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市民層 概論

※ID非表示スレ
1市井の居士◆dgvbGqecqY:2017/10/22(日)20:53:05 ID:???
とりあえず過去レスリンクを貼っとくよ。日付が一番古いのはL.1、んでL.7までいったらコメントレス109,-129. これより後のレスは、ここにはリンクしてない。

オレの過去レス (旧2ちゃんリンク集)

コメントレス
109.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/335
110.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/336
111.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/337
112.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/338

113.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/339
114.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/340
115.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/341
116.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/342

117.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/350
118.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/351
119.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/352
120.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/353
121.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/354
122.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/355
(つづく)
92市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:16:33 ID:???
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凡そ合理性などとは無縁の思考/判断を為す、すなわち己の存在拘束性の陥穽にはまるしかないことは前回、述べた通りだ。これが凡庸者的な自意識状態である。
一方でメタ認知することそれ自体は、第七回で述べた「自己批判的観念」と極めて密接に関わるところの自意識状態であり、
己自身の有様を客観・合理的に認知/分析できるような、ある意味で“透明で澄んだ”意識状態であり、かつ妥協や曖昧さを許さない“冷厳な裁判官”のようでもある。
その上で優秀者の自意識は、適宜、感情的な自意識状態からジャンプして、この純粋に理性的な状態にシフトできる。
具体的にはこのシフトを為すべき必要性を示す契機に際しては適宜、「気づき」を得て、もって自意識の状態を速やかに「正」から「反」にスイッチできる。

そしてここで「メタ認知系諸能力(第七回 参照)」を、当論的視点からの定義付けとして、「メタ認知を可能にするためのプロト能力/メタ認知能力/メタ認知成立状態においてこれを基盤として動作する能力(帰納的思考能力)」の三能力の集合とするならば、
思考統御・監督系諸機能とは、このメタ認知三能力を適切かつ効率的に作用させるためにこれら自体に働きかけたり、あるいはこれら(三能力)を感情系習慣的自動思考様式の影響から免れさせてくれる機能ということになる。
その上で結論から言うと(もう既に幾度か言及しているように)思考統御・監督系諸機能を担っているものとは、
このメタ認知系諸能力自身の一部分であるところの「人格的諸能力」であり、これは上記メタ認知三能力の中の「メタ認知を可能にするためのプロト能力」に該当する。
ちなみに大半の読者は今、オレが何のことを言っているのか急にチンプンカンプンになってしまったはずだが、心配は無用だ。とりあえず今は軽く読み流しておいてくれれば良い。これの経験論的な解説は、
もう少し後で為すので、その際にまたこの箇所を読み合わせてくれるならば、キチンと理解できる。

ではここからは「何故にこの『人格』なるものが、新規の判断システムの中でメタ認知系諸能力に対する統御・監督系諸機能として、あるいは感情系習慣的自動思考様式の低劣性を免れさせ、もって思考を合理主義的たらしめられるのか?」を説明していく。
(つづく)
93市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:17:08 ID:???
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まずは「人格」についての当論的定義を得ておこう。ウィリアム・D・ハミルトンが提示したところの生物の利他主義的行動に関わる理論等からは、動物の種、あるいは個体レベルにおいて歴然とした差異を見出し得るような
固有かつ多様な「行動特性・性質・気質型属性」、すなわち(人におけるところの)「人格/気質」該当物は、自己保存目的下の戦略的判断の場において、顕著に有意であることを演繹できる。更に

『行動特性・性質・気質型属性としての人格は、人の思考/判断の全体に対して包括的な位置から影響力を行使する因子として、(思考/判断の場においては)思考能力それ自体に匹敵するほどの重要性を持つ。』

という仮説をここで立てる。その上で人類史を振り返る。2000万年前頃までは、大洋からの湿った風が海岸部まで密生する熱帯雨林を繁茂させていたアフリカ大陸において、類人猿と現生人類の共通祖先であるドリオピテクスが
多種多様な食草/果実が手近に満ちた快適な樹上生活を謳歌するも、1800万年前頃から始まった大陸のプレート移動によりテチス海が消滅し地球は寒冷化し、東アフリカの大地溝帯の両サイドにはそれぞれ長く連なる山脈が現れた。
このために東アフリカでは乾燥化が急速に亢進し、豊かな“恵みの森”は消え、ただ果てしなく広がるばかりの草原と閑散と生える樹木のみの「サバンナ」が出現した。

この環境的存在拘束性の下では従前の多くの種が絶滅する中で、人類の祖先たち(ラマピテクス)は、
脳を大きく発達させ生活の細部に至るまでの経験的事実認識を無駄にせず、これを徹底的に利用するための思考システムを新たに開発するという破壊と創造(進化)過程に入った。
すなわちこの過程においては、二足歩行と両手を自由に使うことによる草原における武器使用を伴う狩猟技術の向上/仕留めた獲物の運搬と分配等に適った能力を高めることができた血縁集団が、
更に個々のラマピテクスの人格的能力の差異に所以するところの、例えばチンパンジーなどの現生類人猿にも見られる「物乞い」行動、つまり非常に切ない目で食事中の相手を見続けて、相手を「ショーがないな。少しだけおすそ分けしてやっか。」気分にさせる、
あるいは“おじぎ”とか“肩を叩く”的な「挨拶」行動などによる
(つづく)
94市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:17:40 ID:???
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様々な集団生活に与する、高度な心理操作能力の開発を伴うホミニゼーション過程に入っていった。
こうして「人格」能力の差により自然淘汰・選別されることとなったプロトホミニド(人類祖先)の脳においては、更に経験記憶を戦略的行動能力開発のための素材としうるための更なる破壊と創造、
すなわち徹底的な脳器質的進化が始まり、コミュニケーション能力等を始めとするところの包括的知能が劇的に亢進していった。

そしてこれらの新規獲得能力はプロトホミニド段階においては、「凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」(観念運動の自然法の第四定理)的な人格としての、例えば「思いやる/毛づくろいし合う/ジャレ遊ぶ」などといった、
主として生活時間の大半を占めるところの集団内秩序形成に与する「連帯/相互扶助」的能力に類するものの開発に偏向する傾向を持ったことについては、何ら疑問の余地はない。
すなわち現生人類(ホモ・サピエンス)に至った現在においても尚、このことは今だに歴然と(自意識的にはプロトホミニド的な人格能力しか持たないと思われる)凡庸者/下層大衆の生活様態において歴然と顕現しているからである。
そしてこのような段階に留まる人々の認識においては当然の帰結として、人格(的能力)と言えば即、集団内自己保存目的に与する調和・協調型能力を促進するようなもののことを意味するのである。

しかして現生人類の中の「ホミニゼーションの結果として現出するに至ったとこの高度/複雑な特殊社会の中で生き抜かなければならない動物」としての自覚を持てる優秀者は、理性的判断能力としてのメタ認知系諸能力、具体的にはこれがもたらす
最高到達物としての帰納的思考能力を駆使した経験的事実認識に整合した(第七回の当該箇所で幾つかの具体例を示したところの)「合理的認識」こそが、人が生き抜くための真の知的財産であることを正しく認識している。
(つづく)
95市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:18:21 ID:???
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その上で当論が関心を持つところの人格とは、(第七回において提示した)主体的達成意欲/自己批判的観念などとしての『始原人格』とその合力的作用から発展的に形成され、
もってメタ認知系諸能力を涵養し、更にはこれの統御/監督を為すところの、幾つかの人格能力なのである。以下に詳説しよう。

まず始原人格能力には、三種ある。第一は「主体的達成意欲」、第二は「自己批判的観念」、そして第三は「欲求抑制観念(ストイシズム)」である。(ちなみに第一と第二は第七回において既に説明している。第三についての説明は次回になる。
ちなみにストイシズムは、他の二つとは質的に異なる特殊な属性を持つ。)
そしてこれら三種の始原人格のそれぞれから三系統の発展的な諸人格が発生する。今、とりあえずこれらを包括して人格的諸能力として捉える。すると

『人格的諸能力とは、(前述したように)メタ認知系三能力の一つであると同時にこれらメタ認知系(三)諸能力全体の統御/監督をも担うのである。
その上でメタ認知系諸能力は、常に人格的諸能力からの動機付け/活性化/統御/監督等の作用を受けつつ、個々が単独で動作したり連関し合ったりしながら働く。』

ところで例えば気分的存在拘束性の操作/管理などは単なる動物本能に基づく「快感追求欲求」が、その開始のための端緒となり得るわけだが(すなわち感情系習慣的自動思考様式の場合と同じ)、例えば職業(生活様態)/居住地/人間関係などといった
『高次存在拘束性』の操作/管理については、既に自意識内にプロト優秀者定理(第十回 参照)的な人間界の事象一般に対する確たる「問題意識」が常在していて、
これに基づいた「論考欲求」が端緒となるのでなければ、おいそれとはこれを開始できるものではない。すなわち

『人生や社会にまつわる高次存在拘束性問題にあたっては、当該者 (プロト優秀者以上の者)が既にそれなりの問題意識と人格的諸能力を保持していて、これらが媒体となることで、「論考欲求」を生起させる必要がある。』
(つづく)
96市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:19:04 ID:???
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具体的にはプロト優秀者等の自意識内において、背に腹は代えられないようなギリギリの状況において、彼の主体的達成意欲系の人格が、
脳内に既に「存在拘束性の操作・管理チャンク(破壊と創造チャンク)」(※注1)を形成しているならば、必然的に押し出されるようにして発生してくるものが、「論考欲求」なのである。
(※注1 人格が未熟である場合はこのチャンクが存在せず、論考欲求も発生しない。もって進歩の自然法の第二定理(第十一回 参照)的な自動判断過程に入るしかない。
こうなると存在拘束性の陥穽にはまり「無いモノねだり(※注2)」を始め、現状に対する際限なき批判/非難等の不平・不満意識を吐露し続けるだけである。)
(※注2 眼前に“在るモノ”を自動判断的に“悪の根源”だと決めつけ、“無いモノ”をひたすら狭隘なる思い込みにより希求しまくるところの感情系習慣的自動思考様式の典型的自動思考アルゴリズム。
例えば「戦前期の国民が太平洋戦争を積極的に支持したワケは、警察/憲兵等による弾圧、教育勅語制定に代表される教育政策/大本営のウソ報道等に因る不可抗力のせい」だとするところの自己責任回避論などが好例。
ちなみにこの責任回避論は、戦後は民主化/基本的人権の尊重/思想・信条の自由等が保証されて、従前の“無いモノ”は全て補填されたにも拘らず、
日本国民の大半が重大な社会問題に対して、相変わらず寡黙、かつ無知蒙昧であり続けているという経験的事実の提示により反証できる。)

ではここで始原人格から派生した代表的な個別の人格能力を以下に挙げる。

「真理性/卓越性を好む/重視する」人格こそは、人をしてプロト優秀者や優秀者たらしめる根幹的人格的能力である。これが無ければ、都合が悪いことは「見なかった/聞かなかった/知らなかった」振りの典型的凡庸者となるしかない。
すなわちこの人格を持たなければ、そもそも納得できるまで事物を追求しようという意志/態度を保持できないから論考開始点にすら至れない。
あるいは公教育等で得た専門的知性をもっぱら素人を騙し煙に巻くために用いようとするが如きの典型的パフォーマンス至上主義型人間、すなわち確信犯的な詭弁論者/衒学者に成るしかない。
(つづく)
97市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:19:39 ID:???
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また「真面目さ」人格の機能も同様だ。但し上記人格(「真理・卓越性愛好」)を併せ持たなければ、むしろ無謬的信憑性が強いだけの典型的ロボット型人間の形成を促す。
その一方で真面目さの反対人格であるところの、他者の意見/教唆等を受け入れる意志自体を持たないために、屁理屈だの言葉尻のみを捉えて反駁するがごときの「頑迷性/認知努力の“門前払い”性」、
すなわち「教育不能」人格しか持たない者はいずれは確実に、キチガイ・鬼畜性(第九回 参照)の顕現にまで至る。

また己が過去に為した努力に対する誇り/成果等に由来する「自尊」人格を涵養できていなければ、論考を始めたとしても、これを情緒安定的に進捗させられない。
更に他者の知恵に対して適切に心を開けるような「無知の知」的な意思/人格もまた論考行為にとっては決定的に重要であり、全世界に散在する有意な智慧の吸収を円滑ならしめる。
そして「几帳面さ」人格が無ければ、いい加減さが、「責任感」人格が無ければ結果に対する投げやり的態度が論考に終始ついて回らざるを得ない。

このように、そもそも論考の開始点に到れるか、はたまたその進捗過程における適切さの担保力は、
当該者が予め持つところの、実に多種多様な人格的能力、すなわち人格的諸能力が統御・監督的な力を発揮することで生成される。というわけで

『論考の開始・包括的な質とか内容を規定したり方向付けているのは、決して狭義の知力(教養/論理構築能力など。)だけではなく、まずは当該者に固有の人格的諸能力が、如何なる問題意識を持つかを規定し、更には論考過程に入る前から、
如何なる質/精度を備えた論考を為せるかの可能性をも規定している。』

すなわち論考という行為において、知能と共に決定的な影響力を発揮するのが人格なのだ。人は知能(論理性自体をもたらす能力)が高いだけではダメで、論考行為に深く関与するところの
幾つかの人格的能力がもたらす統御・監督的作用が適切に機能しているのでなければ、論考の開始/進捗/終結を優れたものにすることは絶望的というわけである。

では次に上記の個別の人格/意思(的人格)がどの人格系統に属するのかを、幾つかについて同定してみよう。(但しさっきも述べたように、今回は第一と第二の系統に関してのみ。)
(つづく)
98市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:20:15 ID:???
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まずは「真理性/卓越性を好む/重視する」人格だが、これは論考欲求の本体であり、これがなければ人は、そもそも論考などという重労働を為そうとする意欲を永遠に持ち得ない。
すなわち思考統御・監督系諸機能に関わる諸人格の中でも最も根幹的なものである。
アリストテレスは「ニコマコス倫理学」第六巻(B.C.4c)において(「智慧」に勝る価値を持つものとしての)「思慮」について、『「思慮がある」とは、「自分にとって良き事柄とか功益ある事柄に関して立派なやり方で思量できる」ということであり、これは
(珍しいこと/驚きべきこと/難しいことなどを知っていることであるところの)「智慧」を用いた上で、人間的な諸々の「善」(オレ注 ; 進歩/発展)を追求させるもので、すなわち「思慮」は、論考の過程の個々に対して
「何を為し、あるいは為さざるべきかを規定し命令し真っ当な論考を開始させる」動機をもたらす。』旨を述べている。

つまり如何にモノ知りであろうとも進歩・発展的方向性を持たなければ、論考という行為が価値を持つことは絶望的だ。その上で論考における価値の本質が、
「真理性/卓越性を好む/重視する」ことであり、更に人が為す事の全ての進歩・発展性の始原人格は「主体的達成意欲」なのである。

というわけでオレがtwitterで度々言及するところの“天才”と“秀才”の間の大きな隔たりも、(狭義のIQの差異とかよりも)主体的達成意欲とその系列人格能力の隔たりに因るところの方が、ずっと大きい。
つまりこれこそが、人と社会の進歩/発展の源泉であり、オレが優秀者的属性として何よりもまず「主体性」を第一に挙げていることの所以なのである。

そして「教育不能」人格とは、逆に主体的達成意欲系人格能力が不全であることの帰結である。つまりこれは、一切の真理・真実性/卓越性への無関心性の源泉であり、
(つづく)
99市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:20:48 ID:???
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第七回で述べた「無思考・無忍耐・無努力・他罰的傾向」、すなわち極めて他者依存的で自らの側で状況を操作しようとする能動的能力を持とうとしないパフォーマンス至上主義型人間の主要人格である。
これは、例えば知性において己よりも数段も格上の相手に対してさえ平然と批判を為せるような心性の源泉である。そもそも批判する相手の主張を凌ぐ対案の提示を伴わない(言わば“相手の主張の存在”に依存しているだけの)結果論的批判だけで良いならば、
子供でも馬鹿でも簡単に為せるのであり、口先だけ/善人振り/利口振りをもってするパフォーマンスには打って付けである。
もちろんこうしたものは人と社会に対して著しい幼児的退行性をもたらすことは言うまでもない。(同じ凡庸者カテゴリーの中でも生真面目なロボット型人間は、教育不能人格は持たない。)

次は「無知の知」意思/人格について。これは集合知を有意に利用する際に必要であるところの「謙虚さ/分際を知る」「真面目さ/几帳面さ」人格の源泉。
その上で「無知の知」人格とは、「自己批判的観念」に由来している。そして自己批判的観念系の最高派生物は「責任」人格である。これら「無知の知」「謙虚さ/分際を知る」「真面目さ/几帳面さ」「責任」人格が、「自己批判的観念系人格能力」の代表例。
ちなみに自己批判的観念系は、主体的達成意欲系が健全に備わった後でなければ保持できないところの、より高次の(理性の働きを要する)系統だ。

では次に論考システムの機序を示すサブモデルを提示する。

プロト優秀者以上の者においては、感情系習慣的自動思考様式のための固定回路(正規チャンク)の援用のみでは、自己保存本能が求めるものに適切に対処できないことが歴然となった時点で、世間の一般常識に対する根源的懐疑/個別事象に対する問題意識、
並びに諸人格が既に自意識内において十分に成長しているならば、それらが、まず強い不快情動を発生させる。
すなわち目的達成のために期待をもって援用された正規チャンクが予定通りの結果を生まなかったという経験的認識は、これと人格/破壊と創造チャンクが相互に交通することで、
「何故なんだ!?/やっぱりこうなるの・・」的な激しい煩悶/疑問/ショック/沈滞した気分等を心に生起させるのである。
(つづく)
100市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:21:24 ID:???
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その後、破壊と創造過程に先立って必要であるところの「覚悟/勇気/度胸」系の意思/マインドセットも破壊と創造チャンクに主体的達成意欲系人格が作用することで漸次、醸成され、ついに論考欲求が発生してくる。

そしてこの際に重要なことは、人格的諸能力の思考統御・監督系諸機能により自意識がメタ認知状態にシフトすること、そしてこの状態を論考終了まで保つことである。
というのも「反」状態でないと、論考欲求の発生にまでは至っても、ゴチャゴチャと考えた挙句に結局、感情系習慣的自動思考様式に舞い戻ることになるからである(※注)。
(※注 例えば「結局、奴は何故、怒ったのか?オレが●●と言ったからか?しかしそんなことで腹立てられる筋合いはない!人間というものは◎◎しなきゃならんものだろうが!胸糞悪い奴だな。あ~ぁ、ウゼェなぁ。」みたいに。)

ちなみに宗教などは、こうした高次存在拘束性問題を、(凡庸者的「正」意識に留まったままで)日常そのものから隔絶した何やら神秘的な認識に結びつけて、何とかしようとする。
例えば仏教的修行では、あらゆる事物/事象への執着のない「空」、没我的自己投入である「三昧」(「フロー」・・脳波はα波、またはθ波に近いα波)状態を解脱(破壊と創造)のための要件だとして、
これに自在に到達するためのノウハウの獲得(悟り)をもって、存在拘束性の操作/管理を成せるつもりでいる。
しかして現実には、高次存在拘束性の操作・管理法を、真の意味での合理性を伴うもの(すなわち現実生活における成功/自己実現に直結しうるもの)として樹立するためには、
こんな“世捨て人”みたいなメンタルでは到底不可能であることは、誰もが薄々は気づいている。

とどのつまりこの手の非メタ認知・非論理的方法論が今だに堂々とまかり通ることの理由としては、まずは「主体性」の獲得という困難を極める過程を回避しようとするからである。すなわち第十回で示したように、
何らかの"真理めいた認識"を得たとしても尚、主体性が希薄だと、それを自分自身が信じ切れない。ゆえにどうしても主体性の獲得を避けることはできないのだが、しかしてこれは容易にできることではなく、そのハードルは極めて高いのであった。
(つづく)
101市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:22:11 ID:???
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更に加えて真摯な論考を始めると、ニューロンがその都度、新たなシナプスを作る必要のために、脳神経に強度の労働負荷(※注)がかかるという問題もある。
(※注 論考時に脳内で為されているところの「シナプスの新規生成」においては、(ニューロンの)ゲノムからの連続的タンパク質産生が為されるのだが、こうした"増築工事"に伴う甚大な疲労系ストレスにより、
論考者は時間を経るごとにみるみる倦怠感がつのり、ヤル気/思考の明晰さが低下し、最後には眠気をもよおす。
このことは、究極的な情動的快感・充足感を希求するところの(感情系習慣的自動思考様式の一種である)宗教的修行が、脳内麻薬様物質の作用でα波を発生させ続け、疲労感を打ち消してくれることとは対称的である。)

つまりこうした論考につきまとう困難/ストレスを避けたいという心理が、凡庸者をして宗教的修行などに向かわせているのである。もっとも当論的な優秀者とても常時、論考によって疲れているわけではない。
何故なら前回述べたように、彼らもまた演繹的思考様式を基盤として生活する者たちだからである。
すなわち帰納的論考の成果物は次々に演繹(予定調和)的に参照できるようになるから、普段は演繹的思考様式で間に合うのであり、彼らはせいぜい青年期をピークとする重度のストレスを伴う帰納的思考を為しているにすぎない。

では次に論考の成果物が、いかなる形態の脳神経回路(チャンク)として残るのかについても論じておく。

感情系習慣的自動思考様式のためのチャンクは、一つの「認知-判断-行動」固定セットであり、しかも思考アルゴリズム部分は小脳ROMであるために人は直に思考様態を修正できないのであった(第十一回 参照)。
しかして破壊と創造チャンクが始動して論考が進展すると、その論考内容を受けた思考アルゴリズムが(大脳RAMとして?)新規に形成されて、これ以降は正規チャンクが出した判断に、
この新たな思考アルゴリズムを意識して援用することを何度も繰り返して、もってこれを長期記憶化することで、正規チャンクの思考アルゴリズムを使わない「バイパス・チャンク」のようなものを形成する。
(つづく)
102市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:22:45 ID:???
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これは当人の心の張り/緊張感などが緩んだりしない限りにおいて、同じような状況に遭遇した際に利用できるもの。
すなわちあくまでも“バイパス”だから、正規チャンク自体は消去されずに存在しており、当人の気が緩んだりすれば、たちまちにして正規チャンクが援用されてしまうということ。

バイパス・チャンクの典型例としては、プロ・ゴルファーのJ.ニクラウスが有名にした「イメージ・トレーニング」などがある。これは、例えば珠算者が暗算のために頭の中でソロバンと弾く指の像を正確にイメージできるように訓練することと同じであり、
イメージ・チャンク(バイパス・チャンク)の固定後は、創り出される“動画”を用いて精度の高いゴルフスウィングとか暗算を難なくこなせるというわけだ。
またピアノ/ギター等の演奏者ならば、これまた脳内で様々な動画イメージ(鍵盤/指板の色付け/連番付け/発光、指を透明にするなど。)を創作できれば、極めて自在/流暢な演奏が難なくできるようになる。
ちなみに熟練した演奏家ならば、脳内動画での鮮明なイメージのおかげで、ミリ単位の精度で鍵盤・指板上の指の位置を同定できるまでになっている。
(ちなみに「共感覚」と呼ばれているところの、数字や音と色覚等がリンクするような特異な認知形態は、実はこのようにして形成された動画チャンクのエピジェネティック遺伝例なども含まれているのかも知れない。)

以上が論考システムのサブモデルだ。ではここからは更に最終的に完成された論考形態としての優秀者的な論考の特徴を見ていこう。

人は「主体性/個性」が涵養するところの優れた人格的諸能力による介入(思考統御・監督系諸機能)があって初めて、感情系習慣的自動思考様式の呪縛から脱し、(当該者の能力の許す限りの)合理主義的因果・方法論を形成し得る。以下に詳説する。

凡庸者御用達の演繹的思考様式とは、規則/法則/原則等を事象に(情動の力により)十年一日の如く杓子定規に適用して、後はやりっ放しである。
すなわちこのような自動思考様式的なやり方では、例え当該規則の援用自体は基本的には正しいものであったとしても尚、
思考者の「主体性」を支えとするところの慎重さ/懐疑や猜疑/周到な事象の多角的分析に基づく包括的理解、判断等が適宜、為されないために、
(つづく)
103市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:23:18 ID:???
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例えば調整的対処時における非合理性(意識の甘さ/要素・因子ごとの重要度の序列の不適切/個別的問題点の発見の遅延など。)を免れ得ず、もって瑕疵の延々たる蓄積が、往々にして大元の目的を頓挫させてしまう。

例えばもう5年以上も前からネット上に登場し、今だにtwitter界隈で一部の研究者のツイに見受けられるところの、『iPS細胞研究に関わる「選択と集中」政策に対する批判/非難』の内容を見るならば、この事象がこの種のものの一つであることが良く分る。
まずそもそもこの手の「ヘゲモニー層の政策と関係当事者側との対立」構図は、人間文明の開始以来、普遍的に顕現してきた。

例えば高度成長期以前の琵琶湖では農民が魚の産卵期を避けた上で、肥料にするために湖底の藻を刈っていた。そこへ1960年代以降、国家の産業政策が化学肥料を普及させたり、工場を周辺に誘致したりしために、農民は琵琶湖の藻を刈らなくなり、
その上、排水が大量に流入するようにもなった。こうして化学肥料/合成洗剤が含有するリンと、腐った藻が湖底に堆積することとが相まり、琵琶湖は急速に富栄養化していった。
そしてその結果、赤潮が発生し始め、琵琶湖の水質は急速に悪化した。(藻/プランクトンは本来、水質浄化機能を持つが、それも程度問題であり、大量の藻/プランクトンの死骸は明らかに水質を悪化させる。)
こうして「(かつては人間活動もそこに組み込まれていたところの)琵琶湖生態系が破壊されてしまったことの原因は、国策にある。」とする地域住民と国家の対立が生まれることとなる。

さて以上の事象においては上述のように、工業製品の普及を推進するという演繹的思想を杓子定規、かつ無頓着に現場に普及させ、後はやりっ放しという政策が、まずは問題をここまで大きくした最大の原因であることは明らかである。
しかしてその上で、短絡的に国家機関の役人的判断に対して全ての罪を着せることが(言い換えるならば「文明の工業化」を単純に罪悪視することが)、果たして時代的存在拘束性という“事の大枠”から鑑みて合理的なのか?ということを考えてみたい。

するとむしろ問題性が明らかになった後の、関係当事者の古い体質や観念等がもたらす非合理性/「破壊と創造」能力/振る舞い等、
(つづく)
104市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:24:02 ID:???
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つまり「主体性」が涵養するような人格的諸能力に由来する関係者の在り方、すなわち“中枠的”なものを問題視することが、最も有意な解決につながるのではないか?との気づきに至る。
何故ならそう捉えた方が、発展する物質文明の恩恵を受け取るための“ベスト・バランス”を発見するという、より高度な合理性に辿り着ける可能性が高いからだ。

翻ってiPS細胞問題の場合、『新技術に“最終的な出口”としての経済的利潤を生み出させるためには、何処かで“商品化”のための「選択と集中」段階にシフトしなければならない。』という“大枠”の認識自体は、
これまた時代的存在拘束性(日本社会の現時点での経済発展段階)を鑑みるならば、“当然の理”として是認できる。
その上で実際的な問題性を見出すとすれば、大枠の観念を適用する段階/範囲/期間/強度/関係当事者の振る舞い方等といった“中枠”的範疇に絞り込むことが合理的なのは、上記の琵琶湖のケースと同じ論理構造だ。すなわち

『高次存在拘束性に関わる社会問題等は、時代的存在拘束性に関わっているところの容易には変え難い大枠的範疇ではなく、
(関係者の行動基準等が主体的か依存(紋切り型/頑迷)的かなどといった)中枠的範疇に関して問題意識を持つことが、往々にして合理的である。』

そしてここでもう一つの優秀者的属性である「個性」について考える。

この世で生起する事象というものは、無数と言って良いほどの多種多様な側面を持つ因果関係により運動する。その上で通常、一人の人間は一つの主体的認知体系を持つ、すなわち或る特定の側面からのみ事象を捉える傾向としての「個性」を持つことにより、
問題の特定部分において、その深部まで掘り下げた精緻な論考を為すことが、現実的に可能になる。
ちなみに個性という優秀者的属性は「個人」レベルの「選択と集中」性なのであり、選択と集中自体は、援用時に適宜・経済性を持つ限りにおいて合理的である。
例えばこの場合は、多種多様な優秀者が存在する「社会」レベルにおいては逆に、「多元均衡的世界」(過去レスリンク69.-70.)をもたらすための礎に成るという具合である。

一方で論考の場において、深みに欠けた中途半端なそれを為すことは、例えばネット上で“カエル砂鉄罪(※注)”などと揶揄されているようにほとんど害悪ですらある。
(※注 もっとも「砂鉄」氏に関しては
(つづく)
105市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:24:49 ID:???
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オレ的には、その天与の素晴らしい帰納的思考能力自体は高く評価していて、ゆえに今後の抜本的研鑽を期待しているところだ。)

では結論を述べる。優秀者的に完成された論考とは、単なる個別の帰納的論考の蓄積ではない。そうではなく、これらをもってして合理主義的因果・方法論(※注)の形成にまで至るものである。以下に詳説する。
(※注 合理主義の主属性は当論的には、経験・実証主義性/適宜・経済性である。前者は真理・真実性に、後者は主に人間生活的便益・効率性に係る。合理主義的因果・方法論は、これらの属性を同時に備えた「包括的合理性」を持つ。)

包括的合理性は、その場その場の“思いつき”、あるいは個別や特殊の論考のランダムな寄せ集めなどからは決して得られず、論考の成果物を逐一「データベース化」、
すなわち蓄積/分類/整理/統合等の演繹的編集・加工処理を為し、その上で「大枠の論理→中枠の論理→小枠の論理」というカタチでの「事象の因果の階層性を伴う包括的認識」に至るという「論理の体系化」が実現されるのでなければ、得られない。
一方で論考者というものは、往々にして或る一つの気づき/発見に到達すると(その喜び/嬉しさから)、それだけで有頂天になってそのまま固定観念化してしまいがちだが、この“(twitter風の)「小論理」は単独では、“大きな全体”の中では合理性を失うのである。
この「論理の体系性なくして(最終・包括的)合理性なし」の真理を悟り、かつ実践できれば、当該者は晴れて「優秀者」(「合」状態に在る者)となる。

ちなみに主体性/個性を持つ者が、包括的合理性を備えた合理主義的因果・方法論を構築することは、言葉で言うほど簡単なことではない。
すなわちここまで当チャプターが論じてきたところの、主として自意識の「反」状態を保つための思考統御・監督系諸機能、並びにそのような機序に対する十分な認知的理解を伴わずしては、ここ(「合」)に至れるものではない。
そもそも人間脳のデフォールトである感情系習慣的自動思考様式とは、特定観念のシンプルな思い込みをもたらすためのものであり、よってこのようなマルチプルな体系・複合的認知には、全くと言って良いほど適していないからだ。

ところで優秀者に成ったとしても尚、どうしても避け難いところの或る陥穽問題が発生するので、最後にこれについても論ずる。
(つづく)
106市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:25:28 ID:???
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前回、認知が合理主義的であるかのように感じるという倒錯が、凡庸者においては生み出されていると述べ、その上で原因としての幾つかの感情・気分的要素とか短絡性からの影響は、演繹的思考者のみならず帰納的思考者にも見いだせるものであることを述べた。
と言うのも実は(学術知/処世知などの)人のあらゆる認知の過程においては、如何なる優秀者であろうとも、生まれて初めて触れる学説等を理解しようとする際には、

『好い加減な感覚で不作為抽出した箇所を足場にして、ボンヤリとした全体理解を目指すとか、あるいは重要だと見当付けした箇所をいくつか選考するなどといった、当該観念等の重要度を曖昧に評価する蓋然知レベルから、徐々に厳密知レベルへと移行する。』

すなわち何人も、事物が包含するところの論理性の体系を、自らの主体的認知体系においても再現できるに足るだけの認知的素材を己の頭の中に蓄積し終えるまでは、事物というものを曖昧に認識するしかなく(ドクサ的)、
十分な量の認知的素材をもってする体系化を経ることで、厳密知(エピステーメー的)と呼べる段階に至れる。

ということは、蓋然・雑然性が強いドクサ段階ほど感情・気分的要素とか短絡性からの影響が大きいから、
凡庸者などはもう何もかも知ったかのように思い上がる、あるいはそれ以上の認知の深みに進むことの必要性を認識し得ずに学習すること自体を終結しやすいのであり、いわゆる煮ても焼いても食えない「尊大な善人」(第九回 参照)になってしまう。
このように認知の精緻化の進展に伴い、人は「もうこれで知るべき事は全て知った」ような気になる時というものが、何処かで来る。

そしてこうした勘違い状態の到来を回避すること自体は、残念ながらミクロ的には思考統御・監督系諸機能が統御できても、マクロ(長期間)的には人間能力を超える。
てゆーかこの手の「思い上がり/見当違い」は、“心の力学”的観点から分析するならばむしろ“己の努力に対する当然の報酬”として、
あるいは無闇な執着/煩雑さ等に陥ることを避けるなどして精神の安定/健康を保つように機能するので、無頓着にこれを否定するならば、かえって神経衰弱/精神障害などに成りかねない。だから優秀者をも含めて全ての者は、
(つづく)
107市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:26:06 ID:???
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必ずこれらの、言わば“人間味”に溢れた愚かしい失敗を何度も経験し、その後に思考統御・監督系諸機能をもってするところの自他のメタ認知を経て、己を戒めたり、より一層の老練な慎重さを獲得していくしかない。

さて当チャプターで論ずることはここまでだ。まとめると、プロトホミニド(人類祖先)においては、先に述べた如くに包括的知能向上が生起したために、高度な擬態や騙し合い、
更には相手を都合よく操作するための心理戦等に勝ち抜くための能力開発競争が始まり、この赤の女王的進化傾向は現生人類に至るまで一貫している。
そしてこうなると人は、凡庸者(動物)的在り方、すなわち各個体の無能さを(例えばイワシやフラミンゴの群れのように)大集団化することによるスケール・メリットをもってしてのみ相殺しようとするが如きレベルにいつまでも留まる限り(第九回 参照)、
一方において人(ホモサピエンス)という種が、その赤の女王的進化傾向において洗練し続けてきた帰納的思考能力により特殊的に営んでいく社会生活ならではの、
高次存在拘束性的な問題の漸次的顕現に際しては、いずれはどうにも処理し切れない矛盾に立ち至るしかないのである。
すなわち人はその帰納的思考能力により得たモノ(自己保存に有利なように自ら設計した特殊環境等)のせいで、ますます(自分の財産を奪うために後ろから追ってくる二番手の者を振り切るための)
帰納的思考能力を高めていき続けるように(すなわち優秀者化するように)行為するしかないという功利主義的自己保存宿命、言い換えるならば「エントロピー減少宿命(※注)」を内在させるところの『(前述の)「破壊と創造定理」的な弁証法的運動によって
必要・必然的に進歩/発展し続ける』という、言わば進歩の自然法の第一定理的大摂理に、自意識(日常生活)的次元においても、ついに適合するための軌道に乗った最初の生物なのである。
(※注 本来、熱力学上の概念であった「エントロピー」概念は、まず生物学において援用され、その後はニクラス・ルーマンらによって社会学に、現在では経済学/政治学/経営学など社会科学的事象全般の論理的分析に援用されている。
何故ならエントロピー概念とは、「(物質界において)変異/変化する」事象の本質的一面を見事に射抜いているからである。)
(「論考と人格」 おわり)
(つづく)
108市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/04/03(火)16:12:24 ID:???
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「人格系メタ認知的論理思考様式」
 
このチャプターでは、論考の枢要な構成要素のもう片方であるところの「知力(教養/論理構築能力など。)」が持つべき合理主義的属性について論ずる。
但しここではその一つである「経験・実証主義」(前チャプター 参照)性についてのみ論じる。(もう一つの適宜・経済性については論の展開上、当論の後半部において説明する予定。)
その上で西洋学術史に沿いつつ、これ(経験・実証主義性の説明)を為していく。

集団化とホミニゼーションが進行すると自然界の摂理に目を向けるか、人間界の秩序/倫理/道徳等に目を向けるかに拘らず、現実に生活する必要のためには、事物/事象を適切に認識/操作/管理するための
「経験・実証主義(※注)」的論考態度がまずは、全ての人類集団において直ちに生まれざるを得ない。
(※注 五感を通じて、あるいは第六感的な直観にも拠るにしろ、ともかく「経験的認識」を中心に置いた論考態度であり、この立場においては思考・判断結果の「正しさ」の証明は、
実際の問題解決/予測的中/目的完遂等によって実証される。)

更に「文明」段階に進展すると、経験に由来する知だけでは飽き足らず、現代科学においてようやく人の手が届くようになった「原子・量子物理学」、あるいは「脳科学」等がカバーするような領域、すなわち「物質とは何か/運動や変化とは何か/知る、理解する、
感じるとは何か」などどいった森羅万象に係わる普遍知に関心を持つ、更に亢じて「存在」することの本質的理解に到達しようとするが如きの、言わば論考自体をゲームであるかのように楽しむ“知的貴族/知的文化人”が、西洋文明圏において登場してきた。
すなわち地中海交易で富裕になったギリシアの都市貴族層の「哲学者(フィロソファー ・・愛知者)(※注)」がそれである。
(※注 南イタリアのギリシア植民市エレアの哲学者パルメニデスが、その属性を決定づけた者としての“西洋学術の始祖”と呼ぶに相応しい。)

とどのつまりはエンゲルス「空想から科学へ」(1883)が言うように、「個別を知らなければ全体像が分るわけがないのだが、(中略)文明のこの段階(古代ギリシア文明)にあっては、
(つづく)
109市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/04/03(火)16:13:05 ID:???
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何よりもその材料を苦心して集めなければならないという至極当然の事情から、経験・実証主義的な研究には付属的な地位しか与えられなかった。」
つまり人間の本性たる「知ろうとする欲求」と、その時点で入手可能な考察素材とを鑑みるならば、(古代西洋文明において)純粋思惟に特化した上で事物の本性を究明しようとする認知態度が固まったこと自体は、とりたてて
不思議なことでもなく(※注)、こうしてここに演繹至上主義的な学を、西洋文明が正当化することとなった。
(※注 例えばアリストテレス「形而上学」(B.C.4c中期)E第一章から参照できるような、「諸学は、それぞれ或る特定の存在や特定の類を抽き出して、諸存在の研究に専念しているが、しかし“存在”を端的に、
すなわち存在を唯、存在として(オレ注 ; あらゆる物体の本質として在る原理的属性、一例を挙げるならば固体を固体に、液体を液体に在らしめるているが如き機序とかを) 研究するのでなく、
その研究対象物の如何なる本質的属性に所以するかを知らないままに、皮相的様態のみを取り沙汰して素朴に自明であると思い込んで粗漏に帰納すること」は認められない的な情念の発生は自然。)

しかして彼らの学術的態度はすぐに、あたかも“経験実証”的であることを見下すことが目的でもあるかのように、
頭の中だけの自己満足的(実際には稚拙さと粗雑さだらけの)演繹形式に勿体ぶった威厳をまとわせて、それらをこれ見よがしに振り回すが如き次元へとエスカレートし始めた。
こうして西洋において真理・真実性を担保するための確たる明証性を明らかに欠いている知、「形而上知」が隆盛することとなるのであり、古代の指導者・特権者階層は、経験・実証主義知を奴隷職人層に担わさせた上で、著しくこれを軽視/蔑視する傾向を持った。
例えば古代ローマにおいては、医師/会計士/教師/暗誦師(※注1)などの職種は概ね「学問奴隷(※注2)」が担い、一方で例えば神話(叙事詩)の構造分析のような論考能力を要する知は、指導者・特権者階層に相応しい主知主義知として、愛知(哲学)者たちにより担われたという按配である。
(※注1 戸坂潤「科学論」(1935)によると、或る奴隷はホメロスを、また別の奴隷はヴェルギリウスを暗記するように主人から命じられており、
(つづく)
110市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/04/03(火)16:13:52 ID:???
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主人は例えば客人との会話に興を添えるために時々、奴隷たちに気の利いた引用を命じるのである。)
(※注2 このような学問奴隷は、千数百年の時を隔てて現代産業社会において大々的に復活したと言える。すなわち「尊大な善人」(第九回 参照)がそれである。)

ちなみに一般的には抽象・無形的であること(物質的実体を持たない観念論であること)をもって「形而上的」と言われるが、当論においては観念的であっても明証的な因果・合理性を伴う認識、
例えば躓いて転べば「痛い!」と思うとか、マルチン・ルターのように雷に打たれた時にそのショックで己の召命/運命を悟ったと思い込むが如きの、「自明な因果的連関性」を持つものを除いたところの、
例えば大自然・宇宙の摂理に対する素朴な畏怖(「神は存在し、かつ完全であり、無限である」からとか。)/強弁/詭弁等に拠る観念論を特に「形而上的」だと呼ぶことにする。

例えば本来、或る特定の演繹的観念操作とは、或る特定の視点からの因果的連関を断言できるのみであるにも拘らず、エンゲルスが前掲書において更に言うように形而上知においては、
「絶対に対立する矛盾としてモノを考える/しかり、しかり、いな、いなと言えこれに過ぐるは悪より出ずるなり/肯定と否定とは絶対的に相排斥する、原因と結果もまた互いに動きの取れぬ対立である」・・ 
要するに(前チャプターで述べたところの)「事象の因果の階層性」認識に拠る「論理の体系化」が不全である傾向を持つのである。
だから事物/事象が包含する一側面・因子のみを見てするところの部分的結論でしかないものを、このエンゲルスの指摘のように稚拙にも(もしくは故意的に)即、事象の全体に適用してしまうというわけだ。
もちろん前チャプターで述べたように現実事象とは、ありとあらゆる諸因子が同時・輻輳的/多面的にからみ合ったことの結果として顕現するのであるからして、こんな形而上的結論とは一致するわけがない。

ともかく愛知者(フィロソファー)の界隈における知とはこんな風なものだから、彼らの内の誰かが「真理・真実」だとするものを実際に集合知的に担保させた力とは、権威/権力/尤もらしさ/修辞能力などといった感情系習慣的自動思考様式的産物だったのである。
(つづく)
111市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/04/03(火)16:14:32 ID:???
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その上でアリストテレスが宣言したように、「如何なる技術も如何なる研究も(中略)ことごとく何らかの“善きモノ”を追求」(「ニコマコス倫理学」第一巻第一章の冒頭)しているという矜持を持ったならば、こうした“曖昧模糊とした胡散臭い”学術環境とは、
凡そ善きモノとは程遠い“悪しきモノ”しか生み得ないことは、当時の彼ら“愛知者”自身においてさえも、本音レベルでは解りきったことであった。

しかして多数派である凡庸者においては、論考の成果物の質を担保するものの一翼であるところの人格的諸能力が未熟であるから、現実の歴史においては、18世紀も末になりイギリス経験論者(ロックなど)の登場により背中を押されるまでは、
現実にこうした存在拘束性の陥穽から本気で脱出しようとする気運は、形而上学界には現れなかった(※注)。
(※注 ついにカントが、人は全く経験に因らずに頭の中だけで、完全な自明性を伴う諸認識(「ア・プリオリ(先験的)な認識」なるもの)を得ていることを論証しようとした。
すなわち、「先験知を正しく理解し用いるという“修正”を成すなら、形而上学は自然科学同様に実証主義的科学たり得、もって尚も存続する価値が在る。」と必死に力説したのである(「純粋理性批判」 1781)。
しかしてカント批判哲学自体が、「神/霊魂」等にまつわる一切の言葉の使用を避けただけの相変わらずの純粋演繹論であり、これを理解しようと努めたところで当然の如くに何の(包括的)自明性も得られない。
が、とにもかくにもこの風変わりな“修正主義形而上知”に埋め込まれた(カント本人的にはさして重要ではない)弁証法が、実質的にはマルクスにまで至るところの経験・実証主義知の画期的な新系譜をスタートさせることとなった。)

というわけでここで、この後1,000年以上にも及んで、その根幹的ドグマとしてのアリストテレス的「観照」性(※注)に取りつかれていくところの形而上知の本源的欺瞞性を、その本家本元のプラトン/アリストテレスの言説から具体的に看取してみよう。
(※注 言わば偽メタ認知。論考行為において人格的諸能力が担うような思考統御・監督系諸機能を知らず、体裁のみの演繹的論理性をもってしてメタ認知(客観視)していると思い込む。)
(つづく)
112市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/04/03(火)16:15:13 ID:???
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まずは形而上知の創生期の第一人者であるプラトン(※注)の「国家」(B.C.370頃、プラトンが自らの恩師であるソクラテスの口を借りて論説するという形式を採る。)だが、彼は結論部にあたる最終巻(第十巻)で、「(ホメロスのような)詩人や画家といった類の人種は、
事物の真理/本質は何も分からないくせに、さも何もかもを知っているかのような素振りをして真実/真理ではない嘘の作り話や似姿を作り出す。」として、要するに経験・実証主義的でないことを避難するのだが、その舌の根も乾かないうちに、
今度は自らが、(ホメロスの「アルキノスの物語」(「オデッセイア」)をコケにした返す刀で)「アルメニオスの息子エルの物語」なるものを持ち出してきて、死後に人の魂が神々によって如何に裁かれるか、などという話を延々と講釈して「国家」という大作を総括している。
もちろんプラトンは、ここで自らが完全な自家撞着を為していることなどは、全く毛ほども気づいていない(すなわち未だ自己批判的観念に始原する「メタ認知」を知らない)のであり、全く天晴れなほど堂々とこれを論じきっている。
(※注 プラトンが開設した学校「アカデメイア」の名は、「学界/大学」を意味する普通名詞になった。)

そして次にアカデメイアの優等生であり、中世期以後の西洋学術全般の根本的在り方に決定的な影響を与え、人類の学術史上、最も広範な影響力を人知に与えたという意味において“超大物”であるアリストテレスの、
彼が古代人であることを割り引いて見たとしても(※注)尚、凡庸者的存在拘束性の陥穽にはまっているとしか断じざるを得ない事例を以下に見てみる。
(※注 未だ物質の本源が「原子/分子」であること、並びに近代物理学を知らないこと。)

中世においては「実在論/唯名論」が対立する「普遍論争」として代表的な哲学・キリスト教神学論争のネタとなるところの、
彼の師匠プラトンが「イディア論」として最初に提示した「実在と類の二元論的因果論」の継承物、すなわち彼の「個物(種)と普遍(類)の概念」は、前掲の「形而上学」によると、事物の根本原因としての“何か”を「原理(アルケー)」と呼び(A 第三章)、
例えば個物(例えば動物)の「実体(※注)」(例えば霊魂)は、それ固有の或る原理により形成されるなどと考える。
(つづく)
113市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/04/03(火)16:15:54 ID:???
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その上で概ね『(実体からの構成物としての)質料(基体)と述語(形相/属性)を伴うものとしての種(個物の対応物)に対して原理が一対一で対応し、もって「個物が存する」ものなのか?、
あるいは複数の種に共通な“述語”を伴うものとしての類(普遍)に原理が対応していて、もって「実体は存せず、それゆえに個物もまた存しない」ものなのか?』と問題設定する(B 第一章~第四章)。
(※注 プラトン学派においては「実体」とは、例えば視覚/聴覚等の感覚により認識できるものとしての自然物(実在・・フィシス)のみならず、感覚によっては捉えることができない概念物、例えば「数/点/線」なども包含する概念。)

しかしてまずは何はさて置いて、このような“類”だの“原理”だのという概念物は、如何なる経緯をもってして演繹的論理計算の被操作因子たりえるだけの“資格”を得たのか?
言い換えれば、それらが如何にしてこの世に“確実に在る/かくかくしかじかの属性を持つ”ことが、かつて証明されたと言うのか?(単に“言い出しっぺ”のパルメニデスを踏襲するだけで良いのか?)という疑念が発生する。
すなわちその証明経過を確実に提示し、もって議論参加者がその自明性を共通認識としない限りは、これらの“類”だの“原理”だのという存在性が曖昧な被操作因子を用いた存在論(演繹)を、先へ先へとは進ませ得ないのではないか?
例えば「○○だから●●、そして●●だから△△、故に対象物はかくかくしかじか」的な演繹的論理展開は、全て無効になってしまうのではないのか?
すなわち「三段論法」にしろ何にしろ、演繹的論法の合理性を担保するものは、『一つの論考過程が完全性(一片の曇りもない自明性)の獲得でカタが付いて、
もって次の論考過程に“駒を進めなければならない。』という掟であるはずなのに、この根幹的ドグマが、全くもって蔑ろにされている。

というわけでこのようなユルい知が、主として有閑な富裕層のステイタスとして延々と堅持されていく(※注1)一方で、実は真のエピステーメー(厳密知)と言うべき経験・実証主義知もまた後期ギリシア文明(ヘレニズム期)に至り、
(主として数学/天文学/地理学において)学術知として認容されるようになっていく(※注2)。
(つづく)
114市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/04/03(火)16:16:36 ID:???
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(※注1 例えば中世初期のユニークな弁証法論者であるエリウゲナの学説は次のようである。「万物とは、"無"であるところの神から"知恵"がその"原因"として永遠に発せられ、
そこから時空的に展開されて"世界"となる。次に(弁証法的運動により)世界は元の永遠たる原因に帰し、そこからまた無(神)に戻る。」)
(※注2 既にピタゴラス(B.C.6c)が、経験・実証主義的知の"基礎的道具"であるところの「数学(マテーマタ)」を学術として樹立していたのだが、ヘレニズム期のアルキメデス(アルキメデスの原理など)/ユークリッド(幾何学の公理系/定理の確立)/
エラトステネス(観測データと幾何学的計算から地球の円周を極めて正確に算出)らの大偉業によって、ついに真の厳密知たる科学(エピステーメー)が誕生した。)

かくして確立した西洋学術における知の二大体系は、有識者の意識の中で二律背反的な矛盾/葛藤を生み出すことなく両立し、かつ双方が必要に応じて調和的に融合されることとなる(※注)。
ちなみにこの傾向を根本的に懐疑したりオカシいと思う者は、デカルト以前には、唯の一人も出なかった。
すなわち五感や生活上の経験等によって自明に認識できることはそのように(例えば「日は東から昇り西に入る/人は生まれ死ぬ/人を蔑めば恨まれる/物量の計算や計測など。)、
そうでないこと(例えば「人の魂は不滅である/(ギリシア的な)神が人の姿をとって現れて、人と共に闘う」など。)は存在拘束性にまかせて好き勝手にデッち上げるが如き“知のごった煮”弁証法的運動が、ここに始まったのであった。
(※注 このような属性は、例えばパスカル「パンセ」などに典型的に表れている。)

そして後者(形而上知)においては実証性を何ら顧慮せず、真理・真実性を担保するための明証性を欠いているのにも拘らず権威だけは持つから、これ以降、
ヘゲモニー層にとっての絶好の武器、“神のマガイモノ”的なプロパガンダ媒体として最適化されていく。
すなわちキリスト教においては、1世紀以降、カトリック教会が形成されていく過程においてユダヤ教パリサイ派譲りの合理的な主知主義的傾向(※注)がギリシア哲学とキリスト教神学を渾然一体として融合させるも、
(つづく)
115市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/04/03(火)16:17:11 ID:???
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ついにアウグスティヌス(4c-5c)に至り、その祖先であるユダヤ教、および原始キリスト教とは似ても似つかないほどの形式・権威主義的な因果論体系に貶められ、もって中世キリスト教世界の指導者・特権者階層ヘゲモニーのためのイデオロギー的基礎となっていく。
(※注 ヴェーバーは「パリサイびと」(「古代ユダヤ教Ⅱ」みすず書房刊 付録)において、「新約聖書の中で「パリサイ人(びと)」と呼ばれるユダヤ教内グループにおいては、宗教的エクスタシー/魔術/呪術の類は本質的に嫌悪され、
更に「ラビ(平民の聖書学者)」たちがこのグループと密接に関わり、聖書/律法の一字一句をバカの一つ覚えのように厳守するところの演繹的思考に対抗したり、占術的決定論を否定するなどの合理主義知的活動を担う。
その上でパウロなどの初期キリスト者(使徒)には、パリサイ人の実践的宣教・組織論が継承された。」旨を述べている。)

そしてこれらプロパガンディック・イデオロギーの洗練・精緻化段階においては、例えば全称命題を好き放題に氾濫させまくって、もって人々を丸ごと抱え込んで教導していくレトリックを始めとするところの、数々の王道の「身分制支配レトリック」が樹立されていく。
そしてこれはカトリシズムを否定した後代のプロスタンティズム期においてさえも(産業革命が始まるまでは)、例えば「パンソフィア」の提唱者として知られたJ・A・コメニウスの
「大教授学」(1657)などに見受けられる如くに、洪水の如き無数の全称命題を、 (簡単には消え去らない遺物的レトリック癖として)長らく巷に溢れ返させ続けた(※注)。
(※注 これをザッと見てみると、「大小問わずあらゆる事物について知らないことが、いささかも無いように/人間の精神は無限・無辺のもの/何処のどんな被造物であろうが理性を備えた魂の前では隠れることはできない/自然を案内者とするなら、
人間はあらゆるものに到達できる/人間は大宇宙に在るもの全てを内に持つ小宇宙/人間には(全てが元々宿っているから)何一つ外から持ち込む必要がない/正しい教授法をわきまえれば、
あらゆる事物を(学生の)心に描ける」等々、全称命題が無数に出てくるのであり、現代のオレたちから見れば、その胡散臭さが半端ない。)
(つづく)
116市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/04/03(火)16:17:41 ID:???
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しかし自然学領域に限られてはいるが、12世紀頃から主としてイスラム世界から再輸入されたところの、(この領域においてだけは経験・実証主義的な)アリストテレス学術の強烈な影響から

『何人も存在拘束性の陥穽から一意的に逃れる術を持たないこと、更には事物を純粋演繹(形而上)的に論考したとしても、それはいづれは「人間の手前勝手な空想にすぎなくなる」という陥穽にはまっていくことを如何様にしたところで回避できない。』

ことを悟ってくる者たちが現れてきた。すなわちロバート・グロステスト、及びその弟子のロジャー・ベーコンは、「最終的には経験的事実認識を判断基準とするところの帰納的思考様式を採用する以外には、論考の内容が真理/真実に近づけるための合理的選択の余地がない。」ことを悟る。
こうしてヘレニズムの天才たち、もしくは社会の下層で奴隷などとしてモノ作り等を強いられてきた職人層にとっては、もとより汎人類的な自然な認知態度として当たり前であるところの、経験・実証主義的な帰納的思考様式を、ポツポツと学界主流においても認めるようになる。

一方、アラブ世界からアヴェロエス的「二重真理説」などとともに西洋に移入されたアリストテレス哲学の“嗜癖的観照性(ロゴス)”の衝撃は、当時としては十分に洗練された合理的学術態度を持つところの「スコラ哲学」を生んだ。

そしてこの学の新たな二大潮流は、折から勃興した「大学」の定着とも相まって、この後も潰(つい)えることなく、一般社会をもその感動と興奮の渦に巻き込んだイタリア・ルネサンス(※注1)と
その後の北イタリアの諸大学において顕著に現れたところの「近代科学の萌芽」的進歩・発展にまで通じ、ついに16世紀からの大弁証法的運動(第六回 参照)が始まると、全社会階層の人々をして支配的観念の「破壊と創造」過程に入らせる。
(※注1 12世紀からの中世自由都市の隆盛、交易で栄えた富裕商人層の活躍は、この時期に人間生活全般を覆い尽くした巨大な技術革新の連鎖をもたらした(※注2)。
こうした中でポンポナッツィはカトリック的"神"解釈を実質的に否定する「万物的因果論」者として、原始キリスト教団の使徒たちが本来、イメージしていたであろうところの「神 = 大宇宙の因果律」的解釈を大胆に復活させた。)
(つづく)
117市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/04/03(火)16:22:37 ID:???
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(※注2 例えば熔鉱炉/石炭で作られる鋳鉄の技術、為替手形/複式簿記の普及、織物や染色技術の向上、火薬を用いる兵器や築城術の進歩、化学/工学の発展などなどであり、これらは嫌が上でも人知における経験・実証主義知の価値を高め、
学界においては1560年のナポリで、世界初の自然科学者のための会員制組織である「自然の秘密のアカデミア」が創設されたりした。)

こうして多くの人々がカトリック的世界観に公然と反旗を翻し、勇敢にもこれを破棄するようになり、以降の自然科学/社会科学の方向性をそれぞれ完全に決定づけることになる二人の"天才的合理主義者"が時代に登壇するための“露払い”を為した。
すなわち自然科学領域においては、デカルトが近代的論理学・科学哲学の基礎の一部分を確立し(※注1)、社会科学領域ではホッブズが、「社会科学における自然科学的判然性」観念を提示し、
(マキャベリ「君主論」などの特殊的存在拘束性下で創造されたヘゲモニー論を除けば)一般論としての「人と社会の関係論」において、初めて"神"という概念を完全排除した経験・実証主義的姿勢を打ち出すという、
人間文明における大パラダイム転換への第一歩を標した(※注2)。
(※注1 "今ここで考えている自分"が存在すること以外には何一つ確かなものはないとする有名な主観存在論的命題から出発するも、残念ながら彼の潔癖症・臆病的人格の陥穽により、演繹的思考の呪縛を超えることまではできなかった。
すなわち”神”崇拝物としての形而上知を否定できるだけの度胸/帰納的論理構築力等を持てず、最終的には出発点であった認知的明証性観念を拡大できなかったのが、デカルトである。
しかしいずれにしても近代科学の論理・科学哲学の(数学という学の明証性などを含む)ドグマを提示し得たという彼の功績は、間違いなく偉大である。)
(※注2 ホッブズの理論は主著の「リヴァイアサン」(1651)に集約されている。これは基本的には経験論的合理主義から導かれた道徳法(「自然法」)に基づく社会体制/統治術についての、正に"人類史を画する論考"であり、彼の前においては「人間」も、
飽くなき欲求充足に駆り立てられるだけの単なる「自動機械」でしかない(※注3)。これこそはヘンリー八世以降、ローマ教会と完全に断交した
(つづく)
118市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/04/03(火)16:26:39 ID:???
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イギリスにおいてのみ成し得たであろうところの、人類の思想史上の言わば”第三の天地創造(※注4)”だと言って良いほどのものである。
すなわちJ.D.バナールが言う、「人間が精霊による自然現象の説明にかじりついている限り、科学の発達は強く妨げられていた。/精霊説は他のどんな説と比べても劣らないように見えたばかりか、信仰と蓋然性(確率)を思慮深く組み合わせることによって、
物事を非常に上手く説明できるものだと思われることさえできた。/精霊からその大権を奪い取ろうとする試みは精霊を怒らせるに違いないから、有害であるとさえ思われていた。」(「歴史における科学」 1954 )的な
人々の“恐怖心の壁”という経年の認知的限界を(デカルトの“屁っピリ腰” 的ケースとは対称的に)ついに突破したということなのである。)
(※注3 当時、デカルトが提示した「動物機械論」でさえ(ヨーロッパ)大陸においては、驚愕と激しい論争を巻き起こしたことを思えば、当時においてこれが如何ほどまでに"ブッ飛んだ"認識であったかが察せられようというものである。)
(※注4 第一は旧約的「天地創造」に見られるが如きの宗教の教義に因る社会秩序の確立。第二は人類が交換経済体制を樹立し得るだけの余剰生産能力を獲得したことを受けての「私有財産制」の勃興。
そして第三が、この経験・実証主義に基づいた人間/社会に係る合理主義的認知態度の確立。)

そしてその後にスピノザの汎神論(※注1)が出たりで17世紀後半の言わば、近代科学大爆発の、“嵐のような50年間”に至るのであり、産業革命の開始を文字通り“準備”し終えた頃までには、
カトリック以外の指導者・特権者階層は、概ねこれ(経験・実証主義知の大爆発)に胸を躍らせ小踊りしていた(※注2)。
(※注1 ルネサンス期のポンポナッツィに続く「神 = 大宇宙的因果律」論の提唱者。反デカルト主義者でもあり、彼の論は「この宇宙の全事物・事象は、
自らの内にその存在原因(「自己原因」)を持つ。」とする「因果律至上主義」論(※注3)であり、唯神論(超越的な"神"が万物を創造し司る。)を否定した。)
(※注2 上記のように16世紀にローマ教会と絶縁し、独自の国教会体制に移行していたことで、宗教・政治的弾圧の懸念が失くなっていたイギリスにおいて17世紀に近代科学ブームを受けて、ジョン・ロック/デヴィッド・ヒュームらが
(つづく)
119市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/04/03(火)16:29:27 ID:???
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カトリック的プロパガンダ(神への愛/キリストへの信仰のみが救いをもたらす的な。)の完全否定に等しいところの、大っぴらな経験・実証主義的社会理論を提唱して宗教・哲学界に一大衝撃を与えた。
これにより(前述のように)経験・実証主義的立場に大幅に歩み寄った形而上知の新潮流としての、カントからマルクスにまで連なるドイツ観念論哲学が勃興する。
またゲーテの「ファウスト」(1808-1833)は、或る老学者が事物を演繹・形而上的に研究しても何も得られなかったことに煩悶し、仲介者(悪魔)が導く様々な実体験を通じて、経験・実証主義の合理性をついに悟るという物語である。
この物語の終幕(第五幕)においてファウストは「わしはひたすら世の中を駆け抜けてきた。あらゆる享楽の髪を引っつかみ、満足させてくれぬものは手放し、すり抜けて行くものは行くに任せた。(中略)雲の上にも自分と同じような者がいると空想する者は、愚かだ。
しっかりと立って、ここで辺りを見回せ!有能な者に対し、この世界は黙っていない。何で永遠の中に彷徨う必要があろう?自分の認識するものは捉えることができる。そんな風に地上の日を送っていくが良い。」と、“憂い”との対話の中でついに宣言するのである。)
(※注3 個々の事物/事象の中に全原因(因果)が包含されるとされる「唯名論」的視点は、当然のごとく観察/実験等に基づく帰納的思考様式/経験・実証主義に通じる。)

というわけで歴史的には、パルメニデス(西洋学術の始祖)の経験的事実認識(「正」)を蔑視した純粋論理性(ロゴス)の提唱が、西洋人をして形而上知の暗闇を突き進むように仕向けさせるも(「反」)、元々人類を人類たらしめ、かつ(チャプター冒頭部で述べたように)
人類が存続するためには一時もこれ無しでは済ますことができない経験・実証主義知に、また後から引き返してきた(「合」)ことが重要である。
つまり西洋人は誤った方向だとはいえ、論理構築能力を練磨した上で、最終的には正しい方向へ引き返し得たのである。これこそは、進歩の自然法的な大きな弁証法的運動である。(ちなみに一方の我々の東洋においては、
残念ながら最終的に経験・実証主義知こそが最重要だと認識するような、このようなヘーゲル的弁証法的運動は生起しなかった。その理由は、後の回で説明する。)
ともかくここにその正当性を認められた
(つづく)

120市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/04/03(火)16:30:12 ID:???
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経験・実証主義知を生むものとしての帰納的思考様式こそは、(前チャプターで述べたように)ラマピテクスが生活の細部に至るまでの経験的事実認識を無駄にせず、これを徹底的に利用するために開発し、
更にホミニゼーションにより格段に高められた人格的諸能力に基づく思考統御・監督系諸機能と知力により、主として優秀者たちにより継承されてきたところの「合理性を追求するための新規の判断システム」におけるメインの思考様式そのものに他ならない。
というわけでこれ(帰納的思考様式)を認知システム論的見地から言及する際には、今後は『人格系メタ認知的論理思考様式』と呼ぶことにする。

『存在拘束性の陥穽によって常に思考が非合理的に歪められてしまうという宿命から完全には逃れられない人類が、確かな何をかを知り得るとすれば、
それは人格の力の介添えにより「ありのままの事実(※注)」のメタ認知を為し、もって帰納的気づきに基づいて論考し、またありのままの事実に戻って確認するという立場を堅持し得た場合のみである。』(『観念運動の自然法 第六定理(帰納的思考様式定理)』)
(※注 「スキーマ」(認知心理学用語/過去レス123.参照)に基づいて一次認識を自動的に概念化するのではなく、フッサール的「現象学的還元」によって得られる「純粋意識」が、「イデア視(形相的還元)」されて「原本的に与える直観」としての「本質直観」となったものである。
平たく言えば、事物/事象の観察のみから得られる、予断が差し挟まれていない事実認識。)

というわけで他者(親/教師等)/社会(公教育/常識/慣習等)の力に依存することに慣れきってしまった“秀才”(トップレベル凡庸者)は眼前の事象に対して、「受動知(狭義の演繹知であり非経験・実証主義的)」による原理・原則的な真理/真実の発見はできるにしても、
己の人格/知性をフルに用いて主体的に論考する「能動知(自らが以前に創造した知を包含する広義の演繹知と破壊と創造的事象のミックスであり経験・実証主義的)」によってのみ発見可能な個別的真理・真実に到達できる可能性は絶無となる。
とどのつまりこの「経験・実証主義」的認知態度とは、現状の進化段階に在る人間脳が、現に己の身に生起する事象に対する認識/判断の有意性(価値)を担保するためには、”必須な安全弁”なのである。
(「人格系メタ認知的論理思考様式」 おわり)
(第十二回 おわり)
121市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)16:52:45 ID:???
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「市民層  概論」 第十三回

「フレキシブルな自己管理性を伴うストイシズム – “厳しさ”という能力 - 」

さて前回までにおいて読者は、感情系習慣的自動思考様式/人格系メタ認知的論理思考様式という現生人類が保持する二大認知システムを理解できた。
そしてこのチャプターでは、人格系メタ認知的論理思考の成果物である新規の思考アルゴリズム(以下、「新アルゴリズム」と呼ぶ。)が形成され、それがバイパス・チャンクとして運用されるようになるまでの過程において、
思考統御・監督系諸機能のもう一つの源泉として作用しているところの始原人格であるストイシズム(感情・欲求抑制観念)とその派生的能力について説明する。

まずこの説明の前に留意しておくべき重要事項がある。それは人格系メタ認知的論理思考様式とは感情系習慣的自動思考様式に対置されるものではないということ。
これは一度、新アルゴリズムからバイパス・チャンクが完成されてしまえば後は、感情系習慣的自動思考様式、すなわち情動のみによりこれがドライヴされることに拠る。
すなわち人は人格系メタ認知的論理思考と感情系習慣的自動思考様式を共々に、積極的に利用するのである。では始めよう。

合理主義的論考としての人格系メタ認知的論理思考を成すには、論考者の自意識に予め「合理主義に対する確たる信頼意識」が宿っている必要がある。すなわちこの合理主義意識と前回述べたところの論考欲求との合力的作用によって合理主義的思考が開始される。
ところがこの際にデフォールトの感情系習慣的自動思考様式は、その名の通り、感情をもってしてあくまでも正規チャンクの援用を迫ってくる。具体的には様々な処罰的不快感情を発生させて論考を諦めさせようとしてくる(※注)。
しかもこの妨害を何とか振り切って無事に論考を終え、新アルゴリズムを(数日後でも覚えていられる程度に)長期記憶化できたとしても尚、直ちには正規チャンクの自動援用を止められるわけではない。
つまり依然として感情系習慣的自動思考様式が強烈な違和感、例えば「自分が自分でなくなってしまうような虚無感」などを発生させて、新アルゴリズムの利用を執拗に妨害してくるからだ。
(※注 これについてオレの実体験に基づいて言うならば、生来、慣れ親しんだ感情系習慣的自動思考様式の正規チャンクの活動に抗しようとすると、
(つづく)
122市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)16:54:17 ID:???
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ある種の精神的ショックが顕現する。
その内容を具体的に挙げるならば、「つかみどころがない不安感/後悔/罪悪感/孤独感/イライラ/損をした気分/世界がひっくり返るような気分」、
またそれが特定人物/社会等に対する自分の態度などに関する場合であれば、「怒り/絶望感/癇癪めいた感情」などである。)

これらの妨害は、脳OS(感情系習慣的自動思考様式オペレーティング・システム・・第十一回 参照)の、言わば“自己存在”を賭けた自己防衛的処置だと言え、要するに“敵も命懸け”なのだ。
そしてこの脳OS(第十一回 参照)の強力な自己防衛活動を打破するための決定力として、(前回解説したように)人類がそのホミニゼーション過程において二つの始原人格と同時進行的に開発し続けてきたもう一つの始原人格が、ストイシズム(欲求抑制観念)なのである。

さて論考者が一連の人格系メタ認知的論理思考過程を完遂するためには、要所々々で発生してくるところの処罰的不快感情を、このストイシズムが派生させる諸能力により抑制しなければならないという認識が、まずは要る。
具体的には、「メタ認知系諸能力(三能力)を感情系習慣的自動思考様式の感情/欲求の影響から免れさせてくれる機能」の主機能を供給するストイシズム系諸能力をもってして、“克己心による戦い”を遂行しなければならないという覚悟である。

論考者がこの情動抑制の覚悟を持った上でストイシズム系諸能力が不快情動を適切に統御し続けられれば、脳内において適宜、バイパス・チャンクを造成するためのシナプス新設“就寝時集中工事(※注1)”が為され、
もって正規チャンクと新アルゴリズムを連絡させるための、言わば“一般道バイパス”が開通する(注2)。
(※注1 日中の新アルゴリズムの利用強度に応じてプログラムされていると思われるところの“施工計画”に拠る。)
(※注2 オレの個人的経験に基づいて言うと、例えばイメージ・チャンク(バイパス・チャンクの一種・・第十二回 参照)の新アルゴリズム生成からとりあえず何とか通行できる程度の
“未舗装”一般道バイパス開通までに要する日数は、既存のバイパス・チャンクに“部分的な改修工事”を施すために、ほぼ毎日のイメージ・トレーニングを30分から1時間程、継続した場合において、概ね1-2週間程度。
(つづく)
123市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)16:55:19 ID:???
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そして(これは残念ながらキチンと測ったことはないから正確には言えないが)、無からの完全な新築工事の場合だと、多分、半年から一年くらいはかかる。)

こうしてようやく新アルゴリズムが形成する認識が(無理して呼び出さなくとも)向こうからバイパスを通って、感情系習慣的自動思考様式の快感情を伴いつつ自然にやってくるのであり、
この段階(脳OSがバイパス・チャンクを、“第二正規チャンク”として認識する段階) までくると、もうそれ以前のようには不快感情は発生しなくなる。
そして更に一般道バイパスの利用強度に応じて追加工事が為され、“ハイウェイ・バイパス”が落成すると、高度な職人的妙技さえも可能になるというわけだ。

ではここで再び前掲の「砂漠の花」を見てみよう。男遍歴にも嫌気がさしてきた平林たい子は、ある男に対して「ああ、(中略)も一人だけ男を持つことを天に許してもらおう。
この男が当たりであろうと、はずれであろうと(中略)この男と一生を共にすることにするから。」と、悲愴な決意をもって、また別の或る男と付き合いはじめる。
しかし一方において、「愛があれば現実の貧しさなどはものの数ではないという信仰」を持ったとしても「一歩その愛の中に踏み込むと、愛情の花をしぼませる一番恐ろしい毒気流は貧乏であることを誰でもすぐ発見する」ことも理性では理解している。
その上で相手の男の(見込みのない)器量の小ささを知り悲しみに襲われても尚、理性的判断に従って諦めるどころか、何とか「努力して(二人の関係を愛情をもってして)珠になるまで磨き上げてみせよう」と、平林は虚しい決意を新たにするのである。

さてこの事例からは、人は一度バイパス・チャンクを形成してしまえば、容易にメタ認知(例えば「愛だけではどうにもならない。」など。)できるにしても、実はそれだけでは全く足りず、
何気ない普段の生活において際限なく込上げ続ける衝動(例えば「是が非でも男が欲しい。」など。)を、持続的に統御する必要があることを看取できるのである。
つまり脳OSのデフォールト設定に逆らう際、とりわけ高次存在拘束性に関わる事案においてはOSからの抵抗が継続・間歇的に持続するのである。
(つづく)
124市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)16:55:58 ID:???
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しかして普通は無闇に衝動抑制を続けていると、いずれイライラ・癇癪等が高じて生活不能になるまでに成ってしまう(※注1)。つまり人は闇雲な情動抑制に依るのみでは、感情系習慣的自動思考(正規チャンク)に対抗できない。
すなわちここにおいては、人間脳の進化生物学的器質属性に由来するところの、とてつもなく抗し難い認知・行動的存在拘束性が見い出せるのであり、つまりこれは動物脳数億年の進化過程で、脳OSが背に腹は代えられない事情により持たざるを得なかった
“設計思想(※注2)”に由来する強烈な存在拘束性、言い換えれば人をして「本能的一意的認知形式という殻の中に心地良さをもってして閉じ込もらせようとする不変の存在拘束性」なのである。
(※注1 最終的にはノイローゼ/強迫神経症/パニック障害/強度の依存症などの“廃人”化の道を辿るしかなくなる(第十一回 参照)。)
(※注2 安静時において既に基礎代謝の20%に達する脳のエネルギー消費量の更なる増大をできるだけ抑えこもうという、「(動物史においては概ね一貫している)食糧確保が容易ではないという環境的存在拘束性がもたらした省エネ思想。)

その上で

『人間にはその「克己心の限界」があるがゆえに、前回述べたところの主体的達成意欲・自己批判的観念系人格的能力がもたらすような客観的認識、
あるいは単にストイシズムの力によるのみでは、感情系習慣的自動思考様式が際限なく発生させ続ける感情/欲求を統御できない。』

そしてここまで理解できたところで、次に挙げるヨハネス・ケプラーの事例を見てもらいたい。

彼はブラーエの徒弟として火星の軌道を計算する仕事を与えられ、ついにそれをやり遂げたと思った時に、実測データと彼の物理学的理論値が若干違っていることに気がついた。
しかしその違いはわずかであり、もしコペルニクスであれば誤差として無視したであろう程度のものでしかなかったそうだ。しかしケプラーはあえて彼の進歩主義的な信条からそれをせず、従前の理論を破棄し、また始めから再構築することにしたのである。
(つづく)
125市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)16:56:30 ID:???
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ところがこうして再構築された新理論は、従来信じられてきたような、「全ての惑星は、中心である太陽の周りを一定速度、
かつ真円軌道をもってして周回する。」が如くの幾何学的美意識に整合したドグマに反するものだった。

そしてケプラーは、このことで大いに悩み苦しんだ。彼は自分が“犯罪者”か“馬鹿者”のような気がした。何故なら新理論は、「創造主たる神が、果たしてこんな歪んだ醜い創造を、本当に成したのだろうか?」と、誰しもが思うようなものだからだ。
しかしこの新理論をもってしない限り、論理と実測データが整合しないのである。すなわち火星の周回運動とは、一定速度でもなければ、真円軌道でもない。速度は周期的に変化し、かつ軌道は楕円なのである。
もしケプラーがこのような新理論を勇気をもって公表していなければ、「天文学の問題とは力学の問題を探求することでしか解決され得ない。」ことが、当時の科学者たちに確信されることもなく、もってホイヘンスの公式もボレリの論理も生れず、
フックが提示した原案をニュートンが、その類まれな数学的能力によって厳密に論理化し、もって問題を最終解決することも起こらず、
近代物理学における基本的認知態度(帰納的思考様式)(※注)に追従したところの、その他の自然科学領域での諸々の大発見は、大幅に遅れたであろう。
(※注 例えばニュートンは次のことを自著において述べている。「現象(オレ注 ; 経験的事実認識)を説明するに十分な真の原因(オレ注 ; 経験・実証主義的原因)以外のどんな原因(オレ注 ; 例えば精霊説などのアニミズム的原因)も、
自然の中に求めてはいけない/(現象から導き出されたのでないものは全て“仮説”だから)私は仮説を創らない/実験哲学(オレ注 ; 自然科学)では、現象から帰納法によって導き出された命題は、それに対立するどんな命題を考え出すことができる場合でも、
その命題をより正確にするとか、あるいは例外にしてしまうような別の現象が現れるまでは、その命題が正確で極めて真に近いものだと見做さなければならない。この規則に従うべきで、帰納法による推論を仮説でぶち壊してはならない。」など。)
(つづく)
126市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)16:57:05 ID:???
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こうしてケプラーにおいては、最終的には脳OS由来の認知・行動的存在拘束性の壁を突破したのだが、ではケプラーは何故これができたのだろうか?
すなわち全ての人間には上述した克己心の限界という、時系列的に超越不可能な“我慢の限度”があるために、単なるストイシズム系の思考統御・監督系諸機能のみをもってしては、
際限なく湧き出す衝動を抑制できないはずなのに、彼は如何にしてこの壁を超えたのか?

実は己自身の内から発生するストイシズムとは異なるところの外部のストイシズム系生成物としての、社会に在る『ストイシズム系行動文化』を利用することで、ケプラーは脳OS由来の認知・行動的存在拘束性の壁を突破したのである。
すなわち前回述べた12世紀以降の西洋社会において高まり続けてた経験・実証主義的方向へ進むエートスがついに生んだところの、カトリック的世界観に最終的な引導を渡した
「プロテスタンティズムが生んだストイシズム系行動文化(厳しい自己規律性を伴う生活こそが“神意”に適うとするもので、とりわけ主体性/合理的思考能力の涵養を促す。)」からの援護によって、彼は勇断ができたのである。

ちなみにストイシズム系行動文化の基本形態とは、例えば毎朝、定時に起床する/物・サービスを買ったら金を支払う/法規・規則を遵守する/家族を思いやる/
人に遭ったら挨拶する/自分の家族員ではない他者と何かの行動を一緒にする/食事を摂る/食事の支度をする/駅まで歩く・・などなどといった、日常生活上の極めて義務性が高いルーチン群である。

すなわち個人のストイシズム系諸能力とは、実はこのようなストイシズム系行動文化によって涵養/維持されるという面が大きく、普通は特に意識しないでも、
日常生活上の思考/判断において最低限必要な『ストイシズム系人格・観念的能力』は、誰でも自然に持てる。
しかし昨今の日本人のように一旦、完全に引きこもってしまうとか、もしくは徹底的に楽隠居したりして、一度、日常的ルーチンから遮断されてしまうならば、
多分、数ヶ月ほどで最低限の生活維持的行為でさえ辛くてできないほどにストイシズム系人格・観念的能力を失ってしまうこととなる。
(つづく)
127市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)16:57:40 ID:???
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すなわちストイシズム系諸能力が実効力を持つためには、他の二つの始原人格系の場合とは異なり、「(自己の外部の力により支えられなければならないという)不安定性」を持つのである。
例えば芸能人/有名人に関わる絶え間ないゴシップは、例え世俗的成功を得たとしても一度(ひとたび)、ストイシズム系行動文化から遮断されてしまうならば、人間生活の根幹に深刻な問題が発生することを如実に示しているのである(※注)。
(※注 芸能人/有名人として成功するほどの強い主体性/個性を持つ彼らの場合、“元々意志薄弱なダメな(ストイシズムが弱い)人間”であるというケースはまず考えられない。
そうではなく彼らは本来的に強い人間であったにもかかわらず、彼らが最期にはくだらない失敗で転落してしまうということは、(ストイシズム系人格・観念的能力を維持するということに関しては)どれだけ努力したか?とか、どれだけ意志が強いか?
などといったこと以上に、日々の節度ある常識的生活を通じたストイシズム系行動文化からの無意識的涵養が頗(すこぶ)るモノを言うということを示唆しているのである。)

その上で、高次存在拘束性とか破壊と創造事象に関わる論考にあたっては、こんな日常的なストイシズム系行動文化からの支援では全く太刀打ちできないことは明らかだ。
すなわちこのようなものに対しては、例えば上記のプロテスタンティズムの如くの、人々の価値・人生観に訴える『高次ストイシズム系観念』に裏打ちされた『高次ストイシズム系行動文化』が必要になる。

例えばオレたち日本人に馴染み深い高次ストイシズム系観念と言えばもちろん「武士道」である。例えば新渡戸稲造の「武士道」(1900)なんかを読むならば、様々なストイシズム系の派生観念を包含する武士道という価値観体系の概要を看取し得るし、
またエセル・ハワード「日本の思い出(明治日本見聞録)」(1918)といった西洋人目線の諸記録からは、彼らの驚愕と賞賛の対象となったところの日本人の克己心の有様を具体的に看取できる。
更に太平洋戦争中には、とりわけ(武士道が包含するところの)「玉砕精神」を全国民が徹底的に叩き込まれたことは、今も尚、多くの人々の記憶に新しい。
(つづく)
128市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)16:58:10 ID:???
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その上で高次ストイシズム系観念の根幹にある理念が、武士道の「武士は食わねど・・」の如きの「生理的欲求の抑制」観念である。例えば明治の“立身出世”期を描くところの司馬遼太郎「坂の上の雲」(1972)では、旧伊予松山藩士子弟の秋山好古が、
赴任した小学校の主事から「酒をのませる。」と言われた際に、思わず自分の喉が動いてしまったことをもって、「人間、人の言葉が生理に反応するなど、恥ずべきことではないか。」と、自戒するシーンがある。
またエセル・ハワードの前掲書では、島津忠重邸に贅沢な家具/食器類等が一切無い理由として、「武士の師弟に何故、贅沢が必要か?/勇気と剛健を培うために贅沢が役立つのか?/
人格は生活における質素と克己によってのみ陶冶される/家具などなくても家さえあれば十分」といった彼らの価値観が示されている。

しかし人類がその歴史において醸成してきた生理的本能抑制のための高次ストイシズム系観念の精髄とは、実はこの程度の生易しさでは済まない。
すなわち「葉隠」の「武士道というは、死ぬ事と見付けたり」を見ても分かるように、“戦って勝つ成就”を期してあがくよりも自ら積極的に死に臨む“玉砕”こそが最も尊いと言い切ってまでして、
人間の存在拘束性の根幹(自己保存本能など)であるところの生存欲求さえも完膚なきまで否定しようとする恐ろしさである。

例えば「中世キリスト教的行動文化」において、このことが然りである。中世末から近代にかけて聖書の次に広く読まれたとされる、トマス・ア・ケンピス「キリストに倣いて」(1418頃)では、「彼(イエス)は十字架を負うて先立ち行き、あなたのために十字架の上で死なれた。
それはあなたもあなたの十字架を負うて、その上に死ぬことを願うためである。(中略)一切のことはそこで我々が死ぬことにある。」としているし、また1095年に教皇ウルバヌス二世がクレルモンで十字軍結成を呼びかけた際の演説では、
「死は善良なる人々をその故郷に近づける。(中略)死によって魂は自由となり喜びに満ちた希望にふくらむ。(中略)魂はこの世に引き止めている邪魔物から
解放された時にこそ、(中略)聖なる全き活力を得る。」などとして大会衆に向かって、やはり殉教の喜びを持って十字軍に結集するように呼びかけている(※注)。
(つづく)
129市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)16:58:47 ID:???
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(※注 但しウルバヌスはこの際に人々との取引のために、十字軍参加者に対する「有限の罰」の全贖宥(しょくゆう)を許している。)

このように国家機構の支配的観念になるほどの高次ストイシズム系観念とは基本的には、人の命を惜しむ心を徹底的に卑しめた上で、“死身(主君/天子/主の恩義によって生かされている身ゆえに、その義のために24時間365日、
いつ死んでも良い覚悟/心構えを持ち続けて生活すること)”で、被支配者を行動させる、すなわち指導者・特権者階層を命懸けで守るロボット型人間を養成しようとするものに他ならない。

更にこうした極端化されたイデオロギーというものは、往々にして社会の通常の主流的構造から外れた“除け者”階層としての「アウトロー社会」においてこそ純化されるものである。
例えば「博徒/遊侠人」のヒーローの生き様の中などに、武士道的観念が正しく戯画的に純化されているのである。例えば天保の飢饉で窮民を救済したり、大掛かりな社会基盤整備のための土木事業にも尽力したところの、武闘派ヤクザの典型である国定忠治は、
自身の磔刑の執行に際して、カッと目を見開き、たじろぎもしない姿を見せて、その最後の最期まで任侠の道に生きる者の美学を貫いたと伝えられている。
またその最も頼みとする子分の一人の石松を対抗勢力の手により斬殺された清水次郎長は、相手方から石塔料五十両の償いをもってする手打ちを打診された際、「俺を子分の命を金で売る親分にするつもりか。
俺の目の黒いうちは(中略)翼が在って空に飛んで行こうが、術を使って地下に隠れようが、探し出して首を取って石松の怨魂を慰めてやる。」と、これまた「任侠道」に徹した啖呵を切ったと伝えられている。(以上、高橋敏「清水次郎長」(2010)より)

さてしかし、人が人間社会で祝福されるような真っ当な幸福を手に入れようと欲するならば、こうした死をも恐れさせないほどのストイシズム系イデオロギーとはまた異なる、「怠ける/呆ける/甘やかす/放置する/弱ぶる/年寄り・女・子供ぶる」
などといった逃避・怠惰性観念に人間精神が蝕まれないようにするための『生活仕様高次ストイシズム系観念』を伴う『生活仕様高次ストイシズム系行動文化』こそが必要となる。

例えばキリスト教文化圏においては、上記の平林たい子の事例のような、
(つづく)
130市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)16:59:24 ID:???
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人生行路における各種の不品行性向を矯正するための、「悔悛(ゆるし)の秘跡(※注1)」
という「私的な告解による自己批判と反省」を促すための生活仕様高次ストイシズム系行動文化が、1,500年近くも前から存在した。
これは人々がひとたび不品行/悪行を為せば、直ちにカトリック司祭の前にぬかづき、密かに己の罪を告解し神に懺悔しなければならないハメになるというものである(※注2)。
(※注1  3世紀末以降のドミナトゥス(ローマ帝国の専制君主制)下においてエジプトの砂漠に隠棲したキリスト教徒の修道生活に起源を持つ秘跡であり、9世紀頃には概ね、現行の私的告解形式が整う。)
(※注2 このようなことが公的機関(近代まではカトリック聖職者の生計は公費によって賄われるのが普通。)の日常業務として為されたのである。)

また我が国においては、氏族的共産制が衰退し“門(家)”が確立し始める11世紀頃に、折からの寺院を取り巻く環境変化(※注1)に伴い、天皇や貴族などのヘゲモニー層の人々は、宗教界での高い地位の獲得が容易になったことと相まり、
ライフステージの一環としての(嫡子に権力を譲った後に)「出家の道」に進むという、儀式的政務と人間関係による拘束/干渉等の日々から免れた(後に院政につながるところの)比較的自由な世俗支配スタイルを、新たに模索し始める(※注2)。
またこうした自己保存目的の出家とは趣が異なるところの、(氏族制から父系制への家族制の推移の中で)
必然的に強まる家門同士の勢力争いに嫌気した皇族/権門の子弟らの、左遷/ドロップアウト/臣籍降下等を契機とするところの、主体的幸福追求のカタチとしての出家も現れてくる(※注3)。
そしてこの両タイプに共通しているところの、“仏道に帰依する”というストイシズム系行動文化に浸るということは、もちろん彼らのストイシズム系人格・観念的能力の大幅な向上に与する。
(※注1 10世紀中期に朝廷は、従来の寺院の一括国営方式を改め、各寺院が自立する経営方式に改める。これにより寺院は、有力貴族等からの寄付を募り存続を図ることになり、大きな寄付をした者には見返りとして院内での高い地位を保証するようになった。)
(※注2 例えばこの時期の代表的な貴族である藤原道長は、元来、病弱でもあることとも相まって頂点を極める度に出家を望んだ。
(つづく)
131市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)16:59:54 ID:???
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例えば左大臣として最初の政権を手中にした3年後には出家を望んでいるし、三条天皇との経年の権力闘争に勝利し摂政と成った時も翌年には早々と地位を頼通に譲り、自身は人臣最高位の太政大臣の地位を花道にさっさと政界を退いて出家した。)
(※注3 このタイプの代表である「徒然草」の吉田兼好は、“博学な高級閑人”であることを自尊して、宮廷文化人などに対して自己アピールすることを楽しんだ。吉田の他には、源有仁/雅仁親王/一遍/西行/法然/栄西などがこのタイプ。)

とどのつまり人間・社会関係における不品行/失敗、すなわち論考時における感情系習慣的自動思考様式からの妨害に起因する類の不出来については、
高次ストイシズム系行動文化に支えられたストイシズム系人格・観念的能力こそが、個人の克己心の限界を超えさせて人格系メタ認知的論理思考能力を大きく高めてくれることを、人類は論理的には説明できないにしても経験的には理解していた。
だからこそ感情抑制という全く楽しくも何ともない、一意的には苦しいだけの行動が習慣化し得たのであり、例えば以下に示すところの中世西洋のキリスト教ヘゲモニー体制確立に至るまでの道程を鑑みてもまた、このことは間違いないと言える。

ローマ帝政の開始により3世紀末にエジプトに逃れてきたキリスト教徒の影響から、己の性的欲求の抑圧のために砂漠での禁欲生活に入った一人のエジプト青年(聖アントニオス)が、
弟子を集めてキリスト教的ストイシズム系観念の礎を築くと、これが4世紀初頭のローマ帝国におけるキリスト教公認後に直ちに(聖マクシミアヌスにより)ガリアに伝播されることとなる。
そしてその後、自らが教区司教と禁欲的な修道士の二役を兼ねた聖マルティヌス(※注)がガリアの地に西欧初となる二つの修道院を建立する。
(※注 このマルティヌスの存在は西欧キリスト教のその後のヘゲモニー獲得にとって決定的に重要である。というのも彼について書かれた伝記本により、死者蘇生/悪魔祓い(エクソシズム)/病気治療の奇跡を成した者としてのマルティヌスの
名声が西欧世界の隅々の民衆にまで広まり、これをもってレランス修道院により西欧修道制が確立されるための下地的基盤が成され、もってキリスト教はゲルマン化した西欧においてその布教基盤を固めたと言えるからである。)
(つづく)
132市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:02:47 ID:???
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ところで初期のキリスト教教団は、司教を中心に組織された都市部の信徒集団であり、このシステムにおいては教会等の財産は信徒の共有物である。
しかして人口の大半が居住するところの田舎や辺境における教会組織においては、教会を自費で建立したゲルマン人領主等が所有者であり、もって当該教会組織を管理する司祭も(教区司教ではなく)彼自身が叙任するところとなった。
こうして7世紀から11世紀頃までの西欧キリスト教組織の基幹システムである「私有教会制」が始まる。

このゲルマン的私有教会制下においては教会組織自体が譲渡可能な資産であり、すなわちこれは不動産等の所有と何ら意味的に変わらず、
司教区全体が一般市民から国王に至るまでの様々な個人の運用可能な財産として分割所有された。

そしてこの状況下では、貧農/農奴への布教活動をも含むがゆえに真摯な態度で臨まなければならないところの、蛮族ゲルマンの根本的なキリスト教化の仕事は、マルティヌスが定着させたような禁欲修行(※注)から漸次、
発展/醸成された (貧民/病人の救済等の慈善事業等を含む)生活仕様高次ストイシズム系行動文化を保持する唯一の組織であるところの修道院が担うしかないことに、人々は気づかざるを得なかった。

とどのつまりローマ教会が頼みとした修道院の行動文化から生まれた帰納知が、荘厳ミサ/成務日課等の信仰形式といった、
中世キリスト教支配に欠かせない事物の確立に基幹的に与し、ひいては大聖堂建築/学術/文芸/芸術までの「西欧的総合知性」の形成にまで至るのである。
(※注 主として男色の危険を避けるための、修道士各人がそれぞれ孤立した僧房にこもって性欲/食欲の禁欲に励むというものであった。)

こうして中世中期頃までにおいて西欧社会支配のためのエートスの基盤形成を担うこととなった修道院制は、当初は禁欲修行者、その後は権勢に引き寄せられて立身出世を夢見て集まった修道士たちが、
自ら軍事力を持ったり自治権やその他の世俗的権力等も獲得しつつ、カトリック組織内で決定的政治力を行使するまでになり、ついに傘下に1千を超える系列修道院を擁し、
更にはローマ教皇直々に授与されたところの司教の権限さえ全く及ばない特権を獲得し、その全盛期においては西欧世界の実質的中心は如何なる国王、
(つづく)
133市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:03:46 ID:???
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あるいはローマの教皇座でもなく、唯ひたすらクリュニーであったところの大修道院グループ(※注)を持つまでに至った。
そしてこの帰結としての11世紀の「グレゴリウス改革」により、「西欧封建社会」が、ついにその全容を整え終えたのである。
(※注 或る司教は「私は王の命令のままに戦う。正に我らの主人(クリュニー修道院長の)オディロンこそ王である。」と言ったし、また或る修道院長には「(クリュニーの支配領を旅している時に)私はここでは、
フランス王よりも強力である。何故なら人々は(フランス)王の支配など歯牙にもかけないからである。」とも言わしめた。)

また現代日本の人々に見られるが如くの、敢えて「世間者(せけんしゃ)」の立場で禅寺で「雲水(うんすい)」として修行したり、あるいは山伏などの「行人(ぎょうにん)」が為すような荒行の真似事をしたり、「聖(ひじり)」のように遍路修行に
出たりといった活動が後を絶たないという事もまた、生活仕様高次ストイシズム系行動文化こそが個人の論考の質の向上に決定的に寄与し、もって(破壊と創造により)高次存在拘束性の変換を実現させしめ得るものであることを、誰もが無意識的に知っていることを裏付けている。

とどのつまりストイシズム涵養こそが、世界の三大宗教すべての修行における中核的目的であるという事実は、取りも直さず人が真っ当な認知/認識を得ようとするならば、この「感情・欲求統御」問題こそが、とりあえずは最大の克服困難性を伴って
顕著に立ちはだかることを示しているのであり、実質的にもストイシズムを行使するとは、脳OSの設計思想「感情系を駆使した省エネ戦略」に対する“大反逆”を企てることであるからして、これはもとより一筋縄で済むような次元の問題ではない。

ではこの人類普遍の大難題の答を認知システム論的に求めていこう。すると己の感情/欲求という、この「意識が覚醒している限りは、脳OS(感情系習慣的自動思考様式)によって際限なく湧き出させしめられ続ける情動」を必要十分に統御し切るためには、
単に人格系メタ認知的論理思考様式によって、事を為すことの意味や理由等に思慮を巡らせているだけの限りにおいては、それが如何なる思慮であっても必ず克己心の限界という壁にぶつかり打ち負かされるしかない運命であることを認めるしかなく、もってここに
(つづく)
134市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:04:24 ID:???
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『感情系習慣的自動思考様式に対抗しうるものは、同じ感情系習慣的自動思考様式以外にはない。』

という結論に立ち至る。具体的には己の自意識の如何には全く左右されないところの、モノを考えること自体を一切排し、全くの理屈抜きで感情・欲求抑制行為が正当であることの
自明性を始めから擬制してかかるような、“或る種の「被洗脳状態」に自意識が浸っている”状態に意図的に成るしかないのである。

『人間が己の克己心の限界を超えて感情/欲求を統御し切るには、自己のストイシズムとかその他のメタ認知系諸能力のみに依ってはこれを為すに能わず、唯一、自意識が“洗脳”されていることによってのみ可能となる。』

これが自意識の外からの強制力であるところの高次ストイシズム系行動文化が有効であることの真の理由なのである。その上でここにおいては、外部からの刺激に一対一対応する単なる感情系習慣的自動思考ではないところの、
自己由来のストイシズム系諸能力を始めとするメタ認知系諸能力を包含した人格系メタ認知的論理思考をフルに介在させることで生ずる『自己心理操作性』を取り入れた、
言わば『管理洗脳』とでも呼ぶべき自己心理操作術体系を構築することにより、洗脳内容の適宜・経済性を自らチェックしながら思考/判断の全体を包括的に統御しうる余地を生みだせるのである。

『(脳OSの設計思想に反逆するものとしての)ストイシズムは、単純/素朴な禁欲的意思のみに拠り運用されるならば、いずれは自意識が悶絶するような苦痛を感じるほどになり、もって克己心の限界に至り、
(脳OS(感情系習慣的自動思考様式)からの大反抗としての)感情・欲求的反動により打ち負かされることとなる。
よってストイシズムは、外部からの生活仕様高次ストイシズム系行動文化が感情系習慣的自動思考様式による有無を言わせない規律性強制力を持った上で、(これが)人格系メタ認知的論理思考様式による適宜・経済性判断に基づいて管理され、
もって感情抑制行動に自己心理操作性を伴わせるところの「管理洗脳」状態が実現する、すなわち感情系習慣的自動思考様式と人格系メタ認知的論理思考様式が合目的に協調する
『ストイシズム系管理洗脳的自己心理操作術体系』が存在する場合においてのみ、安定的な思考統御・監督系機能を保持し得る。』(『観念運動の自然法 第七定理(ストイシズム定理)』)
(つづく)
135市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:05:00 ID:???
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すなわち感情/欲求/衝動の抑制的統御を持続的に為すにあたっては、例えば「何故、感情/欲求/衝動を抑制しなければならないのか?」などと、その意味/理由等を根源(大枠認識)的に考えたり問うたりした時点で己の負けなのである。
であるからして、ここで脳OSの圧倒的専制力に打ち勝つための唯一の方法が、「これら(感情/欲求/衝動)は抑え込まなきゃならんもの。」と、自分で自分を強い情動を伴って洗脳する、
つまり感情系習慣的自動思考様式という、脳OSの全く同じ情動的専制力をもってして対抗することだけなのだ(※注)。
その上でこのストイシズム系管理洗脳的自己心理操作術体系の特徴とは、例えばコップに水が半分入っている時に、「もう半分しか残っていない。」と思うか、
または「まだ半分も残っている。」と思うかの認識を操作するといった、人格系メタ認知的論理思考様式による中枠認識レベルでの多様な自己心理操作性を付与できる点にこそあるというわけだ。
(※注 人が今、この瞬間に自意識に生起しているところの特定感情等を如何に処置すべきか、などという適宜・経済性に係る論考については思考結果の曖昧性が大きく、そうであるならば考えれば考えるほど、脳OSに付け入らせる隙を与える。)

このような自己心理操作性の有意性の論証については、これを持たないところの、すなわち凡庸者的属性としての単純素朴性/無謬的信憑性/自他の分離観念の不全に因って、
行動文化が単に『道徳・倫理・義務的観念系行動文化』(ストイシズム系行動文化と同様に「洗脳系行動文化」の一種。)として認知されてしまう場合、すなわち人々の自意識において、「モーセの十戒」的“遵守すべき掟”の如くの箇条形式型行動規範群に
成ってしまう場合においては悲惨な結末(※注)を招来するという、人類がこれまでに幾度となく経験してきたところの厄災の記憶(経験的命題)の幾つかを提示するならば、それで十分である。
(※注 道徳・倫理・義務的観念系行動文化においては箇条型行動規範が、どこまでも無頓着、かつ強圧的に自意識に作用してくるために、幸福・充足感をもたらすための“本音”的認知がどんどん損なわれ、ついに人々から自然な人間味が失われていく。
(つづく)
136市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:05:34 ID:???
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これは例えば「高い道徳性を備えた人物であればあるほど、とっつきにくく冷酷な感じがする/あまりに融通性がなく、息が詰まる」という、例えばイギリスなどの道徳/倫理を重視する価値観を持つ社会において、お馴染みの現象である。
すなわちこれは主として、紋切り型の義務意識がもたらした過分な欲求抑制による人格異常/情愛の決定的不足/世俗社会から切り離されたような孤独感等に所以するのであり、
最終的には切羽詰まったような精神異常や暴力性の顕現/指導者・特権者階層の放埒性/「機能不全家庭」(社会心理学用語)の大発生等にまで至る。
この手の惨事の典型的実例は、ブロンテ姉妹を生んだブロンテ家(父子家庭)。すなわち肖像画などからもその頑迷/狭量/内向的な気質が偲ばれるP.ブロンテ(牧師)の6人の子供たちの内で一意的に“幸福”と呼べるような人生を全うした者は唯の一人もいない。
例えば唯一の男児は自堕落の極みの末に廃人同様になって死に、その後を追うように妹E.ブロンテ(「嵐が丘」(1846)の作者)も孤独と寂寥に貫かれた短い生涯を終える。
C.ブロンテ(「ジェイン・エア」(1847)の作者)も狭量な父の不同意の中で強引に結婚するも一年にも満たない儚(はかな)い幸福の後に死ぬ。

またこれとは真逆の、モラルの厳しさが他者に及ぼす逆説的な「過分の生ぬるさ」の弊害も在る。例えば菊池寛の「父帰る」(1917)は、
モラル的な形式主義と義理のイデオロギーが帰結する"倒錯的生ぬるさ/なぁなぁ主義"によって、適宜・経済性的合理性が否定される物語。
作品には後日譚はないが、儒教的モラルに支配されていた近世・近代日本では、往々にしてこの手の道理の倒錯が現実世界においても日常茶飯的に生起したと考えられ、このような甘やかされた凡庸者が増長しファシスト化することで、大厄災が招来されるのである。)

とどのつまり(箇条形式型観念のような)最後の最期まで演繹的に強要されるだけの「外観保持義務的ストイシズム」こそは、厳に忌避されなければならないのである。
(つづく)
137市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:06:13 ID:???
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一方で好ましいストイシズムとは例えば、「誰かの意見を中途で遮らないで最後まで聞ける/何かに熱中してる最中に声かけられても一意的に嫌な顔をしないことができる/急な変化にも条件反射せずに思慮深く対処できる」etc.・・といった、
日常の一コマ一コマにおいて普遍的に顕現するが如くの、自己管理意識下での中枠認識に係る人格系メタ認知的論理思考によるところの、さり気ない自己心理操作としての「適宜・経済的判断に拠った随時の感情・欲求抑制・統御」術の中に見い出せるようなものである。

というわけで己の合理主義的認知態度を保った上での被洗脳的義務観、すなわち己の必要のために己がより適切と見做す程度や方法を採ろうとする主体性を伴うところの管理洗脳こそが、
自意識の健全性を常態的に保ち、もって人と社会の双方に幸福をもたらし得るのである。
これ(ストイシズム系管理洗脳的自己心理操作術体系)は言わば、『フレキシブルな自己管理性を伴うストイシズム』、
一般的には『厳しさ』という言葉をもってして言い表すべき思考統御・監督系機能である。
(ちなみにこの厳しさがもたらす成果物の、或る特定の側面の外観に往々にして顕現するものでしかないところの「道徳/倫理」性を、
大抵の凡庸者は枢要な目的として誤って捉えてしまうために、人類は破滅的な厄災を度々招来してきたということだ。)

厳しさという思考統御・監督系機能は脳OSからの攻撃に直に対抗し、もって前回述べたようなその他の重要な
思考統御・監督系諸機能(主体的達成意欲・自己批判的観念系人格的能力に基づく。)を有意たらしめるための、言わば“論考の場の防衛軍”として安全保障的に機能するものである。
すなわち道徳・倫理・義務的観念という、自意識を容易に克己心の限界に至らせてしまうがゆえに、むしろ自意識を破壊しかねない危険なストイシズムではなくして、
適宜・経済的なストイシズム系行動をもたらすものとしての厳しさは、思考統御・監督系諸機能を司る三始原人格系諸能力の活動の場における、脳OSからの絶えざる攻撃に対する防壁として、ありとあらゆる人間活動の健全なる遂行を、その安全保障面から担保していると言える。

例えば新教宗派(禁欲的プロテスタンテイズム - カルヴァン派/洗礼派)が、「世俗内的禁欲」(M.ヴェーバー用語)という
(つづく)
138市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:06:54 ID:???
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生活仕様高次ストイシズム系行動文化を職業生活に持ち込んだことで、優秀者の自意識において厳しさが形成され、もって帰納的思考能力(人格系メタ認知的論理思考能力)が高まり、従来的資本主義に“硬質な刃物”のような鋭さを加えた
近代資本主義システムの肝となる合理主義的因果・方法論(※注1)を構築し得たという知見を、是非ともヴェーバー理論に付け加えるべきだろう(※注2)。
(※注1 「暴利を貪らずに適正価格(掛け値でなく定価)を設定し、利潤を浪費せず設備等に再投資してビジネスを絶えず拡張することが、最大の繁栄をもたらす。」というものであり、
これは元々は彼らの生活仕様高次ストイシズム系観念であったものが、厳しさを伴う優秀者の帰納的思考により言語・論理化され、そのまま資本主義理念の母体となったのである。)
(※注2 ヴェーバーもまたオレのように明瞭に認識できるほどではなかったものの、「天職としての政治」(1919)においては、単に不毛な興奮に酔っただけの“素人”政治家と真の政治家を
区別する“物と人間に対して距離を置いて見ようとする態度(オレ注 ; メタ認知能力)”をもたらす“あの強靭な魂の抑制”という言い方で、漠然とは厳しさが、高度な人格系メタ認知的論理思考に欠かせないものであることに気づいていたようだ。)

またあるいは我が国の「明治維新」の際には、武士道により厳しさを既に確立しており、もって人格系メタ認知的論理思考能力を求められる職業に対応し終えていた
士族(旧武士)層の優秀者/秀才が、版籍奉還後、俸禄が公債に切り替わり実質的収入が減少していく中で、いわゆる「末は博士か大臣か・・」的「立身出世コース(※注)」において、
他の大多数の国民(小百姓/旧穢多(職人/行商人など))を尻目に、かなりの数の者がそれなりに夢を叶えることができた。
また更には幕末期に続々と来日してきたプロテスタント宣教師たちが開いた英語塾等にも、やはり武士たちが我先にと大量に押し寄せており、
これらの事例は総じて武士層だけが主として持つところの厳しさと知的活動との極めて深い連関性をまざまざと見せつけている。
(※注 名士の門を叩いて教えを乞う「書生」からコネを伝って「官員」と成り、「大臣/参議」を目指したり、あるいは「帝大生」から「博士」を目指す如きの明治初期の典型的成り上がり法。)
(つづく)
139市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:07:33 ID:???
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というわけでそれなりの厳しさ(フレキシブルな自己管理性を伴うストイシズム)を修得し得た者は、悶絶するようなストレスを感じるどころか、
被洗脳状態がもたらす極めて安定・予定調和的な“心の張り”を伴った上での、主体的認知体系による自己管理性に支えられた自尊的マインドセットに拠るところの“(帰納知の充実に基づく)人生全般に係る幸福創造へのパスポート”を獲得したも同然なのである。

しかしてここに至り、人間社会に関する厳然たる或る一つの真理もまた浮かび上がろう。つまり厳しさとは、ここまで論説してきたように各人の個人的努力のみによって修得できるようなものではなく、
社会全体において集合知的に保持される行動文化に支えられてこそのものであった。
そしてこうなると現実には、ほとんどの先進文明社会では満足な帰納的思考者が見い出せないことになろう。例えばミルは次のように述べている。

「かなりの精神的資質のある人々でさえ、しばしば自分たちが偏見を抱いている意見の趣旨を理解しようという努力をほとんどしないし、また人々は一般にこの“故意の無知”を、
欠陥としてほとんど意識しないので、倫理諸学説の最も俗流的な誤解が、高度の原理と哲学の両方を持っていると最も自負している人々の熟慮した著作の中に絶えず出てくる」(J.S.ミル「功利主義」 1863 )

とりわけ20世紀後期以降は先進社会は「暇つぶし文明期(第七回 参照)」に突入したことで、社会から生活仕様高次ストイシズム系行動文化が急速に失われた。
例えばソクラテス/コペルニクス/ケプラー/ホッブズ/フロイトなどが持った観念や苦悩をアタマで理解したり批判できる者はゴマンと居るにしても、
自ら彼らが為したのと同様の厳しさを伴う人格系メタ認知的論理思考の十分の一も為せる者は、今となってはもう滅多に出ないのである。
つまり昨今はネットを検索していても、何処かの“鼻タレ小僧”学者みたいのが、「マルクスって間違いだらけで何の価値もないよね」的なことを言っていたりするわけだが、
実はこのような輩は厳しさをもって統御するしかない論考の困難さというものをそもそも知らず、マルクスを対等な立場で批判できる土俵にすら上がれていないことを、死ぬまで気づけない。
(つづく)
140市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:08:08 ID:???
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すなわち150年も前の存在拘束性に縛られた人間が為したその仕事が、如何に困難と苦しみに打ち勝つための努力を要したものであったかを察することができない。

こうしてつまるところストイシズムの何たるかを理解し得た現代の優秀者は、やむを得ず生活仕様高次ストイシズム系行動文化の相当物を、外部からでなく、自分の自前で形成するように努めるしかなくなっている。
しかしこうした外部観念からの洗脳に依らないケースにおいては、普通は当該人物が元々、かなり良質なストイシズム系人格・観念的能力を養育者等から個人的に継承し、
幼児期において小脳ROM化できているような、言わば“準外部力”的な支援を既に獲得している場合でもなければ、成功はおぼつかない。

というのも自己心理操作的ストイシズムに基づく活動とは、管理洗脳下でのそれに他ならないのだから、いずれにしても何らかの感情系習慣的自動思考力(例えば相思相愛の配偶者などからの叱咤激励とか。)
による被洗脳的状態の確保ができなければ、自らの克己心の限界を越えることができないからだ。

というわけで昨今では慢性的運動不足が重大な健康被害をもたらすことがあまねく知れ渡ったおかげで、人々はウォーキング/ジョギング等でこれを解消することが当たり前になったわけだが、
ここに「厳しさ」不足による人格系メタ認知的論理思考能力の劣化がもたらすところの人間/社会に対する破滅的作用もまた、今後は人々に周知されてゆかなければならなくなったというわけである(※注1)。
(※注1 とりわけ我が国においては、かつて実際に存在したものとしての武士層の養育者が幼児期の被養育者に与える行動文化としての「叱って躾ける教育」文化を、
時代的存在拘束性がもたらす価値観にマッチするように生活仕様タイプにアレンジした上での再興が、現実的だろう。
その上で今般は、明治体制下で為された箇条形式的な道徳・倫理・義務的観念系行動文化(※注2)が、万が一にも再興しないように厳重監視しつつこれを為すべきなのは言うまでもない。)
(※注2 主として「教育勅語」(1890)と小学校の「修身書」による。)
(「フレキシブルな自己管理性を伴うストイシズム – “厳しさ”という能力 - 」 おわり)
(第十三回 おわり)
141ちえ :2018/06/05(火)20:24:24 ID:???
大阪府貝塚市南町9-31 坪井 内氏の娘は坪井 明美氏になり息子は坪井 成啓氏になりますが(娘は元演歌歌手の小村 美貴氏)この坪井成啓氏の金品強奪の件は、
ある警察官僚の協力のもとでの完全犯罪となりましたね。僕から金30万円を騙しとれた完全犯罪の成立時は嬉しかったことでしょうが、
悪事なる行為は駄目ですよね。
こんな風にその時の嬉しさが泡のように消えて行くと思います。
悪事なる行為は賢い日本国の国民様は、もうとっくに気づいております。最後まで騙すなら騙し続けてください。ではg

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