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市民層 概論

※ID非表示スレ
1市井の居士◆dgvbGqecqY:2017/10/22(日)20:53:05 ID:???
とりあえず過去レスリンクを貼っとくよ。日付が一番古いのはL.1、んでL.7までいったらコメントレス109,-129. これより後のレスは、ここにはリンクしてない。

オレの過去レス (旧2ちゃんリンク集)

コメントレス
109.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/335
110.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/336
111.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/337
112.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/338

113.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/339
114.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/340
115.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/341
116.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/342

117.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/350
118.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/351
119.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/352
120.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/353
121.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/354
122.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/355
(つづく)
127市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)16:57:40 ID:???
7 of 20 (つづき)

すなわちストイシズム系諸能力が実効力を持つためには、他の二つの始原人格系の場合とは異なり、「(自己の外部の力により支えられなければならないという)不安定性」を持つのである。
例えば芸能人/有名人に関わる絶え間ないゴシップは、例え世俗的成功を得たとしても一度(ひとたび)、ストイシズム系行動文化から遮断されてしまうならば、人間生活の根幹に深刻な問題が発生することを如実に示しているのである(※注)。
(※注 芸能人/有名人として成功するほどの強い主体性/個性を持つ彼らの場合、“元々意志薄弱なダメな(ストイシズムが弱い)人間”であるというケースはまず考えられない。
そうではなく彼らは本来的に強い人間であったにもかかわらず、彼らが最期にはくだらない失敗で転落してしまうということは、(ストイシズム系人格・観念的能力を維持するということに関しては)どれだけ努力したか?とか、どれだけ意志が強いか?
などといったこと以上に、日々の節度ある常識的生活を通じたストイシズム系行動文化からの無意識的涵養が頗(すこぶ)るモノを言うということを示唆しているのである。)

その上で、高次存在拘束性とか破壊と創造事象に関わる論考にあたっては、こんな日常的なストイシズム系行動文化からの支援では全く太刀打ちできないことは明らかだ。
すなわちこのようなものに対しては、例えば上記のプロテスタンティズムの如くの、人々の価値・人生観に訴える『高次ストイシズム系観念』に裏打ちされた『高次ストイシズム系行動文化』が必要になる。

例えばオレたち日本人に馴染み深い高次ストイシズム系観念と言えばもちろん「武士道」である。例えば新渡戸稲造の「武士道」(1900)なんかを読むならば、様々なストイシズム系の派生観念を包含する武士道という価値観体系の概要を看取し得るし、
またエセル・ハワード「日本の思い出(明治日本見聞録)」(1918)といった西洋人目線の諸記録からは、彼らの驚愕と賞賛の対象となったところの日本人の克己心の有様を具体的に看取できる。
更に太平洋戦争中には、とりわけ(武士道が包含するところの)「玉砕精神」を全国民が徹底的に叩き込まれたことは、今も尚、多くの人々の記憶に新しい。
(つづく)
128市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)16:58:10 ID:???
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その上で高次ストイシズム系観念の根幹にある理念が、武士道の「武士は食わねど・・」の如きの「生理的欲求の抑制」観念である。例えば明治の“立身出世”期を描くところの司馬遼太郎「坂の上の雲」(1972)では、旧伊予松山藩士子弟の秋山好古が、
赴任した小学校の主事から「酒をのませる。」と言われた際に、思わず自分の喉が動いてしまったことをもって、「人間、人の言葉が生理に反応するなど、恥ずべきことではないか。」と、自戒するシーンがある。
またエセル・ハワードの前掲書では、島津忠重邸に贅沢な家具/食器類等が一切無い理由として、「武士の師弟に何故、贅沢が必要か?/勇気と剛健を培うために贅沢が役立つのか?/
人格は生活における質素と克己によってのみ陶冶される/家具などなくても家さえあれば十分」といった彼らの価値観が示されている。

しかし人類がその歴史において醸成してきた生理的本能抑制のための高次ストイシズム系観念の精髄とは、実はこの程度の生易しさでは済まない。
すなわち「葉隠」の「武士道というは、死ぬ事と見付けたり」を見ても分かるように、“戦って勝つ成就”を期してあがくよりも自ら積極的に死に臨む“玉砕”こそが最も尊いと言い切ってまでして、
人間の存在拘束性の根幹(自己保存本能など)であるところの生存欲求さえも完膚なきまで否定しようとする恐ろしさである。

例えば「中世キリスト教的行動文化」において、このことが然りである。中世末から近代にかけて聖書の次に広く読まれたとされる、トマス・ア・ケンピス「キリストに倣いて」(1418頃)では、「彼(イエス)は十字架を負うて先立ち行き、あなたのために十字架の上で死なれた。
それはあなたもあなたの十字架を負うて、その上に死ぬことを願うためである。(中略)一切のことはそこで我々が死ぬことにある。」としているし、また1095年に教皇ウルバヌス二世がクレルモンで十字軍結成を呼びかけた際の演説では、
「死は善良なる人々をその故郷に近づける。(中略)死によって魂は自由となり喜びに満ちた希望にふくらむ。(中略)魂はこの世に引き止めている邪魔物から
解放された時にこそ、(中略)聖なる全き活力を得る。」などとして大会衆に向かって、やはり殉教の喜びを持って十字軍に結集するように呼びかけている(※注)。
(つづく)
129市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)16:58:47 ID:???
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(※注 但しウルバヌスはこの際に人々との取引のために、十字軍参加者に対する「有限の罰」の全贖宥(しょくゆう)を許している。)

このように国家機構の支配的観念になるほどの高次ストイシズム系観念とは基本的には、人の命を惜しむ心を徹底的に卑しめた上で、“死身(主君/天子/主の恩義によって生かされている身ゆえに、その義のために24時間365日、
いつ死んでも良い覚悟/心構えを持ち続けて生活すること)”で、被支配者を行動させる、すなわち指導者・特権者階層を命懸けで守るロボット型人間を養成しようとするものに他ならない。

更にこうした極端化されたイデオロギーというものは、往々にして社会の通常の主流的構造から外れた“除け者”階層としての「アウトロー社会」においてこそ純化されるものである。
例えば「博徒/遊侠人」のヒーローの生き様の中などに、武士道的観念が正しく戯画的に純化されているのである。例えば天保の飢饉で窮民を救済したり、大掛かりな社会基盤整備のための土木事業にも尽力したところの、武闘派ヤクザの典型である国定忠治は、
自身の磔刑の執行に際して、カッと目を見開き、たじろぎもしない姿を見せて、その最後の最期まで任侠の道に生きる者の美学を貫いたと伝えられている。
またその最も頼みとする子分の一人の石松を対抗勢力の手により斬殺された清水次郎長は、相手方から石塔料五十両の償いをもってする手打ちを打診された際、「俺を子分の命を金で売る親分にするつもりか。
俺の目の黒いうちは(中略)翼が在って空に飛んで行こうが、術を使って地下に隠れようが、探し出して首を取って石松の怨魂を慰めてやる。」と、これまた「任侠道」に徹した啖呵を切ったと伝えられている。(以上、高橋敏「清水次郎長」(2010)より)

さてしかし、人が人間社会で祝福されるような真っ当な幸福を手に入れようと欲するならば、こうした死をも恐れさせないほどのストイシズム系イデオロギーとはまた異なる、「怠ける/呆ける/甘やかす/放置する/弱ぶる/年寄り・女・子供ぶる」
などといった逃避・怠惰性観念に人間精神が蝕まれないようにするための『生活仕様高次ストイシズム系観念』を伴う『生活仕様高次ストイシズム系行動文化』こそが必要となる。

例えばキリスト教文化圏においては、上記の平林たい子の事例のような、
(つづく)
130市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)16:59:24 ID:???
10 of 20 (つづき)

人生行路における各種の不品行性向を矯正するための、「悔悛(ゆるし)の秘跡(※注1)」
という「私的な告解による自己批判と反省」を促すための生活仕様高次ストイシズム系行動文化が、1,500年近くも前から存在した。
これは人々がひとたび不品行/悪行を為せば、直ちにカトリック司祭の前にぬかづき、密かに己の罪を告解し神に懺悔しなければならないハメになるというものである(※注2)。
(※注1  3世紀末以降のドミナトゥス(ローマ帝国の専制君主制)下においてエジプトの砂漠に隠棲したキリスト教徒の修道生活に起源を持つ秘跡であり、9世紀頃には概ね、現行の私的告解形式が整う。)
(※注2 このようなことが公的機関(近代まではカトリック聖職者の生計は公費によって賄われるのが普通。)の日常業務として為されたのである。)

また我が国においては、氏族的共産制が衰退し“門(家)”が確立し始める11世紀頃に、折からの寺院を取り巻く環境変化(※注1)に伴い、天皇や貴族などのヘゲモニー層の人々は、宗教界での高い地位の獲得が容易になったことと相まり、
ライフステージの一環としての(嫡子に権力を譲った後に)「出家の道」に進むという、儀式的政務と人間関係による拘束/干渉等の日々から免れた(後に院政につながるところの)比較的自由な世俗支配スタイルを、新たに模索し始める(※注2)。
またこうした自己保存目的の出家とは趣が異なるところの、(氏族制から父系制への家族制の推移の中で)
必然的に強まる家門同士の勢力争いに嫌気した皇族/権門の子弟らの、左遷/ドロップアウト/臣籍降下等を契機とするところの、主体的幸福追求のカタチとしての出家も現れてくる(※注3)。
そしてこの両タイプに共通しているところの、“仏道に帰依する”というストイシズム系行動文化に浸るということは、もちろん彼らのストイシズム系人格・観念的能力の大幅な向上に与する。
(※注1 10世紀中期に朝廷は、従来の寺院の一括国営方式を改め、各寺院が自立する経営方式に改める。これにより寺院は、有力貴族等からの寄付を募り存続を図ることになり、大きな寄付をした者には見返りとして院内での高い地位を保証するようになった。)
(※注2 例えばこの時期の代表的な貴族である藤原道長は、元来、病弱でもあることとも相まって頂点を極める度に出家を望んだ。
(つづく)
131市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)16:59:54 ID:???
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例えば左大臣として最初の政権を手中にした3年後には出家を望んでいるし、三条天皇との経年の権力闘争に勝利し摂政と成った時も翌年には早々と地位を頼通に譲り、自身は人臣最高位の太政大臣の地位を花道にさっさと政界を退いて出家した。)
(※注3 このタイプの代表である「徒然草」の吉田兼好は、“博学な高級閑人”であることを自尊して、宮廷文化人などに対して自己アピールすることを楽しんだ。吉田の他には、源有仁/雅仁親王/一遍/西行/法然/栄西などがこのタイプ。)

とどのつまり人間・社会関係における不品行/失敗、すなわち論考時における感情系習慣的自動思考様式からの妨害に起因する類の不出来については、
高次ストイシズム系行動文化に支えられたストイシズム系人格・観念的能力こそが、個人の克己心の限界を超えさせて人格系メタ認知的論理思考能力を大きく高めてくれることを、人類は論理的には説明できないにしても経験的には理解していた。
だからこそ感情抑制という全く楽しくも何ともない、一意的には苦しいだけの行動が習慣化し得たのであり、例えば以下に示すところの中世西洋のキリスト教ヘゲモニー体制確立に至るまでの道程を鑑みてもまた、このことは間違いないと言える。

ローマ帝政の開始により3世紀末にエジプトに逃れてきたキリスト教徒の影響から、己の性的欲求の抑圧のために砂漠での禁欲生活に入った一人のエジプト青年(聖アントニオス)が、
弟子を集めてキリスト教的ストイシズム系観念の礎を築くと、これが4世紀初頭のローマ帝国におけるキリスト教公認後に直ちに(聖マクシミアヌスにより)ガリアに伝播されることとなる。
そしてその後、自らが教区司教と禁欲的な修道士の二役を兼ねた聖マルティヌス(※注)がガリアの地に西欧初となる二つの修道院を建立する。
(※注 このマルティヌスの存在は西欧キリスト教のその後のヘゲモニー獲得にとって決定的に重要である。というのも彼について書かれた伝記本により、死者蘇生/悪魔祓い(エクソシズム)/病気治療の奇跡を成した者としてのマルティヌスの
名声が西欧世界の隅々の民衆にまで広まり、これをもってレランス修道院により西欧修道制が確立されるための下地的基盤が成され、もってキリスト教はゲルマン化した西欧においてその布教基盤を固めたと言えるからである。)
(つづく)
132市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:02:47 ID:???
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ところで初期のキリスト教教団は、司教を中心に組織された都市部の信徒集団であり、このシステムにおいては教会等の財産は信徒の共有物である。
しかして人口の大半が居住するところの田舎や辺境における教会組織においては、教会を自費で建立したゲルマン人領主等が所有者であり、もって当該教会組織を管理する司祭も(教区司教ではなく)彼自身が叙任するところとなった。
こうして7世紀から11世紀頃までの西欧キリスト教組織の基幹システムである「私有教会制」が始まる。

このゲルマン的私有教会制下においては教会組織自体が譲渡可能な資産であり、すなわちこれは不動産等の所有と何ら意味的に変わらず、
司教区全体が一般市民から国王に至るまでの様々な個人の運用可能な財産として分割所有された。

そしてこの状況下では、貧農/農奴への布教活動をも含むがゆえに真摯な態度で臨まなければならないところの、蛮族ゲルマンの根本的なキリスト教化の仕事は、マルティヌスが定着させたような禁欲修行(※注)から漸次、
発展/醸成された (貧民/病人の救済等の慈善事業等を含む)生活仕様高次ストイシズム系行動文化を保持する唯一の組織であるところの修道院が担うしかないことに、人々は気づかざるを得なかった。

とどのつまりローマ教会が頼みとした修道院の行動文化から生まれた帰納知が、荘厳ミサ/成務日課等の信仰形式といった、
中世キリスト教支配に欠かせない事物の確立に基幹的に与し、ひいては大聖堂建築/学術/文芸/芸術までの「西欧的総合知性」の形成にまで至るのである。
(※注 主として男色の危険を避けるための、修道士各人がそれぞれ孤立した僧房にこもって性欲/食欲の禁欲に励むというものであった。)

こうして中世中期頃までにおいて西欧社会支配のためのエートスの基盤形成を担うこととなった修道院制は、当初は禁欲修行者、その後は権勢に引き寄せられて立身出世を夢見て集まった修道士たちが、
自ら軍事力を持ったり自治権やその他の世俗的権力等も獲得しつつ、カトリック組織内で決定的政治力を行使するまでになり、ついに傘下に1千を超える系列修道院を擁し、
更にはローマ教皇直々に授与されたところの司教の権限さえ全く及ばない特権を獲得し、その全盛期においては西欧世界の実質的中心は如何なる国王、
(つづく)
133市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:03:46 ID:???
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あるいはローマの教皇座でもなく、唯ひたすらクリュニーであったところの大修道院グループ(※注)を持つまでに至った。
そしてこの帰結としての11世紀の「グレゴリウス改革」により、「西欧封建社会」が、ついにその全容を整え終えたのである。
(※注 或る司教は「私は王の命令のままに戦う。正に我らの主人(クリュニー修道院長の)オディロンこそ王である。」と言ったし、また或る修道院長には「(クリュニーの支配領を旅している時に)私はここでは、
フランス王よりも強力である。何故なら人々は(フランス)王の支配など歯牙にもかけないからである。」とも言わしめた。)

また現代日本の人々に見られるが如くの、敢えて「世間者(せけんしゃ)」の立場で禅寺で「雲水(うんすい)」として修行したり、あるいは山伏などの「行人(ぎょうにん)」が為すような荒行の真似事をしたり、「聖(ひじり)」のように遍路修行に
出たりといった活動が後を絶たないという事もまた、生活仕様高次ストイシズム系行動文化こそが個人の論考の質の向上に決定的に寄与し、もって(破壊と創造により)高次存在拘束性の変換を実現させしめ得るものであることを、誰もが無意識的に知っていることを裏付けている。

とどのつまりストイシズム涵養こそが、世界の三大宗教すべての修行における中核的目的であるという事実は、取りも直さず人が真っ当な認知/認識を得ようとするならば、この「感情・欲求統御」問題こそが、とりあえずは最大の克服困難性を伴って
顕著に立ちはだかることを示しているのであり、実質的にもストイシズムを行使するとは、脳OSの設計思想「感情系を駆使した省エネ戦略」に対する“大反逆”を企てることであるからして、これはもとより一筋縄で済むような次元の問題ではない。

ではこの人類普遍の大難題の答を認知システム論的に求めていこう。すると己の感情/欲求という、この「意識が覚醒している限りは、脳OS(感情系習慣的自動思考様式)によって際限なく湧き出させしめられ続ける情動」を必要十分に統御し切るためには、
単に人格系メタ認知的論理思考様式によって、事を為すことの意味や理由等に思慮を巡らせているだけの限りにおいては、それが如何なる思慮であっても必ず克己心の限界という壁にぶつかり打ち負かされるしかない運命であることを認めるしかなく、もってここに
(つづく)
134市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:04:24 ID:???
14 of 20 (つづき)

『感情系習慣的自動思考様式に対抗しうるものは、同じ感情系習慣的自動思考様式以外にはない。』

という結論に立ち至る。具体的には己の自意識の如何には全く左右されないところの、モノを考えること自体を一切排し、全くの理屈抜きで感情・欲求抑制行為が正当であることの
自明性を始めから擬制してかかるような、“或る種の「被洗脳状態」に自意識が浸っている”状態に意図的に成るしかないのである。

『人間が己の克己心の限界を超えて感情/欲求を統御し切るには、自己のストイシズムとかその他のメタ認知系諸能力のみに依ってはこれを為すに能わず、唯一、自意識が“洗脳”されていることによってのみ可能となる。』

これが自意識の外からの強制力であるところの高次ストイシズム系行動文化が有効であることの真の理由なのである。その上でここにおいては、外部からの刺激に一対一対応する単なる感情系習慣的自動思考ではないところの、
自己由来のストイシズム系諸能力を始めとするメタ認知系諸能力を包含した人格系メタ認知的論理思考をフルに介在させることで生ずる『自己心理操作性』を取り入れた、
言わば『管理洗脳』とでも呼ぶべき自己心理操作術体系を構築することにより、洗脳内容の適宜・経済性を自らチェックしながら思考/判断の全体を包括的に統御しうる余地を生みだせるのである。

『(脳OSの設計思想に反逆するものとしての)ストイシズムは、単純/素朴な禁欲的意思のみに拠り運用されるならば、いずれは自意識が悶絶するような苦痛を感じるほどになり、もって克己心の限界に至り、
(脳OS(感情系習慣的自動思考様式)からの大反抗としての)感情・欲求的反動により打ち負かされることとなる。
よってストイシズムは、外部からの生活仕様高次ストイシズム系行動文化が感情系習慣的自動思考様式による有無を言わせない規律性強制力を持った上で、(これが)人格系メタ認知的論理思考様式による適宜・経済性判断に基づいて管理され、
もって感情抑制行動に自己心理操作性を伴わせるところの「管理洗脳」状態が実現する、すなわち感情系習慣的自動思考様式と人格系メタ認知的論理思考様式が合目的に協調する
『ストイシズム系管理洗脳的自己心理操作術体系』が存在する場合においてのみ、安定的な思考統御・監督系機能を保持し得る。』(『観念運動の自然法 第七定理(ストイシズム定理)』)
(つづく)
135市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:05:00 ID:???
15 of 20 (つづき)

すなわち感情/欲求/衝動の抑制的統御を持続的に為すにあたっては、例えば「何故、感情/欲求/衝動を抑制しなければならないのか?」などと、その意味/理由等を根源(大枠認識)的に考えたり問うたりした時点で己の負けなのである。
であるからして、ここで脳OSの圧倒的専制力に打ち勝つための唯一の方法が、「これら(感情/欲求/衝動)は抑え込まなきゃならんもの。」と、自分で自分を強い情動を伴って洗脳する、
つまり感情系習慣的自動思考様式という、脳OSの全く同じ情動的専制力をもってして対抗することだけなのだ(※注)。
その上でこのストイシズム系管理洗脳的自己心理操作術体系の特徴とは、例えばコップに水が半分入っている時に、「もう半分しか残っていない。」と思うか、
または「まだ半分も残っている。」と思うかの認識を操作するといった、人格系メタ認知的論理思考様式による中枠認識レベルでの多様な自己心理操作性を付与できる点にこそあるというわけだ。
(※注 人が今、この瞬間に自意識に生起しているところの特定感情等を如何に処置すべきか、などという適宜・経済性に係る論考については思考結果の曖昧性が大きく、そうであるならば考えれば考えるほど、脳OSに付け入らせる隙を与える。)

このような自己心理操作性の有意性の論証については、これを持たないところの、すなわち凡庸者的属性としての単純素朴性/無謬的信憑性/自他の分離観念の不全に因って、
行動文化が単に『道徳・倫理・義務的観念系行動文化』(ストイシズム系行動文化と同様に「洗脳系行動文化」の一種。)として認知されてしまう場合、すなわち人々の自意識において、「モーセの十戒」的“遵守すべき掟”の如くの箇条形式型行動規範群に
成ってしまう場合においては悲惨な結末(※注)を招来するという、人類がこれまでに幾度となく経験してきたところの厄災の記憶(経験的命題)の幾つかを提示するならば、それで十分である。
(※注 道徳・倫理・義務的観念系行動文化においては箇条型行動規範が、どこまでも無頓着、かつ強圧的に自意識に作用してくるために、幸福・充足感をもたらすための“本音”的認知がどんどん損なわれ、ついに人々から自然な人間味が失われていく。
(つづく)
136市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:05:34 ID:???
16 of 20 (つづき)

これは例えば「高い道徳性を備えた人物であればあるほど、とっつきにくく冷酷な感じがする/あまりに融通性がなく、息が詰まる」という、例えばイギリスなどの道徳/倫理を重視する価値観を持つ社会において、お馴染みの現象である。
すなわちこれは主として、紋切り型の義務意識がもたらした過分な欲求抑制による人格異常/情愛の決定的不足/世俗社会から切り離されたような孤独感等に所以するのであり、
最終的には切羽詰まったような精神異常や暴力性の顕現/指導者・特権者階層の放埒性/「機能不全家庭」(社会心理学用語)の大発生等にまで至る。
この手の惨事の典型的実例は、ブロンテ姉妹を生んだブロンテ家(父子家庭)。すなわち肖像画などからもその頑迷/狭量/内向的な気質が偲ばれるP.ブロンテ(牧師)の6人の子供たちの内で一意的に“幸福”と呼べるような人生を全うした者は唯の一人もいない。
例えば唯一の男児は自堕落の極みの末に廃人同様になって死に、その後を追うように妹E.ブロンテ(「嵐が丘」(1846)の作者)も孤独と寂寥に貫かれた短い生涯を終える。
C.ブロンテ(「ジェイン・エア」(1847)の作者)も狭量な父の不同意の中で強引に結婚するも一年にも満たない儚(はかな)い幸福の後に死ぬ。

またこれとは真逆の、モラルの厳しさが他者に及ぼす逆説的な「過分の生ぬるさ」の弊害も在る。例えば菊池寛の「父帰る」(1917)は、
モラル的な形式主義と義理のイデオロギーが帰結する"倒錯的生ぬるさ/なぁなぁ主義"によって、適宜・経済性的合理性が否定される物語。
作品には後日譚はないが、儒教的モラルに支配されていた近世・近代日本では、往々にしてこの手の道理の倒錯が現実世界においても日常茶飯的に生起したと考えられ、このような甘やかされた凡庸者が増長しファシスト化することで、大厄災が招来されるのである。)

とどのつまり(箇条形式型観念のような)最後の最期まで演繹的に強要されるだけの「外観保持義務的ストイシズム」こそは、厳に忌避されなければならないのである。
(つづく)
137市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:06:13 ID:???
17 of 20 (つづき)

一方で好ましいストイシズムとは例えば、「誰かの意見を中途で遮らないで最後まで聞ける/何かに熱中してる最中に声かけられても一意的に嫌な顔をしないことができる/急な変化にも条件反射せずに思慮深く対処できる」etc.・・といった、
日常の一コマ一コマにおいて普遍的に顕現するが如くの、自己管理意識下での中枠認識に係る人格系メタ認知的論理思考によるところの、さり気ない自己心理操作としての「適宜・経済的判断に拠った随時の感情・欲求抑制・統御」術の中に見い出せるようなものである。

というわけで己の合理主義的認知態度を保った上での被洗脳的義務観、すなわち己の必要のために己がより適切と見做す程度や方法を採ろうとする主体性を伴うところの管理洗脳こそが、
自意識の健全性を常態的に保ち、もって人と社会の双方に幸福をもたらし得るのである。
これ(ストイシズム系管理洗脳的自己心理操作術体系)は言わば、『フレキシブルな自己管理性を伴うストイシズム』、
一般的には『厳しさ』という言葉をもってして言い表すべき思考統御・監督系機能である。
(ちなみにこの厳しさがもたらす成果物の、或る特定の側面の外観に往々にして顕現するものでしかないところの「道徳/倫理」性を、
大抵の凡庸者は枢要な目的として誤って捉えてしまうために、人類は破滅的な厄災を度々招来してきたということだ。)

厳しさという思考統御・監督系機能は脳OSからの攻撃に直に対抗し、もって前回述べたようなその他の重要な
思考統御・監督系諸機能(主体的達成意欲・自己批判的観念系人格的能力に基づく。)を有意たらしめるための、言わば“論考の場の防衛軍”として安全保障的に機能するものである。
すなわち道徳・倫理・義務的観念という、自意識を容易に克己心の限界に至らせてしまうがゆえに、むしろ自意識を破壊しかねない危険なストイシズムではなくして、
適宜・経済的なストイシズム系行動をもたらすものとしての厳しさは、思考統御・監督系諸機能を司る三始原人格系諸能力の活動の場における、脳OSからの絶えざる攻撃に対する防壁として、ありとあらゆる人間活動の健全なる遂行を、その安全保障面から担保していると言える。

例えば新教宗派(禁欲的プロテスタンテイズム - カルヴァン派/洗礼派)が、「世俗内的禁欲」(M.ヴェーバー用語)という
(つづく)
138市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:06:54 ID:???
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生活仕様高次ストイシズム系行動文化を職業生活に持ち込んだことで、優秀者の自意識において厳しさが形成され、もって帰納的思考能力(人格系メタ認知的論理思考能力)が高まり、従来的資本主義に“硬質な刃物”のような鋭さを加えた
近代資本主義システムの肝となる合理主義的因果・方法論(※注1)を構築し得たという知見を、是非ともヴェーバー理論に付け加えるべきだろう(※注2)。
(※注1 「暴利を貪らずに適正価格(掛け値でなく定価)を設定し、利潤を浪費せず設備等に再投資してビジネスを絶えず拡張することが、最大の繁栄をもたらす。」というものであり、
これは元々は彼らの生活仕様高次ストイシズム系観念であったものが、厳しさを伴う優秀者の帰納的思考により言語・論理化され、そのまま資本主義理念の母体となったのである。)
(※注2 ヴェーバーもまたオレのように明瞭に認識できるほどではなかったものの、「天職としての政治」(1919)においては、単に不毛な興奮に酔っただけの“素人”政治家と真の政治家を
区別する“物と人間に対して距離を置いて見ようとする態度(オレ注 ; メタ認知能力)”をもたらす“あの強靭な魂の抑制”という言い方で、漠然とは厳しさが、高度な人格系メタ認知的論理思考に欠かせないものであることに気づいていたようだ。)

またあるいは我が国の「明治維新」の際には、武士道により厳しさを既に確立しており、もって人格系メタ認知的論理思考能力を求められる職業に対応し終えていた
士族(旧武士)層の優秀者/秀才が、版籍奉還後、俸禄が公債に切り替わり実質的収入が減少していく中で、いわゆる「末は博士か大臣か・・」的「立身出世コース(※注)」において、
他の大多数の国民(小百姓/旧穢多(職人/行商人など))を尻目に、かなりの数の者がそれなりに夢を叶えることができた。
また更には幕末期に続々と来日してきたプロテスタント宣教師たちが開いた英語塾等にも、やはり武士たちが我先にと大量に押し寄せており、
これらの事例は総じて武士層だけが主として持つところの厳しさと知的活動との極めて深い連関性をまざまざと見せつけている。
(※注 名士の門を叩いて教えを乞う「書生」からコネを伝って「官員」と成り、「大臣/参議」を目指したり、あるいは「帝大生」から「博士」を目指す如きの明治初期の典型的成り上がり法。)
(つづく)
139市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:07:33 ID:???
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というわけでそれなりの厳しさ(フレキシブルな自己管理性を伴うストイシズム)を修得し得た者は、悶絶するようなストレスを感じるどころか、
被洗脳状態がもたらす極めて安定・予定調和的な“心の張り”を伴った上での、主体的認知体系による自己管理性に支えられた自尊的マインドセットに拠るところの“(帰納知の充実に基づく)人生全般に係る幸福創造へのパスポート”を獲得したも同然なのである。

しかしてここに至り、人間社会に関する厳然たる或る一つの真理もまた浮かび上がろう。つまり厳しさとは、ここまで論説してきたように各人の個人的努力のみによって修得できるようなものではなく、
社会全体において集合知的に保持される行動文化に支えられてこそのものであった。
そしてこうなると現実には、ほとんどの先進文明社会では満足な帰納的思考者が見い出せないことになろう。例えばミルは次のように述べている。

「かなりの精神的資質のある人々でさえ、しばしば自分たちが偏見を抱いている意見の趣旨を理解しようという努力をほとんどしないし、また人々は一般にこの“故意の無知”を、
欠陥としてほとんど意識しないので、倫理諸学説の最も俗流的な誤解が、高度の原理と哲学の両方を持っていると最も自負している人々の熟慮した著作の中に絶えず出てくる」(J.S.ミル「功利主義」 1863 )

とりわけ20世紀後期以降は先進社会は「暇つぶし文明期(第七回 参照)」に突入したことで、社会から生活仕様高次ストイシズム系行動文化が急速に失われた。
例えばソクラテス/コペルニクス/ケプラー/ホッブズ/フロイトなどが持った観念や苦悩をアタマで理解したり批判できる者はゴマンと居るにしても、
自ら彼らが為したのと同様の厳しさを伴う人格系メタ認知的論理思考の十分の一も為せる者は、今となってはもう滅多に出ないのである。
つまり昨今はネットを検索していても、何処かの“鼻タレ小僧”学者みたいのが、「マルクスって間違いだらけで何の価値もないよね」的なことを言っていたりするわけだが、
実はこのような輩は厳しさをもって統御するしかない論考の困難さというものをそもそも知らず、マルクスを対等な立場で批判できる土俵にすら上がれていないことを、死ぬまで気づけない。
(つづく)
140市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:08:08 ID:???
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すなわち150年も前の存在拘束性に縛られた人間が為したその仕事が、如何に困難と苦しみに打ち勝つための努力を要したものであったかを察することができない。

こうしてつまるところストイシズムの何たるかを理解し得た現代の優秀者は、やむを得ず生活仕様高次ストイシズム系行動文化の相当物を、外部からでなく、自分の自前で形成するように努めるしかなくなっている。
しかしこうした外部観念からの洗脳に依らないケースにおいては、普通は当該人物が元々、かなり良質なストイシズム系人格・観念的能力を養育者等から個人的に継承し、
幼児期において小脳ROM化できているような、言わば“準外部力”的な支援を既に獲得している場合でもなければ、成功はおぼつかない。

というのも自己心理操作的ストイシズムに基づく活動とは、管理洗脳下でのそれに他ならないのだから、いずれにしても何らかの感情系習慣的自動思考力(例えば相思相愛の配偶者などからの叱咤激励とか。)
による被洗脳的状態の確保ができなければ、自らの克己心の限界を越えることができないからだ。

というわけで昨今では慢性的運動不足が重大な健康被害をもたらすことがあまねく知れ渡ったおかげで、人々はウォーキング/ジョギング等でこれを解消することが当たり前になったわけだが、
ここに「厳しさ」不足による人格系メタ認知的論理思考能力の劣化がもたらすところの人間/社会に対する破滅的作用もまた、今後は人々に周知されてゆかなければならなくなったというわけである(※注1)。
(※注1 とりわけ我が国においては、かつて実際に存在したものとしての武士層の養育者が幼児期の被養育者に与える行動文化としての「叱って躾ける教育」文化を、
時代的存在拘束性がもたらす価値観にマッチするように生活仕様タイプにアレンジした上での再興が、現実的だろう。
その上で今般は、明治体制下で為された箇条形式的な道徳・倫理・義務的観念系行動文化(※注2)が、万が一にも再興しないように厳重監視しつつこれを為すべきなのは言うまでもない。)
(※注2 主として「教育勅語」(1890)と小学校の「修身書」による。)
(「フレキシブルな自己管理性を伴うストイシズム – “厳しさ”という能力 - 」 おわり)
(第十三回 おわり)
142市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/07/30(月)09:40:13 ID:???
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「市民層  概論」 第十四回

「先天的認知資質に基づく二つの基本的人間類型」

第十一回から前回までにおいて、凡庸者/優秀者の各々の思考様式における特徴的な差異を、感情系習慣的自動思考/人格系メタ認知的論理思考という二つの思考様式として提示した。
そして今回と次回では、これを踏まえた上での「先天的要因からの認知様態」という“異なる淵源”から人の分類を成していく。
具体的には今回は、感情系習慣的自動思考における『自動性』、人格系メタ認知的論理思考における『論理性』という両思考様式における本質的属性が、先天性の認知的資質であることの概説を為す。

ところで人の認知/認識の如何なる部分が先天的/後天的であるかという問題に関しては、かつて為された二つの論考が即座に思い出される。
すなわち近代科学の黎明期において為されたところの、ジョン・ロック「人間知性論」(1689)と、これに対するアンチ・テーゼとして主張されたイマヌエル・カント「純粋理性批判」(1781)である。

しかしてこの両論に、今のオレたちの目から見て何らかの科学的な説得力が在るかというと、残念ながらそれはない。すなわちこの手の、人の頭の中だけで為される“哲学的演繹法”とでも呼ぶべき論考態度は、
ロック/カントらが生きた時代には、まだまだ当たり前の論考態度だったにしろ、「観察から得た認識から仮説を建て、また現実を見て検証する」(帰納的思考様式定理・・第十二回 参照)・・
という合理性要件(第十二回 参照)の一つとしての「経験・実証主義」性を明らかに欠いているからだ。

ではこれらの論考を為した両人が、経験・実証主義性を自らの社会科学的論考に持たせるためには、彼らは何ができなければならなかったか?
それは人間社会の変遷を、まず擬似的に再現した上での“擬似”経験・実証主義的論考である。すなわち人類史を頭の中で推察することでもたらされる帰納的論考である。
その上で当論考が今後、“脳”と“遺伝”に関する自然科学領域からの詳密な知見との整合性を持つことで実証されていくことを、(オレ的には)期するのである。ではさっそく始めよう。
(尚、当チャプターにおいて示される人数比率は、オレの主観的目安を示すものとして、実測的な根拠なしに便宜的に掲げるもの。)
(つづく)
143市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/07/30(月)09:41:16 ID:???
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例えば田中正造/マックス・ヴェーバー/ルース・ベネディクト(我が国では「菊と刀」の著者として有名。)/高群逸枝のような際立った正義・倫理感へと通ずる人格と(事物/事象に係る)高い美意識を持つ人々、その上で本質的に内向的気質傾向を持つ者としての
「自閉的な人々」(当論の独自概念であり、一般的に言われるところの「自閉症スペクトラム」とまでは言えない範囲内での内向的気質傾向を持つ人々を指す。)は、全人類集団の中で一定比率(3%くらい)で存在し、
その上で彼らは人類存続のための必要欠くべからざる重要な能力、すなわち認知の場における情報処理的属性としての「諸観念に係る計算処理能(※注1)」としての「論理性」を先天的に持っている、とオレは考えている。
(※注1 第十一回で述べたように、人は高度・複雑化された社会生活を営む動物であるから、適切な破壊と創造の過程を経ることなしには、現実には実に多くの難題に行く手を阻まれることになる。
その上で人間脳のデフォールト設定の感情系習慣的自動思考様式のみでは、破壊と創造の過程に必要な適切な思考/判断ができない。
このため人類は人格系メタ認知的論理思考様式を開発したのであり、これの根幹的属性が、この論理性ということである。

すなわち論理性とは認知が経験・実証主義的であろうとする際には不可欠であるところの事物の因果性(因果律)を合理的に認識するための認知的属性であり、具体的には諸観念・概念の演繹(※注2)的な計算処理、並びにそれに基づく相関関係等を認識させる。)
(※注2 当論においては「演繹」という語は、全くかけ離れた二義を持ち、紛らわしいので注意が必要。一つは狭義の言語・記号的観念等の演繹計算という意味で、これが「合理的論理性」。
もう一つは演繹的思考様式としての既知の観念に対する無計算(無謬的信憑)の意味で、これが「自動性」である。だからこの場合は前者の意味になる。)

ではこの際立った正義・倫理感だの高い美意識だのといった幾つかの外観的特徴と内向的気質傾向を伴って顕現するものとしての認知の論理性とは、一体、如何にして人が獲得しうるものなのか?
(つづく)
144市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/07/30(月)09:43:05 ID:???
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結論から言えばこのような認知的資質は歴代の直系者が、主として実質的世襲による地位/権力の継承が可能な指導者・特権者階層/上位中産階層の一角に連なり続けることにより形成され得る。

コンドルセ「人間精神進歩史」(1793)によると、「人類史上、最初の宗教的思想が、活発な想像力に恵まれ、その幻想を実現し易いような人々によって創出された。彼らは神の欲求を洞察しようと努め、どんな行為、どんな贈り物が神の心を慰め、
その恩恵を受けるに最も成功するかを知ろうと努めた」とし、その上で「人類が二つの部分に区分されるようになった。一方には聖職者の家柄/階級と司祭のための教団が設置され、自慢の知識を傲然と秘匿し、
(その上で)自己の理性を放棄し教えてもらえた知識を尊敬をもって受け取るのみの他方を教育している」とする。
更にあらゆる文明社会において普遍的であるところの指導者・特権者階層の安定維持システムとしての「世襲(貴族)制」が存在し続けてきた理由を、
「新しく首長を選挙するために協議することの困難さ、並びに一番の側近として補佐していた首長の子/兄弟は、首長の経験を誰よりも良く利することが容易であるために、
父(首長)に一種の優越性を認める習慣から、首長の亡き後は彼ら(首長の子/兄弟)にその優越性が継承されることを、首長の対立候補でさえも、それほど心理的抵抗を感ずることなく認めることができた」(以上、「」内は引用を主とした要約論旨。)からだとしている。

このようなわけで指導者・特権者階層/上位中産階層の世襲的一族(※注)に属する歴代の直系先祖達が、良好な栄養供給力を伴う保護/包容、並びに各種の知的素養において非常に刺激的なものを数世代にも渡って継続的に供与され続け、
もって前回述べたところの脳OSが、普通はその活動エネルギー源の安定的確保という背に腹は代えられない事情により持たざるを得ないところの省エネ戦略的設計思想を、最早、破棄してしまう方が合理的であるほどの、論考に適した環境/状況を獲得するのである。
(つづく)
145市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/07/30(月)09:43:49 ID:???
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(※注2 例えば「古事記」編纂者の太安万侶を輩出した多(おお)氏/阿蘇氏/大分氏/科野(しなの)氏/伊余氏/金刺(かなざし)氏など。こうした官職世襲氏族は皆、皇族の分流。)

遺伝学においては、突然変異によるマイナーな変化は、多細胞生物でもわずか数世代後から顕現することは良く知られているところだが、彼らにおいては、「幾世代も続く脳活動エネルギーの安定的確保、並びに精神活動の自由状態」に至ったがために、
「遺伝的資質としての高度な論考チャンクを形成し、これを継承すること」が、生物体が普遍的属性として持つところの合理的進化性向に適ったのだ。

こうして”(敵に襲われる心配が全くない)安全な鳥かご(※注)”の中で飛び回るが如くの、「エントロピー縮減的自意識(一般社会から隔絶された際立った自意識)」がもたらしうる「個人の内面的世界の行く手を何ら遮るもののない
自由闊達さ極まる精神活動の世代を越えた継続」が、その果実(自閉的な人々の認知的属性としての論理性をもたらす遺伝子群)を結ぶ。
その上でこれらは、「各人の将来において、事物/事象の真理・真実性を認知するためのメタ認知系諸能力として後天的に成長していくところの始原物」であり、具体的には次段階において遺伝形質化していくところの、
「真/美/善にまつわる(思考統御・監督系諸機能の源泉としての)三始原人格と「人格系メタ認知的論理思考」能のための基礎的資質である。
(※注 例えば裕福な家庭で高度な文化に親しみつつ何不自由なく育つ/祖父母等に引き取られて大切に養育されるなどの”保護的”隔絶環境。)

とどのつまり「世俗界(非隔絶環境)で生き残るための処世能力(※注1)」という、開発するには膨大な手間暇を要する能力を、己が棲む世襲制に支えられた隔絶的環境では、幼年・児童期(脳神経ネットワークの樹立・固定期。)
において必ずしも逼迫性を伴って開発しなくても済むために、脳への割り当て分の大量の生体エネルギーを真・美・善性を培う脳神経チャンクために割り振れるという存在拘束性(※注2)、その上でこのような存在拘束性を、世襲一族において
数世代に渡って保持し続けたことが決定的要因となり、彼らはついに論理性という人格系メタ認知的論理思考の本質的属性を遺伝的資質として持ち得るまでに群を抜くことができたのである。
(つづく)
146市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/07/30(月)09:44:34 ID:???
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(※注1 主として自分と他者との関係性の調整能力。例えば親から殴られることを回避するために、自分の兄弟姉妹を悪者に仕立て上げる狡猾さ/自分の判断ミスを誤魔化したり、うやむやにする小賢しさ等。)
(※注2 例えば岡本かの子の息子の岡本太郎の存在拘束性。)

というわけで、ここまで来た彼らにとっては最早、論考(本当のこと/正しいことを知るための論理思考)という行為は、日に三度の食事を摂ることと同じく“当たり前の行為”となり、彼らはこの先天的論考能(論理性)をベースにした認知の弁証法的運動(※注1)により、
後天的に類稀なる主体的認知体系、すなわち脳内において長期記憶化されている様々な観念に自在な経験・実証主義的な計算的処理を施せる認知体系の洗練・精緻化を成していけるだけの潜在能力を保持する。
そこで当論では、隔絶的環境に育った歴代直径者のおかげで先天的な“論考長者”となり、更に後天的な経験等により“帰納的発見・気づきに基づく
自由闊達な思考者”と成れる可能性を宿すところの自閉的な人々のことを特に『貴族型人間/A型人間(Aristocracy-type person) (※注2)』と称することにする。
(※注1 例えば、昨今のオレのツイを観てもらおう。すると2018/5-6の二回の党首討論を観た経験から、オレは国民民主党に対して、我が国憲政史上の画期的パラダイム転換を担い得るものを看取したと考えたわけだが、しかしてその数日後には、
彼らが最悪の理由/根拠に基づいた内閣不信任案に同調する意思を示したことから、すぐさまオレは彼らを買いかぶりすぎていたことを認め、己の考えを止揚することができた・・このような認知の変遷・推移運動を「弁証法的運動」(哲学用語)と呼ぶ。
すなわち第十二回の西洋学術史の処でも述べたことだが、人が真の智を獲得していく過程においては、始めは誤った観念に基づいた認知的努力に傾倒してしまう傾向を持つのであり、
真っ当な三始原人格に基づいた思考統御・監督系諸機能等を持つ者であるならば、その後に他者と議論/討論することで自己の認識を問答(弁証)形式で次々に止揚していけるが如くに、
次々に生起する時系列の事象の推移から、己の観念を弁証形式によって自律的に破壊と創造/止揚できる。)
(※注2 ちなみに世襲貴族家系の者全員がA型人間なのではない。
(つづく)
147市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/07/30(月)09:45:14 ID:???
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あくまで一部の者のみがA型資質を天賦される。
その上でこのような人々の典型例が古代ギリシアの「フィロソファー(愛知者)」(第十二回 参照)。彼らの出自はほぼ全員が、地中海交易で富裕になった世襲家系(宗教/政治/経済/科学等の指導者/顧問。)であり、
J.D.バナール前掲書によると「ほとんど全ての者が裕福な紳士であった。生活のために働かなければならなかった者も少しは知られている。
(中略)プラトンはそんなこと(人を教えて授業料を受け取る)をする必要がないほど富裕であり、彼ら(授業料を受け取って教える者)をあざけった。」とある。)

ツルゲーネフ「ルージン」(1856)の主人公(ルージン)のような人が典型的なA型人間だと言える。尚、一般的には自閉症スペクトラムに対する定義/認識は、「複雑な社会性/人間感情/言語表現にこめられた含意を認識/理解できない」
「嗜癖的行動属性」といったところだが、このような精神病質とは一線を画すA型人間は、「基本的な認知/理解力には特に問題はなく、ただ人間関係等を正常に認知できてはいても、内向的傾向に起因して他者/社会に対する関心自体が薄く、
もって対人関係にまつわる能力が人生早期において適切に開発されにくい人々」であるということに尽き、その上で彼らは極めて豊かな内面世界を持つ高知能者だから、他者が自分とは別世界に住むことをキチンと分かっている。
例えばF.ルッソ「孤独の科学」(Scientific American 2018 Jan.)では、「社会的スキルには全く問題がない孤独感の強い子供/
外観的な社交能力や振る舞い方では見分けられない孤独感が強い大学生/パーティに招待されても他の子供のような素直な喜び方ができない慢性的孤独感を持つ子供」などといった事例が報告されており、これはA型人間のこうした認知・行動属性機序を裏付けている。

さてA型人間の論理性は、一般的には芸術家・学者肌/高度な価値・世界観等として顕現してくる。すなわち「(広義での)学術/芸術(※注1)」分野における抜群の能力として発揮されるようになる。
彼らはこれらの分野での真/美/善の探求のためには己の人生を賭けることさえできる。
(※注1 芸術性とは、論理性が審美的構造の計算に向かった結果であり、美の創造とは、常に高度な論理計算である。
(つづく)
148市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/07/30(月)09:45:52 ID:???
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例えば音楽では、人が普通に美しいと感じる音階は全て単純な規則性の下に成立している。すなわち音階の各音の物理的振動数比は必ず整数比になるし、また基礎的和音も全て同じ構造的規則性を持つ。
更には各音の強弱/ビブラート/グリッサンド、ジャズなどで即興・感覚的に表現される付点八分・十六分ノリ、微妙なテンポのはずし方から、サックスのフラジオ、山下洋輔の鍵盤ブッ叩き、はたまたジミヘンの歯弾きとかアームワーク/
ジョン・ケージ的無音などといったものまでの各種音楽表現においては、タイミング/バランス/程度についての審美的論理計算が不可欠である。)

その上でA型人間は“孤独であること”がほとんど苦にならない。というよりも思考統御・監督系諸機能としての真・美・善性をもたらす三始原人格を培う傾向は、常に彼らに『自発的努力性向(※注)』を付与し、これが彼らをして積極的に孤高/孤独を求めざるを得なくさせるのである。
というのも自発的努力性向は自意識の適度な緊張状態/攻撃性を必要とするのであるが、このような自意識状態はこれ(自発的努力性向)を持つ者と持たない者との間に“水と油”の関係性を生み出すからだ。
すなわち「凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」(第十回 参照)が示すように、圧倒的多数の凡庸者との関係性においては自発的努力性向は、
自らを極めて不利な状況に追いやる。もってA型人間はこれを避けるためにも積極的に孤高/孤独を求めるしかない。
(※注 三始原人格が自意識の緊張状態/攻撃性を伴う自発的努力性向をもたらす。これがないと、そもそも考える/頭を使うということ自体が、無性に面倒くさいし辛いだけである。
例えば人間はストイシズムのタガがはずれた弛緩した厳しさのない自意識状態においては、一冊の本さえ満足に読む気がなくなるし、ましてや自ら主体的に何をかを思考するなどという姿勢/態度とは程遠くなる。)

こうして彼らはとりわけ青年期頃までは、孤独であることに親しむような偏向性を伴う生活に仕向けられていく(※注1)。
だから社会性動物である人間として彼らが無事に人生を生き抜くためには、その特徴たる認知の論理性と釣り合いのとれた“世渡り能”を、いずれは修得する必要がある。
すなわち己に有利な人間関係を獲得・維持するための様々な処世智等の、
(つづく)
149市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/07/30(月)09:46:27 ID:???
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財物・地位の自力・独力での獲得能力/他者への寛容さ・配慮等の相互扶助的センスの修得/無闇な攻撃性・自己中心性の克服/人・社会の虚実を看破できるようになること等である(※注2)。
(※注1 このような心性を解き明かしたものにペトラルカの「孤独生活」がある。)
(※注2 こうした後天的能力属性の獲得に失敗した場合は、例えば異様な視野の狭隘さ/頑迷さに取り付かれるなどして、経験・実証主義性と並ぶ合理性の力のもう半分であるところの(とりわけ社会生活上の)適宜・経済性の力を失い、
もって認知の弁証法的運動により自意識を止揚する(多様な経験を経て人間として成長する)ことができないアスペルガー症候群のような人格障害者として、“(人生の)負け組”に転落してしまうリスクも出てくる。)

こういうわけで自発的努力性向を持つA型人間は最終的な人間界における充足/満足を、自らを努力家/チャレンジャー/パイオニア/指導者/管理者/特権者として“出世”たらしめることから得ようとするようになる。
言い換えれば「プレーンなA型人間→プロト優秀者→優秀者」というカタチで出世/選民化していくことに、心の安寧/やすらぎを求めるということだ。
とどのつまり彼らは社会的には生まれながらにして世俗・浮世離れした少数者として、言わば“孤高な選民の道”を行くことを運命付けられているのである。

その上で彼らは内面世界の豊かさを増すにつれて、必然的にそれと反比例するかのように組織/集団からの疎外感をひしひしと感じざるを得なくなる。こうしてついには己の心情を外界に対して露に表出することへの恐怖感を強め、もって“世俗・人間嫌い”の気質性向を獲得する。
そしてこの性向を一般社会に対してカモフラージュするための、外観的には社交好き/人好きに見えるように擬態するための処世能力をも、彼らは併せて培う(※注)。
これすなわち図らずも、将来、“究極の選民”としての優秀者に成るためには必須であるところの「本音/建前の使い分け」のための始原能だ。
(※注 一般的に「サイコパス」と呼ばれる気質傾向を持つ人々の中には、このようにして涵養された能力が、遺伝形質化したケースが含まれている可能性がある。
しかして先天性としての真/美/善を求める内面世界をこそ重視するA型人間においては、どのような人格的能力を後付けしたとしたも、
(つづく)
150市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/07/30(月)09:47:06 ID:???
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「打ち解けた対人関係への無関心性」という根本的傾向が変わるわけではない。)

ところで言うまでもなく人類は、社会共同体を形成するためのホミニゼーションを第一義的に成すことで、この自然界を生き抜こうとしてきた生物である(第十二回 参照)。
そしてこの際に問題になったことは、ホミニゼーションによりどんどん複雑・多様化していかざるを得ない人間関係対処能/コミュニケーション需要に対して如何に処するか、ということであった。

すなわち具体的には、こうした人間界特有の存在拘束性の下で事案毎にいちいち思考し判断を下すためには、単純な脳神経では不可能であり、プロトホミニドは脳体積をどんどん大きくするしかなかった。
しかし脳を巨大化することには限界がある。またそれと同時に再三述べているように巨大脳が消費する膨大なエネルギーの確保問題の解決もまた困難を極めるために、
ついにプロトホミニドは、小脳ROMに生涯保存される必要な分だけのアルゴリズムによる簡易思考であるところの、感情系習慣的自動思考様式を開発するに至った。

というわけでここで、安全圏での生活を確保できたA型人間以外の残余の97%、すなわち大抵の自閉的でない人々にとっての切実な生きるテーマであり続けるところの「如何にして日々、生き残るのか?」という問題に、
(A型人間的“真理/真実の探求”とは真逆の“方便/支配力の探求”としての)感情系習慣的自動思考様式をもってするところの集団が形成する「集合意識」に対する無謬的信憑性、すなわち外界(他者/社会)との密接な『連携能』としての、
『(自己防衛のための)集団的秩序の形成・維持能』(「凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」第十回 参照)にこそ自己保存のための縁(よすが)を求める人々、
もって認知の場における情報処理的属性としての「自動性」を先天的に継承する人々について、論じなければならないのである。

このラマピテクス以来のホミニゼーション基本型としての「群生型生活(※注1)」を成立させしめるための感情系習慣的自動思考様式、
すなわち所与の観念を無計算/無操作のまま鵜呑み/丸呑みする自動性(演繹的思考能)を継承し続ける多数者(凡庸者)を、今後は認知の先天性の観点からは『平民型人間/C型人間(Commoner-type person)(※注2)』と呼ぶことにする。
(つづく)
151市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/07/30(月)09:47:48 ID:???
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(※注1 人類の群生とは大抵は、財物・権勢の獲得/世事/雑事/事件/集団行動等に意欲/気力の大半を投入し続けなければ処理し得ない事物の山であり、さして豊かではない生活であり、 これを言い表すところの“貧乏、閑なし”とは、正に至言である。
そしてこの“貧乏/閑の無さ(※注3)”の世代を越えた継続こそが、彼らが人間界の中で群を抜くことを全く不可能にする先天的資質たる自動性を決定付ける。)
(※注2 当論で「凡庸者」と呼ぶ際は、とりわけ認知的資質の後天性要因を見ているのに対して、遺伝的資質の観点からは、C型人間と呼ぶということであり、外観上は両者は、明晰には分別できない。)
(※注3 この種の忙殺と弛緩の無限の反復生活に適応しきってしまうと、指導者・特権者階層に這い上がれるほどの(認知の)論理性を練磨するためには必須であるところの孤独な鍛錬/己と向き合う時間は、苦痛以外の何物でもなくなる。)

さてC型人間の自意識は(外部からの)ほぼ完全な被洗脳状態に在り、よって当面の間は概ね葛藤/苦悶/逡巡等がない情緒的平穏・安定状態に在る。
そしてこのことをもってC型人間は基本的には、個人的に何をかを創造しようなどという意欲/気力の源泉であるところの三始原人格に起因する自発的努力性向とは金輪際、
無縁の“根っからの世俗者/市井の民”となるわけだが、実はこのことこそが彼らに最大の自己防衛力を付与している。

すなわちこれが上述の集団的秩序の形成・維持能(連携能)なのであり、彼らはこの集団的協調性ゆえに、主体性/個性が強いA型人間には全く不可能なレベルでの効率性を、
その人数の多さと相まり顕現させしめ、もって(A型人間に比して)当面の間の世俗生活上の圧倒的優位性を獲得する。

というのも彼らはこの連携能の獲得のために積極的に非主体・没個性・他者依存的に成り、もってこのことが『普遍的均質性(「同規格のロボット人間」属性)』を彼らに与えるからだ。
その上で人類の集合知が極めて稚拙/粗雑であったところの、これまでの人類史においては、この普遍的均質性なしには人類は存続できなかった。
何となればこの属性とは、人類の日々の生存においては根源的な価値を有するところの、“生産・実働部隊”たる資質の中核だからである。

その上でC型人間というものは、A型人間的な真/美/善の探求には全く無能/無関心だから、
(つづく)
152市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/07/30(月)09:48:30 ID:???
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あくまでこの集団生活というものの相対的有意さの範疇においてのみ存在価値がある。
例えば福島原発事故があったにもかかわらず、わずか数年でその記憶が薄れ、エートスから放射能に対する警戒心が消滅していくのも、あるいはまた人類を含めた全動物種の存亡に関わる危険性が指摘されて久しい
環境ホルモン(※注)に対する関心が全くと言って良いほど高まらないことも、彼らが個人としては真理・真実性に関心を持たず、唯々ひたすら生活の便宜のための集合意識/社会性/人間関係/感情的好悪等しか意識しないC型人間だからだ。
(※注 現代物質文明が造り出し、既に全地球の陸地/大気/海洋に驚くほど大量に存在する内分泌攪乱物質。人類が創り出した最も恐ろしい毒物と言われるダイオキシンやプラスチックに含まれるビスフェノールAなどが有名。)

すなわち以上のこと共を踏まえると、「現生人類ホモ・サピエンスは、A型(論理性)とC型(自動性)という全く異なる方向性を持つ思考能を先天的に保持し合うところの認知的二亜種に分岐した上で(※注1)、この両亜種は完全に補完的に進化したと帰納できる(※注2)。
すなわち前者は自発的努力性向を、後者は普遍的均質性を持つことによってであり、もしどちらか一方の亜種が滅んでいたならば、ホモ・サピエンスは今日、現存していない。
(※注1 例えば我が国の場合は弥生時代(金属器・農耕時代)に、(一般の共同墓地とは異なり)下界から仰ぎ見る位置等に所在する「墳丘墓」が登場したことから、指導者・特権者階層がこの時代に確立したことが分る。)
(※注2 C型人間にしても真理と虚偽の区別等を認識したり、これを口先で語ることは在る。しかしそうであっても例えば真理を意識的に求めて、あるいは虚飾等を排するために果敢な行動を採るなどということまではできないのが普通だ(※注3)。
とどのつまりこうした行為とは自意識内での合理的な因果・方法論の樹立なしには不可能なのであり、集合意識への同調性の如きものからは金輪際、生起し得ないのである。)
(※注3 例えばダンテ「神曲」(1472)で、ダンテがウェルギリウスと次のように問答する箇所がある。
ダンテ「確か先生は先生の御本の何処かでハッキリと"祈り"で"天の法"は曲がらぬと言われましたが、それなのに連中はひたすらこればかりを祈っています。
(つづく)
153市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/07/30(月)09:49:05 ID:???
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すると彼らの希望はアダになりますか?それとも私が先生の御説を取り違えましたか?」
ウェルギリウス「私が書いたことは平明の理だ。この人たちの希望は健全な頭で良く考えれば空望みでないことが分かるはずだ。(中略)私がその点を論述した頃は、祈ったところで過ちが償われるわけではなかった。
(中略)しかしこうした難しい問題については真理と知性の間の光となる方が、何かお前に言われるまでは、結論は下さぬが良い。」(煉獄篇 第六歌)
と、このようにウェルギリウスは自分に都合が悪い状況だと見て取るや否や、途端に権威を盾にして詭弁を弄し、相手を煙に巻いている。
その上でC型人間には、このような行動を為すことに対する不快感/自己批判等を強いるような思考統御・監督系諸機能(人格的能力)が、確立していない。)

すなわちC型人間がA型人間により正しいツボ(秩序性)にはめこめられた後は、普遍的均質性によって人類は、必要なだけの財の生産効率性を確保してきたのである。
しかしいずれにしてもC型人間とは、世俗の生産活動に煩わされる必要がない存在拘束性を持つA型人間が獲得した自発的努力性向(エントロピー減少)に依存するという前提の上で、
普遍的均質性(エントロピー増大)という安逸な連携能を顕現させるための道を、どこまでも(例えその先には破滅しかないことが彼ら自身にも分かりきっている時でさえも)とことん行くだけの凡庸者であるわけだ。

では次にこの連携能を顕現させるためには、やはり非常に重要であるところのC型人間のもう一つの属性についても説明する。

“戦争を知らない子供たち”などと、かつて流行歌に唄われたこともある第二次大戦後生まれの日本人たちは、性善説的人間観を公教育/エートスにより刷り込まれてきた。
大抵の戦後リベラル時代生まれの者は、人間は本然的に我が子を慈しんだり、家族/友人らに対する優しさ/思いやりの心を持つ、そのような習性(行動的属性)を“生来的に”持つ社会性動物であるかのように教育されている。
しかし経験・実証主義的な眼をもってして(大量虐殺を無数に繰り返してきたところの)人類史、あるいは世界中の今を生きる人々を見るならば、人間とは他者に対するそんな親和性をデフォールトで持てるほど“ご立派”な動物ではない、と直ちに結論できる。
(つづく)
154市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/07/30(月)09:49:52 ID:???
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そうである。人間とは他の野生動物と何も変わることのないところの、外観の穏やかさ/相互扶助性と並んで自己中心性/暴力性等をも持ち続けている、ありふれた動物種に過ぎない(※注)。
すなわち大抵の動物同様、状況次第で我が子/家族/友人など、いとも簡単に見捨てるし、自己保存のためなら最大限の凶暴性をも発揮する。これが嘘偽りのない人間の真の姿である。
(※注 但し、第九回でも述べたように人間脳は動物脳とは異なり言語野を持つから、多様広範な抽象的概念/イデオロギーを認知し、これがために動物には在り得ないような精神の興奮/高揚/歓喜/焦燥/落胆/動揺/絶望等々の様々な意識状態が現出する。
こうして人類には、まるでキチガイ・鬼畜の如くになり得るという、特殊な存在拘束性が顕現する。) 

その上でC型人間とは実はこのような、動物的であるがゆえに、人間界の集団的社会秩序の形成/維持にとっては危険な存在拘束性を和らげて、
社会の外観・建前上の様相を努めて親和的にさせるという重要な役割を、人類の発生以来、担い続けてきた。
すなわちこの『親和性』は具体的には、A型人間がともすれば陥りがちな過度の「赤の女王」的進化傾向の陥穽、すなわち自発的努力性向が必然的に要求するストイシズム系思考統御・監督系諸機能が極致的に行き着かせるところの、
過度の自意識の緊張/アドレナリン的攻撃性を和らげることに、とりわけ与している。

コンドルセの前掲書が言うように、「人間は苦しんでいる者を見て生ずる苦痛感が、苦しんでいる者が何を必要とするかが分かった場合、不安の感情に変ずるようでなければ、“家族”という社会を形成することも永続化することもできなかった。
このような者たちには、苦しんでいる者を救援してやろうとする願望が生じ、この欲求を満たした時には、この慈恵(行為)に対する自然的褒賞として生ずるところの、ほとんど機械的な快楽の激情が(上記の不安感から転じて)直ちに生じてきたに違いない。
とどのつまり人間同士がこのような感情変化を日常的に経験するような人々とこそ、最も積極的に結びつくようになることは、必然であった。そしてこれらの感情が(原始の)人間に最初の道徳的習性をもたらした。」(「第一期の歴史の断章」から要約。)
(つづく)
155市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/07/30(月)09:50:40 ID:???
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ことで、親和性を獲得したC型人間による集団的社会秩序の形成・維持能の開発が始まったのである。

そもそもC型人間的連携能を支えさせるためのモチベーションとなるところの彼らの究極の幸福観とは、他者/社会との勝負に勝つことよりも、例えば「心から心配してくれる/してあげられる家族/知人等の中で穏やかに暮らす。」といった類の充足・満足感である。
そしてこれは実は、C型人間のみならずA型人間をも含めた人類全般の自殺せずに生きようとするモチベーションにも係るものである。てゆーかもしこの種の充足・満足感が不足しすぎるならば、多くの動物は虚無感を感じてしまう。
よってプロトホミニドから現生人類へ至る種の分化・C型人間の確立時期において、脳OS機能として当然の如く「他者との良好・相互的人格尊重・平和的な関係に対して幸福感を覚える能力」(これ以降は『連帯(社会)性』と呼ぶ。)が自然採択された。

というわけでC型人間の連携能(普遍的均質性/親和性)/自動性が合理性の力としての、言わば『人間性/人間らしさ』の一方としての連帯性(もう一方はA型人間の自発的努力性向/論理性が担うところの『進歩・発展性(集合知性の進歩・発展性)』)の根幹を担っている。
ついてはこの人間性の一翼であるところの連帯性、その中でもE.デュルケーム「社会分業論」(1893)により、あらゆる人間連帯の基礎であることが論証されたところの上記のC型人間的な連帯性を、
『集団的社会秩序の形成/維持のための一次的連帯(「機械的連帯(※注)」・・デュルケーム前掲書)性』(これ以降は『一次的連帯性』と略称する。)と呼ぶ事にする。
(※注 各人の個性が減少すればするほど強化するような社会的連帯性であり、これすなわち全員があえて「擬制的な巨大個人の構成者」として、共通の伝統/風習/
文化の下に生きようとする強烈な演繹的思考(感情系習慣的自動思考)様式的バイアスを持つ連帯性であり、人々の自意識は限りなく集合意識そのものに近いものとなる。
いわゆる“気心が通じる”状態であり、人々の口は重く話題も少ないが、会話などしなくとも隣人が何者であり何を思う者であるかは、お互いに十分に分かりあっている。
その上でデュルケームはこのようなタイプの連帯性が、あらゆる人間社会の第一次的段階として現出した後でなければ、
(つづく)
156市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/07/30(月)09:53:25 ID:???
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より高次な連帯性は発生し得ないことを論じた。一次的連帯は、始原的であると同時に基礎・基盤的なのである。)

一次的連帯社会においては各人は、集団的昂揚感の虜となり、その固有の存在拘束性に見合った主体性/個性を洗練できるほどの環境的エントロピー縮減性を持ち得ず、
よってA型人間による指導者・特権者階層以外においては、あらゆる遺伝的資質もまた “ごった煮”状態となって、エントロピー増大的なまま人々に継承されることと相成る。
その上で人々は、前回述べた「道徳・倫理・義務的観念系行動文化」を共有した集団的エートス管理体制を設定することで、
この一次的連帯性社会にA型人間の自発的努力性向とC型人間の普遍的均質性/親和性に基づいた自然発生的な秩序を打建てようとするのである。

例えば典型的な保守的価値観の保持者であると見做せるC型人間のエドマンド・バークはこのような世間(道徳・倫理・義務的観念系行動文化)の様相を、主著の「フランス革命についての省察」(1790)において次のように、実に上手い比喩を用いて述べている。

「我々は人間がめいめい個々人の理性の私的な元手で生活し、商売することを恐れる。それはこの個人的元手が少額であり、従って彼らとしては国民全体と過ぎし時代の共通の銀行や元手を活用する方が、好都合と考えるためである。
それゆえに(中略)彼ら(我々)は滅多に失敗しないし、目当てのものを首尾よく発見すると、(中略)むしろ(中略)偏見の保存こそが、一層賢明な方策だと考える。
事実、理性と合わさったこの偏見は、理性を活動させる動機とそれを永続化させる愛情を育む。偏見は咄嗟の場合に直ちに応用が効く。それは予め心を叡智と美徳の安全な筋道に据えることで決断の瞬間に人間を狐疑逡巡の状態に置くことがない。
偏見は人間の美徳を彼の習慣へと仕上げ、決して一連の断片的行為のままに残さない。彼の義務感は正しい偏見により彼の本性の一部となる。」

このように集団的エートス追従者としてのC型人間は、自然発生的支配秩序を構築することに資するのならば、建前としてのA型人間的な真/美/善への愛着を叙情的に語り、
また外観/上っ面だけの“真/美/善”風をもって他者の心証を良くするための詐術に励むことをも厭わず、かつこのような歪んだ体制をもって諸事を成すことに大いに自己満足もする。
(つづく)
157市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/07/30(月)09:54:01 ID:???
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しかして人にはそれぞれ小脳ROMに固定された固有の人格があるから、歪んだ体制の“歪んだ便法”をもってするのみでは、心底心地よくなれる程度には、余り高くはなれない限度がある。
こうしてエートス的な建前とは裏腹に、C型人間各人の本音的にはかなりのフラストレーション/ストレスが漸次的に亢進していく。

そこでどこまでも積み上がっていく欲求不満/鬱憤が閾値を超えてテロ/暴動等に至ることを防ぐための安全弁/捌(は)け口として、一次的連帯性社会に用意されることになるものが、「社会全体的事業(※注1)」であり、
この手のものの中でも“伝家の宝刀”と見做すべきものが、どこまでも各人の主体性/個性、事物の真理・真実性を否定した上での政治的イデオロギー/プロパガンダ等をもってするところの「人口と社会の地勢的規模の拡大」、
具体的には、経済市場の大規模化による繁栄を目指すものとしての『侵略戦争(※注2)』である。
(※注1  卑近な例としては、普通に死者が出る極めて危険な祝祭行事。例えば12世紀頃の京都の民衆世界で流行した「飛礫(ひれき)」は、人々が祭り気分で互いに石を投げ合う流行。
また現在も尚、存続する全国各地の喧嘩祭/諏訪大社の御柱祭など。)
(※注2 人類の戦争は、大林太良が言うように「同類と見做される者同士の戦いには“節度”が見られ、武器も余り殺傷力が大きくないものを選んだり、相手を皆殺しにしたりしないが、
他方、自分たちとは類を異にする者たちとの戦争では、仁義なき戦いとなり、どんな非道も許されるようになるという普遍的傾向」を持つ。
その上で文明の成長期までは「節度ある戦争」(ルールを定めた決闘方式/源平合戦のように名乗り合って儀式的に進行する戦闘など。)が採用されるが、
強力な指導者・特権者階層のヘゲモニーが樹立した以降の戦争は、勝つためには手段を選ばないところの「侵略戦争」となる。)

すなわち侵略戦争は、A型人間による体制的支配とC型人間による欺瞞的エートスの産物であるところの道徳・倫理・義務的観念系行動文化がもたらすものであり、
具体的には一次的連帯性社会においては侵略戦争を、「労働/繁殖のためのコミュニケーション」に基づくミクロ的(日常・個別的)専制支配をもってして周到に準備する。
(つづく)
158市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/07/30(月)09:57:00 ID:???
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すなわち彼らは日々のコミュニケーションにおいて、「社会/人間関係」の中に見出す「(自らが属する特定社会の)正義/道徳/情愛/共感/権勢/縄張り/支配力」等を誇示し合い、その上でどこまでも各人の主体性/個性に基づく多様性、事物の真理・真実性を否定し、
もって生ずるC型人間的な普遍的均質性/親和性がもたらす「多数者の専制/パーティ会場の法則」(第八回 参照)効果・作用こそを最大限に利用するのである。
こうしてC型人間的連帯性を礎とする一次的連帯社会では、侵略戦争という将来の全社会的大事業のためには最も肝となるところの、集団的に一丸となれる感情系習慣的自動思考様式(イデオロジカル・シンキング・・第十一回)的心構えを準備できるのである。

さて一次的連帯社会が侵略戦争の結果として、巨大な経済市場を運営し、尚もより多くの繁栄を求めて活動し続けるならば、
やがて社会は、むしろA型人間的な進歩・発展性がもたらすようなタイプの紐帯を求めざるを得なくなるところの特異点に達する。
すなわちデュルケーム前掲書(第二篇第二章第四節)でも述べられているように、社会が拡大/拡張し続けると、個々の「環節的小社会(デュルケーム用語)」同士の合併が進行する。
そしてこの小社会融合により新たに生まれた巨大社会においては、以前の各々の小社会毎に存在したところの同一職業者の総計が多すぎて余剰し、もって余分な者を淘汰するための闘いが勃発するのである。

さてこの闘いに敗れた者は職業変更(破壊と創造)を余儀なくされる。こうして人々が破壊と創造ためのメタ認知系諸能力を高め合うことにより、社会全体の弁証法的運動が著しく亢進する。
このようにして現れる高度な分業社会では、自発的努力性向を持ち、機を見るに敏なA型人間は、積極的にプロト優秀者・優秀者化した上で指導者・特権者階層から一般社会内に見出した自らの新天地に船出していく。
こうして人々の連帯性は、集合意識とは異質の支配的観念を持つ他者と共生しなければならないハメとなるところの、A型人間が一定の勢力を確保する
『集団的社会秩序の形成/維持のための二次的連帯(・・デュルケーム用語では「有機的連帯」)性』(これ以降は『二次的連帯性』と略称する。)の段階に移行するのである(「社会分業論」第二篇第二章第三節 参照)。
(つづく)
159市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/07/30(月)09:57:42 ID:???
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これは端的に言えば“田舎の連帯”から“都市の連帯”への移行であり、人々の“気心”は最早、自然には通じず、
他者は基本的に“得体の知れない他人”となり、もって常に“世間話”に花を咲かしてでもいない限りは、座がもたない/沈黙は居心地が悪くなるような状態である。
このことの結果、C型人間の自意識においては何が起こるかと言うと、孤独感とか、あるいは自己防衛的な同調性への過度の強迫観念等が強まったりする。こうして前述の(一次的連帯性としての)C型人間的幸福観が崩壊してゆく。
そしてこの後はC型人間は、正気を見失ったキチガイ・鬼畜性を亢進させていき(第九/十一回 参照)(※注)、A型人間の躍進/C型人間の凋落による秩序破壊/不穏さが顕現する。
(※注 我が国においては、群雄割拠の時代(侵略戦争期)が終わり、高度分業・管理型社会(徳川体制)へと社会が急転換していく17世紀前半期がこれに相当する。
血気盛んさだけが採り得の歴戦のツワモノたちは、巨大消費・遊興都市へと急変していく江戸/京都の、今風の人々が他人行儀となっていく世相には全く適応できず、結局、
そんな彼らの憂さ晴らしのための所構わない「辻斬り」が数十年間も流行し続けることとなり、この間、夥しい数の町人たちが、老若男女を問わず訳もなく手当たり次第に斬り捨てられまくった。)

というわけでこうした因果性は取りも直さず、

『自らの内面を良く見つめる者ならではの人間性の一方と見做すべき進歩・発展性を顕現させる高い論理性の発現者たる貴族たち/エントロピー縮減者としてのA型人間と、同じく人間らしさの一方と見做すべき連帯性の根幹を顕現させる
高い自動性の発現者たる平民たち/
エントロピー増大者としてのC型人間の適切な人口バランスこそが、安定した人類存続のための必須要件である。
もしこれが大きく損なわれるならば最終的に、小は家庭内の人間関係から大は国家同士の関係に至るまでの全人間関係は異様な緊張状態に入り、人間界は混乱の極みとなって、人類はやがて滅亡の危機にさえ瀕する。』(『進歩の自然法の第三定理(A・C型人間定理)』)

ことを示唆する。
(つづく)
160市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/07/30(月)09:58:19 ID:???
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例えばC型人間的な親和性が行き過ぎ一次的連帯性が強まりすぎれば、弱者/全体の足でまといになる者を切り捨て難くなる、かつ個々人のフラストレーションの亢進により侵略戦争に捌け口を求めるようになるから、社会集団としての自己保存能は著しく劣化していく。
また例えばA型人間的な自発的努力性向が強まって人々の攻撃性が行き過ぎれば、トップクラスの僅少者しか生き残れないような熾烈な競争状態、
あるいは同じくA型人間の内向性が高じて社会性/処世智が貧弱な指導者/特権者を擁する社会等においても、やはり同様に社会集団としての自己保存能は著しく劣化するという具合だ。

そしてここまで分かったならば、いよいよ先天的資質としての二類型遺伝子の拡散と後天的資質としての優秀者との関係等についても、知らなければならなくなるのである。
(「先天的認知資質に基づく二つの基本的人間類型」 おわり)
(つづく)
161市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/07/30(月)11:00:58 ID:???
訂正
>>146

隔絶的環境に育った歴代直径者
      
      
       ↓

隔絶的環境に育った歴代直系者
162市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/08/19(日)14:55:06 ID:???
20 of 34 (つづき)

「先天性/後天性が織り成す四基本的人間類型と優秀者」

A型人間属性とは、ホミニゼーションにより複雑化した人間社会において必要になったところの認知の論理性を用いて、真理/真実としての事物の因果を認知の弁証法的運動により認識させしめる属性である。
一方でC型人間属性とは、集合意識を非論理・無思考的に肯定し続けるところの自動性をもってするも、一度、真理/真実を認識した後においては高い生産効率性をもたらすところの普遍的均質性を顕現させしめる属性である。

その上で各人の自意識的において実際に生起することとは、A型人間の帰納的思考能力をもってすればC型人間の行動パターンの同定/予測は容易であるが故に、一部のA型人間は
少数派である自分らがC型人間が発現する多数者の専制に追い詰められて社会生活の場から排除される前に、一般社会のC型人間を指導/管理しようと決意する・・ということである。
こうして当該A型人間はヘーゲル的弁証法的運動を経て、やがて優秀者属性の獲得にまで至り得る(第十回 参照)。

但し全てのC型人間が、そのまま凡庸者で在り続けるのでなく、実はC型人間が優秀者化してC型人間を操作/管理しようとすることも普通に生起してくる。
また更には全ての優秀者が自発的努力性向を伴う後天性から発生するのでなく、次第に先天性の始原的優秀者資質をベースとして優秀者化するケースが増えてくる。

というわけでこのチャプターでは、こうしたこと共を含めた上での二類型遺伝子の拡散/後天・先天的資質としての優秀者の発生に係る機序をサブモデルとして示すことにする。
ついては前口上として述べておくが、近年は多様化したニューロイメージング技術によって、人間の様々な認知活動に対応する脳内の特定部位の同定等に関する詳細な知見が蓄積されてきている。
こうしたことの結果、例えば或る人間が人生において遭遇する様々な状況の内のどういうタイプの状況への対応が得手/不得手であるかということを決定する主要因の一つとして、
「遺伝に由来すると考えられる脳器質構造の個体間差異」が在ること自体は、学界においても最早、コンセンサスであり、その上で先天的な認知的資質の発生機序のみならず、
それらの世代間継承と拡散/時系列的推移等を包含した上での社会人類学的なモデルの構築が、今や切に求めらていると言えよう。
(つづく)

163市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/08/19(日)14:58:40 ID:???
21 of 34 (つづき)

ところでモデル構築の際に必要な前提として、デュルケーム的連帯性の変遷に係る普遍性を鑑みた場合、「個々の民族集団毎の存在拘束性の差異を超えたところで幾つかの認知的属性のカテゴリーが遺伝的に固定化し、
かつ一定の存在比率を伴って汎人類的に平準化していく。」と認識することが重要だ。
そして更には、このカテゴリーに後天性が作用することで次なる先天的カテゴリーが発生する、すなわち「安定した人間集団(民族/世襲的職業家系/社会階層等)内の個々人の思考様態/生活習慣等の差異の内の、
本然的には後天的変異であったはずの優秀者資質も含めたところのかなりの認知的カテゴリーの多様性が、例えば血液型の多様性などと同様、時を経る中で漸次、有意な遺伝的資質として平準化され続ける。」と考えることは、極めて自然である。

その上でこれらの先天性認知的カテゴリー群の存在は例えば、「一般的には、自力/独力で世俗的成功を勝ち得、
もって明確に優越的な高次存在拘束性を持つに至った者は本音において排他的になり、総合的評価で劣位の存在拘束性を持つ者との交際率は低くなる(※注)。」
という経験則等を適宜、援用した上での、現生人類の歴史、並びに開明度としての社会体制や生活文化/地域・民族的気質/社会階層毎の行動パターンや嗜好の傾向等の外観的観察から間接的に看取し得る。
更には帰納的思考様式によってそれらの世代間継承と拡散/時系列的推移等の様態をモデル化できもするのである。というわけで以上の認識を踏まえつつ、以下にモデルを提示する。
(※注 始原A型人間に必要なものは、“世俗的成功・卓越”である。ちなみに人が世俗界で群を抜くためには、事象の因果に係る真理/真実を経験・実証主義的な論考により認知する必要があり、
大変な苦労を伴う認知の弁証法的運動的によりこの真理/真実を知った始原A型人間は、これを未だ知らない者を見下し、軽蔑する傾向を持つ。
例えばマルクスとエンゲルスの人間関係等からは、極めて優越的な高次存在拘束性を持つ者同士が、頑ななまでに交際者を選別し合う傾向を看取できるし、
また我が国の近世農村においても、「役屋(公事屋)」(= 勝ち組)が「柄在家」(= 負け組)等の没落家/家持下人等と縁組するといった、家格が異なる家同士の婚姻は原則的に成されなかった、などという具合だ。)
(つづく)

164市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/08/19(日)14:59:21 ID:???
22 of 34 (つづき)

『指導者・特権者階層に連なった始原A型人間のあらゆる認知/行動において強烈な心理的バイアスが顕現し、もって特殊な存在拘束性が彼以降の世襲的直系者において持続し、ついに先天性のA型認知的資質を生む。
その上でこの多様かつ特殊な才能(例えば学術研究/事業経営/各種専門的技能/教養・文化・言論等)として顕現するところのものが宿す一般的属性を、前チャプターにおいて提示した如くに帰納的に同定できる。

その上で彼らの一部分は人間社会のデュルケーム的拡大・発展機序に沿いつつ、後天的にメタ認知系諸能力を涵養してプロト優秀者・優秀者化し、そのプロト優秀者・優秀者属性もまた、せいぜい数世代ほどで固定化して世代を越えて継承されていく(※注1)。
そこで今後は先天的資質としての優秀者資質、すなわち深層意識レベルでの高貴な自尊心/メタ認知系諸能力等を物心ついた時分から保持している者を、特に『先天的優秀者/E型人間(Excellency-type person)』と呼ぶことにする。
その上で上述のように始原E型人間は全てA型人間でもあるので、今後はこのタイプのE型人間を特に『AE型人間』と呼ぶ。
(※注1 例えばガリレオ・ガリレイの父親は、数学や音楽理論にかなり造詣が深く、かつ論争も好きなA型人間であった。まずはこうした「この親にしてこの子あり」的な後天的機序によって最初の優秀者が生まれた(※注2)。
そしてこのA型人間優秀者の子/孫においてエピジェネティック遺伝→遺伝子遺伝の遷移過程を経て、数世代後に最初のAE型人間が発生する。
ちなみにE型遺伝子の存在は社会人類学的には、例えば数世代前の傍系先祖の人格/気質/能力を受け継いでいると見做せる事例等から実証される。)
(※注2 ちなみにA型資質(認知の論理性)を持たないC型人間に対して、後天的に隔絶環境を付与したり高度な教育を施したとしても優秀者にはなれず、「尊大な善人」にしかならない。
何となればC型人間とは成功体験に基づくところの、「真理/真実 = 真知 = 合理性」、かつ「合理性とは論理性により認知され得る」という根元的認識を先天的に持たないがために、あらゆる知識/教養が感情系習慣的自動思考様式により
(つづく)
165市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/08/19(日)14:59:55 ID:???
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演繹知(無謬的信憑性を伴う知)として認識されてしまうからである。
更に補足説明するならば、C型人間は教育を受けるに先立ち、まずは苦労して世俗的成功・卓越を果たし(※注3)、もって“自分の身/人生をもって真知の何たるか”、“真理/真実の価値/重さ”を知った上での認知の論理性を獲得した後でなければ
(すなわちA型人間になった後でなければ)、如何に努力したとしても“演繹知長者”、すなわち“できもしない/知りもしないこと”を「できる/知っている」と思い込んで尚、平然としていられるが如きの非経験・実証主義性、
すなわち凡庸者的存在拘束性の陥穽としての自我の防衛機制であるところの、無意識化した(もって自己管理が不能であるところの)被自己洗脳的マインド・セット/“歪んだ便法の使い手”的属性からは離脱できず、もって尊大な善人以上の者にはなれないということだ。)
(※注3 簡単なものであれば例えば町会長、生徒会長、PTA会長として苦労する/苦しい家計を支えつつ何らかの努力を為すとか。)

というわけでここまでをまとめると、まず原始状態の人間社会では全員がC型人間、その次に始原指導者・特権者階層内にA型人間が発生し、更に彼が優秀者と成った数世代後には、『AE型人間』遺伝子を直系者に継承させ始めるということだ。
その上でAE型人間が一定の比率/頻度をもって一般社会にドロップアウト(もしくは”大海に船出”)することで、人類全体の遺伝子プールにA・E型人間遺伝子が広範に混入し始める。

すなわち一般社会のあちこちで、交配によりA・E型人間遺伝子を受け取った者たちが出現するのであり、更なる交配によりこれ以降は、多数のC・A・E型人間遺伝子の“ごった煮”ヴァリエーション(亜種)が、次々に発生する(※注)。
こうして遺伝的形質の強弱のヴァリエーションを包含するところの先天的認知属性の多様性は、一般社会の圧倒的多数派としてのデフォールトのC型人間からの大きな淘汰圧がかかる閾値に達するまでは、その拡張/拡散が亢進する。』
(※注 ちなみにこの多様性発現過程においては、C型人間がA型人間を経ずして直接、E型人間遺伝子のみを受け取る場合が起こり得る。そこでこれを特に『CE型人間』と呼び、基本的類型の一つとする。)
(つづく)
166市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/08/19(日)15:00:37 ID:???
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以上が先天性認知的資質(遺伝子群)としての基本四類型(A・C・AE・CE型)が発生し、それが人間界全体に拡散し、一定の存在比率に落ち着くところまでのサブモデルだ。
そして補足として、「凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」(観念運動の自然法の第四定理)(第十回 参照)で示したところの機序から受ける作用としての上記モデル内の「C型人間からの大きな淘汰圧」の機序について、更に以下に説明する。

『AE型人間はそのままでは優秀者ではなく、彼らは三始原人格と諸経験により後天的に自発的努力性向を強めて、派生的人格的能力の涵養を為すことでプロト優秀者/優秀者になっていく。これが(既述の)第一段階である。
次に第二段階として、彼らはC型人間の世界である一般社会に船出し、その類稀な実力がC型人間に認められ世俗的満足・充足感を得て、もって孤高さを失う。こうなると優秀者は、今度は自発的努力性向を弱めて人類デフォールトのC型人間的生活に回帰していく(※注)。
(※注 このようなことが生起する根本因は、「優秀者特有の圧倒的多数の凡庸者に対する操作・管理的意思は、一般社会内での優秀者の孤独観を深め、ついには彼らの心に解消しようがないストレスを漸次、蓄積させる」点に求められる。)

そして第三段階として、優秀者は一度、優秀者であることに対して自己否定的に成ってしまうと、A型・E型属性に所以するような、脳神経に対して高い労働負荷をかける行為(真/美/善の探求や合理主義的因果・方法論の構築)を
だんだん楽しめなくなる、更には厭わしく感じるようにさえなり、もって人格系メタ認知的論理思考を為すためのメタ認知系諸能力自体が衰えていく(※注)。
(※注 日常的に使用されなくなった人の能力は直ちに衰退し始める。例えばベッドで寝たきりのまま、意図的な歩行訓練を欠くならば、一ヶ月程度で筋肉が衰えて歩行不能になるし、
また定年退職後等に“毎日、縁側で日向ぼっこ”的楽隠居などを決め込んでしまえば、大量のニューロン死が始まり、半年足らずで“ボケ”るなどといった具合だ。)

最終段階においては、中途半端な存在に成ってしまった元優秀者は、なまじA・E型人間属性を持つがゆえにC型人間中心社会では単なる“跳ねっ返り/異端”の身となる。
彼は最早、一般社会にも指導者・特権者階層にも適応できない身であり、もって子孫を設けられない。
(つづく)
167市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/08/19(日)15:01:15 ID:???
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多くの優秀者の遺伝子、あるいは遺伝子化しうる資質が、このようにして地上から永遠に消滅していく。』

そしてモデルの更なる補足説明として、「プロト優秀者/優秀者」両定理(観念運動の自然法 第三定理の2-3)、
並びに先天性基本四人間類型(A・C・AE・CE型)/後天性(プロト優秀者・優秀者属性)の相互連関がもたらす因果パターンについて、典型的な実例を通じて押さえておこう。

AE型人間、すなわち貴族型人間の先天的優秀者のマックス・ヴェーバーは、政治家の父と育ちの良い敬虔なプロテスタントの母から成る家庭という、当時の西洋社会の「典型的上流家庭」において養育された人物だ。
そして上流であるということは往々にして、家庭内において夫婦が本音と建前を巧妙/作為的に使い分けるような人間関係が、存在しがちであることを示唆している。

ちなみに人間というものは、自分の養育者から建前的に気遣われ大事にされ、かつ己の機嫌/感情等もまた建前的に尊重されて育てられるなどという、うすら寒い体験をしたりすると、
己の内なる世界、すなわち言うなれば己の行く手を遮るものが何もない無限の世界の中に救いを求めるしかなくなったりするものだ(※注)。
そしてこうなると己の情動や認識力の拡張(つまり思考統御・監督系諸機能の源泉としての人格的能力の涵養)、至誠の真理/真実を見出そうとする(つまり論理性の涵養)ように仕向けられる。
(※注 但し、恐怖感や身の危険をも常態的に伴うような極端な環境においては、解離性同一性障害(多重人格障害)的な方向での自我防衛が生起する。)

さて実際のところのヴェーバー少年は物心が付いて以来、世俗的名士の父と宗教的倫理感の強い母との間で繰り広げられた家庭内不和・対立がもたらすところのダブル・バインド的存在拘束性に苦しみ続け、
この手の“二律背反”的存在拘束性を持つ者が往々にして行き着く“お決まり”としての(統失系と思われる)精神疾患を青年期に発症した。

すなわちヴェーバーの名を社会科学史において不朽たらしめることになったところの、かの有名な資本主義とプロテスタンティズムに関する論考の元アイディア/気づきとは、正に彼の、資本主義体制の勝者の典型としての父と、
これまたプロテスタンティズムの一つの精髄を典型的に体現する母という両極端性に、
(つづく)
168市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/08/19(日)15:01:49 ID:???
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己の人生において嫌が上でも立脚することを強いられたことがもたらす“引き裂かれる自我”、そしてこれをもって顕現する苦悩/煩悶の副産物として想起されてきたものである。
これこそが人の自意識の(ヘーゲル的「反」、葛藤状態が生むプロト優秀者発生の典型的事例と見做せるものであろう。

ところでこのヴェーバーという人物の掛け値のないところの“器”/能力を察っしようとするならば、何といっても「社会科学および社会政策の認識の"客観性"」(1904)を分析しなければならない。
何故なら当該論文においてこそ彼は、「価値自由/理念型」という「社会科学者としての自らの学術的姿勢の核」となるものを宣示したからである。
というわけで、まずはこの「唯物史観」に対する徹底的な嫌悪感/露骨な対抗意識を隠さないところの彼の当該説の要約と解説を(要所においてできるだけ原論文の言い回しをそのまま引用しつつ)以下に示す。

『「価値自由(Wertfreiheit)(※注)」とは具体的行為としては、社会的事象の論説の場においては、経験的事実の論述と価値判断を行う推理(主観)とが絶えず混同されることがないようにしろ、という命令に従うために、自らの主張について自覚的に批判/反省(メタ認知)すること、
もしくは「現実が測られ価値判断が導き出されるところの基準とは、どういうものであるかを常に、読者と自分自身に対して鋭く意識させること」を、学究者に促す観念である。
すなわちこれは、評価/価値観などというものは凡そ個人的かつ個性的なものだから、人が社会に対して持つところの認識とは、論者が如何様に努力したところで(“完全な客観”と比するなら)特殊的偏向の域を越え得ないことを、
とりわけ経験・実証主義性を求められるところの“科学の世界”においては厳に自覚しなければならないということであり、これは当然に必要な姿勢/前提として学界人が承認せざるを得ない、異論を差し挟む余地が無い観念と言える(過去レスリンク118.参照)。
(※注 ここでの「自由(freiheit)」とは「特定されない/定まらない/多様である」の含意語。ちなみにこれは「没価値性」と訳される場合があるが、
「そうであってはならない/存在しない/免れるべき」的な趣旨は原論文内には見い出せないがゆえに、この訳は一意的には不適である。)
(つづく)
169市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/08/19(日)15:02:23 ID:???
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その上で価値自由な態度で扱われるべき具体的な主観的諸観念、例えば「個人主義/帝国主義/封建制度/重商主義/因習的」などの如くの、
人々が「文化現象をその連関とその因果的な被制約性とその文化意義において認識するに際して(有意な)効果」を認め得る抽象観念を、ヴェーバーは一括りに「理念型(Idealtypus)」と呼ぶ。
例えばこれらの他にはキリスト教の本質についての全ての叙述/マルクスの「唯物史観」等もまた理念型だそうだ。
その上で理念型が、あたかも実際に生起した歴史的事実そのものと同列に扱われたりするなら、「(価値自由的ではないがゆえに)常に真実に対し疑問の余地を残す妥当性しか持ち得なくなる。」とする。
しかしてこれらを“普遍的真理”の原型(プロトタイプ)としてではなく、あくまでも“具体・個別的歴史を叙述するという目的に資する手段”としてのみ限定的に用益するのであれば、
これら(理念型)は科学研究にとっての「索出的価値(或るものを探り当てるような価値)」を有する(※注)、とも彼は言う。
(※注 理念型を経験的事実の内の「特定の意義ある構成部分をばはっきりさせるという目的のために、現実をそれに掛けて測る基準として、あるいは現実(の事象同士)を比較してみる基(手段)として用いる」ということだが、
このような“ロンダリング”の如き用い方に限定したところで、所詮は“理念型というものが宿す恣意性”自体は消えないのだから、結論が理念型から受ける恣意的影響もまた、依然として存在し続ける。ゆえにこれは詭弁そのもの。)

その上で巷の多くの科学者の価値観を支配しているものとしての「現実が何らかの意味で“決定的な組織”において連関づけられており、そして次にはそこから現実を演繹しようと思えばできるというような封鎖的な一つの概念体系を創ること、
言い換えるならば或る科学の範疇内で次々に現れる研究資料を一つの概念体系の中に、これまた次々と秩序付けていくことで、いつの日にか完全なる演繹的科学を完成させようという理想」は、根本的な瑕疵が存する誤謬である、とする。

とどのつまりヴェーバーは、「人類の歴史の中には“一つの絶対的真理の体系”と見做しうるような原理系などは、どだい見い出しようがなく、“現実”とは、唯何処までも果てしなく個々具体的な経験的事実(歴史)が連綿と連なるだけのものでしかない。」
(つづく)
170市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/08/19(日)15:05:13 ID:???
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旨を主張した上でいきなり、「科学的方法としての帰納法の否定」という大それた結論にまで一足飛びに行き着いてしまっている。』

以上が人類の歴史/社会に係る普遍的観念(公式/法則)の存在自体を完全否定して止まないところのヴェーバーの「価値自由/理念型」説の要旨解説だ。

その上で(上述したように)この学説の中核部分は完全な詭弁である。具体的には「価値自由」説部分は正しいのだが、後半部の「理念型」説部分は、完全な誤りだ。
そこでこの「理念型」説部分に対する反証を、オレの「モデル的認知法」(第五回/過去レスリンク124.参照)を挙げながら以下に成す。

『ヴェーバー説の核は、「或る歴史的事象を生起させている因果は常に移ろい、かつその数は無限の如くだから、人の歴史には特定の普遍的原理などは成立しようがない。」だが、
しかしてこの言い分は「人類もまた動物の一種である以上、脳に刷り込まれている“本能”的属性と見做せるところの幾つかの固定的認知・行動パターンを、普遍的に保持する。」という、この一命題をもってするのみでも瞬殺できる。

その上で更に言うならば、ヴェーバーは「社会科学的学究の場においては、あらゆる判断は主観的評価に基づくものであるがゆえに普遍の叙述はできず、個別の叙述ができるのみである。」ともするのだが、
これについても「観察対象物の中に普遍が在るならば、観察者がそれを見出して“主観的”に叙述できる」ことを挙げさえすれば即効で反証できる。
すなわち観察者の評価が如何に主観的なものであろうが何だろうが、ともかく観察対象物自体が何らかの普遍性を宿しているのでさえあれば、それについては幾らでも「普遍性命題」として主観的に叙述できる。
その上で上述のように、歴史を形成する主体であるところの「人間の本性(自然現象)」においては、正しく個々の事象毎の相違を超えた普遍性が紛れもなく宿っている。

ではこれらを踏まえて更に、オレの方法であるところの「モデル的認知法」が採用する手法を観ていこう。
(オレは既に「包括的合理性」(第十二回 参照)について説明しているのでここは簡潔に済ますが)、モデル的認知法の肝は、「(論理の)階層性を伴う体系性」を伴う論理性である。
具体的にはモデル的認知法では、或る特定事象が包含するところの一次的と見做せる観念を、
(つづく)
171市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/08/19(日)15:09:10 ID:???
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まずは大枠的観念として設定する。その上で順次、二次、三次的要素というように下位に向かって諸観念が階層的に据えられていく。
つまり複数の観念がより包括性が高いものから個別性が高いものへと順次、連なっていくような階層構造が存在するのであれば、ヴェーバー的“理念型”が持つところの恣意性、すなわち主観性によって好き勝手に事物が評価/意味付されて、
もって「真実に対し疑問の余地を残す妥当性しか持ち得なくなる」可能性は無視できるくらいにまでに低減させうるのである。更に補足説明する。

例えば「戦後日本社会」という論題があった場合、それに係る最も一次(包括)的な概念とは、「平等/基本的人権/福祉/相互安全保障」といった“理念型”である。
そしてモデル認知法においては個人的な嗜好・恣意性等とは無縁にその包括性の度合いに応じて機械的に、この下位に諸“理念型”を順次設定するのであり、
それらの設定作業を全て終えた段階で、ようやく“戦後日本社会とは何ぞや?”というテーマに向き合うことが許される。

一方で「戦後日本社会」についてヴェーバー説に則り、論者の主観的関心に基づいて例えば「男女のジェンダー概念」とか、「少数民族などについてのマイノリティ概念」の如き理念型をいきなりデンと据えただけで即、
(戦後日本社会について)考察を始めてしまうならば、如何なことになるであろうか?
するとこれら(ジェンダー概念/マイノリティ概念)は、当該観念のみがあえて選択されること自体に合理的必然性がないために、如何に“索出”目的のみに用法を限定したところで所詮は、ヴェーバー自身が指摘したような“科学とは呼べないシロモノ”にしか成りようがない。』

というわけでヴェーバーの理念型説で示された懸念、及びその用法は、思慮が足りない、みっともない誤謬であるのみならず、それらはモデル的認知法により、概ね払拭し切れることも示された。

その上でオレは、父親が中堅武士層家系者(武士層は、徳川体制期において全人口の10%を占める“世襲武人貴族”階級。その内で、いわゆる「武士道」精神の髄を生真面目に継承するのは、中間層を中心とした5%程度だろう。)であり、物心付いた時には、
既に十分な三始原人格に所以する思考統御・監督系諸機能を伴う論考(人格系メタ認知的論理思考)三昧の自意識状態にあったところのAE型人間だ。
(つづく)
172市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/08/19(日)15:09:46 ID:???
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更にオレの境遇はヴェーバーのそれとも似る。つまり明治体制以降は旧士族層と百姓層との身分の垣根が撤廃され、もって相互の婚姻は一般化したわけだが、オレの母親は、“(外観的には)極めて面倒見がよく温和/柔和な小百姓”的家系、
すなわち日本人の根幹的善性のもう一方の典型を体現したような家系の者である。
すなわちオレは、“極めてストイック/冷酷な感じ、かつ強烈な責任・義務意識”を持つ父親と“極めて柔和な外観、かつ裏表(本音/建前)を無思考・自動性をもって(すなわち極めて自然に、それが人格化した上で)使い分け、
かつ自閉的気質傾向をも持つ調子の良い世渡り者”の母親という強烈な二つの個性(もちろん少年期のオレには、こんなことはサッパリ分かりようがない)の狭間でのダブル・バインド自意識を持ったからだ。

こうしてオレはヴェーバー同様に青年期には対人関係を上手く処理できなくなり、かなり長期間、自分自身/人間/社会について苦悩し、(AE型人間であるがゆえに)人格改造指向的な論考/実践(すなわち破壊と創造)を為すまでになったのだが、
オレの場合はそうした経験を幸運にも、全て弁証法的に止揚(破壊と創造により合理主義的因果・方法論を構築)できた。もって現在は優秀者である(と、自己評価している)。

ではA型人間が後天的に優秀者/プロト優秀者のいづれの運命を辿るかの分かれ目とは、そもそも何か?
具体的には「適宜の破壊と創造能」、すなわち「正→反→合」という認知の弁証法的運動をつつがなく進捗させ、もって人を時系列的に成長させていく要因/力動とは何か?

前述のようにヴェーバー(「反」に留まるプロト優秀者)は、「あらゆる判断は主観的評価に基づくものであるがゆえに普遍の叙述はできない。」として、観察対象物の中に普遍が在るならば、観察者がそれを見出して“主観的”に叙述できることにさえ気づけなかった。
そしてこのような認知の未到達が何ゆえに生起するかと言えば、これは“眼前にそびえ立つ超大物”としてのマルクス憎しの感情ばかりが歪に高じて“ミイラ採りがミイラになった”ような展開、
すなわちヴェーバーの思考統御・監督系諸機能は、マルクスという“(彼にとっての)眼前の目障りな大きな瘤(こぶ)”を何としても排除したいという凡庸者的存在拘束性の陥穽に嵌まりまくっていたからだ。
(つづく)
173市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/08/19(日)15:11:55 ID:???
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そしてこれは多分、両親の不和/不仲に多く所以すると思われるところの強度の自己中心性、「自分が何が何でも“正しい/最高”なのが当たり前、そうでなければ気が済まない」的な独善性/幼稚さ(支配・君臨欲/自己中心性)を伴う人格に阻害されていたことに起因する。

というわけでぶっちゃけ彼の嘘偽りない本音は、「マルクスの唯物史観が、一つの真理/真実(の原理)であるかのように見做されてしまうが如きは、クソ忌々しい。そんなことは俺は絶対に認めん。」というが如きだったろう。
その上、ヴェーバー当人的には自意識の「正」状態のゆえに、自分がこのような多分に恣意・感情的な主張を為しているという自覚すらなかったはずだ。

つまりこれこそが人格系メタ認知的論理思考様式の肝であるところの「人格」の不全、すなわち思考統御・監督系諸機能の不全が帰結することの恐ろしさであり、或る種の高次存在拘束性を持つプロト優秀者においては、
真・美・善性をもたらす人格(思考統御・監督系諸機能)が未熟であるために、自意識の「反」段階で人間的成長が終わり、もって真っ当な論考ができないのである。
ちなみに優秀者の前駆体としてのプロト優秀者は全人類の5%、その内、優秀者に成れる者は、1/10(0.5%)くらいのものだろう(※注)。
(※注 この比率を感覚的に捉えようとするならば、例えば視覚障害者数は日本では全人口比で0.3%である。我々が大都会で暮らしていれば白杖を持つ人には2日に一度くらいの頻度で偶然に出くわすから、
そこから類推すれば、大都会暮らしの人が毎日一度、偶々出くわすかどうかくらいの程度だ。)

では次に世俗のC型人間が、A・E型遺伝子を得てプロト優秀者/優秀者となっていく場合について論じる。
ついてはC型人間(非隔絶環境)ベースでA・E型先天性(CE・CA・CAE型人間)を受け取る者については、今後は一括りにして『C型先天的論考者』と呼ぶことにする。

彼らは、専ら人の世を渡るに際して他者の感情を操作/管理することについて論考を為した上で、こうした“人間関係の調整能を競うがごとくのゲーム”の場、
とりわけ一般社会という“ごった煮”環境の中で、この手の高度な対人的メタ認知系諸能力を存分に発揮できる最高の場としての“政界/財界(※注)”においてこそ、プロト優秀者・優秀者化していく。
(つづく)
174市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/08/19(日)15:13:00 ID:???
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(※注 基本的にはアントレプレナーではない“サラリーマン経営者”、すなわちあくまでも“世渡り上手”の範疇のみに属する人々の世界である。)

ところで(経験・実証主義という概念を知らず)自分の頭の中だけでの認知/理解の反復/往復に明け暮れる日々を過ごす“平民”たる一般的なC型人間は、生きる事自体に伴う心の痛み/苦しみ等に影響されまくった認知/判断を為す。
その上で彼らは、例えば部活とか恋愛とか家業の商売を手伝ったりなどと、多彩な人生経験を経る者でもあるから、自分自身の心の痛み/苦しみ/喜び/安寧等を、最も擬制的に表現してくれる物語等を求める傾向を顕著に持つ。
例えば彼らは己の存在拘束性下において気に入るような、癒されるような言説を為す者の単純な追従者になりやすく、例えばかつての大日本帝国の旧制高校生などは、一度も会って話もしたことがない和辻哲郎や阿部次郎などの言説に、いともたやすく心酔したものである。

このC型人間の普遍的特徴をメタ認知できるC型先天的論考者は、すかさず認知の自動性から脱して、言語や振る舞い/仕草等の外観を人々の嗜好に沿わせることで、自己保存できることを覚えていく。
とどのつまりはAE型人間とは異なり、E型資質を主として学術/芸術の分野に仕向けるような“保護系”隔絶環境を持たないために、(E・A型人間遺伝子を運良く獲得しただけの世俗者である)C型先天的論考者が、
こうした認知の弁証法的運動を経て、やがては「人間関係の操作/管理」に執心するプロト優秀者/優秀者に成っていくのは自然の理である。

すなわち彼らは他者の気を惹いたり、駆け引きしたり、楽しませたり、鼓舞したりetc.・・すなわち修辞(レトリック)能力(※注1)と『感情的債権・債務(※注2)』の処理能力という、もっぱら対人操作・管理上の合理性の力(便法/支配力等)をもたらすものとしてこそ、A・E型資質を開花させる。
(※注1 真理/真実を探索するためでなく、如何に“言葉の外観上の尤もらしさ/言葉の引き綱”を繰り出して他者(C型人間)の心に響かせ、もって意図した通りの行動に相手を仕向けるか・・この一事のみに向けられる帰納的思考能力。)
(つづく)
175市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/08/19(日)15:13:51 ID:???
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(※注2 例えば恩義/義理/信用/信頼/友好/相互扶助/対立関係/緊張状態等の、人間関係の操作/管理の場において有意な心理性無形財。)

では実例を観じよう。C型先天的論考者の優秀者バークの前掲書からまた引用する。

「今や全てが変えられようとしています。権力を優しきものとし服従を自由な行為とした全ての心楽しい幻想、人生の様々な明暗を調和させ、
また私人的交際を美しくも柔和にもしている感情を政治の中に穏やかに同化した幻想は、(中略)おしなべて笑うべきもの、不条理なもの、時代遅れの流行として退けられかけています。
この考え方に従えば、国王は一人の男に過ぎず、王妃は一人の女に過ぎません。そして女は一匹の動物に過ぎず、しかも必ずしも最高級の動物ではありません。(中略)法が支持されるのは、唯、それ自身が与える恐怖によってのみです。
また各個人が自分だけの私的打算から発してその中に見出すか、あるいは私的利益から発して差し控えても良いと考えるか、いずれかの利害関心によってのみです。彼らのアカデミーの木立の中では、どの樹間を透してもその果てに見えるのは絞首台だけです。」

いかがだろうか。これはフランスで王政が停止され民主体制の樹立が宣せられた直後(1790)に、イギリス/アイルランド/フランス等で緊急出版されたものだが、これこそがC型人間優秀者の修辞の粋と言えるだろう。更に引用を続けよう。

「財産は(中略)当然ながら不平等を特徴的な本質とする。それゆえ羨望を招き強欲心を挑発する巨大財産は、危険の可能性から守られねばならず、その状態にあって初めて、
あらゆる階梯(オレ注; 庶民層を含めた全国民)の一層零細な財産にとっても自然な堡塁たりうる。(中略)それ(オレ注; 富裕であること)は我々の弱さを我々の美徳のために役立てる。それは強欲心にすら慈愛の心を接木する。
(中略)ある種の上品に制御された優位とある程度までの、決して排他的な独占に及ばない優先は、決して不自然でも不当でも不得策でもない。」

これは保守主義者の思想の本質としての「私有・既得財産」について論じた箇所だが、ここでは実に見事な論理構造をもってして「富裕層/富裕であることの価値」から指導者・特権者階層の擁護へとつながる持論を主張している。
(つづく)
176市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/08/19(日)15:14:20 ID:???
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このようにC型先天的論考者の優秀者においては合理的思考能は、他者を操作するという点において重用されつつも(※注)、その能力の土台においては、A・E型の論理性/メタ認知系諸能力がしっかりと働いてもいる。
(※注 C型人間優秀者的修辞においては論説内容自体の真理・真実性などは、イザとなれば微塵も意に介してはならないのである。
何故ならそんなことを気にしているようでは、無知蒙昧のC型人間が形成する“ごった煮世俗界の極致”としての“政治の現場”においては、一瞬にして吹き飛ばされてしまうからである。)

ちなみにこのバーク論の対照的論説と見做せるものが、これもたびたび引用しているところの、反対陣営(左派の一つの「1789年協会」)のA型人間プロト優秀者の論客コンドルセが同時期にフランス革命にまつわり論じた前掲書、
すなわち「人間精神の進歩に関する歴史的展望の総説(人間精神進歩史)」(1793 執筆)なのであり、この両著におけるレトリックを比べてみるなら、実感を伴ってC型先天的論考者の心理操作術の凄さを理解できる。

では最後に以上のこと共を踏まえて、「優秀者」についての追加定義を以下に示す。

『優秀者とは、己が天賦されているところのA型/C型単体の気質がもたらす傾向(A型・・進歩・発展性(真理・真実性)/C型・・連帯性(一次的連帯性)をメタ認知し、もって後天的に認知様態の弁証法的運動(破壊と創造)により主体性/個性を良く涵養しつつ、
包括的合理性(経験・実証主義/適宜・経済性/階層的論理体系)に基づく主体的認知体系の構築を成した者である。』

(「先天性/後天性が織り成す四基本的人間類型と優秀者」 おわり)
(第十四回 おわり)

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