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市民層 概論

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1市井の居士◆dgvbGqecqY:2017/10/22(日)20:53:05 ID:???
とりあえず過去レスリンクを貼っとくよ。日付が一番古いのはL.1、んでL.7までいったらコメントレス109,-129. これより後のレスは、ここにはリンクしてない。

オレの過去レス (旧2ちゃんリンク集)

コメントレス
109.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/335
110.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/336
111.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/337
112.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/338

113.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/339
114.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/340
115.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/341
116.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/342

117.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/350
118.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/351
119.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/352
120.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/353
121.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/354
122.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/355
(つづく)
71市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:12:31 ID:???
2 of 17 (つづき)

彼は偉大であろうとして、自己の卑小なのを見る。(中略)彼は人々の愛と尊敬の対象であろうとして、自己の欠陥が人々の嫌悪と侮蔑にしか値しないのを見る。
彼がぶつかるこの困惑は(中略)罪深い情念を彼の内に生じさせる。何故なら彼は、彼を責め彼の欠陥を自覚させるこの真理に対して徹底的な憎しみを抱くからである。
彼はこの真理を根絶したいと思うが、真理をそれ自身において破壊することができないので、せめて自分の意識や他人の意識の中で、できるだけそれを破壊する。
言い換えれば彼は自己の欠陥を、他人の目からも自己の目からも隠すことに心を砕く。人がそれを自分の前に指摘したり、それを他人に見られることに、彼は耐えられない。」(第二篇100)

また更には19世紀の文豪ドストエフスキーの主要作品はおしなべて、登場人物が独自の存在拘束性に由来する様々なイデオロギーを、実に自由闊達/好き勝手に創り出した上での行動の奇妙奇天烈な展開描写に、重心が置かれている。
すなわち彼は、如何なる社会体制であろうとも、人がはまり込む心の世界/身勝手な思考までは抑制できないのだ、そしてその陥穽を世の人々に伝えるということの面白さ/楽しさにとりつかれていたと言って良い。

凡庸者的存在拘束性の陥穽とは、「自己保存本能に支配されることを運命づけられている人間において、客観的事実・因果論を無視/黙殺させてまでして、自己中心・便宜優先的観念を形成させ、もって (事物の実態や己の能力とは無関係な)やる気/欲求を鼓舞さしめる傾向」
にはまることであり、当然ながら凡庸者においては、この手の”やる気/欲求”によって思考/判断の歪みが常に亢進していくために、当人的にはどんなに頑張っているつもりでも、当初に望んだ成功/達成からは程遠い結末しか引き出せない。

例えば戦後、完全な高度福祉・大衆中心社会となった日本社会において、こうした結末がとりわけ顕著である。
福武直「日本社会の構造」(1981)によると1979年に出版されたNHK世論調査所の発行資料においては「まず社会のことを考える」者は10%であるのに対し、「まずは自分の生活のことを考える」、具体的には家族の団欒を大切にする者は50%、
家族の団欒だけでなく、各人の自由な時間をも確保することが大切であると思う者が28%である。
さらに統計数理計算所が実施した
(つづく)
72市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:13:17 ID:???
3 of 17 (つづき)

「国民性調査」において、「その日その日を呑気に暮らす」ことを望む者は、1953年の32%から1978年の61%へと倍増したのに対し、「社会の不正義を憎み、どこまでも清く正しく生きる」ことを望む者は、29%から11%へと6割以上の激減となっている。

ちなみにこのような国民の自意識における歴然たる変化とは、観念運動の自然法の第四定理(凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向)が示すところの、
「単位集団内においてはまずは、連帯/相互扶助(※注1)を当事者たちの切迫した意識を伴って、当然の如くに集団内の多数者に優先視させ、真理・合理性(※注2)を一般的行為属性においてあまねく担保できない集団/社会は、
最終的には存続できなくなるという当然の理が、訴求力を持たない。」という自然法的機序が、人間営為の根幹に普遍的に作用し続けていることを知るならば、当然の変化であると納得できる。
ともかくこの国民意識の変化が、この数十年後にもたらした結末については、もう改めて提示する必要はないであろう。
(※注1 連帯/相互扶助に適う生活行動の帰結としての「集団的満足・充足感/個人的満足・充足感」が、まずは人々の当該行動への心理的報酬となるのであり、上記世論調査の結果とは、このことへの執着心の反映。)
(※注2 この文脈における真理・合理性を持つものとは、「人間社会の持続的健全性を保つためには人々が求める自利の分量と釣り合いがとれた「社会正義」的(他利)観念を保持しなければならない。」という認識。)

人間には、見田宗介「価値意識の理論」(1966)第二章第一節2が言うところの「内的強制による非選択性」という属性を持つ行為(※注)しか採れない者、すなわち具体的に言うなら、眼前の事物/習慣、あるいは気分/感情等に対して懐疑心を持つことを
“タブー”の如く忌避/恐怖し、何処かでそれらに対する歴然とした反証的結果が出たとしても、そんなことは「見なかった/聞かなかった/知らなかった」フリをして、まるでそれ(反証的結果)が無かったことのように振舞うしかない、
あるいはそれを受け止めざるを得なくなるが否や発狂せんばかりの大騒ぎになるしかないなど、思考・判断過程における合理的な意思選択能力が不全である者と、意思決定を合理性を基準としてある程度まで、
(つづく)
73市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:13:55 ID:???
4 of 17  (つづき)

感情的なものから理性的なものへ止揚できる、すなわち具体的には事象が持つ因果的属性を相対(メタ認知)化できるだけの前提的要件であるところの、相応の「人格」的能力を持ち、もって多様な意思の顕現の中から最も適宜・経済性に適ったものを選択できる者とがいる。

数の上では前者の圧倒的多数派であるところの“非選択的行為”しかできない者(演繹的思考者)が、人間のデフォールト状態としての凡庸者であり、後者の選択的行為もできる者(帰納的思考者)が優秀者である。
その上で観念論ではなくして、経験論としての自然科学的判然性を追求している科学論文においては、「内的強制」とか「非選択性」などという哲学的用語が、経験的事象において対応しているところのものにこそ注目する必要がある。

演繹的思考(ただひたすら固定観念化している認識のみを用いて、紋切り(非選択)型認知プロセスで処理される思考。)のための認知的アルゴリズムは、上述の如き“やる気/欲求”とか自我の防衛機制などの自己中心的心理力動を生産する感情(恐怖/不安/安心/親近感等)と、
決定的に連関して作動しており、「いつもと同じ(感情的)心地良さ/安定に至りたい。」という暗黙の目的性を持つ条件反射的(すなわち非選択的な)判断をもたらすのが普通である。

このような、その本源において動物と同様の「気分・感情と完全にリンクした上で、固定化された判断パターンのみに支配される習慣化した認知傾向」について、更に以下に詳説する。 

『演繹的思考様式とは、その事務的・紋切り型的な単純な認知構造のゆえに、例えば「安心/頼もしい/気遣われている/可愛い/カッコいい/可愛そう/慈悲/情けない/沽券に関わる/謙虚/良心的/不敬/粗野/堕落/良く頑張った/立派/真剣/不浄/破廉恥/
面倒/つまらない・・」などの気分・感情的認知要素に、認知の指向性が強く誘導され(※注)、必然的に心地良さを感じる固定感情に支配されざるを得ない思考様式である。』(『観念運動の自然法 第五定理(演繹的思考様式定理)』)
(※注 脳神経学的には小脳系と感情・意欲生成の中核装置である大脳辺縁系、及び習慣形成に多く関与する大脳基底核や大脳皮質の言語野/全頭連合野などの特定領域で構成される神経回路が演繹的思考様式の本体。
(つづく)
74市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:14:50 ID:???
5 of 17 (つづき)

その上で認知心理学的には、これは経験/感情/パターン(思考アルゴリズム)から成る「三点記憶」を相互に関連付けて、一つの「認知-判断-行動セット」としてチャンク(固定回路)化していると推定できる。
こうして演繹的思考様式においては、システム上、あるチャンクと同じタイプに分類される事実認識が感覚受容器から入ると、自動的に当該チャンクが援用されて、常に同じ強制力をもってして同じ判断が決定される。これが判断上の紋切り型/癖/意固地さ/習慣等を生む。)

というわけで上掲自然法の定理と神経生理学上の知見を併せてみることで、演繹的思考様式とは、過去に形成された事象記憶を、小脳皮質の脳神経ネットワーク上に固定回路化した紋切り型思考アルゴリズムとリンクさせた上で、
「感情/情動の生成系」回路によって起動/誘導し、思考・判断を誘導するシステムであることが分かる。
例えば嫌いな人から逃避する/魅力的な異性に接近する等のような日常生活上のあらゆる紋切り(演繹)型判断は、このシステムによって即決させられているのである。

その上でこの演繹的思考様式という思考・判断システムに、人間意識が素直に服従するならば、このシステムは、人に「安心/安寧/高揚/満足/怒り/不満/絶望」などといった、
当該者の自意識内で“快”系と“不快”系に生来・本能的に分別されていて、快系なら是、不快系なら非と自動的に決定される気分・感情的回答を、即座に与えることをもってして報いるというわけだ。

こうして快・不快的是非に完全支配される演繹的思考者においては、例え如何なる高学歴者であろうと、幼児/児童でさえも認めざるを得ないような自明極まりない事実認識(例えば「ボクが◎◎したから●●ちゃんも◎◎し返した。」など。)でさえ、
往々にして(真実を認めることが生む不快感から)都合の悪いことは全て、見なかった/知らなかったフリなどをすることで、認識の埒(らち)外に置かれる(※注)。
(※注 これの有名な事例を挙げるならば滝川事件(第十回 参照)においては、美濃部達吉が鳩山一郎(文相)による滝川幸辰の追い落としに加担した理由とは、美濃部が滝川の論説(著作)に感情的に反感を持っていたこと、
(つづく)
75市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:15:35 ID:???
6 of 17 (つづき)

更には美濃部だけに限らず他の大学人の大半においても(この騒動に対して)まるで闘争心が燃え上がらなかったことの理由が、滝川幸辰本人の人望の無さという、極めて”感情由来的なもの”のみであった。
そもそもこの事件の発端にしてからが、蓑田胸喜が京大講演会で赤恥をかかされたことの怨みを、当時、京大の講演部長であった滝川に向けたという、感情的極まりないものであり、事件全体が関係者各位の「感情一色」で彩られたものと言える。)

ところで「合理主義」とは、基本的には「客観性に対する相当の注意」を払った上で、被操作因子に対する論理的な分析、並びに適宜・経済的に妥当な程度の計算的操作を経て真理/真実にできるだけ近い認識に到達しようとする態度であると定義できる。
しかして凡庸者的存在拘束性の陥穽に陥った状況、例えば上記注釈事例のように、本来であれば軍国化に向けてひた走る体制側と学問人連合が対決すべきだった重要な契機を、つまらない感情に支配されて逸するが如き顛末においては、
感覚受容器からの一次認識を合理主義的たらしめることが、ほとんどできていないというわけである。
ところが演繹的思考者においてはこのような状況下においても尚、例えば以下に挙げるような要因/属性が影響力を持つことで、彼らの主観においてあたかも認知が合理主義的であるかのように感じるという倒錯が、生み出されている。

誰かの意見の中に、慣れ親しんだ論理/美辞麗句/賞賛/肯定的レトリックが使われている、また自分の意見との間に親和性がある、更には発言者の態度において、自信と落ち着きがある、あるいは和やかさ/謙虚さ/
親しみ/微笑などの快感系の情動に満ち、はたまた情熱/毅然さ/断固さを持つなどといった要因(※注)。
更には提示された論理等を包括的に把握するのでなく、自分が気分的に気に入ったり腑に落ちたりする箇所が部分的に存在することをもってして、全体をも承認/認容する、ないしは文のレトリックが非常に整っていたり美的であることのみをもってして承認/認容する「短絡性」。

ちなみ念の為に断っておくが、こうした感情・気分的要素とか短絡性の如きものからの影響は、演繹的思考者のみならず帰納的思考者にも見いだせるものである。
(つづく)
76市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:16:21 ID:???
7 of 17 (つづき)

しかし事実認識に対する分析/思惟等を、その中心とするところの帰納的思考においては、これらが認知の本筋である部分に対して決定的影響力を持つことは、基本的には在りえない。
ちなみに帰納的思考者は、特に本気で思惟/思索を要しない時には感情・情緒的表現がむしろ豊かな者が多いが、これは重要な何かを判断する際には、事実認識を歪めずに、これら感情・気分的要素/短絡性をその本筋には持ち込まないという分別を持つがゆえである。

しかして一方の演繹的思考者とは、ヘーゲル的「正」段階に居るために、認知の認知たるメタ認知を知らず、ゆえに演繹的思考を為そうとする傾向を“気づき”により調整する契機を持てず、同一類型の外観を持つ事象に対して、
十年一日の如くに常に同一の気分/感情により自動的(すなわち見田的“非選択的”)に、意思決定せざるを得ない。こうしてあらゆる思考/判断が根本的な非合理性の下で為されることとなる。

『演繹的思考においては、 往々にして“木を見て森を見ず”的な認知の狭窄性/決めつけ等が感情により亢進し、思考を客観視した上で合理的に統合する論考過程を排除する。この状況は演繹的思考というものを一言で言うなら、「自動判断」システムと呼ぶべきものにする。
そしてこの"自動判断的な物の理(ことわり)"は、人間の成長/進歩/発展に不可欠であるところの『破壊と創造(スクラップ・アンド・ビルド)(※注)』過程に飛び込んでいく、
ないしはこれを受容しようとする際に必要となる覚悟/勇気/度胸等を伴う自意識/認識等を、何一つもたらすことがない。
こうして演繹的思考者は最期には、現状に対する際限なき不平・不満意識を吐露し続けるだけの“性根がとことん腐った廃人”となるのであり、もって自らが真に幸福な人間に成ることをもってするところの、
人間社会のマクロ的安定・持続や進歩/発展のための貢献を成す事が(当人の気負い/努力があったとしても)できない。』(『進歩の自然法の第二定理』)
(※注 この類型としては、J.シュンペーターが唱えた「創造的破壊」観念などが著名。)

例えば我が国の人々は、世界的な教育大国の非常に高度な基礎教育制度の恩恵に浴しているにも拘らず、大半の者が帰納的思考ができずに、"公教育的な物の理"を
(つづく)
77市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:16:57 ID:???
8 of 17 (つづき)

そのまま信じ込む傾向が強いために、我が国よりも遥かに教育制度が劣っている国の人々よりも更に、英会話修得のための方法に対して”開き盲(めくら)”である。
すなわち外国語修得においては、第一に当該言語の統語法をカラダ(脳の言語野)で覚えること(英語であれば「SV/SVO/SVOC」等の語順のままで直に意味を採れるようになるまで徹底的に反復訓練すること。)、第二は言語的有意音声群を、
これまた脳の言語野に"音真似"(ネイティブスピーカーと瓜二つの発音をすること)によって記憶させてしまうことの二点が肝心である。
そしてこれらの真理・真実性に基づく物の理というものは、例えば英語を本気で修得しようと努力し続けることで、観念上の破壊と創造の過程を経て、経験・実証主義(帰納)的に得られなければならないものである。

このように人間は高度・複雑化された社会生活を営む動物であるから、適度/適切な破壊と創造の過程に入ることなしに、欺瞞・恣意性に満ちた自動判断システムの目論見のままにいつもいつも行動しているだけでは、現実には実に多くの難題を招来することになる。
そしてそのうちに、何らかの不可抗力によって自動判断システムに従えない/当人が意識的に抵抗するなどということが生起してくるわけだが、この手の無闇な抵抗は、やがてイライラ/ノイローゼ/神経質・強迫観念/
パニック障害/うつ/アルコール等の薬物摂取欲求などの神経症様症状や犯罪やDV等に至る反社会・攻撃的衝動等を顕現させる。(ちなみに前者は特に女性において、後者は特に男性において顕著である。)

またこれとは正反対に、自動判断システムがもたらす快感的報酬が過剰になり、これを当人が制御不能となった場合にも最終的に不快感やストレスが発生してくる。
例えば夢にまで見たような"達成/成功”状態に身を置いた場合には、緊張感や自制心の急激な消失/極度の安心・開放感が、落ち着いて居ることが困難になるほどの躁(そう)状態の後に心身が疲れ果てて、もって絶望的な鬱(うつ)状態ををもたらすことがある。

この一般的には「荷下ろし症候群」などと呼ばれる精神状態においては、日常生活に支障をきたさないようにするための躁の自制に要する脳神経の労働量が恐ろしく増大するために、この状態に耐えることに失敗した場合には、 (達成/成功に対する)激しい
(つづく)
78市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:17:51 ID:???
9 of 17 (つづき)

懐疑・絶望感等が発生して重度の鬱に陥るというわけである。場合によっては自殺にまで至る。

そもそも「鬱病」などというものは、己の存在拘束性というものに対するメタ認識を一切持てない認知の“蛸壺”性が、落ち着いた帰納的論考の不能状態をもたらした結果であり、言わば「演繹的思考病」の最たるものである(※注)。
(※注 また鬱病とは真逆の演繹的思考病例としては、「リジリアンス(回復・復元力)」などと呼ばれるところの「重度の深刻さを伴う危機的状況においてさえも、心の平静さを保つ能力」が、先天的に格別に優れている人々が存在し、
このような「サイコパス系気質」を持つ人々が演繹的思考者となる場合は、往々にして鬱病などとは正反対の社会的不適応状態となるものがある。
すなわち彼らは、非常に直情・攻撃的な反社会的行動(騒乱/犯罪/放蕩など)や奇矯な行動を躊躇/葛藤等を伴わないで難なく遂行し得るのである。)
  
というわけで人はこのような人間脳にデフォールトで設定されていて非選択的行為を強いる自動判断システムのみでは、適切に対応しきれない様々な事態に対処するために、
進化論的には動物が数億年の時を経て開発してきたこのシステムとは別個に、「合理性を追求するための新規の判断システム」を開発する必要に迫られる。
しかしこの新システムについて詳しく考察し始める前に、この演繹的思考(自動判断)システムについて、更に十分に意味的な理解を持っておくことが、(チャプター冒頭部で述べた理由から)必要なのである。

動物はこの自動判断システムを採用することで、第一には決まりきったパターン行動群を、"神がかり的レベル(※注)"に達する完璧・流暢・安定性を伴って為すことができるようになる。
第二には脳が個々の状況において思考/判断のために費やすエネルギー量を減少させるという経済性(言わば“資本利益率”、すなわちコスパの増加)を得ると同時に、第三には第一点の定形的行動に適宜・経済性が運良く備わった状況に限っての最大級の効率性を得ている。
そして更に第四にはこの極めて予定調和的なシステムが発生させる快情動によって、自らの情緒を安定化させると共に、他者の情緒をも或る程度の正確さをもって同様に操作/管理でき、自他の気質/情緒というものを安定させることができる。
(つづく)
79市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:18:30 ID:???
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(※注 これは例えば、0.01秒/0.05g/0.1mm程度の精度、かつ相当複雑な組み合わせを伴うような行動(例えば音楽演奏/絵画/料理/職人技など。)を可能にしている。)

以上のような属性を持つところの(人間を含めた)動物脳のデフォールトであるところの演繹的思考様式を、
今後は当論においてシステム論的見地から言及する際には、『感情系習慣的自動思考様式(エモーショナライズド・イデオロジカル・シンキング)(※注1)』と呼ぶことにする。
(※注1 感情系習慣的自動思考様式は、ある認識に対して「論考」するようには決して働かず、同一型の事象と感情発露の下でドライヴされるチャンクによって判断を予定調和させる(※注2)。このような思考様態は、常に「イデオロギー」を生み出す。
ゆえにこれを「エモーショナライズド・イデオロジカル・シンキング」とも別名するということ。)
(※注2 例えば、誰かの欠点を考え始めたとしよう。するとその者を"嫌だ"と感じさせる感情がどんどん自動亢進するにつれ、それに引っ張られて思考も(その者の)欠点を強調するような方向に予定調和的に亢進する。
このように感情に囚われて、自意識が一点(ヘーゲル的「正」状態)に執着している状態での思考は、最早、当人のIQなどの如何に拘らず、狭隘な視野の下で非合理的に推移するしかない。)

そして感情系習慣的自動思考様式について当論的に注視すべき点とは、(この思考様式が)刻々の頭脳労働がもたらす情緒の不安定化をできるだけ抑えることで、「凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」的な「連帯/相互扶助におけるコミュニケーション」
の際に必須であるところの、個々人の性格/気質を(いくつかの習慣的行動の下で)落ち着かせて、もって生活グループ内での人間関係を良好に保つという自己保存便益に直結する、言わば『生活能力的ホメオスタシス(恒常性)』とでも名付けるべきものを供給する点である。
つまり『エモーショナライズド・イデオロギー』を無闇に否定することは、人が生活するための人間関係基盤を喪失させかねない危険を伴う。

とどのつまりエモーショナライズド・イデオロジカル・シンキングとは、人間脳が進化の過程で獲得した、思考/判断に関わる労働力の省エネと人間関係形成に与する「基幹的認知システム(コンピュータの「OS」に相当。)」だと見做せるのである。
(つづく)
80市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:19:06 ID:???
11 of 17 (つづき)

つまりこのことは、何人もこの感情系習慣的自動思考様式が求める凡庸者的な紋切り型/十年一日的な振る舞い方を、全否定したり免れ得たりできないことを示している。

『全ての人間はデフォールトでは単純な演繹的思考者であり、一部の“秀才(※注)”を除く凡庸者は、このデフォールト状態から一歩も出られるものでない。
その上で例え優秀者だとしても、日常生活的人間関係においては感情系習慣的自動思考様式を用いるしかないのであり、その意味では優秀者であっても一意的に凡庸者的認知行為から免れ得るわけではなく、
彼が優秀者的自意識や緊張感を失い、メタ認知不全状態となるならば、いつでも演繹的思考様式に全面的に支配されるしかなくなる。』

見方を変えれば単純素朴性/無謬的信憑性/自他の分離観念の不全という凡庸者的三属性、並びに感情系習慣的自動思考様式が、実は人間であるならば誰もが利用せざるを得ない能力を担保しているという側面が在るのであり、
ゆえに第十回で提示した優秀者的人間属性とは、これを当該者の全行為において100%顕現させているような者は、現実には存在しえない。我々が実人生において実際に遭遇する者は全て、その行動において「演繹的思考様式・帰納的思考様式属性ミックス者(※注1)」である。
実際には、むしろ演繹的思考属性を主としつつ、その上で帰納的思考を適宜、為せる者を、当論では「優秀者」と呼んでいるに過ぎないのである。
(※注1 学説の拠り所が大まかな認識の域を出ないとしても、そのことのゆえに科学的合理性が損なわれるわけではない。
その理由は科学においては、往々にして万人が共通に保持する「直観的自明性認識(※注2)」が論理上でのつながりを形成することによって、論者は非実測的な経験・実証主義知見からも合理性を見出せるからである。)
(※注2 ディルタイが言う「現象性の原理/基本的な思考機能」と同義。例えば「100°Cの湯に指を突っ込んで、「心地よい」と感じる者は居ない。」こと、あるいは「事物がどんどん粗末・瑣末化することを一意的には進歩/発展だと感じる者は居ない。」などの認識は、
各人毎の主観に基づく思考の前段階に在る基本的自明性であり、このようなものを万人が抱く直観的自明性認識だとする。)
(つづく)
81市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:19:55 ID:???
12 of 17 (つづき)

ではここで無自覚な演繹的思考様式というものが、人間にとっては如何に低劣な判断/行動をもたらすものであるかを具体的に示すために、戦前期に繰り広げられた論争の内で最重要であるところの「天皇機関説論争」について述べる。
尚、この事件の俗的な経緯/推移は、ここでは関心を持つところではなく、学説の内容にまつわることだけを以下に論ずる。

上杉慎吉らを主唱者とする「天皇主権説」と美濃部達吉らを主唱者とする「天皇機関説」の真っ向からの対立において、合理的観点からどちらが正しいかを判じるならば、極めて明快に後者が正しいと言える。
というのも前者の本旨は「天皇という一個人が(大日本帝国の)主権者であり、その意思のみが(大日本帝国の万事において)絶対的な(すなわち超法規的な)効力を持つ。」というものであり、これすなわち中華思想とか王権神授説などと同類の、
君主と君主以外の者の人的価値において絶対に超えることのできない質的分別を設けるものであり、もしこれを是とするならば、憲法を始めとした、合議/意思決定の分担性を担保しようとする目的性を持つところの諸法規は、
最終的には存在価値がないし(すなわち天皇は立憲君主ではなく、自分以外の何者によっても規制されず、かつあらゆる気まぐれ/思いつき等が是認される独裁者となるから。)、明治憲法第55条の大臣が天皇の判断をすべからく輔弼し、
その輔弼した内容に関する責任は当該大臣に在るなどという、天皇が最終的に下す判断における妥当性を担保しようとする目的を持つ規定なんかの存在意義ともまた矛盾するわけだが、しかし主権説論者側から、
この輔弼規定自体の存在価値とか、更には国会/内閣などという概念の本質について取り沙汰されたことは唯の一度もなかった。

以上のことから天皇主権説には論理上、極めて稚拙な瑕疵を伴う恣意性があり、その上で慣習上においても、それ以前の大正年間の二度の護憲運動の勃発の経緯を見ても分かるように、
天皇とは現実には、紛れもなく「帝国」という抽象的主権体に従属する一機関に過ぎない、但しそれは他のあらゆる機関に優越するところの比較最高“機関”的地位に在るに過ぎないと見做されてきているのである。
(つづく)
82市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:20:39 ID:???
13 of 17 (つづき)

ともかく、この一機関の意思のみで万事を決するなどということについては、憲法を始めとした諸法規により厳に禁止されているという解釈(天皇機関説)の自明さに疑いの余地はない。

しかしここでこの事例を採り上げている意図は、今更、両論に対する分析のみを読者に念押しするためではもちろんなく、当時の主権論者の行動を通じて、演繹的思考者というものの危険/心底嫌気がさすバカバカしさを、読者が理解するようにするためこそなのである。
すなわち主権論者は、再三述べている気分・感情的要素としての、自意識内での快・不快的是非に基づいて当該者の頭の中だけで勝手に創り上げられた「天皇観念」こそを、絶対だと思い込むという、
演繹的思考の自己中心性(凡庸者的存在拘束性の陥穽)の虜になっていて、だからこそ実在の昭和天皇本人が本件について、「それ(天皇機関説)で良いではないか。」と機関説を支持しているにも拘らず、
その事実を平然と黙殺し、あくまで自説に拘泥し続けるという、完全な自家撞着を為したのである。

とどのつまり天皇主権論者の本音とは、現に実在する天皇などは全く眼中にはなく、その上で(第九回で述べた専制的支配欲求型ロボット型人間としての)頭に取り憑いている”支配欲求”と”天皇主権説”を便宜的にリンクさせることにより、
現実政治・政局を自らの意のままに操ろうとするものであり、すなわち実在する”(今上)天皇”とは、彼ら自身の想いを象(あらわ)すためのお神輿(みこし)/用益物に過ぎないのであり、
主権説とは”彼ら自身が日本の専制君主に成りたくて仕様がない説”だというのが、そのオチなのである。
そして余談ながら、このようなキチガイ・鬼畜性が顕現する心理的構造は、そのまま二・二六事件を引き起こす原動力となっていったのであり、例えば自分たちを天皇が頼みとし、かつ自分たちが天皇と一心同体であるかの如き幻想にとり憑かれた皇道派青年将校一派の一人、
磯部浅一は、いよいよ銃殺刑を目前に控えた土壇場において、「陛下 日本は天皇の独裁国であってはなりません。(中略)明治以後の日本は天皇を政治的中心とした一君と万民との一体的立憲国であります。
(中略)左様であらねばならない国体でありますから、何人の独裁も許しません。」などという直諌文をしたためてその本性を暴露している。
(つづく)
83市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:21:24 ID:???
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もちろんこの手の虚実が併存する二律的心理構造とは、21世紀の現在においても相変わらず氾濫しまくっている(※注)のであり、すなわち演繹的思考者により祭り上げられた対象物 (すなわち己自身の欲求の体の良いカモフラージュのための媒体)を用いた擬態を為す輩と、
その本性を見抜いている者との果てることがない闘いが今日においても相変わらず続いているのである。
(※注 例えば或る保育士のtwitterにこんなのがあった。「待機児童の問題など、保育の現場では憲法が守られていない。子供の健やかに成長する権利、働く親の働く権利、子供の安全と発達を保証するためには、
今の保育士の安すぎる賃金と人手不足の解消も必要。大好きな子供たちのために声を上げて変えていきたい!」
この意見の心理構造は、「憲法/大好きな子供」を「天皇」に置き換えれば、天皇主権論と全く同一である。すなわち「憲法/子供」のどちらも、実は発言者の本音においては眼中には無いのであり、自分たちの「収入upと労働量のdown」のみこそが、真の関心事なのである。)

というわけで感情系習慣的自動思考様式とは、高等社会性動物である人間においては、生来・普遍的な「擬態行動」を支えるという機能をも持つのである。

では以上を踏まえた上で更に病跡学的な個別事例研究を為していこう。感情系習慣的自動思考様式は人間をして、例えば以下のような愚かしい生き方を為させるように仕向けてくる。

平林たい子の自伝「砂漠の花」(1957)によると、この生来の“アバズレ/チンピラ”的気質を持つ女(当時17歳)は、判で押したように誰からも一様に嫌われ、人としての見込み/将来性のなさから
周囲の皆が(平林に)交際しないことを勧めるアナーキスト青年に、同類としてのシンパシーを感じ、周囲の批判的な目に対する反抗心から逆に一途に惚れ込んで、お決まりの破滅的な転落(※注)を辿る。
これについて当人(平林)は、己が単なる“あまのじゃく”であることを悟るために、これほどの辛酸を経験しなければならなかったとは何たる不幸であるかという旨の述懐を為している。
しかし己の性根が必然的に宿す破滅性を知り、それを何とか抑えようとする決心まではできなかったようで、この出来事の後も放蕩三昧の生活は止まない。
(つづく)
84市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:22:01 ID:???
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(※注 関東大震災の折には社会主義者/アナーキスト/サンディカリスト等が一斉検挙され、多くの者が不法裡に殺された。平林もアナーキストの女であったために捕らえられ、処刑場とおぼしき所にまで連れて行かれたが、幸運にも九死に一生を得る。
その後、東京から出ることを条件に釈放された身寄りもない平林カップルは、絶縁状態の親類を頼り大連に渡るも、男は頼った知人に警察に売られ懲役刑となり、
一人残された平林は、入籍を許す者もいない私生児としての女児を栄養失調状態で産み、満足な世話も受けられず一週間で赤子を死なせる。)

また平林などとは異なるタイプの、言わば“逆噴射型”とでも呼ぶべき、生来的気質が単純すぎることからくる、己の求道者的一本気/不器用さ等に対する徹底的嫌悪感から、
生涯にわたる自己否定的な(己自身との)不毛な闘いを為し続け、自殺衝動にとりつかれるまでになったレフ・トルストイの人生にも、
この感情系習慣的自動思考様式がもたらす悲惨さ(己や社会を感情の束縛から離れてメタ認知することを未だ知らないので、一途な思い込みが最悪の苦悩/破滅につながることを理性的に回避できない。)が溢れている。
彼は「アンナ・カレーニナ」(1878)で、「君は非常に純粋な人だ。これは君の長所でもあり、短所でもあるんだ。君は君自身の純粋な性格から、全人生が純粋な現象から成り立つことを望んでいるが、そんなことはとても在りうることじゃない。(中略)人生のあらゆる変化、
あらゆる魅力、あらゆる美は、全て影と光(※注)とから成っているものなんだからね。」(第一篇十一)と述べ、平林と同じく理屈の上では己の弱点/人の世の真実を把握している。しかして彼の自己否定・嫌悪的執着は、現実には非常に哀しい不毛の努力を為すように仕向ける。
すなわちトルストイの主要作品を特徴づけているところの、例えば起承転結の如き筋立てを持たせることを嫌悪しているかのような、物語展開における徹底的な複雑・輻輳性と一回性事象の連続がもたらす各事象の非連続性等は、
言わば己の天与の単純明瞭な気性に対する絶望的嫌悪がその根に在ると考えれば、「なるほど」と納得できるのである。
(つづく)
85市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:22:40 ID:???
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(※注 “影と光”とは、例えば或る人物がどんなに“善良/好人物”に見えたとしても、それでも尚、彼が人間である以上、彼の人格の中には、例えば残酷さ/自己中心性などといった醜悪な部分を必ず見出すことができる、
というような類のことを示唆しているわけで、こうしてこの世のあらゆる事物は、影と光のコントラストの中にこそ、その本質を宿している旨を述べたものである。)

更にトルストイについて重要なことを言い添えるならば、彼の出世作の「戦争と平和」(1869)などを読んでいても、外形的には物凄い事件がどんどん起こってくるのだが、(その優れた文章表現力とは裏腹に)全く臨場感というか感情移入が読み手の心中に起こらないのである。
これと対照的なのがツルゲーネフの諸作品であり、それらはどの作品においてもドラマチックな場面の最中には、あたかもオレ自身が登場人物になってしまったかのようなリアルな共感/実感が沸き起こってくるのである。

では両者の作品におけるこのような本質的違いをもたらしているものは何なのか?それはトルストイとは、自分を自分が憧れている何者かに似せようとしている偽物(主体性/個性がない凡庸者)だが、
ツルゲーネフは己の真実に真っ直ぐに向き合って生きている優秀者であり、そこで掴んだ真理(彼の個性を形成するもの)を作品として端的に表現しえているということである。

さてこれらの事例を通して見えてくることとは、感情系習慣的自動思考様式のためのチャンクは、思考アルゴリズム部分が小脳ROMであるために、理性的にはその内容の滑稽さ等をメタ認識できたとしても、ここから直に思考様態を修正できるわけではないということである。
すなわち感情系習慣的自動思考様式の低劣性を免れるためには、思考の進捗につれて、その全体的方向性・方針を合理主義的たらしめるための何らかの『思考統御・監督系諸機能』が、適宜、働く必要があるのである。
結論から言えば、これは第十回において「人格的諸能力」としたものに由来する機能である。この思考統御・監督系諸機能についての詳細な論説は、次回以降(第十二~十三回)に持ち越される。
(つづく)
86市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:23:08 ID:???
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さて、とにもかくにも破壊と創造過程に入れず、テンプレート化した意思決定チャンクの継続的利用による自己限界的特異点に至った場合、凡庸者の多くは社会的不適応段階に移行する。
そしてその状態が慢性化すれば、ストレス系ホルモンの過剰分泌等による脳神経器質自体の破壊/変成/機能不全と精神病等の段階にまで、必然的に行き着かざるを得ないのである。
(「感情系習慣的自動思考様式」 おわり)
(第十一回 おわり)
87市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)18:21:08 ID:???
>>80

“秀才(※注)”の注釈が脱落していたので以下に補填する。

(※注 「秀才」は凡庸者のサブ・カテゴリー。これについては後の回で詳説する。)
89市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:13:59 ID:???
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「市民層  概論」 第十二回

「論考と人格」

すなわち人がどこまでも感情系習慣的自動思考様式のみで生き抜こうとするならば、本来、我々が「人類」に成るよりも遥か前に既にその基幹構造が完成されており、もって「特有の高度・複雑さを持つ人間社会での生活」については全くその“設計思想”
の想定外であったところの、単なる“動物界”仕様でしかなかったそれ(感情系習慣的自動思考様式)は、人間的「擬態行動や騙し合い」が錯綜/輻輳する特殊環境(人間社会環境)においては、
全く対応不能となる日がいずれは到来することは、最初から目に見えていた。すなわち人間社会においては一定割合の凡庸者は確実に、重篤な社会的不適応状態にシフトしていく。
しかしこうした不適応状態も初期段階であれば、実は簡単な気晴らし/気分転換をもってするだけで寛解させられることもまた事実である。

すなわち人は自己保存本能が健全に機能している状態(正気)であるならば、本能的な危機回避行動を採れ、(例え容易には解決できない処世上の問題を抱えている真っ最中にしろ)簡単には精神破綻前状態にまでは至らないものである。

ところで気晴らし/気分転換は、己の気分の状態を意図的に変えるという行為であるから、立派な「自己の存在拘束性の操作/管理」の一種である。
存在拘束性の操作/管理とは、システム論的には「現在の存在拘束性を新たな存在拘束性に“変える”、あるいは“(変わろうとする存在拘束性を)変えない”ことの組み合わせ行為」だと定義付けられるものだ(※注)。
(※注 存在拘束性とは、人の認知の様態/傾向に影響をおよぼす全ての内・外的要因。読者は例えば見田宗介の前掲書 第一章第三節「価値の機能的次元と類型」に提示された四類型・次元、
並びにそれらが第二章第二節「価値判断の規定要因」中の第2図が示すところの連関性を伴い顕現するところの様態等において、これらを包括的に良く看取し得るであろう。
これらに含まれるところの個別的要素には、例えば国籍/年齢/性別など普通には操作できないものも多いが、
(つづく)
90市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:15:13 ID:???
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心理状態/健康状態/職業/居住地/人間関係などなど自由な意思により変える、もしくは変えないようにすることをもって操作/管理できるものも多い。)

すなわち

『「破壊と創造」的事象とは、存在拘束性の変化/無変化としての、無数の微分的な破壊行為と創造行為が因果/連関し続ける“積分的”集合である。
そしてこれは、第一定理的作用(集合知/帰納的思考様式/弁証法的運動)をミクロ的に見た際の中枢要素に他ならない。』(『進歩の自然法 第三定理(「破壊と創造」定理)』)

例えばリー・ヴァン・ヴェーレン(進化生物学)の「赤の女王」仮説(※注1)が看破するが如くに、あらゆる生物は敵対的環境因子が無数に存在する中でのたゆまぬ破壊と創造としての「存在拘束性の操作/管理」競争を
強いられるのだが、これが地球上の生物界における自己保存には最も合理的な方法だから、誰もこのゲームから下りることはできない。
その上で前回言及した感情系習慣的自動思考様式に対抗するための「合理性を追求するための新規の判断システム」とは、実は気分の操作/管理などという簡単なものから、生活や職業などにまつわる比較的大きな事象/事物の操作までを包含するところの、
正にある意味でこの生き残りゲームのトップ・アスリートである人類のための「(生物学的)適応度(※注2)の上昇を目指している存在拘束性の操作/管理を為すための思考・判断システム」として位置づけられるものである。
とどのつまり当該システムによって為すことこそが、人が非合理的な好ましからざる状況(存在拘束性の陥穽に嵌った状況など)からの脱出のために為している、若しくは為さなければならないことの全てだ。
(※注1 常態的な進歩/発展が生物が絶滅を免れるための王道であるとする理論。)
(※注2 「適応度」は生物学用語。生物個体・種が保持するところの、自己の生き残り/進歩/発展に対して貢献的に作用する諸属性の保有度。)

ところで前回の平林たい子/トルストイの事例に見るように、人は理性的には感情系習慣的自動思考様式の滑稽さを認識できたとしても尚、感情系習慣的自動思考を直ちに捨てられるわけではない。
というわけで、この新規の判断システムには、しぶとい動物仕様の感情系習慣的自動思考様式的強制力に対抗して思考の過程においてその全体的方向性・方針を合理主義的たらしめるための、
(つづく)
91市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:15:54 ID:???
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何らかの「アンチ - 感情系習慣的自動思考様式機能」が備わっていることが当然の如く期待できる。そしてこれについて具体的に論考する前に、まず以下のことを説明しておく。

存在拘束性の操作/管理を為すための思考・判断に際しては、何をさておきまずは、この「己の存在状態自体がもたらすところの
(感情系習慣的自動思考的)強制力」自体が届かないような“圏外”に己の自意識が予め置かれているのでなければ、そもそも「必然的に心地良さを感じる固定感情に支配されざるを得ない(すなわち存在拘束性の陥穽に
はまらざるを得ない)演繹的思考様式」(第十一回)の中で存在拘束性の操作/管理などできるものではない。
すなわち今、現実に己の身を縛っている存在拘束性の操作/管理を為すためには、まずはその方法を案出する思考段階において既に、
「自意識」だけは一足先に存在拘束性の“圏外”に脱出し終えているのでなければ、これ(思考/判断)を成しようがない。

そしてこの自意識が存在拘束性の圏外に脱出できている状態こそが、実は「メタ認知」状態、すなわちヘーゲル的「反」状態なのであり、人の自意識は予めこの状態に在って初めて、存在拘束性の操作/管理を為せる。というわけで

『新規の判断システムにおける「思考統御・監督系諸機能」(第十一回 参照)の第一義的な目的とは、自意識を感情系習慣的自動思考様式の圏外に置いてメタ認知状態に置き、かつこれを保ち続けることにある。』

ところで実はこの「メタ認知」ほど、他者に説明するには厄介なものはない。もちろん現状の世界の公教育においてこの概念、及び認知における重要性を教えている処など一つもないであろう。
ただ世俗の界隈において、これに近似する注意喚起を為すことが時たま在る程度である。
すなわち「頭を冷やせ/よく見ろ・考えろ/相手(もしくは第三者)の立場で考えろ」等であるが、これらは必ずしも当論で言うメタ認知についての的を射た認識に人々を行き着かせるわけではない。

人の通常の自意識は、或る一つの習慣的、かつ快感系の観念に取り憑かれた状態に在り、ここに無頓着に留まり続ける、あるいはしがみついている限りにおいて当人の教養とか知能などとは無関係に、
(つづく)
92市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:16:33 ID:???
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凡そ合理性などとは無縁の思考/判断を為す、すなわち己の存在拘束性の陥穽にはまるしかないことは前回、述べた通りだ。これが凡庸者的な自意識状態である。
一方でメタ認知することそれ自体は、第七回で述べた「自己批判的観念」と極めて密接に関わるところの自意識状態であり、
己自身の有様を客観・合理的に認知/分析できるような、ある意味で“透明で澄んだ”意識状態であり、かつ妥協や曖昧さを許さない“冷厳な裁判官”のようでもある。
その上で優秀者の自意識は、適宜、感情的な自意識状態からジャンプして、この純粋に理性的な状態にシフトできる。
具体的にはこのシフトを為すべき必要性を示す契機に際しては適宜、「気づき」を得て、もって自意識の状態を速やかに「正」から「反」にスイッチできる。

そしてここで「メタ認知系諸能力(第七回 参照)」を、当論的視点からの定義付けとして、「メタ認知を可能にするためのプロト能力/メタ認知能力/メタ認知成立状態においてこれを基盤として動作する能力(帰納的思考能力)」の三能力の集合とするならば、
思考統御・監督系諸機能とは、このメタ認知三能力を適切かつ効率的に作用させるためにこれら自体に働きかけたり、あるいはこれら(三能力)を感情系習慣的自動思考様式の影響から免れさせてくれる機能ということになる。
その上で結論から言うと(もう既に幾度か言及しているように)思考統御・監督系諸機能を担っているものとは、
このメタ認知系諸能力自身の一部分であるところの「人格的諸能力」であり、これは上記メタ認知三能力の中の「メタ認知を可能にするためのプロト能力」に該当する。
ちなみに大半の読者は今、オレが何のことを言っているのか急にチンプンカンプンになってしまったはずだが、心配は無用だ。とりあえず今は軽く読み流しておいてくれれば良い。これの経験論的な解説は、
もう少し後で為すので、その際にまたこの箇所を読み合わせてくれるならば、キチンと理解できる。

ではここからは「何故にこの『人格』なるものが、新規の判断システムの中でメタ認知系諸能力に対する統御・監督系諸機能として、あるいは感情系習慣的自動思考様式の低劣性を免れさせ、もって思考を合理主義的たらしめられるのか?」を説明していく。
(つづく)
93市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:17:08 ID:???
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まずは「人格」についての当論的定義を得ておこう。ウィリアム・D・ハミルトンが提示したところの生物の利他主義的行動に関わる理論等からは、動物の種、あるいは個体レベルにおいて歴然とした差異を見出し得るような
固有かつ多様な「行動特性・性質・気質型属性」、すなわち(人におけるところの)「人格/気質」該当物は、自己保存目的下の戦略的判断の場において、顕著に有意であることを演繹できる。更に

『行動特性・性質・気質型属性としての人格は、人の思考/判断の全体に対して包括的な位置から影響力を行使する因子として、(思考/判断の場においては)思考能力それ自体に匹敵するほどの重要性を持つ。』

という仮説をここで立てる。その上で人類史を振り返る。2000万年前頃までは、大洋からの湿った風が海岸部まで密生する熱帯雨林を繁茂させていたアフリカ大陸において、類人猿と現生人類の共通祖先であるドリオピテクスが
多種多様な食草/果実が手近に満ちた快適な樹上生活を謳歌するも、1800万年前頃から始まった大陸のプレート移動によりテチス海が消滅し地球は寒冷化し、東アフリカの大地溝帯の両サイドにはそれぞれ長く連なる山脈が現れた。
このために東アフリカでは乾燥化が急速に亢進し、豊かな“恵みの森”は消え、ただ果てしなく広がるばかりの草原と閑散と生える樹木のみの「サバンナ」が出現した。

この環境的存在拘束性の下では従前の多くの種が絶滅する中で、人類の祖先たち(ラマピテクス)は、
脳を大きく発達させ生活の細部に至るまでの経験的事実認識を無駄にせず、これを徹底的に利用するための思考システムを新たに開発するという破壊と創造(進化)過程に入った。
すなわちこの過程においては、二足歩行と両手を自由に使うことによる草原における武器使用を伴う狩猟技術の向上/仕留めた獲物の運搬と分配等に適った能力を高めることができた血縁集団が、
更に個々のラマピテクスの人格的能力の差異に所以するところの、例えばチンパンジーなどの現生類人猿にも見られる「物乞い」行動、つまり非常に切ない目で食事中の相手を見続けて、相手を「ショーがないな。少しだけおすそ分けしてやっか。」気分にさせる、
あるいは“おじぎ”とか“肩を叩く”的な「挨拶」行動などによる
(つづく)
94市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:17:40 ID:???
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様々な集団生活に与する、高度な心理操作能力の開発を伴うホミニゼーション過程に入っていった。
こうして「人格」能力の差により自然淘汰・選別されることとなったプロトホミニド(人類祖先)の脳においては、更に経験記憶を戦略的行動能力開発のための素材としうるための更なる破壊と創造、
すなわち徹底的な脳器質的進化が始まり、コミュニケーション能力等を始めとするところの包括的知能が劇的に亢進していった。

そしてこれらの新規獲得能力はプロトホミニド段階においては、「凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」(観念運動の自然法の第四定理)的な人格としての、例えば「思いやる/毛づくろいし合う/ジャレ遊ぶ」などといった、
主として生活時間の大半を占めるところの集団内秩序形成に与する「連帯/相互扶助」的能力に類するものの開発に偏向する傾向を持ったことについては、何ら疑問の余地はない。
すなわち現生人類(ホモ・サピエンス)に至った現在においても尚、このことは今だに歴然と(自意識的にはプロトホミニド的な人格能力しか持たないと思われる)凡庸者/下層大衆の生活様態において歴然と顕現しているからである。
そしてこのような段階に留まる人々の認識においては当然の帰結として、人格(的能力)と言えば即、集団内自己保存目的に与する調和・協調型能力を促進するようなもののことを意味するのである。

しかして現生人類の中の「ホミニゼーションの結果として現出するに至ったとこの高度/複雑な特殊社会の中で生き抜かなければならない動物」としての自覚を持てる優秀者は、理性的判断能力としてのメタ認知系諸能力、具体的にはこれがもたらす
最高到達物としての帰納的思考能力を駆使した経験的事実認識に整合した(第七回の当該箇所で幾つかの具体例を示したところの)「合理的認識」こそが、人が生き抜くための真の知的財産であることを正しく認識している。
(つづく)
95市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:18:21 ID:???
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その上で当論が関心を持つところの人格とは、(第七回において提示した)主体的達成意欲/自己批判的観念などとしての『始原人格』とその合力的作用から発展的に形成され、
もってメタ認知系諸能力を涵養し、更にはこれの統御/監督を為すところの、幾つかの人格能力なのである。以下に詳説しよう。

まず始原人格能力には、三種ある。第一は「主体的達成意欲」、第二は「自己批判的観念」、そして第三は「欲求抑制観念(ストイシズム)」である。(ちなみに第一と第二は第七回において既に説明している。第三についての説明は次回になる。
ちなみにストイシズムは、他の二つとは質的に異なる特殊な属性を持つ。)
そしてこれら三種の始原人格のそれぞれから三系統の発展的な諸人格が発生する。今、とりあえずこれらを包括して人格的諸能力として捉える。すると

『人格的諸能力とは、(前述したように)メタ認知系三能力の一つであると同時にこれらメタ認知系(三)諸能力全体の統御/監督をも担うのである。
その上でメタ認知系諸能力は、常に人格的諸能力からの動機付け/活性化/統御/監督等の作用を受けつつ、個々が単独で動作したり連関し合ったりしながら働く。』

ところで例えば気分的存在拘束性の操作/管理などは単なる動物本能に基づく「快感追求欲求」が、その開始のための端緒となり得るわけだが(すなわち感情系習慣的自動思考様式の場合と同じ)、例えば職業(生活様態)/居住地/人間関係などといった
『高次存在拘束性』の操作/管理については、既に自意識内にプロト優秀者定理(第十回 参照)的な人間界の事象一般に対する確たる「問題意識」が常在していて、
これに基づいた「論考欲求」が端緒となるのでなければ、おいそれとはこれを開始できるものではない。すなわち

『人生や社会にまつわる高次存在拘束性問題にあたっては、当該者 (プロト優秀者以上の者)が既にそれなりの問題意識と人格的諸能力を保持していて、これらが媒体となることで、「論考欲求」を生起させる必要がある。』
(つづく)
96市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:19:04 ID:???
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具体的にはプロト優秀者等の自意識内において、背に腹は代えられないようなギリギリの状況において、彼の主体的達成意欲系の人格が、
脳内に既に「存在拘束性の操作・管理チャンク(破壊と創造チャンク)」(※注1)を形成しているならば、必然的に押し出されるようにして発生してくるものが、「論考欲求」なのである。
(※注1 人格が未熟である場合はこのチャンクが存在せず、論考欲求も発生しない。もって進歩の自然法の第二定理(第十一回 参照)的な自動判断過程に入るしかない。
こうなると存在拘束性の陥穽にはまり「無いモノねだり(※注2)」を始め、現状に対する際限なき批判/非難等の不平・不満意識を吐露し続けるだけである。)
(※注2 眼前に“在るモノ”を自動判断的に“悪の根源”だと決めつけ、“無いモノ”をひたすら狭隘なる思い込みにより希求しまくるところの感情系習慣的自動思考様式の典型的自動思考アルゴリズム。
例えば「戦前期の国民が太平洋戦争を積極的に支持したワケは、警察/憲兵等による弾圧、教育勅語制定に代表される教育政策/大本営のウソ報道等に因る不可抗力のせい」だとするところの自己責任回避論などが好例。
ちなみにこの責任回避論は、戦後は民主化/基本的人権の尊重/思想・信条の自由等が保証されて、従前の“無いモノ”は全て補填されたにも拘らず、
日本国民の大半が重大な社会問題に対して、相変わらず寡黙、かつ無知蒙昧であり続けているという経験的事実の提示により反証できる。)

ではここで始原人格から派生した代表的な個別の人格能力を以下に挙げる。

「真理性/卓越性を好む/重視する」人格こそは、人をしてプロト優秀者や優秀者たらしめる根幹的人格的能力である。これが無ければ、都合が悪いことは「見なかった/聞かなかった/知らなかった」振りの典型的凡庸者となるしかない。
すなわちこの人格を持たなければ、そもそも納得できるまで事物を追求しようという意志/態度を保持できないから論考開始点にすら至れない。
あるいは公教育等で得た専門的知性をもっぱら素人を騙し煙に巻くために用いようとするが如きの典型的パフォーマンス至上主義型人間、すなわち確信犯的な詭弁論者/衒学者に成るしかない。
(つづく)
97市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:19:39 ID:???
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また「真面目さ」人格の機能も同様だ。但し上記人格(「真理・卓越性愛好」)を併せ持たなければ、むしろ無謬的信憑性が強いだけの典型的ロボット型人間の形成を促す。
その一方で真面目さの反対人格であるところの、他者の意見/教唆等を受け入れる意志自体を持たないために、屁理屈だの言葉尻のみを捉えて反駁するがごときの「頑迷性/認知努力の“門前払い”性」、
すなわち「教育不能」人格しか持たない者はいずれは確実に、キチガイ・鬼畜性(第九回 参照)の顕現にまで至る。

また己が過去に為した努力に対する誇り/成果等に由来する「自尊」人格を涵養できていなければ、論考を始めたとしても、これを情緒安定的に進捗させられない。
更に他者の知恵に対して適切に心を開けるような「無知の知」的な意思/人格もまた論考行為にとっては決定的に重要であり、全世界に散在する有意な智慧の吸収を円滑ならしめる。
そして「几帳面さ」人格が無ければ、いい加減さが、「責任感」人格が無ければ結果に対する投げやり的態度が論考に終始ついて回らざるを得ない。

このように、そもそも論考の開始点に到れるか、はたまたその進捗過程における適切さの担保力は、
当該者が予め持つところの、実に多種多様な人格的能力、すなわち人格的諸能力が統御・監督的な力を発揮することで生成される。というわけで

『論考の開始・包括的な質とか内容を規定したり方向付けているのは、決して狭義の知力(教養/論理構築能力など。)だけではなく、まずは当該者に固有の人格的諸能力が、如何なる問題意識を持つかを規定し、更には論考過程に入る前から、
如何なる質/精度を備えた論考を為せるかの可能性をも規定している。』

すなわち論考という行為において、知能と共に決定的な影響力を発揮するのが人格なのだ。人は知能(論理性自体をもたらす能力)が高いだけではダメで、論考行為に深く関与するところの
幾つかの人格的能力がもたらす統御・監督的作用が適切に機能しているのでなければ、論考の開始/進捗/終結を優れたものにすることは絶望的というわけである。

では次に上記の個別の人格/意思(的人格)がどの人格系統に属するのかを、幾つかについて同定してみよう。(但しさっきも述べたように、今回は第一と第二の系統に関してのみ。)
(つづく)
98市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:20:15 ID:???
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まずは「真理性/卓越性を好む/重視する」人格だが、これは論考欲求の本体であり、これがなければ人は、そもそも論考などという重労働を為そうとする意欲を永遠に持ち得ない。
すなわち思考統御・監督系諸機能に関わる諸人格の中でも最も根幹的なものである。
アリストテレスは「ニコマコス倫理学」第六巻(B.C.4c)において(「智慧」に勝る価値を持つものとしての)「思慮」について、『「思慮がある」とは、「自分にとって良き事柄とか功益ある事柄に関して立派なやり方で思量できる」ということであり、これは
(珍しいこと/驚きべきこと/難しいことなどを知っていることであるところの)「智慧」を用いた上で、人間的な諸々の「善」(オレ注 ; 進歩/発展)を追求させるもので、すなわち「思慮」は、論考の過程の個々に対して
「何を為し、あるいは為さざるべきかを規定し命令し真っ当な論考を開始させる」動機をもたらす。』旨を述べている。

つまり如何にモノ知りであろうとも進歩・発展的方向性を持たなければ、論考という行為が価値を持つことは絶望的だ。その上で論考における価値の本質が、
「真理性/卓越性を好む/重視する」ことであり、更に人が為す事の全ての進歩・発展性の始原人格は「主体的達成意欲」なのである。

というわけでオレがtwitterで度々言及するところの“天才”と“秀才”の間の大きな隔たりも、(狭義のIQの差異とかよりも)主体的達成意欲とその系列人格能力の隔たりに因るところの方が、ずっと大きい。
つまりこれこそが、人と社会の進歩/発展の源泉であり、オレが優秀者的属性として何よりもまず「主体性」を第一に挙げていることの所以なのである。

そして「教育不能」人格とは、逆に主体的達成意欲系人格能力が不全であることの帰結である。つまりこれは、一切の真理・真実性/卓越性への無関心性の源泉であり、
(つづく)
99市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:20:48 ID:???
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第七回で述べた「無思考・無忍耐・無努力・他罰的傾向」、すなわち極めて他者依存的で自らの側で状況を操作しようとする能動的能力を持とうとしないパフォーマンス至上主義型人間の主要人格である。
これは、例えば知性において己よりも数段も格上の相手に対してさえ平然と批判を為せるような心性の源泉である。そもそも批判する相手の主張を凌ぐ対案の提示を伴わない(言わば“相手の主張の存在”に依存しているだけの)結果論的批判だけで良いならば、
子供でも馬鹿でも簡単に為せるのであり、口先だけ/善人振り/利口振りをもってするパフォーマンスには打って付けである。
もちろんこうしたものは人と社会に対して著しい幼児的退行性をもたらすことは言うまでもない。(同じ凡庸者カテゴリーの中でも生真面目なロボット型人間は、教育不能人格は持たない。)

次は「無知の知」意思/人格について。これは集合知を有意に利用する際に必要であるところの「謙虚さ/分際を知る」「真面目さ/几帳面さ」人格の源泉。
その上で「無知の知」人格とは、「自己批判的観念」に由来している。そして自己批判的観念系の最高派生物は「責任」人格である。これら「無知の知」「謙虚さ/分際を知る」「真面目さ/几帳面さ」「責任」人格が、「自己批判的観念系人格能力」の代表例。
ちなみに自己批判的観念系は、主体的達成意欲系が健全に備わった後でなければ保持できないところの、より高次の(理性の働きを要する)系統だ。

では次に論考システムの機序を示すサブモデルを提示する。

プロト優秀者以上の者においては、感情系習慣的自動思考様式のための固定回路(正規チャンク)の援用のみでは、自己保存本能が求めるものに適切に対処できないことが歴然となった時点で、世間の一般常識に対する根源的懐疑/個別事象に対する問題意識、
並びに諸人格が既に自意識内において十分に成長しているならば、それらが、まず強い不快情動を発生させる。
すなわち目的達成のために期待をもって援用された正規チャンクが予定通りの結果を生まなかったという経験的認識は、これと人格/破壊と創造チャンクが相互に交通することで、
「何故なんだ!?/やっぱりこうなるの・・」的な激しい煩悶/疑問/ショック/沈滞した気分等を心に生起させるのである。
(つづく)
100市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:21:24 ID:???
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その後、破壊と創造過程に先立って必要であるところの「覚悟/勇気/度胸」系の意思/マインドセットも破壊と創造チャンクに主体的達成意欲系人格が作用することで漸次、醸成され、ついに論考欲求が発生してくる。

そしてこの際に重要なことは、人格的諸能力の思考統御・監督系諸機能により自意識がメタ認知状態にシフトすること、そしてこの状態を論考終了まで保つことである。
というのも「反」状態でないと、論考欲求の発生にまでは至っても、ゴチャゴチャと考えた挙句に結局、感情系習慣的自動思考様式に舞い戻ることになるからである(※注)。
(※注 例えば「結局、奴は何故、怒ったのか?オレが●●と言ったからか?しかしそんなことで腹立てられる筋合いはない!人間というものは◎◎しなきゃならんものだろうが!胸糞悪い奴だな。あ~ぁ、ウゼェなぁ。」みたいに。)

ちなみに宗教などは、こうした高次存在拘束性問題を、(凡庸者的「正」意識に留まったままで)日常そのものから隔絶した何やら神秘的な認識に結びつけて、何とかしようとする。
例えば仏教的修行では、あらゆる事物/事象への執着のない「空」、没我的自己投入である「三昧」(「フロー」・・脳波はα波、またはθ波に近いα波)状態を解脱(破壊と創造)のための要件だとして、
これに自在に到達するためのノウハウの獲得(悟り)をもって、存在拘束性の操作/管理を成せるつもりでいる。
しかして現実には、高次存在拘束性の操作・管理法を、真の意味での合理性を伴うもの(すなわち現実生活における成功/自己実現に直結しうるもの)として樹立するためには、
こんな“世捨て人”みたいなメンタルでは到底不可能であることは、誰もが薄々は気づいている。

とどのつまりこの手の非メタ認知・非論理的方法論が今だに堂々とまかり通ることの理由としては、まずは「主体性」の獲得という困難を極める過程を回避しようとするからである。すなわち第十回で示したように、
何らかの"真理めいた認識"を得たとしても尚、主体性が希薄だと、それを自分自身が信じ切れない。ゆえにどうしても主体性の獲得を避けることはできないのだが、しかしてこれは容易にできることではなく、そのハードルは極めて高いのであった。
(つづく)
101市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:22:11 ID:???
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更に加えて真摯な論考を始めると、ニューロンがその都度、新たなシナプスを作る必要のために、脳神経に強度の労働負荷(※注)がかかるという問題もある。
(※注 論考時に脳内で為されているところの「シナプスの新規生成」においては、(ニューロンの)ゲノムからの連続的タンパク質産生が為されるのだが、こうした"増築工事"に伴う甚大な疲労系ストレスにより、
論考者は時間を経るごとにみるみる倦怠感がつのり、ヤル気/思考の明晰さが低下し、最後には眠気をもよおす。
このことは、究極的な情動的快感・充足感を希求するところの(感情系習慣的自動思考様式の一種である)宗教的修行が、脳内麻薬様物質の作用でα波を発生させ続け、疲労感を打ち消してくれることとは対称的である。)

つまりこうした論考につきまとう困難/ストレスを避けたいという心理が、凡庸者をして宗教的修行などに向かわせているのである。もっとも当論的な優秀者とても常時、論考によって疲れているわけではない。
何故なら前回述べたように、彼らもまた演繹的思考様式を基盤として生活する者たちだからである。
すなわち帰納的論考の成果物は次々に演繹(予定調和)的に参照できるようになるから、普段は演繹的思考様式で間に合うのであり、彼らはせいぜい青年期をピークとする重度のストレスを伴う帰納的思考を為しているにすぎない。

では次に論考の成果物が、いかなる形態の脳神経回路(チャンク)として残るのかについても論じておく。

感情系習慣的自動思考様式のためのチャンクは、一つの「認知-判断-行動」固定セットであり、しかも思考アルゴリズム部分は小脳ROMであるために人は直に思考様態を修正できないのであった(第十一回 参照)。
しかして破壊と創造チャンクが始動して論考が進展すると、その論考内容を受けた思考アルゴリズムが(大脳RAMとして?)新規に形成されて、これ以降は正規チャンクが出した判断に、
この新たな思考アルゴリズムを意識して援用することを何度も繰り返して、もってこれを長期記憶化することで、正規チャンクの思考アルゴリズムを使わない「バイパス・チャンク」のようなものを形成する。
(つづく)
102市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:22:45 ID:???
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これは当人の心の張り/緊張感などが緩んだりしない限りにおいて、同じような状況に遭遇した際に利用できるもの。
すなわちあくまでも“バイパス”だから、正規チャンク自体は消去されずに存在しており、当人の気が緩んだりすれば、たちまちにして正規チャンクが援用されてしまうということ。

バイパス・チャンクの典型例としては、プロ・ゴルファーのJ.ニクラウスが有名にした「イメージ・トレーニング」などがある。これは、例えば珠算者が暗算のために頭の中でソロバンと弾く指の像を正確にイメージできるように訓練することと同じであり、
イメージ・チャンク(バイパス・チャンク)の固定後は、創り出される“動画”を用いて精度の高いゴルフスウィングとか暗算を難なくこなせるというわけだ。
またピアノ/ギター等の演奏者ならば、これまた脳内で様々な動画イメージ(鍵盤/指板の色付け/連番付け/発光、指を透明にするなど。)を創作できれば、極めて自在/流暢な演奏が難なくできるようになる。
ちなみに熟練した演奏家ならば、脳内動画での鮮明なイメージのおかげで、ミリ単位の精度で鍵盤・指板上の指の位置を同定できるまでになっている。
(ちなみに「共感覚」と呼ばれているところの、数字や音と色覚等がリンクするような特異な認知形態は、実はこのようにして形成された動画チャンクのエピジェネティック遺伝例なども含まれているのかも知れない。)

以上が論考システムのサブモデルだ。ではここからは更に最終的に完成された論考形態としての優秀者的な論考の特徴を見ていこう。

人は「主体性/個性」が涵養するところの優れた人格的諸能力による介入(思考統御・監督系諸機能)があって初めて、感情系習慣的自動思考様式の呪縛から脱し、(当該者の能力の許す限りの)合理主義的因果・方法論を形成し得る。以下に詳説する。

凡庸者御用達の演繹的思考様式とは、規則/法則/原則等を事象に(情動の力により)十年一日の如く杓子定規に適用して、後はやりっ放しである。
すなわちこのような自動思考様式的なやり方では、例え当該規則の援用自体は基本的には正しいものであったとしても尚、
思考者の「主体性」を支えとするところの慎重さ/懐疑や猜疑/周到な事象の多角的分析に基づく包括的理解、判断等が適宜、為されないために、
(つづく)
103市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:23:18 ID:???
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例えば調整的対処時における非合理性(意識の甘さ/要素・因子ごとの重要度の序列の不適切/個別的問題点の発見の遅延など。)を免れ得ず、もって瑕疵の延々たる蓄積が、往々にして大元の目的を頓挫させてしまう。

例えばもう5年以上も前からネット上に登場し、今だにtwitter界隈で一部の研究者のツイに見受けられるところの、『iPS細胞研究に関わる「選択と集中」政策に対する批判/非難』の内容を見るならば、この事象がこの種のものの一つであることが良く分る。
まずそもそもこの手の「ヘゲモニー層の政策と関係当事者側との対立」構図は、人間文明の開始以来、普遍的に顕現してきた。

例えば高度成長期以前の琵琶湖では農民が魚の産卵期を避けた上で、肥料にするために湖底の藻を刈っていた。そこへ1960年代以降、国家の産業政策が化学肥料を普及させたり、工場を周辺に誘致したりしために、農民は琵琶湖の藻を刈らなくなり、
その上、排水が大量に流入するようにもなった。こうして化学肥料/合成洗剤が含有するリンと、腐った藻が湖底に堆積することとが相まり、琵琶湖は急速に富栄養化していった。
そしてその結果、赤潮が発生し始め、琵琶湖の水質は急速に悪化した。(藻/プランクトンは本来、水質浄化機能を持つが、それも程度問題であり、大量の藻/プランクトンの死骸は明らかに水質を悪化させる。)
こうして「(かつては人間活動もそこに組み込まれていたところの)琵琶湖生態系が破壊されてしまったことの原因は、国策にある。」とする地域住民と国家の対立が生まれることとなる。

さて以上の事象においては上述のように、工業製品の普及を推進するという演繹的思想を杓子定規、かつ無頓着に現場に普及させ、後はやりっ放しという政策が、まずは問題をここまで大きくした最大の原因であることは明らかである。
しかしてその上で、短絡的に国家機関の役人的判断に対して全ての罪を着せることが(言い換えるならば「文明の工業化」を単純に罪悪視することが)、果たして時代的存在拘束性という“事の大枠”から鑑みて合理的なのか?ということを考えてみたい。

するとむしろ問題性が明らかになった後の、関係当事者の古い体質や観念等がもたらす非合理性/「破壊と創造」能力/振る舞い等、
(つづく)
104市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:24:02 ID:???
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つまり「主体性」が涵養するような人格的諸能力に由来する関係者の在り方、すなわち“中枠的”なものを問題視することが、最も有意な解決につながるのではないか?との気づきに至る。
何故ならそう捉えた方が、発展する物質文明の恩恵を受け取るための“ベスト・バランス”を発見するという、より高度な合理性に辿り着ける可能性が高いからだ。

翻ってiPS細胞問題の場合、『新技術に“最終的な出口”としての経済的利潤を生み出させるためには、何処かで“商品化”のための「選択と集中」段階にシフトしなければならない。』という“大枠”の認識自体は、
これまた時代的存在拘束性(日本社会の現時点での経済発展段階)を鑑みるならば、“当然の理”として是認できる。
その上で実際的な問題性を見出すとすれば、大枠の観念を適用する段階/範囲/期間/強度/関係当事者の振る舞い方等といった“中枠”的範疇に絞り込むことが合理的なのは、上記の琵琶湖のケースと同じ論理構造だ。すなわち

『高次存在拘束性に関わる社会問題等は、時代的存在拘束性に関わっているところの容易には変え難い大枠的範疇ではなく、
(関係者の行動基準等が主体的か依存(紋切り型/頑迷)的かなどといった)中枠的範疇に関して問題意識を持つことが、往々にして合理的である。』

そしてここでもう一つの優秀者的属性である「個性」について考える。

この世で生起する事象というものは、無数と言って良いほどの多種多様な側面を持つ因果関係により運動する。その上で通常、一人の人間は一つの主体的認知体系を持つ、すなわち或る特定の側面からのみ事象を捉える傾向としての「個性」を持つことにより、
問題の特定部分において、その深部まで掘り下げた精緻な論考を為すことが、現実的に可能になる。
ちなみに個性という優秀者的属性は「個人」レベルの「選択と集中」性なのであり、選択と集中自体は、援用時に適宜・経済性を持つ限りにおいて合理的である。
例えばこの場合は、多種多様な優秀者が存在する「社会」レベルにおいては逆に、「多元均衡的世界」(過去レスリンク69.-70.)をもたらすための礎に成るという具合である。

一方で論考の場において、深みに欠けた中途半端なそれを為すことは、例えばネット上で“カエル砂鉄罪(※注)”などと揶揄されているようにほとんど害悪ですらある。
(※注 もっとも「砂鉄」氏に関しては
(つづく)
105市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:24:49 ID:???
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オレ的には、その天与の素晴らしい帰納的思考能力自体は高く評価していて、ゆえに今後の抜本的研鑽を期待しているところだ。)

では結論を述べる。優秀者的に完成された論考とは、単なる個別の帰納的論考の蓄積ではない。そうではなく、これらをもってして合理主義的因果・方法論(※注)の形成にまで至るものである。以下に詳説する。
(※注 合理主義の主属性は当論的には、経験・実証主義性/適宜・経済性である。前者は真理・真実性に、後者は主に人間生活的便益・効率性に係る。合理主義的因果・方法論は、これらの属性を同時に備えた「包括的合理性」を持つ。)

包括的合理性は、その場その場の“思いつき”、あるいは個別や特殊の論考のランダムな寄せ集めなどからは決して得られず、論考の成果物を逐一「データベース化」、
すなわち蓄積/分類/整理/統合等の演繹的編集・加工処理を為し、その上で「大枠の論理→中枠の論理→小枠の論理」というカタチでの「事象の因果の階層性を伴う包括的認識」に至るという「論理の体系化」が実現されるのでなければ、得られない。
一方で論考者というものは、往々にして或る一つの気づき/発見に到達すると(その喜び/嬉しさから)、それだけで有頂天になってそのまま固定観念化してしまいがちだが、この“(twitter風の)「小論理」は単独では、“大きな全体”の中では合理性を失うのである。
この「論理の体系性なくして(最終・包括的)合理性なし」の真理を悟り、かつ実践できれば、当該者は晴れて「優秀者」(「合」状態に在る者)となる。

ちなみに主体性/個性を持つ者が、包括的合理性を備えた合理主義的因果・方法論を構築することは、言葉で言うほど簡単なことではない。
すなわちここまで当チャプターが論じてきたところの、主として自意識の「反」状態を保つための思考統御・監督系諸機能、並びにそのような機序に対する十分な認知的理解を伴わずしては、ここ(「合」)に至れるものではない。
そもそも人間脳のデフォールトである感情系習慣的自動思考様式とは、特定観念のシンプルな思い込みをもたらすためのものであり、よってこのようなマルチプルな体系・複合的認知には、全くと言って良いほど適していないからだ。

ところで優秀者に成ったとしても尚、どうしても避け難いところの或る陥穽問題が発生するので、最後にこれについても論ずる。
(つづく)
106市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:25:28 ID:???
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前回、認知が合理主義的であるかのように感じるという倒錯が、凡庸者においては生み出されていると述べ、その上で原因としての幾つかの感情・気分的要素とか短絡性からの影響は、演繹的思考者のみならず帰納的思考者にも見いだせるものであることを述べた。
と言うのも実は(学術知/処世知などの)人のあらゆる認知の過程においては、如何なる優秀者であろうとも、生まれて初めて触れる学説等を理解しようとする際には、

『好い加減な感覚で不作為抽出した箇所を足場にして、ボンヤリとした全体理解を目指すとか、あるいは重要だと見当付けした箇所をいくつか選考するなどといった、当該観念等の重要度を曖昧に評価する蓋然知レベルから、徐々に厳密知レベルへと移行する。』

すなわち何人も、事物が包含するところの論理性の体系を、自らの主体的認知体系においても再現できるに足るだけの認知的素材を己の頭の中に蓄積し終えるまでは、事物というものを曖昧に認識するしかなく(ドクサ的)、
十分な量の認知的素材をもってする体系化を経ることで、厳密知(エピステーメー的)と呼べる段階に至れる。

ということは、蓋然・雑然性が強いドクサ段階ほど感情・気分的要素とか短絡性からの影響が大きいから、
凡庸者などはもう何もかも知ったかのように思い上がる、あるいはそれ以上の認知の深みに進むことの必要性を認識し得ずに学習すること自体を終結しやすいのであり、いわゆる煮ても焼いても食えない「尊大な善人」(第九回 参照)になってしまう。
このように認知の精緻化の進展に伴い、人は「もうこれで知るべき事は全て知った」ような気になる時というものが、何処かで来る。

そしてこうした勘違い状態の到来を回避すること自体は、残念ながらミクロ的には思考統御・監督系諸機能が統御できても、マクロ(長期間)的には人間能力を超える。
てゆーかこの手の「思い上がり/見当違い」は、“心の力学”的観点から分析するならばむしろ“己の努力に対する当然の報酬”として、
あるいは無闇な執着/煩雑さ等に陥ることを避けるなどして精神の安定/健康を保つように機能するので、無頓着にこれを否定するならば、かえって神経衰弱/精神障害などに成りかねない。だから優秀者をも含めて全ての者は、
(つづく)
107市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:26:06 ID:???
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必ずこれらの、言わば“人間味”に溢れた愚かしい失敗を何度も経験し、その後に思考統御・監督系諸機能をもってするところの自他のメタ認知を経て、己を戒めたり、より一層の老練な慎重さを獲得していくしかない。

さて当チャプターで論ずることはここまでだ。まとめると、プロトホミニド(人類祖先)においては、先に述べた如くに包括的知能向上が生起したために、高度な擬態や騙し合い、
更には相手を都合よく操作するための心理戦等に勝ち抜くための能力開発競争が始まり、この赤の女王的進化傾向は現生人類に至るまで一貫している。
そしてこうなると人は、凡庸者(動物)的在り方、すなわち各個体の無能さを(例えばイワシやフラミンゴの群れのように)大集団化することによるスケール・メリットをもってしてのみ相殺しようとするが如きレベルにいつまでも留まる限り(第九回 参照)、
一方において人(ホモサピエンス)という種が、その赤の女王的進化傾向において洗練し続けてきた帰納的思考能力により特殊的に営んでいく社会生活ならではの、
高次存在拘束性的な問題の漸次的顕現に際しては、いずれはどうにも処理し切れない矛盾に立ち至るしかないのである。
すなわち人はその帰納的思考能力により得たモノ(自己保存に有利なように自ら設計した特殊環境等)のせいで、ますます(自分の財産を奪うために後ろから追ってくる二番手の者を振り切るための)
帰納的思考能力を高めていき続けるように(すなわち優秀者化するように)行為するしかないという功利主義的自己保存宿命、言い換えるならば「エントロピー減少宿命(※注)」を内在させるところの『(前述の)「破壊と創造定理」的な弁証法的運動によって
必要・必然的に進歩/発展し続ける』という、言わば進歩の自然法の第一定理的大摂理に、自意識(日常生活)的次元においても、ついに適合するための軌道に乗った最初の生物なのである。
(※注 本来、熱力学上の概念であった「エントロピー」概念は、まず生物学において援用され、その後はニクラス・ルーマンらによって社会学に、現在では経済学/政治学/経営学など社会科学的事象全般の論理的分析に援用されている。
何故ならエントロピー概念とは、「(物質界において)変異/変化する」事象の本質的一面を見事に射抜いているからである。)
(「論考と人格」 おわり)
(つづく)
108市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/04/03(火)16:12:24 ID:???
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「人格系メタ認知的論理思考様式」
 
このチャプターでは、論考の枢要な構成要素のもう片方であるところの「知力(教養/論理構築能力など。)」が持つべき合理主義的属性について論ずる。
但しここではその一つである「経験・実証主義」(前チャプター 参照)性についてのみ論じる。(もう一つの適宜・経済性については論の展開上、当論の後半部において説明する予定。)
その上で西洋学術史に沿いつつ、これ(経験・実証主義性の説明)を為していく。

集団化とホミニゼーションが進行すると自然界の摂理に目を向けるか、人間界の秩序/倫理/道徳等に目を向けるかに拘らず、現実に生活する必要のためには、事物/事象を適切に認識/操作/管理するための
「経験・実証主義(※注)」的論考態度がまずは、全ての人類集団において直ちに生まれざるを得ない。
(※注 五感を通じて、あるいは第六感的な直観にも拠るにしろ、ともかく「経験的認識」を中心に置いた論考態度であり、この立場においては思考・判断結果の「正しさ」の証明は、
実際の問題解決/予測的中/目的完遂等によって実証される。)

更に「文明」段階に進展すると、経験に由来する知だけでは飽き足らず、現代科学においてようやく人の手が届くようになった「原子・量子物理学」、あるいは「脳科学」等がカバーするような領域、すなわち「物質とは何か/運動や変化とは何か/知る、理解する、
感じるとは何か」などどいった森羅万象に係わる普遍知に関心を持つ、更に亢じて「存在」することの本質的理解に到達しようとするが如きの、言わば論考自体をゲームであるかのように楽しむ“知的貴族/知的文化人”が、西洋文明圏において登場してきた。
すなわち地中海交易で富裕になったギリシアの都市貴族層の「哲学者(フィロソファー ・・愛知者)(※注)」がそれである。
(※注 南イタリアのギリシア植民市エレアの哲学者パルメニデスが、その属性を決定づけた者としての“西洋学術の始祖”と呼ぶに相応しい。)

とどのつまりはエンゲルス「空想から科学へ」(1883)が言うように、「個別を知らなければ全体像が分るわけがないのだが、(中略)文明のこの段階(古代ギリシア文明)にあっては、
(つづく)
109市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/04/03(火)16:13:05 ID:???
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何よりもその材料を苦心して集めなければならないという至極当然の事情から、経験・実証主義的な研究には付属的な地位しか与えられなかった。」
つまり人間の本性たる「知ろうとする欲求」と、その時点で入手可能な考察素材とを鑑みるならば、(古代西洋文明において)純粋思惟に特化した上で事物の本性を究明しようとする認知態度が固まったこと自体は、とりたてて
不思議なことでもなく(※注)、こうしてここに演繹至上主義的な学を、西洋文明が正当化することとなった。
(※注 例えばアリストテレス「形而上学」(B.C.4c中期)E第一章から参照できるような、「諸学は、それぞれ或る特定の存在や特定の類を抽き出して、諸存在の研究に専念しているが、しかし“存在”を端的に、
すなわち存在を唯、存在として(オレ注 ; あらゆる物体の本質として在る原理的属性、一例を挙げるならば固体を固体に、液体を液体に在らしめるているが如き機序とかを) 研究するのでなく、
その研究対象物の如何なる本質的属性に所以するかを知らないままに、皮相的様態のみを取り沙汰して素朴に自明であると思い込んで粗漏に帰納すること」は認められない的な情念の発生は自然。)

しかして彼らの学術的態度はすぐに、あたかも“経験実証”的であることを見下すことが目的でもあるかのように、
頭の中だけの自己満足的(実際には稚拙さと粗雑さだらけの)演繹形式に勿体ぶった威厳をまとわせて、それらをこれ見よがしに振り回すが如き次元へとエスカレートし始めた。
こうして西洋において真理・真実性を担保するための確たる明証性を明らかに欠いている知、「形而上知」が隆盛することとなるのであり、古代の指導者・特権者階層は、経験・実証主義知を奴隷職人層に担わさせた上で、著しくこれを軽視/蔑視する傾向を持った。
例えば古代ローマにおいては、医師/会計士/教師/暗誦師(※注1)などの職種は概ね「学問奴隷(※注2)」が担い、一方で例えば神話(叙事詩)の構造分析のような論考能力を要する知は、指導者・特権者階層に相応しい主知主義知として、愛知(哲学)者たちにより担われたという按配である。
(※注1 戸坂潤「科学論」(1935)によると、或る奴隷はホメロスを、また別の奴隷はヴェルギリウスを暗記するように主人から命じられており、
(つづく)
110市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/04/03(火)16:13:52 ID:???
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主人は例えば客人との会話に興を添えるために時々、奴隷たちに気の利いた引用を命じるのである。)
(※注2 このような学問奴隷は、千数百年の時を隔てて現代産業社会において大々的に復活したと言える。すなわち「尊大な善人」(第九回 参照)がそれである。)

ちなみに一般的には抽象・無形的であること(物質的実体を持たない観念論であること)をもって「形而上的」と言われるが、当論においては観念的であっても明証的な因果・合理性を伴う認識、
例えば躓いて転べば「痛い!」と思うとか、マルチン・ルターのように雷に打たれた時にそのショックで己の召命/運命を悟ったと思い込むが如きの、「自明な因果的連関性」を持つものを除いたところの、
例えば大自然・宇宙の摂理に対する素朴な畏怖(「神は存在し、かつ完全であり、無限である」からとか。)/強弁/詭弁等に拠る観念論を特に「形而上的」だと呼ぶことにする。

例えば本来、或る特定の演繹的観念操作とは、或る特定の視点からの因果的連関を断言できるのみであるにも拘らず、エンゲルスが前掲書において更に言うように形而上知においては、
「絶対に対立する矛盾としてモノを考える/しかり、しかり、いな、いなと言えこれに過ぐるは悪より出ずるなり/肯定と否定とは絶対的に相排斥する、原因と結果もまた互いに動きの取れぬ対立である」・・ 
要するに(前チャプターで述べたところの)「事象の因果の階層性」認識に拠る「論理の体系化」が不全である傾向を持つのである。
だから事物/事象が包含する一側面・因子のみを見てするところの部分的結論でしかないものを、このエンゲルスの指摘のように稚拙にも(もしくは故意的に)即、事象の全体に適用してしまうというわけだ。
もちろん前チャプターで述べたように現実事象とは、ありとあらゆる諸因子が同時・輻輳的/多面的にからみ合ったことの結果として顕現するのであるからして、こんな形而上的結論とは一致するわけがない。

ともかく愛知者(フィロソファー)の界隈における知とはこんな風なものだから、彼らの内の誰かが「真理・真実」だとするものを実際に集合知的に担保させた力とは、権威/権力/尤もらしさ/修辞能力などといった感情系習慣的自動思考様式的産物だったのである。
(つづく)
111市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/04/03(火)16:14:32 ID:???
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その上でアリストテレスが宣言したように、「如何なる技術も如何なる研究も(中略)ことごとく何らかの“善きモノ”を追求」(「ニコマコス倫理学」第一巻第一章の冒頭)しているという矜持を持ったならば、こうした“曖昧模糊とした胡散臭い”学術環境とは、
凡そ善きモノとは程遠い“悪しきモノ”しか生み得ないことは、当時の彼ら“愛知者”自身においてさえも、本音レベルでは解りきったことであった。

しかして多数派である凡庸者においては、論考の成果物の質を担保するものの一翼であるところの人格的諸能力が未熟であるから、現実の歴史においては、18世紀も末になりイギリス経験論者(ロックなど)の登場により背中を押されるまでは、
現実にこうした存在拘束性の陥穽から本気で脱出しようとする気運は、形而上学界には現れなかった(※注)。
(※注 ついにカントが、人は全く経験に因らずに頭の中だけで、完全な自明性を伴う諸認識(「ア・プリオリ(先験的)な認識」なるもの)を得ていることを論証しようとした。
すなわち、「先験知を正しく理解し用いるという“修正”を成すなら、形而上学は自然科学同様に実証主義的科学たり得、もって尚も存続する価値が在る。」と必死に力説したのである(「純粋理性批判」 1781)。
しかしてカント批判哲学自体が、「神/霊魂」等にまつわる一切の言葉の使用を避けただけの相変わらずの純粋演繹論であり、これを理解しようと努めたところで当然の如くに何の(包括的)自明性も得られない。
が、とにもかくにもこの風変わりな“修正主義形而上知”に埋め込まれた(カント本人的にはさして重要ではない)弁証法が、実質的にはマルクスにまで至るところの経験・実証主義知の画期的な新系譜をスタートさせることとなった。)

というわけでここで、この後1,000年以上にも及んで、その根幹的ドグマとしてのアリストテレス的「観照」性(※注)に取りつかれていくところの形而上知の本源的欺瞞性を、その本家本元のプラトン/アリストテレスの言説から具体的に看取してみよう。
(※注 言わば偽メタ認知。論考行為において人格的諸能力が担うような思考統御・監督系諸機能を知らず、体裁のみの演繹的論理性をもってしてメタ認知(客観視)していると思い込む。)
(つづく)
112市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/04/03(火)16:15:13 ID:???
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まずは形而上知の創生期の第一人者であるプラトン(※注)の「国家」(B.C.370頃、プラトンが自らの恩師であるソクラテスの口を借りて論説するという形式を採る。)だが、彼は結論部にあたる最終巻(第十巻)で、「(ホメロスのような)詩人や画家といった類の人種は、
事物の真理/本質は何も分からないくせに、さも何もかもを知っているかのような素振りをして真実/真理ではない嘘の作り話や似姿を作り出す。」として、要するに経験・実証主義的でないことを避難するのだが、その舌の根も乾かないうちに、
今度は自らが、(ホメロスの「アルキノスの物語」(「オデッセイア」)をコケにした返す刀で)「アルメニオスの息子エルの物語」なるものを持ち出してきて、死後に人の魂が神々によって如何に裁かれるか、などという話を延々と講釈して「国家」という大作を総括している。
もちろんプラトンは、ここで自らが完全な自家撞着を為していることなどは、全く毛ほども気づいていない(すなわち未だ自己批判的観念に始原する「メタ認知」を知らない)のであり、全く天晴れなほど堂々とこれを論じきっている。
(※注 プラトンが開設した学校「アカデメイア」の名は、「学界/大学」を意味する普通名詞になった。)

そして次にアカデメイアの優等生であり、中世期以後の西洋学術全般の根本的在り方に決定的な影響を与え、人類の学術史上、最も広範な影響力を人知に与えたという意味において“超大物”であるアリストテレスの、
彼が古代人であることを割り引いて見たとしても(※注)尚、凡庸者的存在拘束性の陥穽にはまっているとしか断じざるを得ない事例を以下に見てみる。
(※注 未だ物質の本源が「原子/分子」であること、並びに近代物理学を知らないこと。)

中世においては「実在論/唯名論」が対立する「普遍論争」として代表的な哲学・キリスト教神学論争のネタとなるところの、
彼の師匠プラトンが「イディア論」として最初に提示した「実在と類の二元論的因果論」の継承物、すなわち彼の「個物(種)と普遍(類)の概念」は、前掲の「形而上学」によると、事物の根本原因としての“何か”を「原理(アルケー)」と呼び(A 第三章)、
例えば個物(例えば動物)の「実体(※注)」(例えば霊魂)は、それ固有の或る原理により形成されるなどと考える。
(つづく)
113市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/04/03(火)16:15:54 ID:???
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その上で概ね『(実体からの構成物としての)質料(基体)と述語(形相/属性)を伴うものとしての種(個物の対応物)に対して原理が一対一で対応し、もって「個物が存する」ものなのか?、
あるいは複数の種に共通な“述語”を伴うものとしての類(普遍)に原理が対応していて、もって「実体は存せず、それゆえに個物もまた存しない」ものなのか?』と問題設定する(B 第一章~第四章)。
(※注 プラトン学派においては「実体」とは、例えば視覚/聴覚等の感覚により認識できるものとしての自然物(実在・・フィシス)のみならず、感覚によっては捉えることができない概念物、例えば「数/点/線」なども包含する概念。)

しかしてまずは何はさて置いて、このような“類”だの“原理”だのという概念物は、如何なる経緯をもってして演繹的論理計算の被操作因子たりえるだけの“資格”を得たのか?
言い換えれば、それらが如何にしてこの世に“確実に在る/かくかくしかじかの属性を持つ”ことが、かつて証明されたと言うのか?(単に“言い出しっぺ”のパルメニデスを踏襲するだけで良いのか?)という疑念が発生する。
すなわちその証明経過を確実に提示し、もって議論参加者がその自明性を共通認識としない限りは、これらの“類”だの“原理”だのという存在性が曖昧な被操作因子を用いた存在論(演繹)を、先へ先へとは進ませ得ないのではないか?
例えば「○○だから●●、そして●●だから△△、故に対象物はかくかくしかじか」的な演繹的論理展開は、全て無効になってしまうのではないのか?
すなわち「三段論法」にしろ何にしろ、演繹的論法の合理性を担保するものは、『一つの論考過程が完全性(一片の曇りもない自明性)の獲得でカタが付いて、
もって次の論考過程に“駒を進めなければならない。』という掟であるはずなのに、この根幹的ドグマが、全くもって蔑ろにされている。

というわけでこのようなユルい知が、主として有閑な富裕層のステイタスとして延々と堅持されていく(※注1)一方で、実は真のエピステーメー(厳密知)と言うべき経験・実証主義知もまた後期ギリシア文明(ヘレニズム期)に至り、
(主として数学/天文学/地理学において)学術知として認容されるようになっていく(※注2)。
(つづく)
114市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/04/03(火)16:16:36 ID:???
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(※注1 例えば中世初期のユニークな弁証法論者であるエリウゲナの学説は次のようである。「万物とは、"無"であるところの神から"知恵"がその"原因"として永遠に発せられ、
そこから時空的に展開されて"世界"となる。次に(弁証法的運動により)世界は元の永遠たる原因に帰し、そこからまた無(神)に戻る。」)
(※注2 既にピタゴラス(B.C.6c)が、経験・実証主義的知の"基礎的道具"であるところの「数学(マテーマタ)」を学術として樹立していたのだが、ヘレニズム期のアルキメデス(アルキメデスの原理など)/ユークリッド(幾何学の公理系/定理の確立)/
エラトステネス(観測データと幾何学的計算から地球の円周を極めて正確に算出)らの大偉業によって、ついに真の厳密知たる科学(エピステーメー)が誕生した。)

かくして確立した西洋学術における知の二大体系は、有識者の意識の中で二律背反的な矛盾/葛藤を生み出すことなく両立し、かつ双方が必要に応じて調和的に融合されることとなる(※注)。
ちなみにこの傾向を根本的に懐疑したりオカシいと思う者は、デカルト以前には、唯の一人も出なかった。
すなわち五感や生活上の経験等によって自明に認識できることはそのように(例えば「日は東から昇り西に入る/人は生まれ死ぬ/人を蔑めば恨まれる/物量の計算や計測など。)、
そうでないこと(例えば「人の魂は不滅である/(ギリシア的な)神が人の姿をとって現れて、人と共に闘う」など。)は存在拘束性にまかせて好き勝手にデッち上げるが如き“知のごった煮”弁証法的運動が、ここに始まったのであった。
(※注 このような属性は、例えばパスカル「パンセ」などに典型的に表れている。)

そして後者(形而上知)においては実証性を何ら顧慮せず、真理・真実性を担保するための明証性を欠いているのにも拘らず権威だけは持つから、これ以降、
ヘゲモニー層にとっての絶好の武器、“神のマガイモノ”的なプロパガンダ媒体として最適化されていく。
すなわちキリスト教においては、1世紀以降、カトリック教会が形成されていく過程においてユダヤ教パリサイ派譲りの合理的な主知主義的傾向(※注)がギリシア哲学とキリスト教神学を渾然一体として融合させるも、
(つづく)
115市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/04/03(火)16:17:11 ID:???
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ついにアウグスティヌス(4c-5c)に至り、その祖先であるユダヤ教、および原始キリスト教とは似ても似つかないほどの形式・権威主義的な因果論体系に貶められ、もって中世キリスト教世界の指導者・特権者階層ヘゲモニーのためのイデオロギー的基礎となっていく。
(※注 ヴェーバーは「パリサイびと」(「古代ユダヤ教Ⅱ」みすず書房刊 付録)において、「新約聖書の中で「パリサイ人(びと)」と呼ばれるユダヤ教内グループにおいては、宗教的エクスタシー/魔術/呪術の類は本質的に嫌悪され、
更に「ラビ(平民の聖書学者)」たちがこのグループと密接に関わり、聖書/律法の一字一句をバカの一つ覚えのように厳守するところの演繹的思考に対抗したり、占術的決定論を否定するなどの合理主義知的活動を担う。
その上でパウロなどの初期キリスト者(使徒)には、パリサイ人の実践的宣教・組織論が継承された。」旨を述べている。)

そしてこれらプロパガンディック・イデオロギーの洗練・精緻化段階においては、例えば全称命題を好き放題に氾濫させまくって、もって人々を丸ごと抱え込んで教導していくレトリックを始めとするところの、数々の王道の「身分制支配レトリック」が樹立されていく。
そしてこれはカトリシズムを否定した後代のプロスタンティズム期においてさえも(産業革命が始まるまでは)、例えば「パンソフィア」の提唱者として知られたJ・A・コメニウスの
「大教授学」(1657)などに見受けられる如くに、洪水の如き無数の全称命題を、 (簡単には消え去らない遺物的レトリック癖として)長らく巷に溢れ返させ続けた(※注)。
(※注 これをザッと見てみると、「大小問わずあらゆる事物について知らないことが、いささかも無いように/人間の精神は無限・無辺のもの/何処のどんな被造物であろうが理性を備えた魂の前では隠れることはできない/自然を案内者とするなら、
人間はあらゆるものに到達できる/人間は大宇宙に在るもの全てを内に持つ小宇宙/人間には(全てが元々宿っているから)何一つ外から持ち込む必要がない/正しい教授法をわきまえれば、
あらゆる事物を(学生の)心に描ける」等々、全称命題が無数に出てくるのであり、現代のオレたちから見れば、その胡散臭さが半端ない。)
(つづく)
116市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/04/03(火)16:17:41 ID:???
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しかし自然学領域に限られてはいるが、12世紀頃から主としてイスラム世界から再輸入されたところの、(この領域においてだけは経験・実証主義的な)アリストテレス学術の強烈な影響から

『何人も存在拘束性の陥穽から一意的に逃れる術を持たないこと、更には事物を純粋演繹(形而上)的に論考したとしても、それはいづれは「人間の手前勝手な空想にすぎなくなる」という陥穽にはまっていくことを如何様にしたところで回避できない。』

ことを悟ってくる者たちが現れてきた。すなわちロバート・グロステスト、及びその弟子のロジャー・ベーコンは、「最終的には経験的事実認識を判断基準とするところの帰納的思考様式を採用する以外には、論考の内容が真理/真実に近づけるための合理的選択の余地がない。」ことを悟る。
こうしてヘレニズムの天才たち、もしくは社会の下層で奴隷などとしてモノ作り等を強いられてきた職人層にとっては、もとより汎人類的な自然な認知態度として当たり前であるところの、経験・実証主義的な帰納的思考様式を、ポツポツと学界主流においても認めるようになる。

一方、アラブ世界からアヴェロエス的「二重真理説」などとともに西洋に移入されたアリストテレス哲学の“嗜癖的観照性(ロゴス)”の衝撃は、当時としては十分に洗練された合理的学術態度を持つところの「スコラ哲学」を生んだ。

そしてこの学の新たな二大潮流は、折から勃興した「大学」の定着とも相まって、この後も潰(つい)えることなく、一般社会をもその感動と興奮の渦に巻き込んだイタリア・ルネサンス(※注1)と
その後の北イタリアの諸大学において顕著に現れたところの「近代科学の萌芽」的進歩・発展にまで通じ、ついに16世紀からの大弁証法的運動(第六回 参照)が始まると、全社会階層の人々をして支配的観念の「破壊と創造」過程に入らせる。
(※注1 12世紀からの中世自由都市の隆盛、交易で栄えた富裕商人層の活躍は、この時期に人間生活全般を覆い尽くした巨大な技術革新の連鎖をもたらした(※注2)。
こうした中でポンポナッツィはカトリック的"神"解釈を実質的に否定する「万物的因果論」者として、原始キリスト教団の使徒たちが本来、イメージしていたであろうところの「神 = 大宇宙の因果律」的解釈を大胆に復活させた。)
(つづく)
117市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/04/03(火)16:22:37 ID:???
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(※注2 例えば熔鉱炉/石炭で作られる鋳鉄の技術、為替手形/複式簿記の普及、織物や染色技術の向上、火薬を用いる兵器や築城術の進歩、化学/工学の発展などなどであり、これらは嫌が上でも人知における経験・実証主義知の価値を高め、
学界においては1560年のナポリで、世界初の自然科学者のための会員制組織である「自然の秘密のアカデミア」が創設されたりした。)

こうして多くの人々がカトリック的世界観に公然と反旗を翻し、勇敢にもこれを破棄するようになり、以降の自然科学/社会科学の方向性をそれぞれ完全に決定づけることになる二人の"天才的合理主義者"が時代に登壇するための“露払い”を為した。
すなわち自然科学領域においては、デカルトが近代的論理学・科学哲学の基礎の一部分を確立し(※注1)、社会科学領域ではホッブズが、「社会科学における自然科学的判然性」観念を提示し、
(マキャベリ「君主論」などの特殊的存在拘束性下で創造されたヘゲモニー論を除けば)一般論としての「人と社会の関係論」において、初めて"神"という概念を完全排除した経験・実証主義的姿勢を打ち出すという、
人間文明における大パラダイム転換への第一歩を標した(※注2)。
(※注1 "今ここで考えている自分"が存在すること以外には何一つ確かなものはないとする有名な主観存在論的命題から出発するも、残念ながら彼の潔癖症・臆病的人格の陥穽により、演繹的思考の呪縛を超えることまではできなかった。
すなわち”神”崇拝物としての形而上知を否定できるだけの度胸/帰納的論理構築力等を持てず、最終的には出発点であった認知的明証性観念を拡大できなかったのが、デカルトである。
しかしいずれにしても近代科学の論理・科学哲学の(数学という学の明証性などを含む)ドグマを提示し得たという彼の功績は、間違いなく偉大である。)
(※注2 ホッブズの理論は主著の「リヴァイアサン」(1651)に集約されている。これは基本的には経験論的合理主義から導かれた道徳法(「自然法」)に基づく社会体制/統治術についての、正に"人類史を画する論考"であり、彼の前においては「人間」も、
飽くなき欲求充足に駆り立てられるだけの単なる「自動機械」でしかない(※注3)。これこそはヘンリー八世以降、ローマ教会と完全に断交した
(つづく)
118市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/04/03(火)16:26:39 ID:???
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イギリスにおいてのみ成し得たであろうところの、人類の思想史上の言わば”第三の天地創造(※注4)”だと言って良いほどのものである。
すなわちJ.D.バナールが言う、「人間が精霊による自然現象の説明にかじりついている限り、科学の発達は強く妨げられていた。/精霊説は他のどんな説と比べても劣らないように見えたばかりか、信仰と蓋然性(確率)を思慮深く組み合わせることによって、
物事を非常に上手く説明できるものだと思われることさえできた。/精霊からその大権を奪い取ろうとする試みは精霊を怒らせるに違いないから、有害であるとさえ思われていた。」(「歴史における科学」 1954 )的な
人々の“恐怖心の壁”という経年の認知的限界を(デカルトの“屁っピリ腰” 的ケースとは対称的に)ついに突破したということなのである。)
(※注3 当時、デカルトが提示した「動物機械論」でさえ(ヨーロッパ)大陸においては、驚愕と激しい論争を巻き起こしたことを思えば、当時においてこれが如何ほどまでに"ブッ飛んだ"認識であったかが察せられようというものである。)
(※注4 第一は旧約的「天地創造」に見られるが如きの宗教の教義に因る社会秩序の確立。第二は人類が交換経済体制を樹立し得るだけの余剰生産能力を獲得したことを受けての「私有財産制」の勃興。
そして第三が、この経験・実証主義に基づいた人間/社会に係る合理主義的認知態度の確立。)

そしてその後にスピノザの汎神論(※注1)が出たりで17世紀後半の言わば、近代科学大爆発の、“嵐のような50年間”に至るのであり、産業革命の開始を文字通り“準備”し終えた頃までには、
カトリック以外の指導者・特権者階層は、概ねこれ(経験・実証主義知の大爆発)に胸を躍らせ小踊りしていた(※注2)。
(※注1 ルネサンス期のポンポナッツィに続く「神 = 大宇宙的因果律」論の提唱者。反デカルト主義者でもあり、彼の論は「この宇宙の全事物・事象は、
自らの内にその存在原因(「自己原因」)を持つ。」とする「因果律至上主義」論(※注3)であり、唯神論(超越的な"神"が万物を創造し司る。)を否定した。)
(※注2 上記のように16世紀にローマ教会と絶縁し、独自の国教会体制に移行していたことで、宗教・政治的弾圧の懸念が失くなっていたイギリスにおいて17世紀に近代科学ブームを受けて、ジョン・ロック/デヴィッド・ヒュームらが
(つづく)
119市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/04/03(火)16:29:27 ID:???
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カトリック的プロパガンダ(神への愛/キリストへの信仰のみが救いをもたらす的な。)の完全否定に等しいところの、大っぴらな経験・実証主義的社会理論を提唱して宗教・哲学界に一大衝撃を与えた。
これにより(前述のように)経験・実証主義的立場に大幅に歩み寄った形而上知の新潮流としての、カントからマルクスにまで連なるドイツ観念論哲学が勃興する。
またゲーテの「ファウスト」(1808-1833)は、或る老学者が事物を演繹・形而上的に研究しても何も得られなかったことに煩悶し、仲介者(悪魔)が導く様々な実体験を通じて、経験・実証主義の合理性をついに悟るという物語である。
この物語の終幕(第五幕)においてファウストは「わしはひたすら世の中を駆け抜けてきた。あらゆる享楽の髪を引っつかみ、満足させてくれぬものは手放し、すり抜けて行くものは行くに任せた。(中略)雲の上にも自分と同じような者がいると空想する者は、愚かだ。
しっかりと立って、ここで辺りを見回せ!有能な者に対し、この世界は黙っていない。何で永遠の中に彷徨う必要があろう?自分の認識するものは捉えることができる。そんな風に地上の日を送っていくが良い。」と、“憂い”との対話の中でついに宣言するのである。)
(※注3 個々の事物/事象の中に全原因(因果)が包含されるとされる「唯名論」的視点は、当然のごとく観察/実験等に基づく帰納的思考様式/経験・実証主義に通じる。)

というわけで歴史的には、パルメニデス(西洋学術の始祖)の経験的事実認識(「正」)を蔑視した純粋論理性(ロゴス)の提唱が、西洋人をして形而上知の暗闇を突き進むように仕向けさせるも(「反」)、元々人類を人類たらしめ、かつ(チャプター冒頭部で述べたように)
人類が存続するためには一時もこれ無しでは済ますことができない経験・実証主義知に、また後から引き返してきた(「合」)ことが重要である。
つまり西洋人は誤った方向だとはいえ、論理構築能力を練磨した上で、最終的には正しい方向へ引き返し得たのである。これこそは、進歩の自然法的な大きな弁証法的運動である。(ちなみに一方の我々の東洋においては、
残念ながら最終的に経験・実証主義知こそが最重要だと認識するような、このようなヘーゲル的弁証法的運動は生起しなかった。その理由は、後の回で説明する。)
ともかくここにその正当性を認められた
(つづく)

120市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/04/03(火)16:30:12 ID:???
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経験・実証主義知を生むものとしての帰納的思考様式こそは、(前チャプターで述べたように)ラマピテクスが生活の細部に至るまでの経験的事実認識を無駄にせず、これを徹底的に利用するために開発し、
更にホミニゼーションにより格段に高められた人格的諸能力に基づく思考統御・監督系諸機能と知力により、主として優秀者たちにより継承されてきたところの「合理性を追求するための新規の判断システム」におけるメインの思考様式そのものに他ならない。
というわけでこれ(帰納的思考様式)を認知システム論的見地から言及する際には、今後は『人格系メタ認知的論理思考様式』と呼ぶことにする。

『存在拘束性の陥穽によって常に思考が非合理的に歪められてしまうという宿命から完全には逃れられない人類が、確かな何をかを知り得るとすれば、
それは人格の力の介添えにより「ありのままの事実(※注)」のメタ認知を為し、もって帰納的気づきに基づいて論考し、またありのままの事実に戻って確認するという立場を堅持し得た場合のみである。』(『観念運動の自然法 第六定理(帰納的思考様式定理)』)
(※注 「スキーマ」(認知心理学用語/過去レス123.参照)に基づいて一次認識を自動的に概念化するのではなく、フッサール的「現象学的還元」によって得られる「純粋意識」が、「イデア視(形相的還元)」されて「原本的に与える直観」としての「本質直観」となったものである。
平たく言えば、事物/事象の観察のみから得られる、予断が差し挟まれていない事実認識。)

というわけで他者(親/教師等)/社会(公教育/常識/慣習等)の力に依存することに慣れきってしまった“秀才”(トップレベル凡庸者)は眼前の事象に対して、「受動知(狭義の演繹知であり非経験・実証主義的)」による原理・原則的な真理/真実の発見はできるにしても、
己の人格/知性をフルに用いて主体的に論考する「能動知(自らが以前に創造した知を包含する広義の演繹知と破壊と創造的事象のミックスであり経験・実証主義的)」によってのみ発見可能な個別的真理・真実に到達できる可能性は絶無となる。
とどのつまりこの「経験・実証主義」的認知態度とは、現状の進化段階に在る人間脳が、現に己の身に生起する事象に対する認識/判断の有意性(価値)を担保するためには、”必須な安全弁”なのである。
(「人格系メタ認知的論理思考様式」 おわり)
(第十二回 おわり)

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