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市民層 概論

※ID非表示スレ
1市井の居士◆dgvbGqecqY:2017/10/22(日)20:53:05 ID:???
とりあえず過去レスリンクを貼っとくよ。日付が一番古いのはL.1、んでL.7までいったらコメントレス109,-129. これより後のレスは、ここにはリンクしてない。

オレの過去レス (旧2ちゃんリンク集)

コメントレス
109.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/335
110.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/336
111.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/337
112.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/338

113.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/339
114.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/340
115.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/341
116.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/342

117.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/350
118.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/351
119.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/352
120.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/353
121.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/354
122.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/355
(つづく)
38市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/27(月)20:27:17 ID:???
26.レス(第八回 4 of 11)内の「胡散臭い業界」注釈が脱落していたので以下に補填します。

(※注 この他には例えば、我が国でも「シロアリ駆除」などでお馴染みになるところの詐欺的リフォーム業界/不必要な手術で患者をタライ回しにして“患者のケツの毛までむしり取る”
インチキ医療業界/交通事故等でインチキ診断書を武器にしたボッタクリ損害保険請求でボロ儲けするインチキ弁護士業界など。)
39市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/27(月)22:40:56 ID:???
>>36 追記2の追記

この「ふてくされた女性」が象徴しているものを心理分析するならば、「ベトナム戦争以前には全てのアメリカ人にとっては当たり前であった
「愛国心」が消え去り、「Me(ミー)世代」はありとあらゆる事物にシラけ、最早、「自己中心性」の中にしか自己のアイデンティティを見出せ
なくなっていた。」となる。
40市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:32:04 ID:???
1 of 19

「市民層  概論」 第九回

「凡庸者」

さてキチガイ凡庸者、すなわちパフォーマンス至上主義型人間が生み出した歴史的狂騒劇について引き続いて論じる前に、
今回はいよいよ、パフォーマンス至上主義型人間を含む上位のカテゴリー、当論の最重要概念「凡庸者/優秀者」の一方であるところの「凡庸者」について集中的に論じる。

パフォーマンス至上主義型人間の如き「メタ認知系諸能力が脆弱であるところに起因して、人格・処世観念等の涵養が極めて不十分な者」は、実は躾が十分に為されない養育環境とは真逆の、行き届いた躾や「かまい(世話/面倒/干渉)」/独善的とも言えるような
信念、信条、信仰等の訓育によって、自然・本来的な人の心の溌剌(はつらつ)さが抑圧され、言わば他者依存性を強いて刷り込まれたような環境においてもまた生まれる。すなわち

「メタ認知系諸能力の脆弱さを後天的(※注)にもたらす要因には、「(躾/面倒見などの」他者の介在の過小/過大」の二類型があり、その帰結として現れる人間属性もまた二類型化する。」
(※注 先天的な要因をも鑑みた上での分類は、今回のところはまだ為さない。それは後の回で論じる。)

そして人類史的には、むしろ他者の行き過ぎた介入に起因してメタ認知系諸能力が未発達となり、「(認識/思惟に関わる)盲目・盲従的な他者依存性とか孤独に対する恒常(気質)的不安」を持たされる人々こそが一般的だったのであり、
いつの時代でも社会が用益するための中心的な人的資源として、この『ロボット型人間』は存在してきた。

ここで「パフォーマンス至上主義型」と「ロボット型」という二類型を持つ人々、すなわち「児童期までにはほぼ完成されるメタ認知系諸能力(主体的達成意欲/自己批判的観念/帰納的思考能力等・・第七回 参照)
が未熟であることに起因する主体的認知体系の不全性によって、理想的な主体性/個性(※注)を将来において獲得できる可能性を完全に絶たれている者」についての、当論のこの時点における、とりあえずの定義付けを以下に示す。
(※注 例えばドストエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」(1880)第五編第五において、このことをイエスを裁くための有名な叙事詩「大審問官」として忌憚なく述べた。
尚、「主体性/個性」の何たるかについて論ずることは、当論の最重要テーマの一つであり、この後も適宜、解説していく。)
(つづく)
41市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:32:49 ID:???
2 of 19 (つづき)

『或る人が「凡庸者」であるということは、メタ認知系諸能力と、その成果物であるところの主体的認知体系(※注1)が脆弱であるということであり、これは根本的には『(自他に対する認識に関わる)単純素朴性/
無謬的信憑性(※注2)』、及び『自他の分離観念の不全(※注3)』という三属性に分解できる。』(『観念運動の自然法 第三定理(凡庸者定理)』)
(※注1 ちなみにカントはメタ認知系諸能力/主体的認知体系を「先験的判断力」と呼び、「判断力は一個独特の才能であり、傍から教えられるというわけにはいかない(中略)生得の智慧の特殊なものであり、それが欠けているからといって学校教育でこれを補うことはできない。
学校教育は、(中略)他人の知解から借りてきた規則を(中略)詰め込むことはできるが、さてこれらの規則を正しく用いる能力となると、これは生徒自身のものでなければならない。」(「純粋理性批判」第二部門第一部第二篇緒言 1787)としている。)
(※注2 例えば過去レス123.で述べた、スキーマのみを用いる演繹的思考のようなものが、単純素朴性の典型例である。よって隠喩/暗喩/婉曲等のヒネリや曖昧さ/煩雑さ/錯綜/連関/相関/非同時性/
本音・建前の意図的使い分けのような複雑性要素が入り込んでくると、もう全く事物を正しく認知できなくなるか、あるいは思考する意欲自体を喪失する。
また「体系・マクロ的把握・認識ができない」ということも単純素朴性に起因する重要な属性だ。すなわちその場限りの思考というものはほとんど無益であり、
思考成果物を蓄積/整理/俯瞰/修正するなどしつつ体系化することで、ようやく己の認識/論理等に真っ当な合理性を付与できることが分からない。
(つづく)
42市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:33:43 ID:???
3 of 19 (つづき)

というわけで人が単純素朴性/無謬的信憑性を持つならば、一次的認識が即座に自明真理化するヘーゲル的な観念の弁証法的運動の「正」段階に留まるしかなく、合理的に懐疑することで事物にまつわる問題点に気づける可能性が金輪際なくなる(第七回 参照)。
具体的にはあらゆる事物が紋切り型、かつその時その場のノリや気分のままに思い込む/一つ事を一本気に信じ込むようなカタチでしか認識されないのであり、このことは往々にして人を“極悪・極善人(※注4)”的な者にする。)
(※注3 例えば伊藤整「青春」(1938)には、「僕なんかでも、あれはああ、これはこうと、いちいち自信のある理解を物事に対して抱けるようになるだろうか。(中略)物乞いでもするように沖にある少量を話し、
藤山に逢った時には藤山に聞いてもらえるような少量の話を選み出して打ち明け、武光にはまた別な部分を取り出して示す。そういう日常の交流に小刻みに捌け口をやっと見出している自分の内心の息苦しい疼きを信彦は持て余すのだ。」とある。
これは「自他の分離観念の不全」がもたらす自意識の典型例であり、ここには「自分は"自分"という固有の世界に、自分の意思をもってして生きるしかない。」という自意識における自我の健全性が不全であることに起因する苦しみが良く示されている。

例えば人生の或る状況における状況認識は、視点の持ち方次第で、いく種類もバリエーションが存在する。しかして人は多くの異なる観念に対して同時に同レベルの重きを持って対処することはできないから、
行動方針/戦略とは、或る一つの状況認識(例えば「自分の学業の成績が良い」など。)のみを重視したもの(「ゆえに一流大学の医学部を目指す」など。)とならざるを得ない。
そして一旦、そのような特定の行動方針・戦略の実践段階に入った(「受験勉強のために部活を辞め、遊び仲間との付き合いも減らした」など。)後で、
他の方針に心移りしたりすれば(「成績は良いが、俺の家は貧乏だ」など。)、従前の方針に基づいた努力が全て無駄になるという損害(同一方針を保たないことの非合理性)だけが残されることになる。
(つづく)
43市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:34:19 ID:???
4 of 19 (つづき)

とどのつまり計画性というものの本質を鑑みれば、或る一つのタイプの利得をだけを一貫して負い求め、他のタイプの利得を敢えて顧みないのでなければ、
(「二兎を追うものは・・」状態) (目的追求の方向性において自滅的な判断/行動が双方の目的行動に混入する状態)となり、真っ当に自己実現(成功)できる可能性はなくなる。
すなわち人は己の主体的認知体系に基づく「己にとっての自然体」と言える或る一つの認識に基づいて一貫した行動を採れる、そしてそのような主体的行動ができる自分をひたすら自尊した上で、その結果として生起する不利益については
享受する覚悟(すなわちいざと言う時には“討ち死”する覚悟など)を当たり前のように保持できてこそ、(仮に今回の計画はダメだったとしても)「一貫性」という、
将来、幾度目かの挑戦において成功を勝ち取れる可能性を留保し続けられるのである。人生に、このような根幹的な合理性の力をもたらす能力が、自他分離観念である。
ちなみにこの自他分離観念があまりにも脆弱であれば、からかい/イジメのターゲットにされたり、”玩具(おもちゃ)”のようにヒマつぶしの道具にされたり”(使いっ)パシリ”として奴隷の如く扱われてしまう。)
(※注4 ゴンチャロフ「オブローモフ」(1859)の冒頭節にある「善人だ。きっと単純そのものだ!」の一句が示す通り、単純素朴性/無謬的信憑性の極致を顕現させている者とは、「(ガチガチに凝り固まった道徳・倫理観念に取り憑かれた)極善人」
「(ガチガチに凝り固まった他罰的観念に取り憑かれた)極悪人」を単純/朴訥に演じ(パフォームし)続ける者である。)

こうして人は単純素朴性/無謬的信憑性を持つと、次々に顕現する不手際/失敗から真っ当な自尊心を持つことができず、結果的に『他律・依存性(※注1)』がどんどん亢進していくことになる。
具体的には自他の分離観念の不全と相まって、圧倒的人数を擁する大集団(群れ)を形成し、集団が共有するイデオロギー(エートス)に完全追従することによって
自己保存を図るという戦略を持つようになる。この段階で人は、事物/事象に対する『当事者・責任意識(※注2)』を失う。
(つづく)
44市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:35:04 ID:???
5 of 19 (つづき)

(※注1 例えばジイドはこのことを、「どいつもこいつも、何とかして自分自身には似まいと努めている。誰でもが守護神を見つけ出して、その真似をしようとかかる。
真似をしようとする守護神を選び出すことさえしないのだ。前もって選ばれた守護神を受け入れるだけなのさ。」と、「背徳者」(1902)でメナルクに言わせている。)
(※注2 凡庸者は場合によっては自我の防衛機制によって、異様にがむしゃら/一生懸命になったり、皮相的には非常に思いやり深い、心根が優しく見えるような当事者・責任意識パフォーマンス(擬態行動)を
為すことがあるが、やはり適切なメタ認知系諸能力を持っていないという、“(決定的)ボタンのかけ違い”の弊害は大きく、心の余裕/自分の立場の優位性などがなくなれば、たちまち頭がおかしくなる。
すなわちこうした場合には、「自己愛/演技性/境界性人格障害」もしくは「高機能自閉症」などと呼ばれるような変則的処世術実践者になっていかざるを得ないのである。)

さてこのような在り様の人、すなわち凡庸者は、最終的には周囲の者の様子を見て模倣/追従するだけの『トートロジスト(同義反復者)(※注1)』にまでなる。
トートロジストらは(主体性/個性が必要ない群れの一員と成ったのであれば最早、メタ認知系諸能力の涵養は必要ないために)その関心を、
積極的に快感の追求のみに向けるようになる。そしてこの在り様は、ほどなくして“凡庸者の生き地獄”を引き寄せることとなる(※注2)。
(※注1 当論の重要概念であり、この先、提示される極めて重要な認識において何度も登場することになる。)
(※注2 凡庸者的自意識とその生き様がもたらす地獄の代表的パターンは、近代の「科学の時代」という存在拘束性の中で、克明/微細に記録されてきた。
例えばゴーリキー「幼年時代」(1912)/ショーロホフ「静かなドン」(1928-40)/フローベール「ボヴァリー夫人」(1856)/モーパッサン「女の一生」(1883)などが代表的なものだが、とりわけバルザック/フローベール系の忠実な継承者の手になる「女の一生」においては、
正にその場その場の、過去とも未来とも永久に連関性を持たせられることがない「刹那々々に込上げてくる感情」のみが移ろう「凡庸な人生の典型」とでも言うべきものが精緻に描き切られている佳作である。
(つづく)
45市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:35:57 ID:???
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というわけで19世紀~20世紀前期においては、「写実主義/自然主義」などいった看板を掲げた、主として(フランス/ロシア/日本などの)文学界における人間社会の見たまま/ありのままの観察・報告に基づく「人間そのものについての経験・実証主義的知見」
が大々的に注目された時代であり、社会人類学者にとっては数多の近代文学作品とは、「凡庸者の何たるか」に関して典型的な認識を得るための重要な資料である。)

例えば群れ化万能・全能感/無思考・無努力性/盲従・権威依存性などがもたらす無知の知や謙遜を知らない心/必ずしも外見には表れない内面の一本調子さ/
頑迷さ等は、彼らをして身の回りで日々変転流転する事象の脈絡/意味合い等に全くもって頓着しない人間にする。このために何をやってもマトモな達成からは程遠くなる。
そしてこれらが、一定/安定した情緒の持続能力を蝕み、例えば"正気/冷静さ"を保つためには常に何らかの脳神経活動賦活系物質(コーヒー/酒/薬物など)に満たされていなければならないなどの状態、
すなわち落ち着かない/黙っていられない/些細な変化に対しても動揺する/癇癪、あるいは諦観、自暴自棄モードにはまりやすくなる等の神経症様態を顕現させる(2017/10/27のツイート参照)。

このような状態は凡庸者に更なる無能・低能性を付与し悪循環過程に入らせる。意識下には根元的に解消不能な鬱屈感/ルサンチマン等が蓄積し、
凡庸者はこの精神の慢性的不全状態から一時でも開放されたいがために、最終的には"魂を悪魔に売り払う"かのようにしてまでも、"快感/欲求/欲望の虜"になっていく。
こうして最後には “人生のどん詰まり”的閉塞状況がもたらされ、事物の価値判断基準を「食う/寝る/猟る/癒す(遊ぶ/休む)」などの動物本能的なもの以外には求め得なくなる。

このことは「幼児性」があらゆる行動に顕現してくることを意味し、権勢・物・享楽・性・自己顕示欲(※注1)、あるいは諦観/厭世観等に歯止めが効かなくなり、これらは何らかの契機に、
狂信・奴隷的従属欲求/自殺/反社会性/超集団性/暴力・破壊・攻撃欲求/専制的支配欲求(※注2)にまで転換しうる。これが「凡庸である」ということが終局的に行き着く"生き地獄"である。
(つづく)
46市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:36:45 ID:???
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(※注1 この手の権勢・物・享楽・性・自己顕示欲的属性の告発にかけては右に出る者がないゴーゴリの諸作品(「死せる魂」(1842)など。)を見よ。
また我が国においては、江戸中期以降から大日本帝国期にかけての指導者・特権者階層に蔓延した、「大尽遊び(座敷や戸外での銭貨撒き/惚れ込んだ芸者を身請けして居所を充てがえて妾として囲うなど。)」という風習の中に、この典型が見いだせる。)
(※注2 例えば大正初期の農村における作者の実生活経験を下敷きにした宮本百合子の「貧しき人々の群れ」(1916)とか井伏鱒二の「多甚古村」(1939)などは、ここで言うところの狂信・奴隷的従属欲求の具体的様相を余すところなく伝えてくれるし、
後で詳説する昭和初期の陸軍皇道派の青年将校などもこの類である。超集団性の例としては、一向一揆、打ち壊し、おかげ参り/ええじゃないか、米騒動、昭和戦前期の東京音頭など。)

ハッキリ言うと

『凡庸であることとは、自分自身/自分が置かれた状況を合理的に認知できないことを意味し、このようなヘーゲル弁証法的「正」状態に留まり続けるならば、いづれ人間は確実に“性根がとことん腐ってしまう”、あるいは『キチガイ/鬼畜(※注)』のようにまで成る。』
(※注 凡庸者の認知世界とは基本的には”動物”並である。そしてキチガイ・鬼畜性とは根本的には、凡庸者が動物のように己の存在拘束性を合理的に操作/管理する能力を持たないということが、その主因である。
その上で人間脳は、動物脳とは異なり言語野を持つから多様広範な抽象的概念/イデオロギーを認知することができるわけだが、これが人間をして動物には在り得ないような精神の興奮/高揚/歓喜/焦燥/落胆/動揺/絶望等々の、
人間独特の様々な意識状態をもたらすからして、まるでキチガイ・鬼畜の如くになるのである。)

そして凡庸者三属性のうちの、どれとどれが外部要因によってフィーチャーされるのかにより彼らをして、時には「パフォーマンス至上主義型人間」にし、時には「ロボット型人間」にするのである。
(つづく)
47市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:37:24 ID:???
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例えばパフォーマンス至上主義型人間とは単純素朴性/無謬的信憑性が、大衆全員参加型社会である近代以降の産業社会の環境的存在拘束性により、とりわけフィーチャーされており、他者の言葉/行動などの表現行為の内にある含意/真理を汲み取る能力が極めて低い。
すなわち事物の中で「無言/静寂」である箇所/部分(往々にして最も枢要な真理・真実性を包含する部分。)に対する注意、並びにそれらに係る帰納的思考ができにくくなっている。
この結果、言葉や行為の外観的表象のみに囚われたところの、自己認識に対する懐疑心をあらかた捨て去った上での勘違いしまくった自己完全感を持ちやすい。
そして心の余裕/自分の優位性などがなくなれば、たちまち依存・逃避・退廃的な凡庸者的本性を隠しきれなくなる。すなわち彼らは基本的に「良く吠える弱い犬」である。
こうして例えば他者に対してホンのわずかでも身をかがめることができないとか、あるいは事物に簡単に最終判断/答えを出した上で他者に問題解決を委ねる/責任転嫁するなどの「他者依存性(無思考・無忍耐・無努力・他罰的傾向)」を強烈に発揮するのである。

こうしたパフォーマンス至上主義型人間属性の最初の顕著な権化はフリードリヒ・ニーチェである。
ま、しかしこれほど極端なまでに突出しているわけではなく、(己が偽善的擬態者であることを意識下で認識した上で)あくまでクールに計算尽くで自己演出するのが、パフォーマンス至上主義型人間としての、むしろ典型的な姿である。
例えば「職業学者」であれば、事在る毎に最新の学術のトレンドに関してコメントしたり、この間誰それの有名学者に会っただの、あの大学の学風はどうだの、英国人、ドイツ人、あるいはロシア人やイタリア人というものはどうたらなどなど、
ともかくありとあらゆる学究そのものとは無関係な、"周辺事情"とか"概要"とかを、ともかく目が覚めている間中、さも意味有りげにしゃべり続け世間を煙に巻いて、
雑誌/新聞のコラムの連載なんかで名を売る、副収入を得る、「教授/何ちゃら委員」等の肩書きを猟官するなどといった具合である。

次にロボット型人間について。ロボット型人間という人間類型は、古今の哲学者/思想家/社会科学者等にとってはクリシェ的認識であり、人類史においては長らく凡庸者の代表型であった。
(つづく)
48市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:38:05 ID:???
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例えばホッブズ「リヴァイアサン」(1651)ではこのロボット型人間を「自動機械」と表現し、「ドイツ観念論の最古の体系構想」(1917年に発見された著者不明の有名な論文)では、「機械の歯車」と表現し、
E.フロムの「自由からの逃走」(1941)においては「自動人形」と言い表されているといった具合である。
基本的には彼らは自他の分離観念の不全傾向が強く、誰かに己が為すべきことを示唆/教唆されることを強烈に欲する。

ところで満州事変後の日本のように、主体的思考態度が徹底的に抑圧され、権威/イデオロギーへの服従を強要されたりすれば、凡庸者はロボット型人間の代表的サブカテゴリーであるところの「被支配欲求型」になっていく。
そしてこのチャプターでは、この被支配欲求型の現代社会における繁栄種であるところの極めて尊大な人格属性を持つ善人・良識人タイプについてと、
被支配欲求型がギリギリまで追い詰められた特異点において転化するものとしての「専制的支配欲求型」について述べる。

まず先に専制的支配欲求型から説明する。人間心理には、自分に都合が悪いことは顕在意識からシャットアウトする「防衛機制(精神分析学用語)」がデフォールトで常時作用していることは間違いないところだが、問題はこの(例えば「己が無能である。」などという
認識がもたらす神経ストレスを軽減し、神経システム毀損(精神病など)を回避するための)自然が授けた巧妙な防御システムのせいで、凡庸者が追い詰められると、眼前の事物/事実をついに確信犯的に無視するようになることである。
例えば古今東西のクソ真面目な宗教人やテロリスト(イスラム系過激派/戦前日本の陸軍皇道派/KKKなど)の熱烈的心情を分析してみれば分かることだが、彼らはたった一つのイデオロギーを、
論理・合理的整合性などを度外視して一途に狂信(※注)するのであり、それはそうすることで脳内麻薬様物質の力によって非常に勇躍/高揚したような、いわゆる”ハイな気分”を持続できるからなのである。
こうしてアル中/薬中の如くに、一般社会から投げかけられる軽蔑や冷たさが入り混じった視線がもたらす解消しようがない鬱屈等から逃れるために、
彼らは紋切り型認識の明瞭・明晰さを伴う極端かつ特殊なイデオロギーに自ら進んで洗脳されていく。
(つづく)
49市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:38:43 ID:???
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そしてこのことはやがて、“異界”としての外部世界に対する徹底的な対抗観念であるところの「支配欲求」を彼の中に形成するのである。これが被支配欲求型のロボット型人間が「専制的支配欲求型」に反転するモデルである。
(※注 例えば陸軍皇道派においては、「荒木閣下」と呼ばれた荒木貞夫(陸相)、「甚公」こと真崎甚三郎(参謀次長)などといった、親分肌で人気が高かった皇道イデオロギーの典型的垂範者であるトップの、
中間管理職を飛び越えた直接指導下で、無学な青年将校(「無天組」と俗称された。)たちは極右的狂信性を育んでいった。
例えば荒木は、「一切の問題を皇道精神で解決できる。」、「竹槍三千本が有れば列強など恐るるに足らない。」などといったノリで語ったりする。
こうして醸成された皇道派の狂信的エートスがついに輩出すべくして輩出したのが、二・二六事件の下地を造った相沢三郎の如き”本物の狂人”だと言える。)

次に被支配欲求型の亜種の極めて尊大な人格属性を持つタイプについて。人類はこれまでその全歴史において、ロボット型人間の被支配欲求型を大々的に用益してきたし、今後もまた用益していくわけだが、
とりわけ産業革命以降に"産業社会用ロボット"として彼らを仕立て上げるために、公教育の必要性が高まると、こうした勉学に適応的な『ストイシズム』(感情・欲求抑制観念)によって
(己の)付加価値を亢進させて増強された自尊心を支えとして、外見には表れない無知の知を知らない心の尊大さを持つ人々が大量に現れてきた。
すなわち人類は産業革命以降は、ロボット型人間にストイシズムがもたらす「勤勉さ/生真面目さ」を付け加えて、より高性能なロボットと化した『尊大な善人(※注)』を大量生産して、彼らを産業社会の指導・根幹的営みに据えてきた。
(※注 強者に”優等生”的に支配/用益されようとすることの中に自尊のよすがを見出そうとする被支配欲求型の亜種。
彼らは19世紀末以降、あらゆる社会的営為が国家により高度管理・合理化されていく過程において、国策機関としての大学・専門学校の門戸が庶民層に大々的に開放され始めた際に大量に生まれたのであり、言わば「産業社会のエース/要」である。)
(つづく)
50市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:39:17 ID:???
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尊大な善人の大半は、普通の庶民的雰囲気の家庭で養育され、外観的には協調・友愛的行動傾向に富み、「善良かつ無名の中間層市民」としてその生涯を全うする一方で、(三属性を持つ凡庸者であるために)例えば学校教育/世間の常識/各種広報/
新聞・ラジオ・出版物等のメディアなどから得られるが如き「公に流布する情報」のみから、通常人が人間/社会等を知るために必要とする知識/認識の大半を入手できると、本気で信じて疑わない人々である。
このような自らを自明的に取り巻く外界に対する無謬的信憑性こそが彼らの隠された本性たる"尊大さ"をもたらす源泉であると言える。例えば公教育で履修したことが人間が知るべき智慧の全てだと思い込むのであれば、
それは特殊な行動/事象/人物等からしか得られないような根本的に重要な情報/勢力等こそが、個人の浮沈を決定的に支配していることに気づけないとか、あるいは何かのキッカケで偶然に頭に思い浮かんだようなことの経験・実証主義性、
すなわち帰納的思考様式に関わる認識をことごとく、たわいもないと感じる/見下すような心性(※注1)へと必然的につながっていくからである。
すなわちここに、中途半端にシステム化され端正な公教育を施されたために、かえって(無教養の者よりも)人知の広大無辺さ/人間に先天的に賦与されている高度な擬態能力がもたらす人間界の一筋縄ではいかない複雑性/欺瞞性等を
経験・実証主義的に認識するための契機を失ってしまった、いわゆる"無知の知"を知らない尊大さ/凡庸さが人格化したロボット型人間、尊大な善人が誕生するのである(※注2)。
(※注1 自分の頭の中で何となく、「公教育>学術知>ジャーナリズム>世間の噂>自分の気づき」のような知の序列体系を作ってしまうとか。
実際には信憑性に関して、これらの間に明確な序列性など存在しない。何故ならこれらの全てが適宜、特有の存在拘束性を持つからであり、どれが信用できてどれが疑わしいかは一意的には判別できず、あくまでケースバイケースなのである。)
(※注2 例えば寺内正毅の如き人物が典型的である。彼は陸軍大学校教頭の井口省吾に「教科書を作れ。」
と迫った際に、逆に「教科書などを作ってしまえば以降はこれが権威付けされ、これに準拠し、これを踏襲するだけになる。
(つづく)
51市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:39:57 ID:???
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教官も学生も懸命に戦術を研究しなくなる。これをどうしてもやれと言うならば辞めさせてもらう。」旨の啖呵を切られてしまった。)

さて公教育においては、「他者(教師)から習う」という演繹的思考様式形態をとるのが当然であるために(※注1)、学生は自分自身の頭を使ってモノを考えたり気づく(帰納的思考様式)のではなく、
他者が考え出した成果物(知識/問題点設定/方法論など。)を記憶/利用/応用するという受動・事務的な頭の使い方ばかりを、徹底訓練されてしまいがちなのであり(※注2)、これでは元々認知能力に秀でている者さえもこうした演繹的思考様式にスポイルされ、
帰納的思考能力/主体的認知体系等の練磨に関しては無教育の者よりも遥かに不利になる。
(※注1 後の回で詳説することになるが人類史的には、支配者としての存在拘束性を持つ指導者・特権者階層が伝統的に公教育に対して認容してきた知の形態は、イデオロギー的知性(演繹的思考知)であり、
現実/生活に密着/整合するものとしての経験・実証主義的知性(帰納的思考知)は、卑賤な知性として蔑まれてきたという歴然とした史実がある。
例えば近代以前の西洋公教育であれば、ホメロスの叙事詩/聖書/ダンテなどといったものにまつわる薀蓄(うんちく)などを生徒に一方的に継承させるが如きものとなる。)
(※注2 例えば1903年に読売新聞に連載された「東西両京の大学」においては、「我が東京大学の如きは(中略)、いたずらに講義を増設し授業時間を倍化して、学生をして常に筆記の暗誦に寧日なからしむるが如き、(中略)常に試験に次ぐ試験をもってし、
学生をしてその実力を養うを努めずして(中略)徹頭徹尾、小学校流の方法をもって教育せんと欲す。彼らは実に全ての学生を同模型に入れて陶冶せんとするものなり。」と痛烈に批判されたし、
また東大経済学部の生みの親であるヴェンティヒが1910年に文部大臣に提出した「東大における経済学教授法改良意見」においては、東大では講師が教壇から講義ノートを読み上げ、
それを学生に一字一句違わずに正確無比に書き取らせ、その上で試験とは指定教科書と講義ノートを丸暗記して、それを答案用紙にそのまま書き写すことであり、
自分の頭で考えざるを得ない問題に独自の解答を提示できる学生は5%などという指摘が為されている。)
(つづく)
52市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:40:36 ID:???
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こうした我が国の教育慣行は、そもそも古代においては学問の習得法が中国の仏典/諸学、近世においては蘭学(主として医学)の原書の翻訳者(教師)が読誦し、
学生がそれをひたすら逐一筆記するなどという習得法を伝統的に継承してきたことに由来するのである。
その上でこの時期の時代的存在拘束性は、徳川体制という、言わば「“硬直性”をもって本懐とするような体制」が260余年も続いた直後であるわけだ。
例えば「奥医師」という将軍付きの医師団は、「医心方」という平安期の古典的医学書を今だに参照し、本音において己の身分と体面のみを気遣い暮らしていたという按配であった。

さてそして更に追い打ちをかけるようにして、三木清「学生の知能低下について」(1937 「文藝春秋」)によると、満州事変後の学生を「事変後の学生」と呼びならわすようになったと述べた上で、その特徴とは「ほとんど何らの社会的関心も持たずに唯、
学校を卒業しさえすれば良いというような気持ちで大学に入ってくる」ことであり、彼らは学校の過程以外には「キング」(当時、最大の大衆娯楽雑誌)程度のものしか読まない「キング学生」であるとしている。
しからば事変後に何故、このような傾向を持つ高等学校生が増加したのか?それは、事変後に教育政策が変わり、学生の社会批判を禁じたからであるとする。
すなわち「社会の内に矛盾を見出し、現実に対して批判的になることから(中略)知的努力も生じる。批判力は知能の最も重要な要素である。
批判力を養成することなしに知能の発達を期することはできぬ」のに、それが「学校の教育方針そのものにより圧殺されている」からであるとする。
更に三木は、事変後の学生はむしろ成績そのものにはより神経質になっていて、高等文官試験に受かることのみを唯一の目的とする大学生が増えていているとし、
しかしてこのようなタイプの勉学は何ら批判というものを伴わないから、これによって知能が向上するとは考えられないともしている。
(つづく)
53市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:41:23 ID:???
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すなわちこうした一般的な教育方法(※注1)は、自分で問題を設定したり解決したりする主体的認知体系の成長を著しく阻害するように作用する(※注2)。
その上で前回述べたように主体的認知体系を支えるメタ認知系諸能力とは、人生早期に小脳に書き込まれた上で以降は生涯書き換え不能となるアルゴリズム系記憶に基づくものだから、
例えば児童・少年期に”英才教育”なる詰め込み教育を施されたせいで演繹的思考様式のための思考アルゴリズムしか脳神経に書き込めなかった「東大にまで行くような秀才/優等生」の大半は、実は無知の知を知らない
”極めて悪いアタマ”であるところの『脳奇形/脳カタワ(※注3)』に、わざわざ仕立て上げられてしまった者たちである。
そしてむしろ机に向かう勉強が嫌いな低学歴者の側に、私生活上での諸問題を通じて主体・独自的にモノを考えるという帰納的思考能力を鍛錬する契機を得やすいために、かえって真に利口・頭が良い者がより多く生き残りやすい(※注4)。
(※注1 一般的でない教育方法の例としては、日本の職人の徒弟式教育法がある。このような教育の現場においては、おうおうにして親方は弟子に直接モノを
教えようとはしない。まずは雑用を任せて徹底的にコキ使うのであり、有能な弟子はその過程で、親方の仕事を盗み見て仕事のカンを修得していくのである。
こうした教育法のメリットとは、強度の主体的達成意欲/自己批判的観念等の主体性を要することに起因するところの、問題を自ら設定し解決できるメタ認知系諸能力の練磨が自ずと為されることである。)
(※注2 オレ自身について述べておくならば、オレは中学生の頃、自分なりの視点から次々に見出した授業・教科内容に対する疑問点を、授業後に教師に個別質問しに行かなかった日は、多分ほとんどなかったはずだ。
(もちろんこんな生徒は全校でオレ一人しか居ないわけだが)ともかく毎日々々、少なくとも一~二回以上は授業後に職員室にまで押しかけて教師に自分が独自に見出した疑問点を質問しまくったものである。
すなわち与えられたモノを機械的に黙々と取り込むのではなく、唯々泉の如く溢れ出る知的欲求を充たすための勉学を為しまくったのである。)
(つづく)
54市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:42:01 ID:???
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(※注3 例えば与えられたテーマに対して嗜癖的な執着心を持ち、こうしたものに対しては圧倒的な調査・研究能力を発揮するも、主体的意欲・努力を要するところの一般教育的教養/帰納的思考能力が極めて低く、簡単に騙されるなど。)
(※注4 これの典型例は松下幸之助。尋常小学校中退であり、書物などから知識を得ることは不得手だったようで、当時、社会的影響力が大きかったラジオの宗教番組等から専らアイディアを得て素朴に処世観念を形成したらしい。
しかし演繹的知性は素朴ではあっても、素朴な認識を強力に実践できる類稀な行動力こそ彼の最大の武器であったことは疑いようがない。
ちなみに彼は学歴がある者に対しても小僧・丁稚生活等から得るような経験・実証主義知/帰納的思考能力を磨かせることを重視した、生粋の「反エリート・優等生主義者」である。)

というわけでここに「尊大な善人問題」という、新たな看過できない問題が持ち上がることとなった。彼らは以上のような思い込み/偏向性を持つために、ミクロ・短期的には有能である場合があってもマクロ・長期的には人類の進歩/発展を確実に阻害する(※注1)。
何故なら上述のように彼らはこの世に日常的に山のように生まれてくる"世界初"とか"前人未到"に類する創案の芽、あるいは前例/手本とは異なる気づき/才能等をことごとく珍奇/奇矯なものとして見下し嫌悪する傾向を持つからである。
すなわち己の演繹的知性を超える知性の在り方(すなわち己の尊大かつ欺瞞的自尊心を否定し傷つけるようなもの)を、
そのどこからどう見ても"善人/良識人"にしか見えない外観のみからは凡そ想像だにできない”悪魔”的本性をもってして、やんわりと踏みにじり静かに黙殺/排除しようとするのである(※注2)。
(つづく)
55市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:42:41 ID:???
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(※注1 彼らは「大枠」の方向性が定まった後の「中・小枠」レベルに求められるような型にはまった演繹(事務)的思考において有能だが、
例えば創生・成熟・闘争・転換期等に求められる帰納的思考能力において悶絶/卒倒しかねないほどの無能、あるいは勘違いぶりを発揮する。)
(※注2 平塚らいてう(雷鳥)「とざしある窓にて」(1913)は次のように述べる。
「新しきものの発展に有害なるは、過酷に見ゆる権力者と無智なる民衆にあらずして、むしろ温和な分別顔の識者ではあるまいか。識者は徹底と端的とを恐れている。
彼らは事物を根本的に考察しようとしない。(中略)是を是とし、非を非とし、善を善とし、悪を悪とする正当な、合理的な根本的の価値の批評、判断を下そうとは最初から努めもしない。」)

そもそも公教育が教える「汎用知」とは、本来、あらゆる常識から一定の距離を保った上で常に時代の風潮/エートスに対するアンチ・テーゼを提示するという、
学術本来の進歩・発展的使命とは凡そかけ離れたところの、それ自体では周回遅れでカビの生えた、もしくはあくまで現時点までの到達点を示すものでしかない。
しかるにこれは法華経が示す「開三顕一/三乗の教え」の如くに本来、その受領者たち各人のその後の人生における経験・帰納的努力によってどんどん取捨選別/更新/改善/廃棄されてゆかなければならない”叩き台”のようなものである。
ところが尊大な善人は所詮は凡庸者の三属性を持つ者でしかないために、公教育的汎用知の修得とこれからの未来を生きなければならない自分たちに必要とされてくる自己開拓的な先端知の探求の違いが分からない。
すなわち公教育においては汎用知という"(過去の知性の)剥製/ミイラ"を尤もらしく見せがちであり、その上で彼らは受動的であることに慣らされ切っているがゆえに、教わらないことは必要がないことだと短絡的に思い込む。
すなわち主体的人生経験から何をかを汲み取ろうとする意志を持つことがなく、そもそも"気づく/懐疑する"ことの重要性が分からない。
彼らにとっての知性とは、あくまでも例えば「オマエ、"フランス革命"って知ってる?俺は知ってるヨ。/東大のナンタラ博士はこう言ってましたけどネ。」的なものでしかないのである。
(つづく)
56市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:45:11 ID:???
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こうしてその本質的部分において、思考停止した“歩くコピー機/文科省推薦図書”に仕立て上げられている尊大な善人は、たとえ当人なりには帰納的思考しているつもりだとしても
実際には釈迦の掌の上で暴れ回るだけの孫悟空の如くであり、せいぜいが既出の大物学者・学説への批判/別解釈とか精緻化を為すことしかしていない。

では彼らは日々の生活において、実際に如何なる知恵をもって暮らしているのか?それはエートス/常識/マナー/習慣等であり、その人生には帰納的思考がもたらす進歩・発展性が入り込む余地がないから、真の意味での問題解決とかドラマがない。
とどのつまり彼らが持つところの実質的生命力は、"事務作業員"としてのソツのなさ/演繹的知性をフル活用した、もっともらしいレトリック能力に由来する連帯・同調性と、(無意識レベルでは己の”支配的観念の異常さ”に気づいているために、
往々にして自己防衛のために顕現させる)集団的専制性などのみであり、一方で非予定調和的な問題と如何に関わるべきかを金輪際知らないから、口先だけでモノを解ったり、善良なフリをしていても、
現場の第一線の者や巷の苦労人からは胡散臭い目で見られまくることとなり、結果的に彼らは心の内だけでの自己肯定観(※注)ばかりを強めていくしかないという“ジキルとハイド”的二律性にハマってゆく。
(※注 魯迅「阿Q正伝」の主人公のように。)

そしてこのような生き方が行き着く先は、老境に入った頃に重篤化する脳器質変成(細胞死/萎縮など。)、すなわちボケ/認知症/行動障害の類である。
すなわち主体的達成意欲/自己批判的観念が脆弱であるために自己変革・改善行動を適宜為せない人生は、年齢を重ねるほどに事物への対処不能がもたらすストレスが漸次、静かに亢進し、これが前述のキチガイ・鬼畜性を否応なしに顕現させる。
ところが良識人ぶることに自尊心を見出す尊大な善人は、込み上げてくるキチガイ・鬼畜性を力尽くで押さえ込もうとする無理がたたり、彼らの脳神経に甚大なストレス/損傷を蓄積させるのである(※注)。
例えば大量の尊大な善人を擁して一等国となった我が国には、現在、数百万人のボケ/認知症/歩行困難などの日常生活障害者が居ると思われる。
(つづく)
57市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:45:58 ID:???
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(※注 一般的に動物は、かなりのストレスを一時的に被ったとしても、それを回避する手立てを自力で講ずることができる限りにおいては心理的ストレスはさほど亢進しない。
ところがストレス源への適切な対処が自力では不能な場合、例えば胃潰瘍・穿孔にまで至ったり、脳神経・脳生理機能自体に甚大な損傷を被ったりすることとなる。)

というわけでトップクラスの尊大な善人、例えばTVでシタリ顔の大学教授、あるいは典型的NHK/”文科省推薦図書”系、はたまた大江健三郎/瀬戸内寂聴などといった
毒にも薬にもならないような文化人の雰囲気に典型的に表れているところの、どこまでも慇懃(いんぎん)/謙虚な語り口と振る舞い、ソツのない公教育に由来する教養/好感を持てる建前的人柄、
そしてそのような外観を形成するための気苦労の反動としての内面の不遜きわまりない尊大さを持つ人々は、(経験・実証主義的な認識を持つことでしか分からない)身の回りの人々とか社会システムの即妙な智慧に謙ることなどは絶えてないから、
"発見する/開発する資質/才能"が巷にいくらでも在って、それらの集積こそが人間界に真の進歩/発展をもたらしてきたことを理解できない。

すなわち世人が「知性と自意識が現代人の苦悩の源泉」などと言う時、往々にしてこの手の「良識人・善人風の外観の裏に潜む、“(中途半端な教育を受けたことに所以するところの、
中途半端な自負心がもたらす)煮ても焼いても食えない尊大さ(※注1)” vs. 一事に極めて秀でていたとしても客観性から遠く隔たった狭隘な主観/教養/世界観がもたらす、“頑迷/意固地なゲリラ性”」に因る
衝突/相互不信等が撒き散らす混迷/閉塞を想起して言っているのであり、「主知主義vs. 反主知主義」(※注2)のいわれもまたここに在る。
(※注1 例えばゴーゴリの前掲書における中間層的地位を持つお歴々の人物描写の中などに(帝政ロシアを舞台にした物語なので、外観的には上記の産業人的な人々ではないにしても本質的には)、
こうした良識人/善人ぶったカモフラージュをもってする尊大な善人的在り方の典型が見いだせる。)
(つづく)
58市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:46:38 ID:???
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(※注2 主知主義者の典型例としては芥川龍之介が挙げられよう。彼は例えば菊池寛「芥川の事ども」(1927 「文藝春秋」)/松本清張「芥川龍之介の死」(1965 「週刊 文春」)といった資料などから、
(両親が共に発狂しており、自身も頻繁に幻覚を見る精神的虚弱体質であるために)学校の勉強とか書物から得た(芥川自身が”人工の翼”と呼ぶところの)教養を偏重し、その帰結としての純粋/初心(うぶ)な倫理・正義感しか持たず、
人生の実経験を通じた処世術系の知(各人なりに世俗を大過なく世渡るための経験・実証主義知)の重要・必要性をイマイチ認識できない、言わば”元祖オタク”のような人であったことが窺い知れる。
そしてこのような主知主義者の対極に位置するところの、どこをどう切っても”俗、俗、俗、また俗”しか出てこないような反主知主義者の典型例は、田中角栄(立花隆「田中角栄研究」(1976)などの資料が著名)である。)
(「凡庸者」 おわり)
(第九回 おわり)
59市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/12/21(木)11:51:29 ID:???
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「市民層  概論」 第十回

「凡庸者 vs. 優秀者 凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」

ところで“尊大な善人の大量生産”と言っても、何処かの個人/集団がこのような生産・管理を大掛かりに為す意図を持っているというわけでなく、
実はこのようなことは人類の集合意識の力によって極めて自然な成り行きで遂行されている(※注)。その辺の認識については論者によって様々だが、オレ的には以下のようなサブモデルを提示したい。
(※注 とりわけ近代産業社会の確立以降は、マルクスの言説通り、人々はすべからく"疎外(第七回 参照)"されているから、最早、特定者・集団の意図を全社会的に計画的に体現することは、(ファシズム体制以外では)不可能である。)

人類集団には、幼少期に獲得した観念/習慣から成る「認知世界」が決定づける己の初期存在拘束性を絶対に変えられず、
漸次その振る舞いにおいては自堕落・追従・放縦的傾向を増し、どんなに追い詰められても紋切り型の行動(演繹的思考的行動)しかできず、時を経るほどに人生そのものが閉塞していく者と、
まずはメタ認知系諸能力の中でも強い主体的達成意欲/自己批判的観念という、言わば『人格的諸能力』とでも分類すべき能力を基としてその他のメタ認知系諸能力を開発し続け、自ら設定した生き方/
人生における夢や理想等の追求のために、最終的に高度な帰納的思考能力を獲得して、あらゆる事物/事象を己独自の認知様式(主体的認知体系)を用いて合理的に認識し、
己の存在拘束性を適宜、かつ主体・個性的に操作/管理することで現状打破に成功できるタイプの者とがいる。
数の上では前者が圧倒的であり、もちろん凡庸者がこれであることは言うまでもない。そして後者が「優秀者」だというわけだが、凡庸者の人数に比べるならば、優秀者のそれは圧倒的に少ない。

そこでオレたちは、まずはこの歴然とした両者の人数差が意味しているものを見出すべきである。ちなみに
(つづく)
60市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/12/21(木)11:52:34 ID:???
2 of 9 (つづき)

『「プロト優秀者(優秀者になるための所与的要件を満たした状態に在る者)」とは、例えば過去における何らかの挑戦の失敗、己の養育者や世間一般が”正しい”とする事を為すことがもたらす理不尽/不幸、孤独や貧困等から生じる苦境、
満たされた境遇/虚栄から生じる倦怠/不全感、日常性への疑問や問題意識、親などの養育者の無関心や劣悪性(いわゆる“毒親”問題)、何らかの契機による世界観の崩壊、社会や人間全般に対しての懐疑を抱かざるを得ない状況等の経験を経ることによって、
自明的に提示された事物を単純かつ無謬的に信憑することに対する根源的懐疑を抱き、ヘーゲルの弁証法的な意識の展開過程(正→反→合)の「反(メタ認知/己の素朴な認識を懐疑できる)」段階に達した者のことである。

その上で彼の内心においては元々健全に発達していた主体的達成意欲/自己批判的観念/メタ認知能力等に所以して、己の生き方、あるいは社会についての強い目的・理想像が形成され始め、更に開発され続けてきた帰納的思考能力ゆえに、
己の"人生の質"を高める(己の存在拘束性を操作/管理する)ための“自分自身/他者/社会に対する本気かつ大きな戦い”の必要性を認識するに至る。』(『観念運動の自然法 第三定理の2(プロト優秀者定理)』)

そうこうするうちにプロト優秀者の一部は『本音/建前の使い分け』を為すようになる。というのも社会そのものに対する闘争・対抗観念の類を不特定多数者が看取できるようなカタチで、あからさまに表示/提示することは、社会生活上、
自殺的行為であることを経験・実証主義的な帰納的思考により悟るからであり(※注)、順調に成長していくプロト優秀者は、様々な失敗経験を経た後、「本音/建前を適宜、使い分ける者」になる。
すなわち大半の者(凡庸者)は、公教育/世間の常識/メディア等の言説といった建前/イデオロギーを本気で真理のつもりで信じ込んでいるから、まずはプロト優秀者は、彼らから異常者扱いされないためにも建前/本音、あるいはイデオロギー/
経験・実証主義知を、状況に応じて使い分けることを自ら学んでいかざるを得ないわけである。
(※注 例えば立花隆「天皇と東大」(2004/2005)によると、明治初期に我が国の歴史学に経験・実証主義的な考証概念を初めて導入した重野安繹/久米邦武は、
(つづく)
61市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/12/21(木)11:53:12 ID:???
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旧来的通説・権威主義に次々に容赦ない批判を浴びせまくったことで学界から激しい怒り/怨みを買い、東大を追われる羽目となり、以後、彼らが為したような科学的考証を伴う歴史学を我が国で復活させるには、第二次大戦後を待たなければならなかった。
また戦前の大きな学問人弾圧事件の犠牲者の一人である滝川幸辰は、実は”歯に着せるべき衣を持たない人物”と評されるほど事物に対する思慮が足りない人物であり、
例えば大学の刑法の講義の中で、天皇を「天皇君」呼ばわりした上で法規の解説のための犯罪者に見立てるなどといった調子であった。)

ちなみにプロト優秀者が、この本音/建前の使い分けを知る者になるにしても、その到達年齢はケース・バイ・ケースで異なり、生き方によっては中年・老年期に入ってから、ようやくこれができるようになることも有り得る。
では社会生活の必要上の本音/建前の使い分けをマスターしたプロト優秀者がどのようにして、更に優秀者に成っていくのかを更に提示する。

『本音/建前の使い分けをマスターしたプロト優秀者は、優れたメタ認知系諸能力により、更に主体的認知体系を練磨し続けていくならば、次は主体的行動・認知傾向、すなわち「主体性(※注1)」を強めざるを得なくなる。
主体性を伴った生活に入ることによって、
並行的に「個性(※注2)」という己の天与の資質を認知的に発見し、これをはっきりと活性化するような生き方を為すための契機にも気づきやすくなる(※注3)。
主体性/個性を伴う処世は、経験・実証主義的な思惟・思弁能力を益々涵養し、認知可能なあらゆる情報(全ての経験/伝聞/記録など。)を受動的な演繹的思考様式ではなく、能動的な帰納的思考様式により体系化していく。

こうして形成された当該人物に固有の主体的認知体系を経て、プロト優秀者の自意識は、ヘーゲルの観念の弁証法的運動における「合」段階にまで達することが可能となるのであり、プロト優秀者は、世間のエートスや周囲の人々の
支配的観念などとは全く無縁であるところの、事物/事象に対する確固とした合理的認識である『合理主義的因果・方法論(※注4)』を自意識内に持つ「合」状態において「優秀者」と成るのである。』(『観念運動の自然法 第三定理の3(優秀者定理)』)
(つづく)
62市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/12/21(木)11:54:07 ID:???
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(※注1 プロト優秀者は行き過ぎることのない適度な自他の分離観念(※注5)を保持することで、孤独感/厭世観等からAC(アダルトチルドレン・・慢性的な情愛飢餓感のために、落ち着いた情緒性や自然なマインド・セットを持てずに
普通の人間関係を構築できない者。)的属性/神経症/精神異常などに苛まれることを免れることができれば、主体性をどんどん強化していけるのであり、
このように気が変にならずに確固とした主体性を獲得することが、プロト優秀者が優秀者に成るための最大の難関だと言える。
ちなみに事物の非合理性に気づいたり、合理的に認知すること自体は、ある程度以上の知能があればさほど困難なことではない。しかして真の関門とは、自分が正しいと判断した思考結果を、
気持ちが揺らがずに堅持し続けることなのである。これができないと、人は『適宜・経済性(※注6)』に適う判断・行動ができない。

尚、プロト優秀者の大半は(所詮は凡庸者に三本毛が生えたような段階でしかないので、演繹的思考様式の大枠を越えられず)、文学者の例を挙げるなら芥川龍之介/太宰治/林芙美子などのように、
自分の自然な、もしくは合理的な感じ方と世間のエートスとの折り合いをつけるための処世術を見いだせず、苦悶/苦悩の果てに訳が分からなくなって、せいぜいそんな閉塞状況を作品にぶつけて気を紛らわすくらいが関の山で朽ちていくわけである。
あるいはまた三島由紀夫のような、完全に「東大を動物園にしろ!」的にオチャラケつつ(要するに、これまた事態にマトモに対応しうる帰納的思考能力を自主開発できないのでオチャラケでも見せるしかない。)、
派手に特攻的パフォーマンスをぶち上げて有終の美を飾るなんていう、如何にも戦中・戦後ミックス派のパフォーマンス至上主義型人間的な変則パターンもあった。)
(※注2  人間脳は小脳のROM的記憶と高い整合性を持つ短期記憶を優先的に長期記憶に転換するという記憶システムの生理的ルールを持つために、
良く主体的に思考/行動するほどに、独自性、すなわち個性を練磨することとなり、個性的生き方に目覚めるための契機をモノにしやすくなる。)
(つづく)
63市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/12/21(木)11:54:46 ID:???
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(※注3 とどのつまり人生における目的/理想を持つ者にとっては、天与の資質(個性)を開花させることのみが、己を目的/理想に向かって安定的に成長させるための現実的な処世法なのである。)
(※注4 これは当論においては極めて重要な意味を持ち、本質的には事象を客観視できる能力(メタ認知能力)に由来する。
人が心の健康/健全性を保ち続けるためには、常にアンテナを張り巡らせて己が遭遇する事象に鋭く、かつ頭を冷やして反応(思考/評価)する必要があるのだが、
これができるためには、この基礎論理(合理主義的因果・方法論)を予め自意識内に持っていて、ついつい演繹的思考に陥ってしまいがちになることを着実に回避できる必要がある。)
(※注5 プロト優秀者であれば、人はそれぞれ固有の小宇宙の中に生きるしかないものであるという自他の分離観念を持っている。
例えばジイドは前掲書で、「死者の国から帰ってきた男のように僕は他人と一緒に居ても、いつも異邦人だったからだ。
最初のうちは、ただもう深刻に煩悶ばかりしていた。でもじきにこれまで知らなかった新しい感情が生まれてきた。(中略)これが己の真価を意識した最初だった。僕を他人から引き離し区別するものこそ肝心なのだ。僕以外の者の語っていない、
また語ることのできないことこそ僕の語るべきことなのだ。」と、自他の分離観念に目覚めることの意識の様相を語っている。
人間は皆、自分の脳が形成する“自分の認識世界という小宇宙”の主だから、この世には人の数だけの小宇宙が存在することになる。
ところが例えば凡庸者であれば、基本的には「自分の小宇宙 = 全世界」という単純素朴性(もしくは自己中心性と言っても良い。)しかもてず、例えば五人家族の世帯であれば、五人の心には五つのそれぞれ独立した小宇宙が在り、
それら絶対に融合/統合されることが不可能な“個(小宇宙)”が、互いに他の個と交通しつつ共存共栄しようと目論み、時には自分を殺して相手を立てたりするといった配慮をしなければならないことを理解できない。
例えば自分が楽しいと感じることは他者も楽しいはずであり、あるいは自分が不愉快なものは他者も不愉快であると思い込む、それ以外の状況を認められない。)
(つづく)
64市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/12/21(木)11:55:21 ID:???
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(※注6 例えば人は時と場合などに応じて、事物/事象をマクロで見るか、ミクロで見るかという視点の選択をしたり、あるいは気宇壮大に大勝負を仕掛けるか、手堅く小さな利益を求めるかなどの判断を為す必要があり、
適宜・経済性とは、このような判断/行動の際に求められる適切・妥当・合理性のことである。)

ちなみに個性とは、見方を変えれば「多様性」を減衰させるものである。何故なら人は個性的であるほど、いくつかの事物に対する興味/関心/意欲、すなわち多様性を失っていくからだ。
だが一方でその代償として、個性は失った多様性を遥かに凌ぐ大きな「自己保存能力」を当該者にもたらすのであり、この本質とは「一貫性」である。

一貫性とは、進歩の自然法の第一定理(長期的な集合知/帰納的思考様式/弁証法的運動による進歩/発展)が成立するための前提的要件であり、
生物界の各個体、もしくは人間界総体は(個性がもたらすところの)一貫性という属性を持っているからこそ進化できる(※注)。
尚、一貫性は、凡庸者的な頭の悪さがもたらす"一本調子"などとは、厳に区別されなければならない。
そのようなものの中には単純性に基づく極端さ/意固地に基づく頑迷さは在っても、合目的・合理性がもたらすような強靭さと柔軟さ/七転び八起き的な不屈さがもたらす無駄なく生きる効率性はない。
(※注 例えば鳥類は、祖先である恐竜が持った「気嚢システム」という身体的個性を一貫して持ち続け、「飛ぶ」というタフな有酸素運動に対応した。
更にダチョウは地上生活において、またペンギンは水中生活においてこの個性を活かし、特殊な生活様態に適応した動物として進化した。
このように個性というものが持つ本質的属性であるところの「一貫性」が、(一定の洗練/可能性の追求としての)集合知/帰納的思考様式/弁証法的運動を展開させるための前提的要件となる。)

では以上をもって当論の現時点における凡庸者/優秀者それぞれの、とりあえずの包括的属性を認識できたところで、(先ほど提示したところの)人類集団の圧倒的多数派が凡庸者であることの理由の考察に戻ろう。
(つづく)
65市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/12/21(木)11:56:04 ID:???
7 of 9 (つづき)

人間が生存するためには、自然界における各人の非力さを補うための社会生活を営む必要があり、その単位要素は家族を始めとした少人数グループとなる。
ところがこうした少人数グループの場において最重要視されることとは、往々にして「真理・合理性」などよりもまずは各成員間の「連帯/相互扶助」なのである。
というのも真理・合理性に関わる問題への対応は広く社会の万機公論に委ねることができる場合が多いのに対し、成員間の連帯/相互扶助に関する問題は、とにもかくにも自分たちが主体的に当事者として為さざるを得ないからである。
そしてその際に一意的にポイントとなることは、まずは各人同士の「安定的な信頼関係・円滑なコミュニケーション環境」の構築である。

さてもし、ある小グループの構成員Aが、単純に小脳的ROMに則り習慣及び個人的性癖に従って行動せずに、その都度いちいち問題を俯瞰したり懐疑しつつ思惟/熟考した上で行動するような、
すなわち己の存在拘束性の自己管理に適した人格・能力個性を持つならば、何が起こるであろうか?
それは、他の者はAとのコミュニケーションに際して、常に高度な思考を伴う判断とか逡巡を強いられることになり、人々の感情が落ち着かないということである。
つまり”いちいち考える人”であるために決まりきった思考・行動パターンを持たないAは、何をしでかすのやら、他者には容易に予測できないために周囲の者を常態的に緊張させる。

そしてもし構成員Bが、常に習慣及び個人的性癖に没入して、己の存在拘束性の自己管理などとは無縁の行動を為している場合、他者はBに対しては、より少ない思考や心労でコミュニケーションできることから気持ちの落ち着き/生活の小康を保てるのであり、
これすなわち上述の安定的な信頼関係・円滑なコミュニケーション環境の構築に直結する。
すなわち「真理・合理性」などよりもまずは各成員間の「連帯/相互扶助」こそが第一義的に重視される必要がある小人数グループ内においては、グループ内の大半の者が、
習慣/性癖のみに依り思考をしない凡庸者であるBのみと共働したり、Bに対してより大きな親近感を持つようになる。
(つづく)
66市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/12/21(木)11:56:43 ID:???
8 of 9 (つづき)

そして以上の因果は優秀者であるAにとって致命的な不利益をもたらす。すなわちAの異性者は、Aとの共生を通常の習慣生活を前提とした一意的な方法によるのみでは管理しきれないことに気づくやいなや、普通は苦労が多い人生が予測されるところの
Aとの関わりを動物本能的に避けることになり、この結果、Aは己の子孫を残しづらくなるからである。
こうしてAは、集団化したB型の者たち、すなわち凡庸者のグループから排除される可能性が高くなるのである。ちなみにこの傾向は、人間が当面の間
とりあえず生存するという背に腹は変えられない切羽詰まった目的のためには、合理性を持つがゆえに、一般的に回避できないことである。

もちろんA型人間である優秀者は人格的諸能力において優れているから、グループから排除されない様に様々な状況で困難を克服してみせたり、利便性を向上させるための方策を案出し、皆の役に立とうとする。
ゆえにその“重宝さ”によってグループの他の凡庸者からは一意的には疎まれないのだが、皆が困っている時以外の平時は、
その己自身をも対象・相対化することを辞さないメタ認知系諸能力/群れることを知らない堅牢な主体性/個性等が、今や多数派となった凡庸者たちの生き方とは相容れない。
その上で凡庸者は、自他分離観念が不全であるから多様な個性の共存に耐えられず、主体的認知体系が単純であることがもたらす長期的不利益・非合理性を、集団パワーをもってして理屈抜きで無効化しようとする専制性を自然的に持つようになっていくために、
当該グループはほんのわずかに生き残る優秀者を除けば、相対的に相互に御しやすく、かつ連帯しやすい凡庸者が圧倒的多数派になる。
そしてこの段階でわずかに生き残った優秀者は、人間関係を、あるいはグループの人々が生きるための処世観念等を意図的に操作/管理することでしか、最早、効率的に自己保存することは不可能であることに気づいていく。このように

『人間は社会性動物であるがゆえに自己保存の為に普通は集団化するわけだが、生物の行動をもたらしている本源たる自己保存本能が、
単位集団内においてはまずは、「連帯/相互扶助」を当事者たちの切迫した意識を伴って当然の如くに集団内の多数者に優先視させる。
しかしてこの選択においては、集団内のエートスは凡庸者に適したものとなり、「真理・合理性を一般的行為属性において担保できない集団/社会は、
(つづく)
67市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/12/21(木)11:57:25 ID:???
9 of 9 (つづき)

最終的には存続できなくなる。」という当然の理が、集団の多数者が凡庸者となるがゆえに訴求力を持たない。
このゆえに当分の期間は、個人間の安定的な信頼関係/円滑なコミュニケーションを保つことに特化したような凡庸者同士が優秀者を駆逐しやすい傾向を持ち続けることとなる。

そしてこの傾向は、なし崩し的に社会全体の大きな傾向とも成っていかざるを得ない。
何故ならほぼ全ての人間は必ず何らかの自己保存のための単位集団に属するという基盤上で、社会的な活動を為し続けるからである。』(『観念運動の自然法の第四定理(「凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」)』)

ちなみに、この「凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」とは、当論的には決定的に重要な認識であり、実はこの程度ではまだ全然足りず、読者は更なる「観念運動の自然法」の提示によって、その人類史的レベルでの作用様態を知らなければならないのである。

ともかくこれで判然としたことは優秀者とは(前述の)その発生機序からも分かるように、凡庸者がもたらす社会環境の劣悪性に所以して特殊的に真理・合理性追求のための努力を為した者なのであり、
そもそもデフォールトでは人間は全て凡庸者にしか成らないということ。
すなわち真理・合理性の追求傾向を全うする者とは、人間としては「特殊な運と契機をモノにした者」であり、ゆえに上述の自然法的機序によって人数的には優秀者集団は親集団であるところの凡庸者集団には勝てない。
しかしてこうして少数派であるがゆえに、優秀者は強度の主体性を持たざるを得なくなることで、人間界そのものをメタ認知し、人々の生活や思想を操作/管理することを通じて己を生かすという行動習慣を、極く自然に修得していく。
すなわち“尊大な善人の大量生産”的なことを指導者・特権者階層に働きかけて為さしめる際にも、この優秀者的属性が優秀者を含むグループ内の集合意識的力動(例えばフーコー的な下から上る権力など。)
を形成させて、極めて無主的な様相/成り行き(※注)で遂行しうるようにさせるわけである。
(※注 凡庸者側から観ると、誰かに操作/管理されているという認識/実感を持てずに、優秀者の意思が実質的に体現している。)
(「凡庸者vs.優秀者 凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」 おわり)
(第十回 おわり)
68市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/12/21(木)13:18:05 ID:???
>>67

訂正

(前述の)その発生機序からも分かるように

         ↓

(前述の)観念運動の自然法 第三定理の2-3からも分かるように
69市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/12/21(木)18:05:16 ID:???
>>65 訂正

習慣/性癖のみに依り思考をしない凡庸者であるB

          ↓

習慣/性癖のみに依り思考をする凡庸者であるB
70市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:11:24 ID:???
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「市民層  概論」 第十一回

「感情系習慣的自動思考様式」

さて前回までに凡庸者/優秀者の、とりあえずの包括的属性を提示し終えたわけだが、今回(第十一回)から次々回(第十三回)までにおいては、人間脳のデフォールト状態としての凡庸者の認知(思考)活動の一般的機序、
並びに当該機序が如何に進歩/発展することで優秀者のそれとして確立しえるのかについて論じ、更にそれのみでなく、関連ある付随的論説も適宜、為していく。
ちなみにこうした社会科学的認知システム論の必要性について一言申し添えておくならば、自然科学からのアプローチのみならず、「個々人の認知過程の一体如何なる意味的要素・構造・機序等において、頭の悪さ/良さの本質的差異を見い出し得るのか?」という、
経験論的因果論の視点からのそれなりの意味解明が為されているのでなければ(例えば前回までに提示した「凡庸者/優秀者に係る分別概念」などが認知されているのでなければ)、社会生活の場/社会政策立案の契機等における実地の展開の段において、
とてつもない錯誤/思い込み等に拠る方向違いや危険性が生じえるからだ。(我々は既に教育政策等の立案/実践の場における“非合理(直観)的確信に基づいた失敗”を、これまでに嫌というほど見せつけられてきた。)

さて前回の最後に「凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」を提示した。そして更にこのことは、漸次、形成されていくところの凡庸者中心社会におけるエートスが、(凡庸者的三属性の顕現により)自らの『存在拘束性の陥穽(かんせい)(※注)』に
“蟻地獄”的様相を伴いつつ嵌まり込んでいくしかないという不可抗的悪化亢進過程に入ることをも運命づけている。
(※注 存在拘束性に対するメタ認知的自意識がないために、これを注意深く自己管理するための契機がない。ゆえにあらゆる認知が存在拘束性がもたらすバイアスにより歯止めなく歪みまくるのであり、結果的には自らを甚だしく追い詰めるような状況を生む。)

パスカル「パンセ」(1670)の中に、人がこの存在拘束性の陥穽にはまり込んでいく機序を看破している名文があるので、少し長いが以下に引用する。
「自愛。(中略)この人間的な「自我」の本性は、自己のみを愛し、自己のみを考えるところにある。(中略)彼は自己の愛している対象が欠陥と悲惨に満ちているのをどうすることもできない。
(つづく)
71市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:12:31 ID:???
2 of 17 (つづき)

彼は偉大であろうとして、自己の卑小なのを見る。(中略)彼は人々の愛と尊敬の対象であろうとして、自己の欠陥が人々の嫌悪と侮蔑にしか値しないのを見る。
彼がぶつかるこの困惑は(中略)罪深い情念を彼の内に生じさせる。何故なら彼は、彼を責め彼の欠陥を自覚させるこの真理に対して徹底的な憎しみを抱くからである。
彼はこの真理を根絶したいと思うが、真理をそれ自身において破壊することができないので、せめて自分の意識や他人の意識の中で、できるだけそれを破壊する。
言い換えれば彼は自己の欠陥を、他人の目からも自己の目からも隠すことに心を砕く。人がそれを自分の前に指摘したり、それを他人に見られることに、彼は耐えられない。」(第二篇100)

また更には19世紀の文豪ドストエフスキーの主要作品はおしなべて、登場人物が独自の存在拘束性に由来する様々なイデオロギーを、実に自由闊達/好き勝手に創り出した上での行動の奇妙奇天烈な展開描写に、重心が置かれている。
すなわち彼は、如何なる社会体制であろうとも、人がはまり込む心の世界/身勝手な思考までは抑制できないのだ、そしてその陥穽を世の人々に伝えるということの面白さ/楽しさにとりつかれていたと言って良い。

凡庸者的存在拘束性の陥穽とは、「自己保存本能に支配されることを運命づけられている人間において、客観的事実・因果論を無視/黙殺させてまでして、自己中心・便宜優先的観念を形成させ、もって (事物の実態や己の能力とは無関係な)やる気/欲求を鼓舞さしめる傾向」
にはまることであり、当然ながら凡庸者においては、この手の”やる気/欲求”によって思考/判断の歪みが常に亢進していくために、当人的にはどんなに頑張っているつもりでも、当初に望んだ成功/達成からは程遠い結末しか引き出せない。

例えば戦後、完全な高度福祉・大衆中心社会となった日本社会において、こうした結末がとりわけ顕著である。
福武直「日本社会の構造」(1981)によると1979年に出版されたNHK世論調査所の発行資料においては「まず社会のことを考える」者は10%であるのに対し、「まずは自分の生活のことを考える」、具体的には家族の団欒を大切にする者は50%、
家族の団欒だけでなく、各人の自由な時間をも確保することが大切であると思う者が28%である。
さらに統計数理計算所が実施した
(つづく)
72市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:13:17 ID:???
3 of 17 (つづき)

「国民性調査」において、「その日その日を呑気に暮らす」ことを望む者は、1953年の32%から1978年の61%へと倍増したのに対し、「社会の不正義を憎み、どこまでも清く正しく生きる」ことを望む者は、29%から11%へと6割以上の激減となっている。

ちなみにこのような国民の自意識における歴然たる変化とは、観念運動の自然法の第四定理(凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向)が示すところの、
「単位集団内においてはまずは、連帯/相互扶助(※注1)を当事者たちの切迫した意識を伴って、当然の如くに集団内の多数者に優先視させ、真理・合理性(※注2)を一般的行為属性においてあまねく担保できない集団/社会は、
最終的には存続できなくなるという当然の理が、訴求力を持たない。」という自然法的機序が、人間営為の根幹に普遍的に作用し続けていることを知るならば、当然の変化であると納得できる。
ともかくこの国民意識の変化が、この数十年後にもたらした結末については、もう改めて提示する必要はないであろう。
(※注1 連帯/相互扶助に適う生活行動の帰結としての「集団的満足・充足感/個人的満足・充足感」が、まずは人々の当該行動への心理的報酬となるのであり、上記世論調査の結果とは、このことへの執着心の反映。)
(※注2 この文脈における真理・合理性を持つものとは、「人間社会の持続的健全性を保つためには人々が求める自利の分量と釣り合いがとれた「社会正義」的(他利)観念を保持しなければならない。」という認識。)

人間には、見田宗介「価値意識の理論」(1966)第二章第一節2が言うところの「内的強制による非選択性」という属性を持つ行為(※注)しか採れない者、すなわち具体的に言うなら、眼前の事物/習慣、あるいは気分/感情等に対して懐疑心を持つことを
“タブー”の如く忌避/恐怖し、何処かでそれらに対する歴然とした反証的結果が出たとしても、そんなことは「見なかった/聞かなかった/知らなかった」フリをして、まるでそれ(反証的結果)が無かったことのように振舞うしかない、
あるいはそれを受け止めざるを得なくなるが否や発狂せんばかりの大騒ぎになるしかないなど、思考・判断過程における合理的な意思選択能力が不全である者と、意思決定を合理性を基準としてある程度まで、
(つづく)
73市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:13:55 ID:???
4 of 17  (つづき)

感情的なものから理性的なものへ止揚できる、すなわち具体的には事象が持つ因果的属性を相対(メタ認知)化できるだけの前提的要件であるところの、相応の「人格」的能力を持ち、もって多様な意思の顕現の中から最も適宜・経済性に適ったものを選択できる者とがいる。

数の上では前者の圧倒的多数派であるところの“非選択的行為”しかできない者(演繹的思考者)が、人間のデフォールト状態としての凡庸者であり、後者の選択的行為もできる者(帰納的思考者)が優秀者である。
その上で観念論ではなくして、経験論としての自然科学的判然性を追求している科学論文においては、「内的強制」とか「非選択性」などという哲学的用語が、経験的事象において対応しているところのものにこそ注目する必要がある。

演繹的思考(ただひたすら固定観念化している認識のみを用いて、紋切り(非選択)型認知プロセスで処理される思考。)のための認知的アルゴリズムは、上述の如き“やる気/欲求”とか自我の防衛機制などの自己中心的心理力動を生産する感情(恐怖/不安/安心/親近感等)と、
決定的に連関して作動しており、「いつもと同じ(感情的)心地良さ/安定に至りたい。」という暗黙の目的性を持つ条件反射的(すなわち非選択的な)判断をもたらすのが普通である。

このような、その本源において動物と同様の「気分・感情と完全にリンクした上で、固定化された判断パターンのみに支配される習慣化した認知傾向」について、更に以下に詳説する。 

『演繹的思考様式とは、その事務的・紋切り型的な単純な認知構造のゆえに、例えば「安心/頼もしい/気遣われている/可愛い/カッコいい/可愛そう/慈悲/情けない/沽券に関わる/謙虚/良心的/不敬/粗野/堕落/良く頑張った/立派/真剣/不浄/破廉恥/
面倒/つまらない・・」などの気分・感情的認知要素に、認知の指向性が強く誘導され(※注)、必然的に心地良さを感じる固定感情に支配されざるを得ない思考様式である。』(『観念運動の自然法 第五定理(演繹的思考様式定理)』)
(※注 脳神経学的には小脳系と感情・意欲生成の中核装置である大脳辺縁系、及び習慣形成に多く関与する大脳基底核や大脳皮質の言語野/全頭連合野などの特定領域で構成される神経回路が演繹的思考様式の本体。
(つづく)
74市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:14:50 ID:???
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その上で認知心理学的には、これは経験/感情/パターン(思考アルゴリズム)から成る「三点記憶」を相互に関連付けて、一つの「認知-判断-行動セット」としてチャンク(固定回路)化していると推定できる。
こうして演繹的思考様式においては、システム上、あるチャンクと同じタイプに分類される事実認識が感覚受容器から入ると、自動的に当該チャンクが援用されて、常に同じ強制力をもってして同じ判断が決定される。これが判断上の紋切り型/癖/意固地さ/習慣等を生む。)

というわけで上掲自然法の定理と神経生理学上の知見を併せてみることで、演繹的思考様式とは、過去に形成された事象記憶を、小脳皮質の脳神経ネットワーク上に固定回路化した紋切り型思考アルゴリズムとリンクさせた上で、
「感情/情動の生成系」回路によって起動/誘導し、思考・判断を誘導するシステムであることが分かる。
例えば嫌いな人から逃避する/魅力的な異性に接近する等のような日常生活上のあらゆる紋切り(演繹)型判断は、このシステムによって即決させられているのである。

その上でこの演繹的思考様式という思考・判断システムに、人間意識が素直に服従するならば、このシステムは、人に「安心/安寧/高揚/満足/怒り/不満/絶望」などといった、
当該者の自意識内で“快”系と“不快”系に生来・本能的に分別されていて、快系なら是、不快系なら非と自動的に決定される気分・感情的回答を、即座に与えることをもってして報いるというわけだ。

こうして快・不快的是非に完全支配される演繹的思考者においては、例え如何なる高学歴者であろうと、幼児/児童でさえも認めざるを得ないような自明極まりない事実認識(例えば「ボクが◎◎したから●●ちゃんも◎◎し返した。」など。)でさえ、
往々にして(真実を認めることが生む不快感から)都合の悪いことは全て、見なかった/知らなかったフリなどをすることで、認識の埒(らち)外に置かれる(※注)。
(※注 これの有名な事例を挙げるならば滝川事件(第十回 参照)においては、美濃部達吉が鳩山一郎(文相)による滝川幸辰の追い落としに加担した理由とは、美濃部が滝川の論説(著作)に感情的に反感を持っていたこと、
(つづく)
75市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:15:35 ID:???
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更には美濃部だけに限らず他の大学人の大半においても(この騒動に対して)まるで闘争心が燃え上がらなかったことの理由が、滝川幸辰本人の人望の無さという、極めて”感情由来的なもの”のみであった。
そもそもこの事件の発端にしてからが、蓑田胸喜が京大講演会で赤恥をかかされたことの怨みを、当時、京大の講演部長であった滝川に向けたという、感情的極まりないものであり、事件全体が関係者各位の「感情一色」で彩られたものと言える。)

ところで「合理主義」とは、基本的には「客観性に対する相当の注意」を払った上で、被操作因子に対する論理的な分析、並びに適宜・経済的に妥当な程度の計算的操作を経て真理/真実にできるだけ近い認識に到達しようとする態度であると定義できる。
しかして凡庸者的存在拘束性の陥穽に陥った状況、例えば上記注釈事例のように、本来であれば軍国化に向けてひた走る体制側と学問人連合が対決すべきだった重要な契機を、つまらない感情に支配されて逸するが如き顛末においては、
感覚受容器からの一次認識を合理主義的たらしめることが、ほとんどできていないというわけである。
ところが演繹的思考者においてはこのような状況下においても尚、例えば以下に挙げるような要因/属性が影響力を持つことで、彼らの主観においてあたかも認知が合理主義的であるかのように感じるという倒錯が、生み出されている。

誰かの意見の中に、慣れ親しんだ論理/美辞麗句/賞賛/肯定的レトリックが使われている、また自分の意見との間に親和性がある、更には発言者の態度において、自信と落ち着きがある、あるいは和やかさ/謙虚さ/
親しみ/微笑などの快感系の情動に満ち、はたまた情熱/毅然さ/断固さを持つなどといった要因(※注)。
更には提示された論理等を包括的に把握するのでなく、自分が気分的に気に入ったり腑に落ちたりする箇所が部分的に存在することをもってして、全体をも承認/認容する、ないしは文のレトリックが非常に整っていたり美的であることのみをもってして承認/認容する「短絡性」。

ちなみ念の為に断っておくが、こうした感情・気分的要素とか短絡性の如きものからの影響は、演繹的思考者のみならず帰納的思考者にも見いだせるものである。
(つづく)
76市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:16:21 ID:???
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しかし事実認識に対する分析/思惟等を、その中心とするところの帰納的思考においては、これらが認知の本筋である部分に対して決定的影響力を持つことは、基本的には在りえない。
ちなみに帰納的思考者は、特に本気で思惟/思索を要しない時には感情・情緒的表現がむしろ豊かな者が多いが、これは重要な何かを判断する際には、事実認識を歪めずに、これら感情・気分的要素/短絡性をその本筋には持ち込まないという分別を持つがゆえである。

しかして一方の演繹的思考者とは、ヘーゲル的「正」段階に居るために、認知の認知たるメタ認知を知らず、ゆえに演繹的思考を為そうとする傾向を“気づき”により調整する契機を持てず、同一類型の外観を持つ事象に対して、
十年一日の如くに常に同一の気分/感情により自動的(すなわち見田的“非選択的”)に、意思決定せざるを得ない。こうしてあらゆる思考/判断が根本的な非合理性の下で為されることとなる。

『演繹的思考においては、 往々にして“木を見て森を見ず”的な認知の狭窄性/決めつけ等が感情により亢進し、思考を客観視した上で合理的に統合する論考過程を排除する。この状況は演繹的思考というものを一言で言うなら、「自動判断」システムと呼ぶべきものにする。
そしてこの"自動判断的な物の理(ことわり)"は、人間の成長/進歩/発展に不可欠であるところの『破壊と創造(スクラップ・アンド・ビルド)(※注)』過程に飛び込んでいく、
ないしはこれを受容しようとする際に必要となる覚悟/勇気/度胸等を伴う自意識/認識等を、何一つもたらすことがない。
こうして演繹的思考者は最期には、現状に対する際限なき不平・不満意識を吐露し続けるだけの“性根がとことん腐った廃人”となるのであり、もって自らが真に幸福な人間に成ることをもってするところの、
人間社会のマクロ的安定・持続や進歩/発展のための貢献を成す事が(当人の気負い/努力があったとしても)できない。』(『進歩の自然法の第二定理』)
(※注 この類型としては、J.シュンペーターが唱えた「創造的破壊」観念などが著名。)

例えば我が国の人々は、世界的な教育大国の非常に高度な基礎教育制度の恩恵に浴しているにも拘らず、大半の者が帰納的思考ができずに、"公教育的な物の理"を
(つづく)
77市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:16:57 ID:???
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そのまま信じ込む傾向が強いために、我が国よりも遥かに教育制度が劣っている国の人々よりも更に、英会話修得のための方法に対して”開き盲(めくら)”である。
すなわち外国語修得においては、第一に当該言語の統語法をカラダ(脳の言語野)で覚えること(英語であれば「SV/SVO/SVOC」等の語順のままで直に意味を採れるようになるまで徹底的に反復訓練すること。)、第二は言語的有意音声群を、
これまた脳の言語野に"音真似"(ネイティブスピーカーと瓜二つの発音をすること)によって記憶させてしまうことの二点が肝心である。
そしてこれらの真理・真実性に基づく物の理というものは、例えば英語を本気で修得しようと努力し続けることで、観念上の破壊と創造の過程を経て、経験・実証主義(帰納)的に得られなければならないものである。

このように人間は高度・複雑化された社会生活を営む動物であるから、適度/適切な破壊と創造の過程に入ることなしに、欺瞞・恣意性に満ちた自動判断システムの目論見のままにいつもいつも行動しているだけでは、現実には実に多くの難題を招来することになる。
そしてそのうちに、何らかの不可抗力によって自動判断システムに従えない/当人が意識的に抵抗するなどということが生起してくるわけだが、この手の無闇な抵抗は、やがてイライラ/ノイローゼ/神経質・強迫観念/
パニック障害/うつ/アルコール等の薬物摂取欲求などの神経症様症状や犯罪やDV等に至る反社会・攻撃的衝動等を顕現させる。(ちなみに前者は特に女性において、後者は特に男性において顕著である。)

またこれとは正反対に、自動判断システムがもたらす快感的報酬が過剰になり、これを当人が制御不能となった場合にも最終的に不快感やストレスが発生してくる。
例えば夢にまで見たような"達成/成功”状態に身を置いた場合には、緊張感や自制心の急激な消失/極度の安心・開放感が、落ち着いて居ることが困難になるほどの躁(そう)状態の後に心身が疲れ果てて、もって絶望的な鬱(うつ)状態ををもたらすことがある。

この一般的には「荷下ろし症候群」などと呼ばれる精神状態においては、日常生活に支障をきたさないようにするための躁の自制に要する脳神経の労働量が恐ろしく増大するために、この状態に耐えることに失敗した場合には、 (達成/成功に対する)激しい
(つづく)
78市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:17:51 ID:???
9 of 17 (つづき)

懐疑・絶望感等が発生して重度の鬱に陥るというわけである。場合によっては自殺にまで至る。

そもそも「鬱病」などというものは、己の存在拘束性というものに対するメタ認識を一切持てない認知の“蛸壺”性が、落ち着いた帰納的論考の不能状態をもたらした結果であり、言わば「演繹的思考病」の最たるものである(※注)。
(※注 また鬱病とは真逆の演繹的思考病例としては、「リジリアンス(回復・復元力)」などと呼ばれるところの「重度の深刻さを伴う危機的状況においてさえも、心の平静さを保つ能力」が、先天的に格別に優れている人々が存在し、
このような「サイコパス系気質」を持つ人々が演繹的思考者となる場合は、往々にして鬱病などとは正反対の社会的不適応状態となるものがある。
すなわち彼らは、非常に直情・攻撃的な反社会的行動(騒乱/犯罪/放蕩など)や奇矯な行動を躊躇/葛藤等を伴わないで難なく遂行し得るのである。)
  
というわけで人はこのような人間脳にデフォールトで設定されていて非選択的行為を強いる自動判断システムのみでは、適切に対応しきれない様々な事態に対処するために、
進化論的には動物が数億年の時を経て開発してきたこのシステムとは別個に、「合理性を追求するための新規の判断システム」を開発する必要に迫られる。
しかしこの新システムについて詳しく考察し始める前に、この演繹的思考(自動判断)システムについて、更に十分に意味的な理解を持っておくことが、(チャプター冒頭部で述べた理由から)必要なのである。

動物はこの自動判断システムを採用することで、第一には決まりきったパターン行動群を、"神がかり的レベル(※注)"に達する完璧・流暢・安定性を伴って為すことができるようになる。
第二には脳が個々の状況において思考/判断のために費やすエネルギー量を減少させるという経済性(言わば“資本利益率”、すなわちコスパの増加)を得ると同時に、第三には第一点の定形的行動に適宜・経済性が運良く備わった状況に限っての最大級の効率性を得ている。
そして更に第四にはこの極めて予定調和的なシステムが発生させる快情動によって、自らの情緒を安定化させると共に、他者の情緒をも或る程度の正確さをもって同様に操作/管理でき、自他の気質/情緒というものを安定させることができる。
(つづく)
79市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:18:30 ID:???
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(※注 これは例えば、0.01秒/0.05g/0.1mm程度の精度、かつ相当複雑な組み合わせを伴うような行動(例えば音楽演奏/絵画/料理/職人技など。)を可能にしている。)

以上のような属性を持つところの(人間を含めた)動物脳のデフォールトであるところの演繹的思考様式を、
今後は当論においてシステム論的見地から言及する際には、『感情系習慣的自動思考様式(エモーショナライズド・イデオロジカル・シンキング)(※注1)』と呼ぶことにする。
(※注1 感情系習慣的自動思考様式は、ある認識に対して「論考」するようには決して働かず、同一型の事象と感情発露の下でドライヴされるチャンクによって判断を予定調和させる(※注2)。このような思考様態は、常に「イデオロギー」を生み出す。
ゆえにこれを「エモーショナライズド・イデオロジカル・シンキング」とも別名するということ。)
(※注2 例えば、誰かの欠点を考え始めたとしよう。するとその者を"嫌だ"と感じさせる感情がどんどん自動亢進するにつれ、それに引っ張られて思考も(その者の)欠点を強調するような方向に予定調和的に亢進する。
このように感情に囚われて、自意識が一点(ヘーゲル的「正」状態)に執着している状態での思考は、最早、当人のIQなどの如何に拘らず、狭隘な視野の下で非合理的に推移するしかない。)

そして感情系習慣的自動思考様式について当論的に注視すべき点とは、(この思考様式が)刻々の頭脳労働がもたらす情緒の不安定化をできるだけ抑えることで、「凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」的な「連帯/相互扶助におけるコミュニケーション」
の際に必須であるところの、個々人の性格/気質を(いくつかの習慣的行動の下で)落ち着かせて、もって生活グループ内での人間関係を良好に保つという自己保存便益に直結する、言わば『生活能力的ホメオスタシス(恒常性)』とでも名付けるべきものを供給する点である。
つまり『エモーショナライズド・イデオロギー』を無闇に否定することは、人が生活するための人間関係基盤を喪失させかねない危険を伴う。

とどのつまりエモーショナライズド・イデオロジカル・シンキングとは、人間脳が進化の過程で獲得した、思考/判断に関わる労働力の省エネと人間関係形成に与する「基幹的認知システム(コンピュータの「OS」に相当。)」だと見做せるのである。
(つづく)
80市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:19:06 ID:???
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つまりこのことは、何人もこの感情系習慣的自動思考様式が求める凡庸者的な紋切り型/十年一日的な振る舞い方を、全否定したり免れ得たりできないことを示している。

『全ての人間はデフォールトでは単純な演繹的思考者であり、一部の“秀才(※注)”を除く凡庸者は、このデフォールト状態から一歩も出られるものでない。
その上で例え優秀者だとしても、日常生活的人間関係においては感情系習慣的自動思考様式を用いるしかないのであり、その意味では優秀者であっても一意的に凡庸者的認知行為から免れ得るわけではなく、
彼が優秀者的自意識や緊張感を失い、メタ認知不全状態となるならば、いつでも演繹的思考様式に全面的に支配されるしかなくなる。』

見方を変えれば単純素朴性/無謬的信憑性/自他の分離観念の不全という凡庸者的三属性、並びに感情系習慣的自動思考様式が、実は人間であるならば誰もが利用せざるを得ない能力を担保しているという側面が在るのであり、
ゆえに第十回で提示した優秀者的人間属性とは、これを当該者の全行為において100%顕現させているような者は、現実には存在しえない。我々が実人生において実際に遭遇する者は全て、その行動において「演繹的思考様式・帰納的思考様式属性ミックス者(※注1)」である。
実際には、むしろ演繹的思考属性を主としつつ、その上で帰納的思考を適宜、為せる者を、当論では「優秀者」と呼んでいるに過ぎないのである。
(※注1 学説の拠り所が大まかな認識の域を出ないとしても、そのことのゆえに科学的合理性が損なわれるわけではない。
その理由は科学においては、往々にして万人が共通に保持する「直観的自明性認識(※注2)」が論理上でのつながりを形成することによって、論者は非実測的な経験・実証主義知見からも合理性を見出せるからである。)
(※注2 ディルタイが言う「現象性の原理/基本的な思考機能」と同義。例えば「100°Cの湯に指を突っ込んで、「心地よい」と感じる者は居ない。」こと、あるいは「事物がどんどん粗末・瑣末化することを一意的には進歩/発展だと感じる者は居ない。」などの認識は、
各人毎の主観に基づく思考の前段階に在る基本的自明性であり、このようなものを万人が抱く直観的自明性認識だとする。)
(つづく)
81市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:19:55 ID:???
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ではここで無自覚な演繹的思考様式というものが、人間にとっては如何に低劣な判断/行動をもたらすものであるかを具体的に示すために、戦前期に繰り広げられた論争の内で最重要であるところの「天皇機関説論争」について述べる。
尚、この事件の俗的な経緯/推移は、ここでは関心を持つところではなく、学説の内容にまつわることだけを以下に論ずる。

上杉慎吉らを主唱者とする「天皇主権説」と美濃部達吉らを主唱者とする「天皇機関説」の真っ向からの対立において、合理的観点からどちらが正しいかを判じるならば、極めて明快に後者が正しいと言える。
というのも前者の本旨は「天皇という一個人が(大日本帝国の)主権者であり、その意思のみが(大日本帝国の万事において)絶対的な(すなわち超法規的な)効力を持つ。」というものであり、これすなわち中華思想とか王権神授説などと同類の、
君主と君主以外の者の人的価値において絶対に超えることのできない質的分別を設けるものであり、もしこれを是とするならば、憲法を始めとした、合議/意思決定の分担性を担保しようとする目的性を持つところの諸法規は、
最終的には存在価値がないし(すなわち天皇は立憲君主ではなく、自分以外の何者によっても規制されず、かつあらゆる気まぐれ/思いつき等が是認される独裁者となるから。)、明治憲法第55条の大臣が天皇の判断をすべからく輔弼し、
その輔弼した内容に関する責任は当該大臣に在るなどという、天皇が最終的に下す判断における妥当性を担保しようとする目的を持つ規定なんかの存在意義ともまた矛盾するわけだが、しかし主権説論者側から、
この輔弼規定自体の存在価値とか、更には国会/内閣などという概念の本質について取り沙汰されたことは唯の一度もなかった。

以上のことから天皇主権説には論理上、極めて稚拙な瑕疵を伴う恣意性があり、その上で慣習上においても、それ以前の大正年間の二度の護憲運動の勃発の経緯を見ても分かるように、
天皇とは現実には、紛れもなく「帝国」という抽象的主権体に従属する一機関に過ぎない、但しそれは他のあらゆる機関に優越するところの比較最高“機関”的地位に在るに過ぎないと見做されてきているのである。
(つづく)
82市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:20:39 ID:???
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ともかく、この一機関の意思のみで万事を決するなどということについては、憲法を始めとした諸法規により厳に禁止されているという解釈(天皇機関説)の自明さに疑いの余地はない。

しかしここでこの事例を採り上げている意図は、今更、両論に対する分析のみを読者に念押しするためではもちろんなく、当時の主権論者の行動を通じて、演繹的思考者というものの危険/心底嫌気がさすバカバカしさを、読者が理解するようにするためこそなのである。
すなわち主権論者は、再三述べている気分・感情的要素としての、自意識内での快・不快的是非に基づいて当該者の頭の中だけで勝手に創り上げられた「天皇観念」こそを、絶対だと思い込むという、
演繹的思考の自己中心性(凡庸者的存在拘束性の陥穽)の虜になっていて、だからこそ実在の昭和天皇本人が本件について、「それ(天皇機関説)で良いではないか。」と機関説を支持しているにも拘らず、
その事実を平然と黙殺し、あくまで自説に拘泥し続けるという、完全な自家撞着を為したのである。

とどのつまり天皇主権論者の本音とは、現に実在する天皇などは全く眼中にはなく、その上で(第九回で述べた専制的支配欲求型ロボット型人間としての)頭に取り憑いている”支配欲求”と”天皇主権説”を便宜的にリンクさせることにより、
現実政治・政局を自らの意のままに操ろうとするものであり、すなわち実在する”(今上)天皇”とは、彼ら自身の想いを象(あらわ)すためのお神輿(みこし)/用益物に過ぎないのであり、
主権説とは”彼ら自身が日本の専制君主に成りたくて仕様がない説”だというのが、そのオチなのである。
そして余談ながら、このようなキチガイ・鬼畜性が顕現する心理的構造は、そのまま二・二六事件を引き起こす原動力となっていったのであり、例えば自分たちを天皇が頼みとし、かつ自分たちが天皇と一心同体であるかの如き幻想にとり憑かれた皇道派青年将校一派の一人、
磯部浅一は、いよいよ銃殺刑を目前に控えた土壇場において、「陛下 日本は天皇の独裁国であってはなりません。(中略)明治以後の日本は天皇を政治的中心とした一君と万民との一体的立憲国であります。
(中略)左様であらねばならない国体でありますから、何人の独裁も許しません。」などという直諌文をしたためてその本性を暴露している。
(つづく)
83市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:21:24 ID:???
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もちろんこの手の虚実が併存する二律的心理構造とは、21世紀の現在においても相変わらず氾濫しまくっている(※注)のであり、すなわち演繹的思考者により祭り上げられた対象物 (すなわち己自身の欲求の体の良いカモフラージュのための媒体)を用いた擬態を為す輩と、
その本性を見抜いている者との果てることがない闘いが今日においても相変わらず続いているのである。
(※注 例えば或る保育士のtwitterにこんなのがあった。「待機児童の問題など、保育の現場では憲法が守られていない。子供の健やかに成長する権利、働く親の働く権利、子供の安全と発達を保証するためには、
今の保育士の安すぎる賃金と人手不足の解消も必要。大好きな子供たちのために声を上げて変えていきたい!」
この意見の心理構造は、「憲法/大好きな子供」を「天皇」に置き換えれば、天皇主権論と全く同一である。すなわち「憲法/子供」のどちらも、実は発言者の本音においては眼中には無いのであり、自分たちの「収入upと労働量のdown」のみこそが、真の関心事なのである。)

というわけで感情系習慣的自動思考様式とは、高等社会性動物である人間においては、生来・普遍的な「擬態行動」を支えるという機能をも持つのである。

では以上を踏まえた上で更に病跡学的な個別事例研究を為していこう。感情系習慣的自動思考様式は人間をして、例えば以下のような愚かしい生き方を為させるように仕向けてくる。

平林たい子の自伝「砂漠の花」(1957)によると、この生来の“アバズレ/チンピラ”的気質を持つ女(当時17歳)は、判で押したように誰からも一様に嫌われ、人としての見込み/将来性のなさから
周囲の皆が(平林に)交際しないことを勧めるアナーキスト青年に、同類としてのシンパシーを感じ、周囲の批判的な目に対する反抗心から逆に一途に惚れ込んで、お決まりの破滅的な転落(※注)を辿る。
これについて当人(平林)は、己が単なる“あまのじゃく”であることを悟るために、これほどの辛酸を経験しなければならなかったとは何たる不幸であるかという旨の述懐を為している。
しかし己の性根が必然的に宿す破滅性を知り、それを何とか抑えようとする決心まではできなかったようで、この出来事の後も放蕩三昧の生活は止まない。
(つづく)
84市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:22:01 ID:???
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(※注 関東大震災の折には社会主義者/アナーキスト/サンディカリスト等が一斉検挙され、多くの者が不法裡に殺された。平林もアナーキストの女であったために捕らえられ、処刑場とおぼしき所にまで連れて行かれたが、幸運にも九死に一生を得る。
その後、東京から出ることを条件に釈放された身寄りもない平林カップルは、絶縁状態の親類を頼り大連に渡るも、男は頼った知人に警察に売られ懲役刑となり、
一人残された平林は、入籍を許す者もいない私生児としての女児を栄養失調状態で産み、満足な世話も受けられず一週間で赤子を死なせる。)

また平林などとは異なるタイプの、言わば“逆噴射型”とでも呼ぶべき、生来的気質が単純すぎることからくる、己の求道者的一本気/不器用さ等に対する徹底的嫌悪感から、
生涯にわたる自己否定的な(己自身との)不毛な闘いを為し続け、自殺衝動にとりつかれるまでになったレフ・トルストイの人生にも、
この感情系習慣的自動思考様式がもたらす悲惨さ(己や社会を感情の束縛から離れてメタ認知することを未だ知らないので、一途な思い込みが最悪の苦悩/破滅につながることを理性的に回避できない。)が溢れている。
彼は「アンナ・カレーニナ」(1878)で、「君は非常に純粋な人だ。これは君の長所でもあり、短所でもあるんだ。君は君自身の純粋な性格から、全人生が純粋な現象から成り立つことを望んでいるが、そんなことはとても在りうることじゃない。(中略)人生のあらゆる変化、
あらゆる魅力、あらゆる美は、全て影と光(※注)とから成っているものなんだからね。」(第一篇十一)と述べ、平林と同じく理屈の上では己の弱点/人の世の真実を把握している。しかして彼の自己否定・嫌悪的執着は、現実には非常に哀しい不毛の努力を為すように仕向ける。
すなわちトルストイの主要作品を特徴づけているところの、例えば起承転結の如き筋立てを持たせることを嫌悪しているかのような、物語展開における徹底的な複雑・輻輳性と一回性事象の連続がもたらす各事象の非連続性等は、
言わば己の天与の単純明瞭な気性に対する絶望的嫌悪がその根に在ると考えれば、「なるほど」と納得できるのである。
(つづく)
85市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:22:40 ID:???
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(※注 “影と光”とは、例えば或る人物がどんなに“善良/好人物”に見えたとしても、それでも尚、彼が人間である以上、彼の人格の中には、例えば残酷さ/自己中心性などといった醜悪な部分を必ず見出すことができる、
というような類のことを示唆しているわけで、こうしてこの世のあらゆる事物は、影と光のコントラストの中にこそ、その本質を宿している旨を述べたものである。)

更にトルストイについて重要なことを言い添えるならば、彼の出世作の「戦争と平和」(1869)などを読んでいても、外形的には物凄い事件がどんどん起こってくるのだが、(その優れた文章表現力とは裏腹に)全く臨場感というか感情移入が読み手の心中に起こらないのである。
これと対照的なのがツルゲーネフの諸作品であり、それらはどの作品においてもドラマチックな場面の最中には、あたかもオレ自身が登場人物になってしまったかのようなリアルな共感/実感が沸き起こってくるのである。

では両者の作品におけるこのような本質的違いをもたらしているものは何なのか?それはトルストイとは、自分を自分が憧れている何者かに似せようとしている偽物(主体性/個性がない凡庸者)だが、
ツルゲーネフは己の真実に真っ直ぐに向き合って生きている優秀者であり、そこで掴んだ真理(彼の個性を形成するもの)を作品として端的に表現しえているということである。

さてこれらの事例を通して見えてくることとは、感情系習慣的自動思考様式のためのチャンクは、思考アルゴリズム部分が小脳ROMであるために、理性的にはその内容の滑稽さ等をメタ認識できたとしても、ここから直に思考様態を修正できるわけではないということである。
すなわち感情系習慣的自動思考様式の低劣性を免れるためには、思考の進捗につれて、その全体的方向性・方針を合理主義的たらしめるための何らかの『思考統御・監督系諸機能』が、適宜、働く必要があるのである。
結論から言えば、これは第十回において「人格的諸能力」としたものに由来する機能である。この思考統御・監督系諸機能についての詳細な論説は、次回以降(第十二~十三回)に持ち越される。
(つづく)
86市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:23:08 ID:???
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さて、とにもかくにも破壊と創造過程に入れず、テンプレート化した意思決定チャンクの継続的利用による自己限界的特異点に至った場合、凡庸者の多くは社会的不適応段階に移行する。
そしてその状態が慢性化すれば、ストレス系ホルモンの過剰分泌等による脳神経器質自体の破壊/変成/機能不全と精神病等の段階にまで、必然的に行き着かざるを得ないのである。
(「感情系習慣的自動思考様式」 おわり)
(第十一回 おわり)
87市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)18:21:08 ID:???
>>80

“秀才(※注)”の注釈が脱落していたので以下に補填する。

(※注 「秀才」は凡庸者のサブ・カテゴリー。これについては後の回で詳説する。)

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