝の帶方郡都も魏の帶方郡都も゛節度使゛の都城の地は同じだったと思われる。その城塞都市をX城と仮に呼ぶと、いにしえの辰国もやはり、当然ながら、X城から見て南西であった訳だ。

さて、辨韓である。おそらく、南西の韓と真南の韓は大きく民俗風習が異なっていたのだろう。そのボーダーに位置する辨韓は馬韓と辰韓を分かつ地勢故、「辨韓」と呼ばれた、と普通考えたくなる。

だが、別の可能性として、帶方郡都節度使が直轄していた華人(漢民族)行政官の治世が実行されていた、と言う意味の「辨韓」かも知れない。

※ 何度も゛節度使゛と言う言い方をしたが、これは後の時代の官職名であり、当時は使われていない。
46名無しさん@おーぷん :2014/09/25(木)21:59:21 ID:X2h7ebhGG
「親魏倭國王」の「親魏」に関して、である。247年頃と言うのは、公孫氏の偽王朝の打倒された238年から十年も経ていない。倭國王卑弥呼が魏に最初に使者を送ったのは公孫氏滅亡と同じ年であるから、僅か十年未満で「親魏」とは妙な修飾接頭辞である。

故に、この場合の「親」とは外交関係の親(ちか)しいの「親」ではなく、「倭國」の「倭」の字解、部首の近縁性に主眼が置かれているのは明らかだ。
確かに、「魏」の文字には「倭國」の「倭」と共通する部首、「委ねる」が使用されている。

そもそも、ケモノ偏や虫偏で異民族を表記する中原黄河文明の地理命名で人偏の「倭」は異例中の異例なのであり、柵封相手に「親魏」と字解を理由に接頭辞を冠する事も極めて異例であろう。
47名無しさん@おーぷん :2014/09/25(木)22:06:25 ID:X2h7ebhGG
故に、卑弥呼の゛倭國統治゛に公孫氏滅亡後の帶方郡都長官の後詰め支援手形の発給と言う意味合いが日本列島内のライバルたちに大きく脅威を与えた事が推測されるのである。

倭國の辨韓への影響を保証、追認したのもおそらくはこの帶方郡都経由の魏、晋政権の時代であった、と思われる。
48名無しさん@おーぷん :2014/09/26(金)20:40:10 ID:cOOWg7yiF
人偏に「委ねる」と書いて「倭」である。
人偏に「壬(みずのえ)」と書いて「任」、「任(まか)せる」である。
「委任」と言う熟語がある。「那」とは「それ」と言う指示代名詞だ。

任那とは直訳すれば、「それを任せる」、「任せられたそれ」であろう。
委ねられたのは帶方郡都長官から、と解釈されるべきであろう。

倭人の辨韓統治の法源は代々、帶方郡都長官の委任状であった、と思われるのだ。
49名無しさん@おーぷん :2014/09/26(金)20:49:16 ID:cOOWg7yiF
倭人の辨韓統治の法源である帶方郡都長官からのお墨付きの文書が石碑か竹簡(竹は酸化して真っ黒に粉末化しているだろうから無理だろう)の形で出土すれば証明完了だ。

だが、238年、公孫氏の燕の滅亡と同時に魏に通じた卑弥呼が「親魏倭國王」の称号を得ている事実は委任統治の追認と言う意味で限りなく重いのである。
50名無しさん@おーぷん :2014/09/26(金)20:54:07 ID:cOOWg7yiF
好太王碑文の高句麗と倭の対立は高句麗による帶方郡征服の後の顛末だ。

帶方郡的秩序を法源とする倭と帶方郡都、X城を破壊した高句麗の激突は必然であった、と分かる。
51名無しさん@おーぷん :2014/09/26(金)20:56:52 ID:cOOWg7yiF
また、いわゆる、大和朝廷が卑弥呼の「親魏倭國王」の権威を少なくも、対外的には継承していた事も明らかである。
53名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)20:32:48 ID:OhJ
上げ
54名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)20:34:45 ID:OhJ
上がらんの?
55名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)20:41:35 ID:OhJ
ははぁ。
下の方のスレは一回のカキコでは上がらんのか。
二回目で上がる、と言うシステムを発見したわい。

昨日、youtubeで飛鳥昭雄のサンプル動画を観ていたら、彼は未だに江上波夫の騎馬民族征服説を信じているんだね。
根拠は和種の木曾馬のDNAがモンゴル馬のそれと一致しているから、だそうだ。
56名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:34:23 ID:OhJ
飛鳥昭雄の説だと、いわゆる、倭の五王、倭王武の上表文の「海北して平らぐる」云々の表現をどう解釈するんだ?

騎馬民族に征服された、ってのに、海を渡って平定するんかい?可笑しいね。
好太王碑文も倭が海を渡って征服したって、なってる。4世紀だよ。4世紀に高句麗と言う半島で覇権争いしてる倭が5世紀に高句麗以外の誰かに本土を征服されるとかwww
57名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:37:00 ID:OhJ

高句麗と言う半島 X

高句麗と言う勢力と半島で ○

ごめんなさい。タイプミスでした。
58名無しさん@おーぷん :2015/04/01(水)21:49:20 ID:OhJ
秦氏が征服者って、あり得ない。
だって、大和朝廷の序列では、天皇家>物部>葛城>蘇我>大伴>平群、巨勢、紀、中臣、尾張、その他>秦だろう。

秦氏なんざ、新参で河内、大和、和泉の三大中心国に殆ど、基盤がない。山城國の平安京の辺りは未開の後進的湿原だったはず。
59名無しさん@おーぷん :2015/04/02(木)15:24:56 ID:utI
漢字破字法と言う部首を更に分割して字解、意味を求める方法がある。

これで「日本」、「日の本」を分解して、字解を求めると。

「日」は「八」+「二」に分解出来、「本」は「一」+「木」に分解出来る。
線の方向をX軸方向成分線、Y軸方向成分線で大分すると、「八」+「二」+「木」+「一」は「秦」を分解したものと同じである。

「大和」の場合は「秦」と比べると二本X軸方向成分の線が少ない。「二本」=「にほん」少ない。
つまり、大和に二本(にほん)のX軸方向成分線を加えれば「秦」と同じ、これが「日本」と「大和」と「秦」の文字に隠された秘密である。
60名無しさん@おーぷん :2015/04/05(日)07:18:34 ID:k6o
>>59

> 漢字破字法

破防法に空目しますた
61名無しさん@おーぷん :2015/04/14(火)15:25:35 ID:81Q
本家2ちゃんねる「任那日本府」スレが
DAT落ちしたまま次スレ立っていません

http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1364649626/
62名無しさん@おーぷん :2015/04/14(火)16:25:54 ID:EXR
日本府について記述が復活したんだって?
63名無しさん@おーぷん :2015/04/17(金)07:17:42 ID:RoJ
あげ
64名無しさん@おーぷん :2015/04/17(金)16:44:41 ID:549
あれだよ、宋書倭国伝に「使持節都督、……六国(りっこく)諸軍事倭王」ってあって、その「……」にある国名の一つが任那なんだよね。

で、それを記録として残してくれたのは支那であって、我が国の思惑の埓外、すなわち、純客観的と申しても過言でない、第一級の資料なのだ。

その宋書倭国伝は5世紀の終わり頃、成立しており、文書の扱っているのは5世紀の初頭の情勢及び、出来事だ。
その5世紀の客観的資料に゛任那゛は記述されている。

然るに、日本書紀は8世紀の編纂だ。5世紀の支那の資料に倭国の領域として、宋からの承認あり、とあるこの資料が全てであって、日本書紀の記述を如何に誹謗中傷して見た所で「゛任那゛と言う倭国の領土がかつて、存在していた事実」を否定する事は出来んのだよ。
65名無しさん@おーぷん :2015/04/17(金)17:32:22 ID:549
葛城や蘇我は大和朝廷成立時の大功労者だった。

任那ってのは、帯方郡治(帯方郡長官の都城、所在地は現在も不明)の滅亡と言う、朝鮮半島に於ける古代のカタストロフ直後に成立している。

古代に於ける先進文明の出先機関である゛帯方郡治゛の崩壊により、華人たちの文化は、その担い手である彼ら自身とともに四散した。
その散った行き先が或いは百済であり、或いは新羅であり、或いは任那であったのだろう。
東漢(やまとのあや)氏などは、任那、加羅方面経由で日の本の国に渡来した華人であろう。
で、葛城氏や蘇我氏はそう言った帰化人のパトロン、保護者だった訳で、そのコネクションの大元は葛城氏や蘇我氏自身は元々、純粋倭人であったとは思うが、そもそもの策源地(本拠)が弁韓地方辺りの倭人コミュニティー(倭人植民地)だったからであろう。
66名無しさん@おーぷん :2015/04/17(金)18:15:46 ID:RRG
>>65

蘇我はそうかもしれないが、葛城は奈良県の土豪だと思う。
67名無しさん@おーぷん :2015/04/20(月)17:14:23 ID:iK4
あれだよ、岡山の大大名の池田侯は現在、オハヨー牧場を経営しているそうじゃないの。

池田のお殿様のように葛城氏は加羅方面を経略していたのだから、奈良出身か、辯韓出身かはともかく、大和盆地の在所とは別の利権を朝鮮に有する超絶大豪族であったと思う。

オハヨー牧場が池田侯のネームバリューで(認識が)浸透しているように、任那や辯韓の事象は葛城氏の家名とセットで当時、受け容れられていたのではあるまいか。

と言うのは、葛城、蘇我両氏は武内宿禰を先祖としており、神功皇后(股肱の臣が武内宿禰)の三韓征伐繋がり、と言う文脈に於て、武内宿禰を先祖とする大和朝廷の豪族たちは、辯韓地方に広大な土地の利権を有していたと思われるのだ。
68名無しさん@おーぷん :2015/04/20(月)17:30:07 ID:iGM
>>67

柳川の立花さんは料亭経営、
対馬の宗さんは学校の先生と聞いている。
69名無しさん@おーぷん :2015/07/20(月)16:25:35 ID:AAf
age

70名無しさん@おーぷん :2015/07/20(月)16:26:22 ID:AAf
上がったかな?

71名無しさん@おーぷん :2015/07/20(月)16:27:57 ID:AAf
おい
72名無しさん@おーぷん :2015/07/20(月)16:30:10 ID:AAf
上がらへんぞ
73名無しさん@おーぷん :2015/07/20(月)16:30:31 ID:AAf
age
74名無しさん@おーぷん :2015/07/20(月)16:36:10 ID:Dha
age
75名無しさん@おーぷん :2015/07/20(月)16:36:56 ID:Dha
あage
76名無しさん@おーぷん :2015/07/20(月)16:40:06 ID:AAf
あげ
77名無しさん@おーぷん :2015/07/20(月)18:21:30 ID:Dbm
上げ
78名無しさん@おーぷん :2015/08/22(土)22:40:30 ID:X2Z
>>30,>>45
「辨韓」じゃなくて「弁韓」だよ。弁の字は魏略では牟になってて
通説では牟は弁の誤写というが、たぶん逆で牟がもとの形
その牟も最初から牟なのではなく、おそらく「半」の誤写。
まぁ仮に弁が正しいとしても、弁と半では上古音では発音がかなり近い
弁韓(半韓)は「半跛韓国」の略だろう。日本書紀に出てくる伴跛国のこと
魏志に弁辰半路国という名で出てくる。この路は跛の誤写。
半跛国を盟主とする12国が弁韓。
馬韓も午は関係ない。蓋馬国を中心とする韓の国々が馬韓。
斯盧国を中心とする12国が辰韓。斯盧は現代日本語だとシロ、
現代韓国語だとサロだが、上古音では[si-la]シラ
辰[sin]はシラの頭音[sil]の音写だろう
ちなみに古く朝鮮半島の南部を「真番」といったのは
シラキ(斯盧)=辰韓の辰(=真)とハヘ(半跛)=弁韓の弁(=番)
を併称したもの
79名無しさん@おーぷん :2015/08/22(土)22:40:59 ID:X2Z
あれ?あがらない?
80名無しさん@おーぷん :2015/09/25(金)17:25:56 ID:lmR
>>66
蘇我は葛城の分家でそ
81名無しさん@おーぷん :2015/10/14(水)19:39:50 ID:HQB
>>80

それは系図を操作したのかも。
82名無しさん@おーぷん :2016/02/03(水)20:37:56 ID:aDe
>>81
疑えば、きりが無いが、疑わなくても別に困らない。
83名無しさん@おーぷん :2016/02/04(木)17:48:22 ID:kuA
蘇我氏の出自は百済の王族説というのがあるな。
84名無しさん@おーぷん :2016/02/06(土)12:33:59 ID:WDr
>>83
王族説じゃなくて百済の木氏説でそ。今では否定されてるが
85名無しさん@おーぷん :2016/02/11(木)06:33:50 ID:gLw
>>84

黒岩重吾説

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