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市民層 概論

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1市井の居士◆dgvbGqecqY:2017/10/22(日)20:53:05 ID:???
とりあえず過去レスリンクを貼っとくよ。日付が一番古いのはL.1、んでL.7までいったらコメントレス109,-129. これより後のレスは、ここにはリンクしてない。

オレの過去レス (旧2ちゃんリンク集)

コメントレス
109.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/335
110.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/336
111.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/337
112.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/338

113.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/339
114.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/340
115.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/341
116.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/342

117.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/350
118.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/351
119.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/352
120.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/353
121.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/354
122.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/355
(つづく)
167市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/08/19(日)15:01:15 ID:???
25 of 34 (つづき)

多くの優秀者の遺伝子、あるいは遺伝子化しうる資質が、このようにして地上から永遠に消滅していく。』

そしてモデルの更なる補足説明として、「プロト優秀者/優秀者」両定理(観念運動の自然法 第三定理の2-3)、
並びに先天性基本四人間類型(A・C・AE・CE型)/後天性(プロト優秀者・優秀者属性)の相互連関がもたらす因果パターンについて、典型的な実例を通じて押さえておこう。

AE型人間、すなわち貴族型人間の先天的優秀者のマックス・ヴェーバーは、政治家の父と育ちの良い敬虔なプロテスタントの母から成る家庭という、当時の西洋社会の「典型的上流家庭」において養育された人物だ。
そして上流であるということは往々にして、家庭内において夫婦が本音と建前を巧妙/作為的に使い分けるような人間関係が、存在しがちであることを示唆している。

ちなみに人間というものは、自分の養育者から建前的に気遣われ大事にされ、かつ己の機嫌/感情等もまた建前的に尊重されて育てられるなどという、うすら寒い体験をしたりすると、
己の内なる世界、すなわち言うなれば己の行く手を遮るものが何もない無限の世界の中に救いを求めるしかなくなったりするものだ(※注)。
そしてこうなると己の情動や認識力の拡張(つまり思考統御・監督系諸機能の源泉としての人格的能力の涵養)、至誠の真理/真実を見出そうとする(つまり論理性の涵養)ように仕向けられる。
(※注 但し、恐怖感や身の危険をも常態的に伴うような極端な環境においては、解離性同一性障害(多重人格障害)的な方向での自我防衛が生起する。)

さて実際のところのヴェーバー少年は物心が付いて以来、世俗的名士の父と宗教的倫理感の強い母との間で繰り広げられた家庭内不和・対立がもたらすところのダブル・バインド的存在拘束性に苦しみ続け、
この手の“二律背反”的存在拘束性を持つ者が往々にして行き着く“お決まり”としての(統失系と思われる)精神疾患を青年期に発症した。

すなわちヴェーバーの名を社会科学史において不朽たらしめることになったところの、かの有名な資本主義とプロテスタンティズムに関する論考の元アイディア/気づきとは、正に彼の、資本主義体制の勝者の典型としての父と、
これまたプロテスタンティズムの一つの精髄を典型的に体現する母という両極端性に、
(つづく)
168市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/08/19(日)15:01:49 ID:???
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己の人生において嫌が上でも立脚することを強いられたことがもたらす“引き裂かれる自我”、そしてこれをもって顕現する苦悩/煩悶の副産物として想起されてきたものである。
これこそが人の自意識の(ヘーゲル的「反」、葛藤状態が生むプロト優秀者発生の典型的事例と見做せるものであろう。

ところでこのヴェーバーという人物の掛け値のないところの“器”/能力を察っしようとするならば、何といっても「社会科学および社会政策の認識の"客観性"」(1904)を分析しなければならない。
何故なら当該論文においてこそ彼は、「価値自由/理念型」という「社会科学者としての自らの学術的姿勢の核」となるものを宣示したからである。
というわけで、まずはこの「唯物史観」に対する徹底的な嫌悪感/露骨な対抗意識を隠さないところの彼の当該説の要約と解説を(要所においてできるだけ原論文の言い回しをそのまま引用しつつ)以下に示す。

『「価値自由(Wertfreiheit)(※注)」とは具体的行為としては、社会的事象の論説の場においては、経験的事実の論述と価値判断を行う推理(主観)とが絶えず混同されることがないようにしろ、という命令に従うために、自らの主張について自覚的に批判/反省(メタ認知)すること、
もしくは「現実が測られ価値判断が導き出されるところの基準とは、どういうものであるかを常に、読者と自分自身に対して鋭く意識させること」を、学究者に促す観念である。
すなわちこれは、評価/価値観などというものは凡そ個人的かつ個性的なものだから、人が社会に対して持つところの認識とは、論者が如何様に努力したところで(“完全な客観”と比するなら)特殊的偏向の域を越え得ないことを、
とりわけ経験・実証主義性を求められるところの“科学の世界”においては厳に自覚しなければならないということであり、これは当然に必要な姿勢/前提として学界人が承認せざるを得ない、異論を差し挟む余地が無い観念と言える(過去レスリンク118.参照)。
(※注 ここでの「自由(freiheit)」とは「特定されない/定まらない/多様である」の含意語。ちなみにこれは「没価値性」と訳される場合があるが、
「そうであってはならない/存在しない/免れるべき」的な趣旨は原論文内には見い出せないがゆえに、この訳は一意的には不適である。)
(つづく)
169市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/08/19(日)15:02:23 ID:???
27 of 34 (つづき)

その上で価値自由な態度で扱われるべき具体的な主観的諸観念、例えば「個人主義/帝国主義/封建制度/重商主義/因習的」などの如くの、
人々が「文化現象をその連関とその因果的な被制約性とその文化意義において認識するに際して(有意な)効果」を認め得る抽象観念を、ヴェーバーは一括りに「理念型(Idealtypus)」と呼ぶ。
例えばこれらの他にはキリスト教の本質についての全ての叙述/マルクスの「唯物史観」等もまた理念型だそうだ。
その上で理念型が、あたかも実際に生起した歴史的事実そのものと同列に扱われたりするなら、「(価値自由的ではないがゆえに)常に真実に対し疑問の余地を残す妥当性しか持ち得なくなる。」とする。
しかしてこれらを“普遍的真理”の原型(プロトタイプ)としてではなく、あくまでも“具体・個別的歴史を叙述するという目的に資する手段”としてのみ限定的に用益するのであれば、
これら(理念型)は科学研究にとっての「索出的価値(或るものを探り当てるような価値)」を有する(※注)、とも彼は言う。
(※注 理念型を経験的事実の内の「特定の意義ある構成部分をばはっきりさせるという目的のために、現実をそれに掛けて測る基準として、あるいは現実(の事象同士)を比較してみる基(手段)として用いる」ということだが、
このような“ロンダリング”の如き用い方に限定したところで、所詮は“理念型というものが宿す恣意性”自体は消えないのだから、結論が理念型から受ける恣意的影響もまた、依然として存在し続ける。ゆえにこれは詭弁そのもの。)

その上で巷の多くの科学者の価値観を支配しているものとしての「現実が何らかの意味で“決定的な組織”において連関づけられており、そして次にはそこから現実を演繹しようと思えばできるというような封鎖的な一つの概念体系を創ること、
言い換えるならば或る科学の範疇内で次々に現れる研究資料を一つの概念体系の中に、これまた次々と秩序付けていくことで、いつの日にか完全なる演繹的科学を完成させようという理想」は、根本的な瑕疵が存する誤謬である、とする。

とどのつまりヴェーバーは、「人類の歴史の中には“一つの絶対的真理の体系”と見做しうるような原理系などは、どだい見い出しようがなく、“現実”とは、唯何処までも果てしなく個々具体的な経験的事実(歴史)が連綿と連なるだけのものでしかない。」
(つづく)
170市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/08/19(日)15:05:13 ID:???
28 of 34 (つづき)

旨を主張した上でいきなり、「科学的方法としての帰納法の否定」という大それた結論にまで一足飛びに行き着いてしまっている。』

以上が人類の歴史/社会に係る普遍的観念(公式/法則)の存在自体を完全否定して止まないところのヴェーバーの「価値自由/理念型」説の要旨解説だ。

その上で(上述したように)この学説の中核部分は完全な詭弁である。具体的には「価値自由」説部分は正しいのだが、後半部の「理念型」説部分は、完全な誤りだ。
そこでこの「理念型」説部分に対する反証を、オレの「モデル的認知法」(第五回/過去レスリンク124.参照)を挙げながら以下に成す。

『ヴェーバー説の核は、「或る歴史的事象を生起させている因果は常に移ろい、かつその数は無限の如くだから、人の歴史には特定の普遍的原理などは成立しようがない。」だが、
しかしてこの言い分は「人類もまた動物の一種である以上、脳に刷り込まれている“本能”的属性と見做せるところの幾つかの固定的認知・行動パターンを、普遍的に保持する。」という、この一命題をもってするのみでも瞬殺できる。

その上で更に言うならば、ヴェーバーは「社会科学的学究の場においては、あらゆる判断は主観的評価に基づくものであるがゆえに普遍の叙述はできず、個別の叙述ができるのみである。」ともするのだが、
これについても「観察対象物の中に普遍が在るならば、観察者がそれを見出して“主観的”に叙述できる」ことを挙げさえすれば即効で反証できる。
すなわち観察者の評価が如何に主観的なものであろうが何だろうが、ともかく観察対象物自体が何らかの普遍性を宿しているのでさえあれば、それについては幾らでも「普遍性命題」として主観的に叙述できる。
その上で上述のように、歴史を形成する主体であるところの「人間の本性(自然現象)」においては、正しく個々の事象毎の相違を超えた普遍性が紛れもなく宿っている。

ではこれらを踏まえて更に、オレの方法であるところの「モデル的認知法」が採用する手法を観ていこう。
(オレは既に「包括的合理性」(第十二回 参照)について説明しているのでここは簡潔に済ますが)、モデル的認知法の肝は、「(論理の)階層性を伴う体系性」を伴う論理性である。
具体的にはモデル的認知法では、或る特定事象が包含するところの一次的と見做せる観念を、
(つづく)
171市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/08/19(日)15:09:10 ID:???
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まずは大枠的観念として設定する。その上で順次、二次、三次的要素というように下位に向かって諸観念が階層的に据えられていく。
つまり複数の観念がより包括性が高いものから個別性が高いものへと順次、連なっていくような階層構造が存在するのであれば、ヴェーバー的“理念型”が持つところの恣意性、すなわち主観性によって好き勝手に事物が評価/意味付されて、
もって「真実に対し疑問の余地を残す妥当性しか持ち得なくなる」可能性は無視できるくらいにまでに低減させうるのである。更に補足説明する。

例えば「戦後日本社会」という論題があった場合、それに係る最も一次(包括)的な概念とは、「平等/基本的人権/福祉/相互安全保障」といった“理念型”である。
そしてモデル認知法においては個人的な嗜好・恣意性等とは無縁にその包括性の度合いに応じて機械的に、この下位に諸“理念型”を順次設定するのであり、
それらの設定作業を全て終えた段階で、ようやく“戦後日本社会とは何ぞや?”というテーマに向き合うことが許される。

一方で「戦後日本社会」についてヴェーバー説に則り、論者の主観的関心に基づいて例えば「男女のジェンダー概念」とか、「少数民族などについてのマイノリティ概念」の如き理念型をいきなりデンと据えただけで即、
(戦後日本社会について)考察を始めてしまうならば、如何なことになるであろうか?
するとこれら(ジェンダー概念/マイノリティ概念)は、当該観念のみがあえて選択されること自体に合理的必然性がないために、如何に“索出”目的のみに用法を限定したところで所詮は、ヴェーバー自身が指摘したような“科学とは呼べないシロモノ”にしか成りようがない。』

というわけでヴェーバーの理念型説で示された懸念、及びその用法は、思慮が足りない、みっともない誤謬であるのみならず、それらはモデル的認知法により、概ね払拭し切れることも示された。

その上でオレは、父親が中堅武士層家系者(武士層は、徳川体制期において全人口の10%を占める“世襲武人貴族”階級。その内で、いわゆる「武士道」精神の髄を生真面目に継承するのは、中間層を中心とした5%程度だろう。)であり、物心付いた時には、
既に十分な三始原人格に所以する思考統御・監督系諸機能を伴う論考(人格系メタ認知的論理思考)三昧の自意識状態にあったところのAE型人間だ。
(つづく)
172市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/08/19(日)15:09:46 ID:???
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更にオレの境遇はヴェーバーのそれとも似る。つまり明治体制以降は旧士族層と百姓層との身分の垣根が撤廃され、もって相互の婚姻は一般化したわけだが、オレの母親は、“(外観的には)極めて面倒見がよく温和/柔和な小百姓”的家系、
すなわち日本人の根幹的善性のもう一方の典型を体現したような家系の者である。
すなわちオレは、“極めてストイック/冷酷な感じ、かつ強烈な責任・義務意識”を持つ父親と“極めて柔和な外観、かつ裏表(本音/建前)を無思考・自動性をもって(すなわち極めて自然に、それが人格化した上で)使い分け、
かつ自閉的気質傾向をも持つ調子の良い世渡り者”の母親という強烈な二つの個性(もちろん少年期のオレには、こんなことはサッパリ分かりようがない)の狭間でのダブル・バインド自意識を持ったからだ。

こうしてオレはヴェーバー同様に青年期には対人関係を上手く処理できなくなり、かなり長期間、自分自身/人間/社会について苦悩し、(AE型人間であるがゆえに)人格改造指向的な論考/実践(すなわち破壊と創造)を為すまでになったのだが、
オレの場合はそうした経験を幸運にも、全て弁証法的に止揚(破壊と創造により合理主義的因果・方法論を構築)できた。もって現在は優秀者である(と、自己評価している)。

ではA型人間が後天的に優秀者/プロト優秀者のいづれの運命を辿るかの分かれ目とは、そもそも何か?
具体的には「適宜の破壊と創造能」、すなわち「正→反→合」という認知の弁証法的運動をつつがなく進捗させ、もって人を時系列的に成長させていく要因/力動とは何か?

前述のようにヴェーバー(「反」に留まるプロト優秀者)は、「あらゆる判断は主観的評価に基づくものであるがゆえに普遍の叙述はできない。」として、観察対象物の中に普遍が在るならば、観察者がそれを見出して“主観的”に叙述できることにさえ気づけなかった。
そしてこのような認知の未到達が何ゆえに生起するかと言えば、これは“眼前にそびえ立つ超大物”としてのマルクス憎しの感情ばかりが歪に高じて“ミイラ採りがミイラになった”ような展開、
すなわちヴェーバーの思考統御・監督系諸機能は、マルクスという“(彼にとっての)眼前の目障りな大きな瘤(こぶ)”を何としても排除したいという凡庸者的存在拘束性の陥穽に嵌まりまくっていたからだ。
(つづく)
173市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/08/19(日)15:11:55 ID:???
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そしてこれは多分、両親の不和/不仲に多く所以すると思われるところの強度の自己中心性、「自分が何が何でも“正しい/最高”なのが当たり前、そうでなければ気が済まない」的な独善性/幼稚さ(支配・君臨欲/自己中心性)を伴う人格に阻害されていたことに起因する。

というわけでぶっちゃけ彼の嘘偽りない本音は、「マルクスの唯物史観が、一つの真理/真実(の原理)であるかのように見做されてしまうが如きは、クソ忌々しい。そんなことは俺は絶対に認めん。」というが如きだったろう。
その上、ヴェーバー当人的には自意識の「正」状態のゆえに、自分がこのような多分に恣意・感情的な主張を為しているという自覚すらなかったはずだ。

つまりこれこそが人格系メタ認知的論理思考様式の肝であるところの「人格」の不全、すなわち思考統御・監督系諸機能の不全が帰結することの恐ろしさであり、或る種の高次存在拘束性を持つプロト優秀者においては、
真・美・善性をもたらす人格(思考統御・監督系諸機能)が未熟であるために、自意識の「反」段階で人間的成長が終わり、もって真っ当な論考ができないのである。
ちなみに優秀者の前駆体としてのプロト優秀者は全人類の5%、その内、優秀者に成れる者は、1/10(0.5%)くらいのものだろう(※注)。
(※注 この比率を感覚的に捉えようとするならば、例えば視覚障害者数は日本では全人口比で0.3%である。我々が大都会で暮らしていれば白杖を持つ人には2日に一度くらいの頻度で偶然に出くわすから、
そこから類推すれば、大都会暮らしの人が毎日一度、偶々出くわすかどうかくらいの程度だ。)

では次に世俗のC型人間が、A・E型遺伝子を得てプロト優秀者/優秀者となっていく場合について論じる。
ついてはC型人間(非隔絶環境)ベースでA・E型先天性(CE・CA・CAE型人間)を受け取る者については、今後は一括りにして『C型先天的論考者』と呼ぶことにする。

彼らは、専ら人の世を渡るに際して他者の感情を操作/管理することについて論考を為した上で、こうした“人間関係の調整能を競うがごとくのゲーム”の場、
とりわけ一般社会という“ごった煮”環境の中で、この手の高度な対人的メタ認知系諸能力を存分に発揮できる最高の場としての“政界/財界(※注)”においてこそ、プロト優秀者・優秀者化していく。
(つづく)
174市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/08/19(日)15:13:00 ID:???
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(※注 基本的にはアントレプレナーではない“サラリーマン経営者”、すなわちあくまでも“世渡り上手”の範疇のみに属する人々の世界である。)

ところで(経験・実証主義という概念を知らず)自分の頭の中だけでの認知/理解の反復/往復に明け暮れる日々を過ごす“平民”たる一般的なC型人間は、生きる事自体に伴う心の痛み/苦しみ等に影響されまくった認知/判断を為す。
その上で彼らは、例えば部活とか恋愛とか家業の商売を手伝ったりなどと、多彩な人生経験を経る者でもあるから、自分自身の心の痛み/苦しみ/喜び/安寧等を、最も擬制的に表現してくれる物語等を求める傾向を顕著に持つ。
例えば彼らは己の存在拘束性下において気に入るような、癒されるような言説を為す者の単純な追従者になりやすく、例えばかつての大日本帝国の旧制高校生などは、一度も会って話もしたことがない和辻哲郎や阿部次郎などの言説に、いともたやすく心酔したものである。

このC型人間の普遍的特徴をメタ認知できるC型先天的論考者は、すかさず認知の自動性から脱して、言語や振る舞い/仕草等の外観を人々の嗜好に沿わせることで、自己保存できることを覚えていく。
とどのつまりはAE型人間とは異なり、E型資質を主として学術/芸術の分野に仕向けるような“保護系”隔絶環境を持たないために、(E・A型人間遺伝子を運良く獲得しただけの世俗者である)C型先天的論考者が、
こうした認知の弁証法的運動を経て、やがては「人間関係の操作/管理」に執心するプロト優秀者/優秀者に成っていくのは自然の理である。

すなわち彼らは他者の気を惹いたり、駆け引きしたり、楽しませたり、鼓舞したりetc.・・すなわち修辞(レトリック)能力(※注1)と『感情的債権・債務(※注2)』の処理能力という、もっぱら対人操作・管理上の合理性の力(便法/支配力等)をもたらすものとしてこそ、A・E型資質を開花させる。
(※注1 真理/真実を探索するためでなく、如何に“言葉の外観上の尤もらしさ/言葉の引き綱”を繰り出して他者(C型人間)の心に響かせ、もって意図した通りの行動に相手を仕向けるか・・この一事のみに向けられる帰納的思考能力。)
(つづく)
175市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/08/19(日)15:13:51 ID:???
33 of 34 (つづき)

(※注2 例えば恩義/義理/信用/信頼/友好/相互扶助/対立関係/緊張状態等の、人間関係の操作/管理の場において有意な心理性無形財。)

では実例を観じよう。C型先天的論考者の優秀者バークの前掲書からまた引用する。

「今や全てが変えられようとしています。権力を優しきものとし服従を自由な行為とした全ての心楽しい幻想、人生の様々な明暗を調和させ、
また私人的交際を美しくも柔和にもしている感情を政治の中に穏やかに同化した幻想は、(中略)おしなべて笑うべきもの、不条理なもの、時代遅れの流行として退けられかけています。
この考え方に従えば、国王は一人の男に過ぎず、王妃は一人の女に過ぎません。そして女は一匹の動物に過ぎず、しかも必ずしも最高級の動物ではありません。(中略)法が支持されるのは、唯、それ自身が与える恐怖によってのみです。
また各個人が自分だけの私的打算から発してその中に見出すか、あるいは私的利益から発して差し控えても良いと考えるか、いずれかの利害関心によってのみです。彼らのアカデミーの木立の中では、どの樹間を透してもその果てに見えるのは絞首台だけです。」

いかがだろうか。これはフランスで王政が停止され民主体制の樹立が宣せられた直後(1790)に、イギリス/アイルランド/フランス等で緊急出版されたものだが、これこそがC型人間優秀者の修辞の粋と言えるだろう。更に引用を続けよう。

「財産は(中略)当然ながら不平等を特徴的な本質とする。それゆえ羨望を招き強欲心を挑発する巨大財産は、危険の可能性から守られねばならず、その状態にあって初めて、
あらゆる階梯(オレ注; 庶民層を含めた全国民)の一層零細な財産にとっても自然な堡塁たりうる。(中略)それ(オレ注; 富裕であること)は我々の弱さを我々の美徳のために役立てる。それは強欲心にすら慈愛の心を接木する。
(中略)ある種の上品に制御された優位とある程度までの、決して排他的な独占に及ばない優先は、決して不自然でも不当でも不得策でもない。」

これは保守主義者の思想の本質としての「私有・既得財産」について論じた箇所だが、ここでは実に見事な論理構造をもってして「富裕層/富裕であることの価値」から指導者・特権者階層の擁護へとつながる持論を主張している。
(つづく)
176市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/08/19(日)15:14:20 ID:???
34 of 34 (つづき)

このようにC型先天的論考者の優秀者においては合理的思考能は、他者を操作するという点において重用されつつも(※注)、その能力の土台においては、A・E型の論理性/メタ認知系諸能力がしっかりと働いてもいる。
(※注 C型人間優秀者的修辞においては論説内容自体の真理・真実性などは、イザとなれば微塵も意に介してはならないのである。
何故ならそんなことを気にしているようでは、無知蒙昧のC型人間が形成する“ごった煮世俗界の極致”としての“政治の現場”においては、一瞬にして吹き飛ばされてしまうからである。)

ちなみにこのバーク論の対照的論説と見做せるものが、これもたびたび引用しているところの、反対陣営(左派の一つの「1789年協会」)のA型人間プロト優秀者の論客コンドルセが同時期にフランス革命にまつわり論じた前掲書、
すなわち「人間精神の進歩に関する歴史的展望の総説(人間精神進歩史)」(1793 執筆)なのであり、この両著におけるレトリックを比べてみるなら、実感を伴ってC型先天的論考者の心理操作術の凄さを理解できる。

では最後に以上のこと共を踏まえて、「優秀者」についての追加定義を以下に示す。

『優秀者とは、己が天賦されているところのA型/C型単体の気質がもたらす傾向(A型・・進歩・発展性(真理・真実性)/C型・・連帯性(一次的連帯性)をメタ認知し、もって後天的に認知様態の弁証法的運動(破壊と創造)により主体性/個性を良く涵養しつつ、
包括的合理性(経験・実証主義/適宜・経済性/階層的論理体系)に基づく主体的認知体系の構築を成した者である。』

(「先天性/後天性が織り成す四基本的人間類型と優秀者」 おわり)
(第十四回 おわり)

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