- -pv
スレッドの閲覧状況:
現在、- がスレを見ています。
これまでに合計 - 表示されました。
※PC・スマホの表示回数をカウントしてます。
※24時間表示がないスレのPVはリセットされます。

市民層 概論

※ID非表示スレ
1市井の居士◆dgvbGqecqY:2017/10/22(日)20:53:05 ID:???
とりあえず過去レスリンクを貼っとくよ。日付が一番古いのはL.1、んでL.7までいったらコメントレス109,-129. これより後のレスは、ここにはリンクしてない。

オレの過去レス (旧2ちゃんリンク集)

コメントレス
109.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/335
110.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/336
111.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/337
112.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/338

113.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/339
114.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/340
115.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/341
116.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/342

117.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/350
118.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/351
119.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/352
120.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/353
121.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/354
122.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/355
(つづく)
78市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:17:51 ID:???
9 of 17 (つづき)

懐疑・絶望感等が発生して重度の鬱に陥るというわけである。場合によっては自殺にまで至る。

そもそも「鬱病」などというものは、己の存在拘束性というものに対するメタ認識を一切持てない認知の“蛸壺”性が、落ち着いた帰納的論考の不能状態をもたらした結果であり、言わば「演繹的思考病」の最たるものである(※注)。
(※注 また鬱病とは真逆の演繹的思考病例としては、「リジリアンス(回復・復元力)」などと呼ばれるところの「重度の深刻さを伴う危機的状況においてさえも、心の平静さを保つ能力」が、先天的に格別に優れている人々が存在し、
このような「サイコパス系気質」を持つ人々が演繹的思考者となる場合は、往々にして鬱病などとは正反対の社会的不適応状態となるものがある。
すなわち彼らは、非常に直情・攻撃的な反社会的行動(騒乱/犯罪/放蕩など)や奇矯な行動を躊躇/葛藤等を伴わないで難なく遂行し得るのである。)
  
というわけで人はこのような人間脳にデフォールトで設定されていて非選択的行為を強いる自動判断システムのみでは、適切に対応しきれない様々な事態に対処するために、
進化論的には動物が数億年の時を経て開発してきたこのシステムとは別個に、「合理性を追求するための新規の判断システム」を開発する必要に迫られる。
しかしこの新システムについて詳しく考察し始める前に、この演繹的思考(自動判断)システムについて、更に十分に意味的な理解を持っておくことが、(チャプター冒頭部で述べた理由から)必要なのである。

動物はこの自動判断システムを採用することで、第一には決まりきったパターン行動群を、"神がかり的レベル(※注)"に達する完璧・流暢・安定性を伴って為すことができるようになる。
第二には脳が個々の状況において思考/判断のために費やすエネルギー量を減少させるという経済性(言わば“資本利益率”、すなわちコスパの増加)を得ると同時に、第三には第一点の定形的行動に適宜・経済性が運良く備わった状況に限っての最大級の効率性を得ている。
そして更に第四にはこの極めて予定調和的なシステムが発生させる快情動によって、自らの情緒を安定化させると共に、他者の情緒をも或る程度の正確さをもって同様に操作/管理でき、自他の気質/情緒というものを安定させることができる。
(つづく)
79市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:18:30 ID:???
10 of 17 (つづき)

(※注 これは例えば、0.01秒/0.05g/0.1mm程度の精度、かつ相当複雑な組み合わせを伴うような行動(例えば音楽演奏/絵画/料理/職人技など。)を可能にしている。)

以上のような属性を持つところの(人間を含めた)動物脳のデフォールトであるところの演繹的思考様式を、
今後は当論においてシステム論的見地から言及する際には、『感情系習慣的自動思考様式(エモーショナライズド・イデオロジカル・シンキング)(※注1)』と呼ぶことにする。
(※注1 感情系習慣的自動思考様式は、ある認識に対して「論考」するようには決して働かず、同一型の事象と感情発露の下でドライヴされるチャンクによって判断を予定調和させる(※注2)。このような思考様態は、常に「イデオロギー」を生み出す。
ゆえにこれを「エモーショナライズド・イデオロジカル・シンキング」とも別名するということ。)
(※注2 例えば、誰かの欠点を考え始めたとしよう。するとその者を"嫌だ"と感じさせる感情がどんどん自動亢進するにつれ、それに引っ張られて思考も(その者の)欠点を強調するような方向に予定調和的に亢進する。
このように感情に囚われて、自意識が一点(ヘーゲル的「正」状態)に執着している状態での思考は、最早、当人のIQなどの如何に拘らず、狭隘な視野の下で非合理的に推移するしかない。)

そして感情系習慣的自動思考様式について当論的に注視すべき点とは、(この思考様式が)刻々の頭脳労働がもたらす情緒の不安定化をできるだけ抑えることで、「凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」的な「連帯/相互扶助におけるコミュニケーション」
の際に必須であるところの、個々人の性格/気質を(いくつかの習慣的行動の下で)落ち着かせて、もって生活グループ内での人間関係を良好に保つという自己保存便益に直結する、言わば『生活能力的ホメオスタシス(恒常性)』とでも名付けるべきものを供給する点である。
つまり『エモーショナライズド・イデオロギー』を無闇に否定することは、人が生活するための人間関係基盤を喪失させかねない危険を伴う。

とどのつまりエモーショナライズド・イデオロジカル・シンキングとは、人間脳が進化の過程で獲得した、思考/判断に関わる労働力の省エネと人間関係形成に与する「基幹的認知システム(コンピュータの「OS」に相当。)」だと見做せるのである。
(つづく)
80市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:19:06 ID:???
11 of 17 (つづき)

つまりこのことは、何人もこの感情系習慣的自動思考様式が求める凡庸者的な紋切り型/十年一日的な振る舞い方を、全否定したり免れ得たりできないことを示している。

『全ての人間はデフォールトでは単純な演繹的思考者であり、一部の“秀才(※注)”を除く凡庸者は、このデフォールト状態から一歩も出られるものでない。
その上で例え優秀者だとしても、日常生活的人間関係においては感情系習慣的自動思考様式を用いるしかないのであり、その意味では優秀者であっても一意的に凡庸者的認知行為から免れ得るわけではなく、
彼が優秀者的自意識や緊張感を失い、メタ認知不全状態となるならば、いつでも演繹的思考様式に全面的に支配されるしかなくなる。』

見方を変えれば単純素朴性/無謬的信憑性/自他の分離観念の不全という凡庸者的三属性、並びに感情系習慣的自動思考様式が、実は人間であるならば誰もが利用せざるを得ない能力を担保しているという側面が在るのであり、
ゆえに第十回で提示した優秀者的人間属性とは、これを当該者の全行為において100%顕現させているような者は、現実には存在しえない。我々が実人生において実際に遭遇する者は全て、その行動において「演繹的思考様式・帰納的思考様式属性ミックス者(※注1)」である。
実際には、むしろ演繹的思考属性を主としつつ、その上で帰納的思考を適宜、為せる者を、当論では「優秀者」と呼んでいるに過ぎないのである。
(※注1 学説の拠り所が大まかな認識の域を出ないとしても、そのことのゆえに科学的合理性が損なわれるわけではない。
その理由は科学においては、往々にして万人が共通に保持する「直観的自明性認識(※注2)」が論理上でのつながりを形成することによって、論者は非実測的な経験・実証主義知見からも合理性を見出せるからである。)
(※注2 ディルタイが言う「現象性の原理/基本的な思考機能」と同義。例えば「100°Cの湯に指を突っ込んで、「心地よい」と感じる者は居ない。」こと、あるいは「事物がどんどん粗末・瑣末化することを一意的には進歩/発展だと感じる者は居ない。」などの認識は、
各人毎の主観に基づく思考の前段階に在る基本的自明性であり、このようなものを万人が抱く直観的自明性認識だとする。)
(つづく)
81市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:19:55 ID:???
12 of 17 (つづき)

ではここで無自覚な演繹的思考様式というものが、人間にとっては如何に低劣な判断/行動をもたらすものであるかを具体的に示すために、戦前期に繰り広げられた論争の内で最重要であるところの「天皇機関説論争」について述べる。
尚、この事件の俗的な経緯/推移は、ここでは関心を持つところではなく、学説の内容にまつわることだけを以下に論ずる。

上杉慎吉らを主唱者とする「天皇主権説」と美濃部達吉らを主唱者とする「天皇機関説」の真っ向からの対立において、合理的観点からどちらが正しいかを判じるならば、極めて明快に後者が正しいと言える。
というのも前者の本旨は「天皇という一個人が(大日本帝国の)主権者であり、その意思のみが(大日本帝国の万事において)絶対的な(すなわち超法規的な)効力を持つ。」というものであり、これすなわち中華思想とか王権神授説などと同類の、
君主と君主以外の者の人的価値において絶対に超えることのできない質的分別を設けるものであり、もしこれを是とするならば、憲法を始めとした、合議/意思決定の分担性を担保しようとする目的性を持つところの諸法規は、
最終的には存在価値がないし(すなわち天皇は立憲君主ではなく、自分以外の何者によっても規制されず、かつあらゆる気まぐれ/思いつき等が是認される独裁者となるから。)、明治憲法第55条の大臣が天皇の判断をすべからく輔弼し、
その輔弼した内容に関する責任は当該大臣に在るなどという、天皇が最終的に下す判断における妥当性を担保しようとする目的を持つ規定なんかの存在意義ともまた矛盾するわけだが、しかし主権説論者側から、
この輔弼規定自体の存在価値とか、更には国会/内閣などという概念の本質について取り沙汰されたことは唯の一度もなかった。

以上のことから天皇主権説には論理上、極めて稚拙な瑕疵を伴う恣意性があり、その上で慣習上においても、それ以前の大正年間の二度の護憲運動の勃発の経緯を見ても分かるように、
天皇とは現実には、紛れもなく「帝国」という抽象的主権体に従属する一機関に過ぎない、但しそれは他のあらゆる機関に優越するところの比較最高“機関”的地位に在るに過ぎないと見做されてきているのである。
(つづく)
82市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:20:39 ID:???
13 of 17 (つづき)

ともかく、この一機関の意思のみで万事を決するなどということについては、憲法を始めとした諸法規により厳に禁止されているという解釈(天皇機関説)の自明さに疑いの余地はない。

しかしここでこの事例を採り上げている意図は、今更、両論に対する分析のみを読者に念押しするためではもちろんなく、当時の主権論者の行動を通じて、演繹的思考者というものの危険/心底嫌気がさすバカバカしさを、読者が理解するようにするためこそなのである。
すなわち主権論者は、再三述べている気分・感情的要素としての、自意識内での快・不快的是非に基づいて当該者の頭の中だけで勝手に創り上げられた「天皇観念」こそを、絶対だと思い込むという、
演繹的思考の自己中心性(凡庸者的存在拘束性の陥穽)の虜になっていて、だからこそ実在の昭和天皇本人が本件について、「それ(天皇機関説)で良いではないか。」と機関説を支持しているにも拘らず、
その事実を平然と黙殺し、あくまで自説に拘泥し続けるという、完全な自家撞着を為したのである。

とどのつまり天皇主権論者の本音とは、現に実在する天皇などは全く眼中にはなく、その上で(第九回で述べた専制的支配欲求型ロボット型人間としての)頭に取り憑いている”支配欲求”と”天皇主権説”を便宜的にリンクさせることにより、
現実政治・政局を自らの意のままに操ろうとするものであり、すなわち実在する”(今上)天皇”とは、彼ら自身の想いを象(あらわ)すためのお神輿(みこし)/用益物に過ぎないのであり、
主権説とは”彼ら自身が日本の専制君主に成りたくて仕様がない説”だというのが、そのオチなのである。
そして余談ながら、このようなキチガイ・鬼畜性が顕現する心理的構造は、そのまま二・二六事件を引き起こす原動力となっていったのであり、例えば自分たちを天皇が頼みとし、かつ自分たちが天皇と一心同体であるかの如き幻想にとり憑かれた皇道派青年将校一派の一人、
磯部浅一は、いよいよ銃殺刑を目前に控えた土壇場において、「陛下 日本は天皇の独裁国であってはなりません。(中略)明治以後の日本は天皇を政治的中心とした一君と万民との一体的立憲国であります。
(中略)左様であらねばならない国体でありますから、何人の独裁も許しません。」などという直諌文をしたためてその本性を暴露している。
(つづく)
83市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:21:24 ID:???
14 of 17 (つづき)

もちろんこの手の虚実が併存する二律的心理構造とは、21世紀の現在においても相変わらず氾濫しまくっている(※注)のであり、すなわち演繹的思考者により祭り上げられた対象物 (すなわち己自身の欲求の体の良いカモフラージュのための媒体)を用いた擬態を為す輩と、
その本性を見抜いている者との果てることがない闘いが今日においても相変わらず続いているのである。
(※注 例えば或る保育士のtwitterにこんなのがあった。「待機児童の問題など、保育の現場では憲法が守られていない。子供の健やかに成長する権利、働く親の働く権利、子供の安全と発達を保証するためには、
今の保育士の安すぎる賃金と人手不足の解消も必要。大好きな子供たちのために声を上げて変えていきたい!」
この意見の心理構造は、「憲法/大好きな子供」を「天皇」に置き換えれば、天皇主権論と全く同一である。すなわち「憲法/子供」のどちらも、実は発言者の本音においては眼中には無いのであり、自分たちの「収入upと労働量のdown」のみこそが、真の関心事なのである。)

というわけで感情系習慣的自動思考様式とは、高等社会性動物である人間においては、生来・普遍的な「擬態行動」を支えるという機能をも持つのである。

では以上を踏まえた上で更に病跡学的な個別事例研究を為していこう。感情系習慣的自動思考様式は人間をして、例えば以下のような愚かしい生き方を為させるように仕向けてくる。

平林たい子の自伝「砂漠の花」(1957)によると、この生来の“アバズレ/チンピラ”的気質を持つ女(当時17歳)は、判で押したように誰からも一様に嫌われ、人としての見込み/将来性のなさから
周囲の皆が(平林に)交際しないことを勧めるアナーキスト青年に、同類としてのシンパシーを感じ、周囲の批判的な目に対する反抗心から逆に一途に惚れ込んで、お決まりの破滅的な転落(※注)を辿る。
これについて当人(平林)は、己が単なる“あまのじゃく”であることを悟るために、これほどの辛酸を経験しなければならなかったとは何たる不幸であるかという旨の述懐を為している。
しかし己の性根が必然的に宿す破滅性を知り、それを何とか抑えようとする決心まではできなかったようで、この出来事の後も放蕩三昧の生活は止まない。
(つづく)
84市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:22:01 ID:???
15 of 17 (つづき)

(※注 関東大震災の折には社会主義者/アナーキスト/サンディカリスト等が一斉検挙され、多くの者が不法裡に殺された。平林もアナーキストの女であったために捕らえられ、処刑場とおぼしき所にまで連れて行かれたが、幸運にも九死に一生を得る。
その後、東京から出ることを条件に釈放された身寄りもない平林カップルは、絶縁状態の親類を頼り大連に渡るも、男は頼った知人に警察に売られ懲役刑となり、
一人残された平林は、入籍を許す者もいない私生児としての女児を栄養失調状態で産み、満足な世話も受けられず一週間で赤子を死なせる。)

また平林などとは異なるタイプの、言わば“逆噴射型”とでも呼ぶべき、生来的気質が単純すぎることからくる、己の求道者的一本気/不器用さ等に対する徹底的嫌悪感から、
生涯にわたる自己否定的な(己自身との)不毛な闘いを為し続け、自殺衝動にとりつかれるまでになったレフ・トルストイの人生にも、
この感情系習慣的自動思考様式がもたらす悲惨さ(己や社会を感情の束縛から離れてメタ認知することを未だ知らないので、一途な思い込みが最悪の苦悩/破滅につながることを理性的に回避できない。)が溢れている。
彼は「アンナ・カレーニナ」(1878)で、「君は非常に純粋な人だ。これは君の長所でもあり、短所でもあるんだ。君は君自身の純粋な性格から、全人生が純粋な現象から成り立つことを望んでいるが、そんなことはとても在りうることじゃない。(中略)人生のあらゆる変化、
あらゆる魅力、あらゆる美は、全て影と光(※注)とから成っているものなんだからね。」(第一篇十一)と述べ、平林と同じく理屈の上では己の弱点/人の世の真実を把握している。しかして彼の自己否定・嫌悪的執着は、現実には非常に哀しい不毛の努力を為すように仕向ける。
すなわちトルストイの主要作品を特徴づけているところの、例えば起承転結の如き筋立てを持たせることを嫌悪しているかのような、物語展開における徹底的な複雑・輻輳性と一回性事象の連続がもたらす各事象の非連続性等は、
言わば己の天与の単純明瞭な気性に対する絶望的嫌悪がその根に在ると考えれば、「なるほど」と納得できるのである。
(つづく)
85市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:22:40 ID:???
16 of 17 (つづき)

(※注 “影と光”とは、例えば或る人物がどんなに“善良/好人物”に見えたとしても、それでも尚、彼が人間である以上、彼の人格の中には、例えば残酷さ/自己中心性などといった醜悪な部分を必ず見出すことができる、
というような類のことを示唆しているわけで、こうしてこの世のあらゆる事物は、影と光のコントラストの中にこそ、その本質を宿している旨を述べたものである。)

更にトルストイについて重要なことを言い添えるならば、彼の出世作の「戦争と平和」(1869)などを読んでいても、外形的には物凄い事件がどんどん起こってくるのだが、(その優れた文章表現力とは裏腹に)全く臨場感というか感情移入が読み手の心中に起こらないのである。
これと対照的なのがツルゲーネフの諸作品であり、それらはどの作品においてもドラマチックな場面の最中には、あたかもオレ自身が登場人物になってしまったかのようなリアルな共感/実感が沸き起こってくるのである。

では両者の作品におけるこのような本質的違いをもたらしているものは何なのか?それはトルストイとは、自分を自分が憧れている何者かに似せようとしている偽物(主体性/個性がない凡庸者)だが、
ツルゲーネフは己の真実に真っ直ぐに向き合って生きている優秀者であり、そこで掴んだ真理(彼の個性を形成するもの)を作品として端的に表現しえているということである。

さてこれらの事例を通して見えてくることとは、感情系習慣的自動思考様式のためのチャンクは、思考アルゴリズム部分が小脳ROMであるために、理性的にはその内容の滑稽さ等をメタ認識できたとしても、ここから直に思考様態を修正できるわけではないということである。
すなわち感情系習慣的自動思考様式の低劣性を免れるためには、思考の進捗につれて、その全体的方向性・方針を合理主義的たらしめるための何らかの『思考統御・監督系諸機能』が、適宜、働く必要があるのである。
結論から言えば、これは第十回において「人格的諸能力」としたものに由来する機能である。この思考統御・監督系諸機能についての詳細な論説は、次回以降(第十二~十三回)に持ち越される。
(つづく)
86市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:23:08 ID:???
17 of 17 (つづき)

さて、とにもかくにも破壊と創造過程に入れず、テンプレート化した意思決定チャンクの継続的利用による自己限界的特異点に至った場合、凡庸者の多くは社会的不適応段階に移行する。
そしてその状態が慢性化すれば、ストレス系ホルモンの過剰分泌等による脳神経器質自体の破壊/変成/機能不全と精神病等の段階にまで、必然的に行き着かざるを得ないのである。
(「感情系習慣的自動思考様式」 おわり)
(第十一回 おわり)
87市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)18:21:08 ID:???
>>80

“秀才(※注)”の注釈が脱落していたので以下に補填する。

(※注 「秀才」は凡庸者のサブ・カテゴリー。これについては後の回で詳説する。)

新着レスの表示 | ここまで読んだ

名前: mail:





市民層 概論
CRITEO