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市民層 概論

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1市井の居士◆dgvbGqecqY:2017/10/22(日)20:53:05 ID:???
とりあえず過去レスリンクを貼っとくよ。日付が一番古いのはL.1、んでL.7までいったらコメントレス109,-129. これより後のレスは、ここにはリンクしてない。

オレの過去レス (旧2ちゃんリンク集)

コメントレス
109.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/335
110.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/336
111.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/337
112.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/338

113.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/339
114.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/340
115.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/341
116.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/342

117.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/350
118.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/351
119.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/352
120.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/353
121.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/354
122.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/355
(つづく)
131市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)16:59:54 ID:???
11 of 20 (つづき)

例えば左大臣として最初の政権を手中にした3年後には出家を望んでいるし、三条天皇との経年の権力闘争に勝利し摂政と成った時も翌年には早々と地位を頼通に譲り、自身は人臣最高位の太政大臣の地位を花道にさっさと政界を退いて出家した。)
(※注3 このタイプの代表である「徒然草」の吉田兼好は、“博学な高級閑人”であることを自尊して、宮廷文化人などに対して自己アピールすることを楽しんだ。吉田の他には、源有仁/雅仁親王/一遍/西行/法然/栄西などがこのタイプ。)

とどのつまり人間・社会関係における不品行/失敗、すなわち論考時における感情系習慣的自動思考様式からの妨害に起因する類の不出来については、
高次ストイシズム系行動文化に支えられたストイシズム系人格・観念的能力こそが、個人の克己心の限界を超えさせて人格系メタ認知的論理思考能力を大きく高めてくれることを、人類は論理的には説明できないにしても経験的には理解していた。
だからこそ感情抑制という全く楽しくも何ともない、一意的には苦しいだけの行動が習慣化し得たのであり、例えば以下に示すところの中世西洋のキリスト教ヘゲモニー体制確立に至るまでの道程を鑑みてもまた、このことは間違いないと言える。

ローマ帝政の開始により3世紀末にエジプトに逃れてきたキリスト教徒の影響から、己の性的欲求の抑圧のために砂漠での禁欲生活に入った一人のエジプト青年(聖アントニオス)が、
弟子を集めてキリスト教的ストイシズム系観念の礎を築くと、これが4世紀初頭のローマ帝国におけるキリスト教公認後に直ちに(聖マクシミアヌスにより)ガリアに伝播されることとなる。
そしてその後、自らが教区司教と禁欲的な修道士の二役を兼ねた聖マルティヌス(※注)がガリアの地に西欧初となる二つの修道院を建立する。
(※注 このマルティヌスの存在は西欧キリスト教のその後のヘゲモニー獲得にとって決定的に重要である。というのも彼について書かれた伝記本により、死者蘇生/悪魔祓い(エクソシズム)/病気治療の奇跡を成した者としてのマルティヌスの
名声が西欧世界の隅々の民衆にまで広まり、これをもってレランス修道院により西欧修道制が確立されるための下地的基盤が成され、もってキリスト教はゲルマン化した西欧においてその布教基盤を固めたと言えるからである。)
(つづく)
132市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:02:47 ID:???
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ところで初期のキリスト教教団は、司教を中心に組織された都市部の信徒集団であり、このシステムにおいては教会等の財産は信徒の共有物である。
しかして人口の大半が居住するところの田舎や辺境における教会組織においては、教会を自費で建立したゲルマン人領主等が所有者であり、もって当該教会組織を管理する司祭も(教区司教ではなく)彼自身が叙任するところとなった。
こうして7世紀から11世紀頃までの西欧キリスト教組織の基幹システムである「私有教会制」が始まる。

このゲルマン的私有教会制下においては教会組織自体が譲渡可能な資産であり、すなわちこれは不動産等の所有と何ら意味的に変わらず、
司教区全体が一般市民から国王に至るまでの様々な個人の運用可能な財産として分割所有された。

そしてこの状況下では、貧農/農奴への布教活動をも含むがゆえに真摯な態度で臨まなければならないところの、蛮族ゲルマンの根本的なキリスト教化の仕事は、マルティヌスが定着させたような禁欲修行(※注)から漸次、
発展/醸成された (貧民/病人の救済等の慈善事業等を含む)生活仕様高次ストイシズム系行動文化を保持する唯一の組織であるところの修道院が担うしかないことに、人々は気づかざるを得なかった。

とどのつまりローマ教会が頼みとした修道院の行動文化から生まれた帰納知が、荘厳ミサ/成務日課等の信仰形式といった、
中世キリスト教支配に欠かせない事物の確立に基幹的に与し、ひいては大聖堂建築/学術/文芸/芸術までの「西欧的総合知性」の形成にまで至るのである。
(※注 主として男色の危険を避けるための、修道士各人がそれぞれ孤立した僧房にこもって性欲/食欲の禁欲に励むというものであった。)

こうして中世中期頃までにおいて西欧社会支配のためのエートスの基盤形成を担うこととなった修道院制は、当初は禁欲修行者、その後は権勢に引き寄せられて立身出世を夢見て集まった修道士たちが、
自ら軍事力を持ったり自治権やその他の世俗的権力等も獲得しつつ、カトリック組織内で決定的政治力を行使するまでになり、ついに傘下に1千を超える系列修道院を擁し、
更にはローマ教皇直々に授与されたところの司教の権限さえ全く及ばない特権を獲得し、その全盛期においては西欧世界の実質的中心は如何なる国王、
(つづく)
133市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:03:46 ID:???
13 of 20 (つづき)

あるいはローマの教皇座でもなく、唯ひたすらクリュニーであったところの大修道院グループ(※注)を持つまでに至った。
そしてこの帰結としての11世紀の「グレゴリウス改革」により、「西欧封建社会」が、ついにその全容を整え終えたのである。
(※注 或る司教は「私は王の命令のままに戦う。正に我らの主人(クリュニー修道院長の)オディロンこそ王である。」と言ったし、また或る修道院長には「(クリュニーの支配領を旅している時に)私はここでは、
フランス王よりも強力である。何故なら人々は(フランス)王の支配など歯牙にもかけないからである。」とも言わしめた。)

また現代日本の人々に見られるが如くの、敢えて「世間者(せけんしゃ)」の立場で禅寺で「雲水(うんすい)」として修行したり、あるいは山伏などの「行人(ぎょうにん)」が為すような荒行の真似事をしたり、「聖(ひじり)」のように遍路修行に
出たりといった活動が後を絶たないという事もまた、生活仕様高次ストイシズム系行動文化こそが個人の論考の質の向上に決定的に寄与し、もって(破壊と創造により)高次存在拘束性の変換を実現させしめ得るものであることを、誰もが無意識的に知っていることを裏付けている。

とどのつまりストイシズム涵養こそが、世界の三大宗教すべての修行における中核的目的であるという事実は、取りも直さず人が真っ当な認知/認識を得ようとするならば、この「感情・欲求統御」問題こそが、とりあえずは最大の克服困難性を伴って
顕著に立ちはだかることを示しているのであり、実質的にもストイシズムを行使するとは、脳OSの設計思想「感情系を駆使した省エネ戦略」に対する“大反逆”を企てることであるからして、これはもとより一筋縄で済むような次元の問題ではない。

ではこの人類普遍の大難題の答を認知システム論的に求めていこう。すると己の感情/欲求という、この「意識が覚醒している限りは、脳OS(感情系習慣的自動思考様式)によって際限なく湧き出させしめられ続ける情動」を必要十分に統御し切るためには、
単に人格系メタ認知的論理思考様式によって、事を為すことの意味や理由等に思慮を巡らせているだけの限りにおいては、それが如何なる思慮であっても必ず克己心の限界という壁にぶつかり打ち負かされるしかない運命であることを認めるしかなく、もってここに
(つづく)
134市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:04:24 ID:???
14 of 20 (つづき)

『感情系習慣的自動思考様式に対抗しうるものは、同じ感情系習慣的自動思考様式以外にはない。』

という結論に立ち至る。具体的には己の自意識の如何には全く左右されないところの、モノを考えること自体を一切排し、全くの理屈抜きで感情・欲求抑制行為が正当であることの
自明性を始めから擬制してかかるような、“或る種の「被洗脳状態」に自意識が浸っている”状態に意図的に成るしかないのである。

『人間が己の克己心の限界を超えて感情/欲求を統御し切るには、自己のストイシズムとかその他のメタ認知系諸能力のみに依ってはこれを為すに能わず、唯一、自意識が“洗脳”されていることによってのみ可能となる。』

これが自意識の外からの強制力であるところの高次ストイシズム系行動文化が有効であることの真の理由なのである。その上でここにおいては、外部からの刺激に一対一対応する単なる感情系習慣的自動思考ではないところの、
自己由来のストイシズム系諸能力を始めとするメタ認知系諸能力を包含した人格系メタ認知的論理思考をフルに介在させることで生ずる『自己心理操作性』を取り入れた、
言わば『管理洗脳』とでも呼ぶべき自己心理操作術体系を構築することにより、洗脳内容の適宜・経済性を自らチェックしながら思考/判断の全体を包括的に統御しうる余地を生みだせるのである。

『(脳OSの設計思想に反逆するものとしての)ストイシズムは、単純/素朴な禁欲的意思のみに拠り運用されるならば、いずれは自意識が悶絶するような苦痛を感じるほどになり、もって克己心の限界に至り、
(脳OS(感情系習慣的自動思考様式)からの大反抗としての)感情・欲求的反動により打ち負かされることとなる。
よってストイシズムは、外部からの生活仕様高次ストイシズム系行動文化が感情系習慣的自動思考様式による有無を言わせない規律性強制力を持った上で、(これが)人格系メタ認知的論理思考様式による適宜・経済性判断に基づいて管理され、
もって感情抑制行動に自己心理操作性を伴わせるところの「管理洗脳」状態が実現する、すなわち感情系習慣的自動思考様式と人格系メタ認知的論理思考様式が合目的に協調する
『ストイシズム系管理洗脳的自己心理操作術体系』が存在する場合においてのみ、安定的な思考統御・監督系機能を保持し得る。』(『観念運動の自然法 第七定理(ストイシズム定理)』)
(つづく)
135市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:05:00 ID:???
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すなわち感情/欲求/衝動の抑制的統御を持続的に為すにあたっては、例えば「何故、感情/欲求/衝動を抑制しなければならないのか?」などと、その意味/理由等を根源(大枠認識)的に考えたり問うたりした時点で己の負けなのである。
であるからして、ここで脳OSの圧倒的専制力に打ち勝つための唯一の方法が、「これら(感情/欲求/衝動)は抑え込まなきゃならんもの。」と、自分で自分を強い情動を伴って洗脳する、
つまり感情系習慣的自動思考様式という、脳OSの全く同じ情動的専制力をもってして対抗することだけなのだ(※注)。
その上でこのストイシズム系管理洗脳的自己心理操作術体系の特徴とは、例えばコップに水が半分入っている時に、「もう半分しか残っていない。」と思うか、
または「まだ半分も残っている。」と思うかの認識を操作するといった、人格系メタ認知的論理思考様式による中枠認識レベルでの多様な自己心理操作性を付与できる点にこそあるというわけだ。
(※注 人が今、この瞬間に自意識に生起しているところの特定感情等を如何に処置すべきか、などという適宜・経済性に係る論考については思考結果の曖昧性が大きく、そうであるならば考えれば考えるほど、脳OSに付け入らせる隙を与える。)

このような自己心理操作性の有意性の論証については、これを持たないところの、すなわち凡庸者的属性としての単純素朴性/無謬的信憑性/自他の分離観念の不全に因って、
行動文化が単に『道徳・倫理・義務的観念系行動文化』(ストイシズム系行動文化と同様に「洗脳系行動文化」の一種。)として認知されてしまう場合、すなわち人々の自意識において、「モーセの十戒」的“遵守すべき掟”の如くの箇条形式型行動規範群に
成ってしまう場合においては悲惨な結末(※注)を招来するという、人類がこれまでに幾度となく経験してきたところの厄災の記憶(経験的命題)の幾つかを提示するならば、それで十分である。
(※注 道徳・倫理・義務的観念系行動文化においては箇条型行動規範が、どこまでも無頓着、かつ強圧的に自意識に作用してくるために、幸福・充足感をもたらすための“本音”的認知がどんどん損なわれ、ついに人々から自然な人間味が失われていく。
(つづく)
136市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:05:34 ID:???
16 of 20 (つづき)

これは例えば「高い道徳性を備えた人物であればあるほど、とっつきにくく冷酷な感じがする/あまりに融通性がなく、息が詰まる」という、例えばイギリスなどの道徳/倫理を重視する価値観を持つ社会において、お馴染みの現象である。
すなわちこれは主として、紋切り型の義務意識がもたらした過分な欲求抑制による人格異常/情愛の決定的不足/世俗社会から切り離されたような孤独感等に所以するのであり、
最終的には切羽詰まったような精神異常や暴力性の顕現/指導者・特権者階層の放埒性/「機能不全家庭」(社会心理学用語)の大発生等にまで至る。
この手の惨事の典型的実例は、ブロンテ姉妹を生んだブロンテ家(父子家庭)。すなわち肖像画などからもその頑迷/狭量/内向的な気質が偲ばれるP.ブロンテ(牧師)の6人の子供たちの内で一意的に“幸福”と呼べるような人生を全うした者は唯の一人もいない。
例えば唯一の男児は自堕落の極みの末に廃人同様になって死に、その後を追うように妹E.ブロンテ(「嵐が丘」(1846)の作者)も孤独と寂寥に貫かれた短い生涯を終える。
C.ブロンテ(「ジェイン・エア」(1847)の作者)も狭量な父の不同意の中で強引に結婚するも一年にも満たない儚(はかな)い幸福の後に死ぬ。

またこれとは真逆の、モラルの厳しさが他者に及ぼす逆説的な「過分の生ぬるさ」の弊害も在る。例えば菊池寛の「父帰る」(1917)は、
モラル的な形式主義と義理のイデオロギーが帰結する"倒錯的生ぬるさ/なぁなぁ主義"によって、適宜・経済性的合理性が否定される物語。
作品には後日譚はないが、儒教的モラルに支配されていた近世・近代日本では、往々にしてこの手の道理の倒錯が現実世界においても日常茶飯的に生起したと考えられ、このような甘やかされた凡庸者が増長しファシスト化することで、大厄災が招来されるのである。)

とどのつまり(箇条形式型観念のような)最後の最期まで演繹的に強要されるだけの「外観保持義務的ストイシズム」こそは、厳に忌避されなければならないのである。
(つづく)
137市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:06:13 ID:???
17 of 20 (つづき)

一方で好ましいストイシズムとは例えば、「誰かの意見を中途で遮らないで最後まで聞ける/何かに熱中してる最中に声かけられても一意的に嫌な顔をしないことができる/急な変化にも条件反射せずに思慮深く対処できる」etc.・・といった、
日常の一コマ一コマにおいて普遍的に顕現するが如くの、自己管理意識下での中枠認識に係る人格系メタ認知的論理思考によるところの、さり気ない自己心理操作としての「適宜・経済的判断に拠った随時の感情・欲求抑制・統御」術の中に見い出せるようなものである。

というわけで己の合理主義的認知態度を保った上での被洗脳的義務観、すなわち己の必要のために己がより適切と見做す程度や方法を採ろうとする主体性を伴うところの管理洗脳こそが、
自意識の健全性を常態的に保ち、もって人と社会の双方に幸福をもたらし得るのである。
これ(ストイシズム系管理洗脳的自己心理操作術体系)は言わば、『フレキシブルな自己管理性を伴うストイシズム』、
一般的には『厳しさ』という言葉をもってして言い表すべき思考統御・監督系機能である。
(ちなみにこの厳しさがもたらす成果物の、或る特定の側面の外観に往々にして顕現するものでしかないところの「道徳/倫理」性を、
大抵の凡庸者は枢要な目的として誤って捉えてしまうために、人類は破滅的な厄災を度々招来してきたということだ。)

厳しさという思考統御・監督系機能は脳OSからの攻撃に直に対抗し、もって前回述べたようなその他の重要な
思考統御・監督系諸機能(主体的達成意欲・自己批判的観念系人格的能力に基づく。)を有意たらしめるための、言わば“論考の場の防衛軍”として安全保障的に機能するものである。
すなわち道徳・倫理・義務的観念という、自意識を容易に克己心の限界に至らせてしまうがゆえに、むしろ自意識を破壊しかねない危険なストイシズムではなくして、
適宜・経済的なストイシズム系行動をもたらすものとしての厳しさは、思考統御・監督系諸機能を司る三始原人格系諸能力の活動の場における、脳OSからの絶えざる攻撃に対する防壁として、ありとあらゆる人間活動の健全なる遂行を、その安全保障面から担保していると言える。

例えば新教宗派(禁欲的プロテスタンテイズム - カルヴァン派/洗礼派)が、「世俗内的禁欲」(M.ヴェーバー用語)という
(つづく)
138市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:06:54 ID:???
18 of 20 (つづき)

生活仕様高次ストイシズム系行動文化を職業生活に持ち込んだことで、優秀者の自意識において厳しさが形成され、もって帰納的思考能力(人格系メタ認知的論理思考能力)が高まり、従来的資本主義に“硬質な刃物”のような鋭さを加えた
近代資本主義システムの肝となる合理主義的因果・方法論(※注1)を構築し得たという知見を、是非ともヴェーバー理論に付け加えるべきだろう(※注2)。
(※注1 「暴利を貪らずに適正価格(掛け値でなく定価)を設定し、利潤を浪費せず設備等に再投資してビジネスを絶えず拡張することが、最大の繁栄をもたらす。」というものであり、
これは元々は彼らの生活仕様高次ストイシズム系観念であったものが、厳しさを伴う優秀者の帰納的思考により言語・論理化され、そのまま資本主義理念の母体となったのである。)
(※注2 ヴェーバーもまたオレのように明瞭に認識できるほどではなかったものの、「天職としての政治」(1919)においては、単に不毛な興奮に酔っただけの“素人”政治家と真の政治家を
区別する“物と人間に対して距離を置いて見ようとする態度(オレ注 ; メタ認知能力)”をもたらす“あの強靭な魂の抑制”という言い方で、漠然とは厳しさが、高度な人格系メタ認知的論理思考に欠かせないものであることに気づいていたようだ。)

またあるいは我が国の「明治維新」の際には、武士道により厳しさを既に確立しており、もって人格系メタ認知的論理思考能力を求められる職業に対応し終えていた
士族(旧武士)層の優秀者/秀才が、版籍奉還後、俸禄が公債に切り替わり実質的収入が減少していく中で、いわゆる「末は博士か大臣か・・」的「立身出世コース(※注)」において、
他の大多数の国民(小百姓/旧穢多(職人/行商人など))を尻目に、かなりの数の者がそれなりに夢を叶えることができた。
また更には幕末期に続々と来日してきたプロテスタント宣教師たちが開いた英語塾等にも、やはり武士たちが我先にと大量に押し寄せており、
これらの事例は総じて武士層だけが主として持つところの厳しさと知的活動との極めて深い連関性をまざまざと見せつけている。
(※注 名士の門を叩いて教えを乞う「書生」からコネを伝って「官員」と成り、「大臣/参議」を目指したり、あるいは「帝大生」から「博士」を目指す如きの明治初期の典型的成り上がり法。)
(つづく)
139市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:07:33 ID:???
19 of 20 (つづき)

というわけでそれなりの厳しさ(フレキシブルな自己管理性を伴うストイシズム)を修得し得た者は、悶絶するようなストレスを感じるどころか、
被洗脳状態がもたらす極めて安定・予定調和的な“心の張り”を伴った上での、主体的認知体系による自己管理性に支えられた自尊的マインドセットに拠るところの“(帰納知の充実に基づく)人生全般に係る幸福創造へのパスポート”を獲得したも同然なのである。

しかしてここに至り、人間社会に関する厳然たる或る一つの真理もまた浮かび上がろう。つまり厳しさとは、ここまで論説してきたように各人の個人的努力のみによって修得できるようなものではなく、
社会全体において集合知的に保持される行動文化に支えられてこそのものであった。
そしてこうなると現実には、ほとんどの先進文明社会では満足な帰納的思考者が見い出せないことになろう。例えばミルは次のように述べている。

「かなりの精神的資質のある人々でさえ、しばしば自分たちが偏見を抱いている意見の趣旨を理解しようという努力をほとんどしないし、また人々は一般にこの“故意の無知”を、
欠陥としてほとんど意識しないので、倫理諸学説の最も俗流的な誤解が、高度の原理と哲学の両方を持っていると最も自負している人々の熟慮した著作の中に絶えず出てくる」(J.S.ミル「功利主義」 1863 )

とりわけ20世紀後期以降は先進社会は「暇つぶし文明期(第七回 参照)」に突入したことで、社会から生活仕様高次ストイシズム系行動文化が急速に失われた。
例えばソクラテス/コペルニクス/ケプラー/ホッブズ/フロイトなどが持った観念や苦悩をアタマで理解したり批判できる者はゴマンと居るにしても、
自ら彼らが為したのと同様の厳しさを伴う人格系メタ認知的論理思考の十分の一も為せる者は、今となってはもう滅多に出ないのである。
つまり昨今はネットを検索していても、何処かの“鼻タレ小僧”学者みたいのが、「マルクスって間違いだらけで何の価値もないよね」的なことを言っていたりするわけだが、
実はこのような輩は厳しさをもって統御するしかない論考の困難さというものをそもそも知らず、マルクスを対等な立場で批判できる土俵にすら上がれていないことを、死ぬまで気づけない。
(つづく)
140市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/05/18(金)17:08:08 ID:???
20 of 20 (つづき)

すなわち150年も前の存在拘束性に縛られた人間が為したその仕事が、如何に困難と苦しみに打ち勝つための努力を要したものであったかを察することができない。

こうしてつまるところストイシズムの何たるかを理解し得た現代の優秀者は、やむを得ず生活仕様高次ストイシズム系行動文化の相当物を、外部からでなく、自分の自前で形成するように努めるしかなくなっている。
しかしこうした外部観念からの洗脳に依らないケースにおいては、普通は当該人物が元々、かなり良質なストイシズム系人格・観念的能力を養育者等から個人的に継承し、
幼児期において小脳ROM化できているような、言わば“準外部力”的な支援を既に獲得している場合でもなければ、成功はおぼつかない。

というのも自己心理操作的ストイシズムに基づく活動とは、管理洗脳下でのそれに他ならないのだから、いずれにしても何らかの感情系習慣的自動思考力(例えば相思相愛の配偶者などからの叱咤激励とか。)
による被洗脳的状態の確保ができなければ、自らの克己心の限界を越えることができないからだ。

というわけで昨今では慢性的運動不足が重大な健康被害をもたらすことがあまねく知れ渡ったおかげで、人々はウォーキング/ジョギング等でこれを解消することが当たり前になったわけだが、
ここに「厳しさ」不足による人格系メタ認知的論理思考能力の劣化がもたらすところの人間/社会に対する破滅的作用もまた、今後は人々に周知されてゆかなければならなくなったというわけである(※注1)。
(※注1 とりわけ我が国においては、かつて実際に存在したものとしての武士層の養育者が幼児期の被養育者に与える行動文化としての「叱って躾ける教育」文化を、
時代的存在拘束性がもたらす価値観にマッチするように生活仕様タイプにアレンジした上での再興が、現実的だろう。
その上で今般は、明治体制下で為された箇条形式的な道徳・倫理・義務的観念系行動文化(※注2)が、万が一にも再興しないように厳重監視しつつこれを為すべきなのは言うまでもない。)
(※注2 主として「教育勅語」(1890)と小学校の「修身書」による。)
(「フレキシブルな自己管理性を伴うストイシズム – “厳しさ”という能力 - 」 おわり)
(第十三回 おわり)

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