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市民層 概論

※ID非表示スレ
1市井の居士◆dgvbGqecqY:2017/10/22(日)20:53:05 ID:???
とりあえず過去レスリンクを貼っとくよ。日付が一番古いのはL.1、んでL.7までいったらコメントレス109,-129. これより後のレスは、ここにはリンクしてない。

オレの過去レス (旧2ちゃんリンク集)

コメントレス
109.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/335
110.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/336
111.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/337
112.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/338

113.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/339
114.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/340
115.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/341
116.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/342

117.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/350
118.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/351
119.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/352
120.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/353
121.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/354
122.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/355
(つづく)
 
+0
-0
2市井の居士◆.mg9.rKRfu9v :2017/10/22(日)20:55:11 ID:???
(つづき)
123.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/356
124.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/357
125.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/427
126.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/428
127.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/429
128.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/430
129.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/431

リンク集

L1. http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1403873438/509
L2. http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1405375603/697
L3.
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1406872014/652
L.4
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1452927395/454
L.5
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/60
L.6
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/115
L.7
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/life/1455198620/343

ニコニココミュニティ
「STAP細胞の懐疑点」ある投稿者のコミュ ソーシャライト(市民)という生き方についての論考

http://com.nicovideo.jp/community/co3378983
3市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/10/22(日)21:03:20 ID:???
1 of 3

今日は1年とチョットぶりで復帰することの挨拶だけだ。ま、興味がわいたら近々改めてうpし直す本論(第七回)を読んでくれ。

今日の世界は最早、従来的な範疇における如何なる政治・経済政策を施したところで有意な効果を得られない処まできていることは既に述べた(市民層 概論 第五回 参照)。
何故ならポストモダン以降(1970年代以降)の政治/経済のあらゆる低迷/問題は、戦後の民主主義体制が生んだ人間の在り方/生き方の異常性に決定的に起因しているからである。
そこで今日は、この戦後民主主義の異常性の主たる要素であるところの、「低能者」(「市民層 概論」においては「凡庸者」と呼んでいる。)が有能者(「市民層 概論」においては「優秀者」と呼んでいる。)にどう思われているのかだけ書いておく。

ここで言う低能者とは「知能/行為能力等が低い者」であり、代表的な低能者としては「大衆」が挙げられる。この大衆という低能者は今日の資本主義体制下の社会において、あらゆる政治・経済問題の根本的問題要因となっている(※注)。
(※注 それはそうだ。彼らは産業社会の生産と消費の要だからである。そしてリベラル思想によって決定的に大衆社会が本格化したのも、彼らの動向が現代資本主義体制の浮沈を左右するからである。)

この低能の群れが持つ最大の問題点は、同じ紋切り型の主張の永久反復性が、彼らの群れとしての求心力/結集力となり、進歩/発展というものを否定することである。
ちなみにこの“同じ紋切り型の主張”とは、彼らが動物そのもの(感情的意思決定者)であり、人間らしさ(理知的意思決定能力)を涵養しないことから生じているもので、このためにこの連中が最期に行き着くところは『キチガイ/鬼畜』のようなものである。
(つづく)
4市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/10/22(日)21:15:38 ID:???
2 of 3 (つづき)

例えば大衆の群れとは、如何なる合理的な機序を持つ人工的システムであっても感情/気分がもたらす理不尽さ(都合が悪いことは見なかったことにする
/単純に理解できることだけが全てであると擬制する/怠惰/責任転嫁/匿名性と口舌のみをもってする上位者批判など。)によって、それを無効にしてしまうブラックホールのようなものである。

これは例えば戦前期には田舎の農家を出て、都市のサラリーマンになるだけでも立派な「独立」であったが、大衆とは、資本主義体制には付き物の、現実の荒波に向かっていくような闘争・独立精神を忌避するメンタリティを未だに持ち続けているために、
戦後は経済大国国民としての恩恵のみを一方的に受け続け、資本主義戦争に勝ち抜くために不可欠の、生きた経験・実証主義知、創造力をもってする闘争/凡庸さや不正に対する闘争/駆け引き/騙し合いなどを戦い抜く能力を涵養できていない、
呑気/のんびりとした朴訥な人情が全てのような甘ったれた生き様、その生き様をいつまでも続けること、すなわち進歩/発展しないことのリスクを知らない低能な人生が人格化しているような者たちだ。
そして彼らが信奉するところの道理は曲がっているが(この曲がった道理がもたらす利得が彼らの糧である。)、感情/気分だけは何となく暖かいような心地好いような行動を専らに為すことで、周囲を自分たちの陣営に引き込んでいくのであり、
中途半端なエリート程度では、彼らとの係わりの中で理を見失い、ほだされて、長期・マクロ的には闘争心/善悪観を抜かれ骨抜きにされて衰退していく(※注)。
いわゆる“茹で蛙”にされてしまうのである。例えば立憲民主党系の反体制運動の連中などは本質的には、皆、この手のロクでもないカス/低能者なのであり、彼らはあらゆる進歩/発展を阻害するように振舞う。
(※注 例えば、「なぁ、兄さん。堅苦しい理屈は抜きにして、みんなお互い様で助け合っていきましょうや。」的なノリで酒を注がれたり面倒見を良くされたりして生起するところの、
ほのぼの感などのせいで、闘士的な生き方に付き物の孤独感を生まれて初めて癒されて一気に人生観が変わるなどして、仲間意識に目覚めるわけだ。
(つづく)
5市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/10/22(日)21:19:51 ID:???
3 of 3 (つづき)

そもそもいざという時には討ち死にする覚悟を心の底に秘めていないのならば、始めから進歩・発展(現状打破)的な生き方などすべきではない。闘士の人生とは己が信ずるところの合理性に向かって、身体が自ずと突き進んでいくようなものであろう。
そういう人格的素質を欠片も涵養できないのならば一生涯、社会の澱んだ底辺に甘んじているべきだ。)

このような進歩や発展に抗するものとしてのブラックホールの如き低能者が人間界の圧倒的多数派であることは何も現代に始まったことではない。このことは人類誕生以来、一貫している。
しかしそれでも尚、これまでの人類主流はニューギニアの土人のように進歩/発展を否定し続けるような状況に甘んじてはこなかった。そして今後の人類においては、このようなブラックホール/低脳者の群れと如何に関わり向き合っていくのかを真剣に検討する段階に入っていく。
何故なら市民層 概論 第六回で述べたように、人類は過去500年間にわたって「自然/ありのまま」であることを至上としヒューマニズム万能主義をもってして、その理念の具体的なカタチとしての民主主義体制を構築してきたからであり、
この方向性においては人類は、このブラックホール/低脳者の群れを適切に管理する術を持つことなく、更なる進歩/発展を続けることは最早、不可能であるからだ。
この先の「市民層 概論」においては、この問いに対する答えが、自然科学(社会人類学)的判然性を伴って明かされていくこととなる。
(おわり)
6名無しさん@おーぷん :2017/10/28(土)12:22:51 ID:???
分かりやすく簡略化を頼む
7市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/10/28(土)13:59:58 ID:???
さっそく読んでくれて有難う。さて「分かりやすく簡略化を頼む」ということだが、これについてお答えする。

まずオレの文章は固い言葉こそ多いが、文意/文脈自体においては読者が誤認してしまわないように丁寧に説明するように心がけている。この点については一般的学術論文と比べても格別な配慮がされていると自負している。
あと用語そのものの意味が分からない場合(例えば「演繹的思考/帰納的思考」とか)は、過去レスを読んでもらうしかない。論文中の独自用語は全て公開済みのレスで説明されているから。
もし忙しくて既出レスを全部読めない場合は、個別に質問してくれれば、何番のレスに書いてあるかを教えるよ。
んで、これを踏まえた上で次のように言わせてもらう。

一度や二度の読破/読了で内容を解ろうとしはいけない。何故ならそのようなレベルでは、単に理論の字面だけを演繹的思考で認識し、"分かったような気になっている"だけにすぎず、
実感として、すなわち処世にこれを生かせるような帰納的思考レベルでの"分かっている"状態とは程遠いからである。
例えば人間の認識とは数次の階層構造を持ち、それぞれの長期記憶がどの階層に属しているかに応じて、顕在意識からの検索/参照のされ方が異なることは、最早疑いようがなく、
深層意識と呼ばれる最も基盤的な部分に近い処にまで認識を(度重なる帰納的思考を経ることによって)沈下できていないレベルでは、知識はそれほど役に立ってはくれない。
すなわち何故、キリスト教徒は何処へ行くにも小型バイブルを携行するのか?
それは今この時の生の感情/経験に照らした上で、折に触れてイエスの教えを参照し続けるのでなければ、それは受験勉強のベタ暗記の如くであり、何も理解していないのと同じだからだ。

というわけで以上を踏まえて頑張ってもらって、それでも理解できない処があれば、「●●●の部分が何言ってるか分からない。」とかみたいに具体的箇所を示して質問してくれ。
オレの印象的には多分、まだオレの論文の反復読み込みが足りないのではないかという気がする。時間があれば過去レスを古いものから順に精読してみてくれ。
8市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/10/29(日)17:07:02 ID:???
1 of 13

「市民層  概論」 第七回

「二つのムーブメントの果てに ④ スキゾ・クラスター」

では一体、巨大な意識革命とは、いやそもそも民主主義とは人類にとって進歩なのか?それとも退化/破滅へ続く一本道なのか?この問いに、当論としてのハッキリした答えが出せるのは、当論の終盤になってからである。
今回は前回とは正逆に、ミクロの視点から辿り始めてマクロに到達するような論理展開となる。まず福祉国家型民主社会において顕著となったある人的気質・行動について論じる。そしてそれらがもたらした文化について論ずる。

人間は生後2年ほど経過すると、自分は自分だけの主観を持った独自の存在であるという認知的世界をほぼ確立し、以降は生きている限り、この「自立した主観」の中であらゆる精神活動を為していく。
この後、“自我”が確立すると、無闇に不安になることなく、他者との「同調」や「すれ違い」といった対人関係上の社会的な認識を自然に捉えられるようになり、自分と他者の情動が一致すれば、「心が活き活きとなって、やる気が出たりする」ことを認識するようになる。
更に5歳頃までには、「感情と理性が相互干渉する人間固有の精神活動」の基礎が確立し、かなりの量の経験記憶、並びに行為(思考/行動)記憶に基づくアルゴリズム系の方法論・行動原理的テンプレート記憶が形成され始め、
これらは小脳(※注)において固定化された脳神経回路として生涯にわたって保存されることになる。
(※注 小脳は脳器官の中では最も複雑な器質的構造を持ち、アルゴリズム系の方法論・行動原理等に関する生涯記憶の保管庫である。
尚、小脳は以前は、精密身体運動・身体平衡感覚等のみの管理中枢だとして軽く見下されていたが、実は身体運動のみならず思考・判断行為を含めた認知活動全般に必要な
基礎的アルゴリズム系記憶の保管、すなわち身体運動/脳内認知活動(行動様式/思考様式/気質/性格等)の樹立に必要な、幼少・児童期までに書き込みが完了するところの
あらゆるROM的アルゴリズム系記憶の生涯的保管・管理中枢(随時的書き込み(短期記憶)が可能なRAM的な大脳皮質とは異なる機能を分担していることになる。)であることが、近年ようやく明らかになってきた。)
(つづく)
9市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/10/29(日)17:08:02 ID:???
2 of 13 (つづき)

ゆえにこの時期に重要なことは、事物が己の思い通りにならない失敗等の経験を契機として、モデル的認知法(第五回 参照)に則った抽象化された思考を為す、
すなわち複数の単称経験命題から一般原則を抽出するための「帰納的思考様式のための基礎的思考アルゴリズム」を確立し、もって日常的な経験的世界から様々な発見・創造的認識を導出するための能力を涵養することである。
人はこのようにして経験を契機として得られるところの様々な抽象的認知・認識を積み上げることで人生行路において真に有益な『主体的認知体系(※注1)』を形成していくのだが、
実はこれが適切に為されるためには、『主体的達成意欲(※注2)』が既に物心が付いた時点で当該者に必要十分に備わっていることが、前提的要件である。
(※注1 認知行為の積み上げの結果としての事物の思考/判断のための諸記憶が体系化されたもの。)
(※注2 「自分が自分の人生の当事者であり、かつまた責任者でもある。」という自立的な観念がもたらすもの。これは次回に詳説することとなるが、大半の者はこれがきちんと確立されていない。
ちなみに小学校で良く「将来、自分が何に成りたいか?」を教師が生徒に発表させたりするが、このような質問に返答できたからといって、当該者が健全な主体的達成意欲を持つとは限らない。
それは単に教師の指示/命令に対して適当に当たり障りなく答えようとする、言わば自己保身的意識がもたらしているだけの可能性の方が高い。ちなみにこのような取り繕い能力は、
社会性動物としての人間が誰もが持っているところの擬態能力であり、実は真の主体的達成意欲を持つ者、例えば5歳時に堂々の初ライブ& TVデビューを果たした人格的早熟の天才ハードロッカー山岸竜之介のような者は、極めて少ないのである。)

普通の養育者(母親など)は、幼児に対し過保護にして可愛がり過ぎたり、泣けばすぐ飛んでいってあやしたりして、「ダメなものはダメ、悪いのはアナタ」などとはっきりと非難したり、禁止/抑圧等の処罰的作為を伴う教唆、すなわち「躾」を必要十分に為して主体的達成意欲の発達を促さない。
(つづく)
10市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/10/29(日)17:08:48 ID:???
3 of 13 (つづき)

こうした場合、概ね自己中心的な思考アルゴリズム、すなわち自分の思い通りに他者が動かなかったなどの場合に短絡的に他者に非があると思うような、
『無思考・無忍耐・無努力・他罰的傾向』、すなわち極めて他者依存的で自らの側で状況を操作しようとする意思を持たない傾向が気質・人格化してしまう。
そして無思考・無忍耐・無努力・他罰的傾向に慣れてしまうと、(3歳以降の)自分自身を擬制的に他者の視点から見たり、事象や自己認識を自分中心の世界から離れて客観視する力(客観視能力)、
また例えば「お母さんが怒っている」という認識を元にして、更に「では”お母さん”なるものは、そもそも僕/わたしにとって何なのか?」などという抽象モデル的認知のための基礎となる『メタ認知能力(※注)』の発達が不十分になる。人類の大半はこのような者である。
(※注 健全な躾としての非難/禁止/抑圧/処罰的放置等の経験を通じて、「自分が悪い/自分は何もできない/自分には・・が足りない」などという『自己批判的観念』を持つことを契機として、
まずは人間は、自分自身の固有の属性とか自分が置かれている環境、そして最も肝心な認識としての、己の人生とは主として何によって強いられ、あるいは規定されているのか、などといった己の存在拘束性を客観視(メタ認知)する。

ちなみに"メタ認知"とは一般的には1970年代にブラウン/フラベルによって発見された概念だと見做されているが、実はこれはカントが提示した「コペルニクス的転回」において顕現する「二律背反」の解消法としての「カント的弁証法」がヘーゲルに至り、
有名な“否定の否定”、すなわち現象の認識が「止揚」されてまた自己の認識として戻ってくる観念運動であるところの「ヘーゲル的弁証法(「正」→「反」→「合」)」の中の最初の否定である「反」過程そのものである。
(つづく)
11市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/10/29(日)17:09:38 ID:???
4 of 13 (つづき)

すなわち「精神現象学」(1807)序論において、「真理とは自己自身が生成することであり、自らの終りを自らの目的として前提し(オレ注 ;「自らの終わり」とは、知覚/感覚などの最初の主観的かつ一次的認識であるところの、
一般的には「正」と言われる元認識を(ヘーゲル的表現では)“否定”することであり、その上で「(それを)自らの目的として前提する」とは、否定後に元認識をより包括・俯瞰的に再認識することであり、これすなわち対象化し客観視に成功することであり、
これが「メタ認知」に相当する。一般的には「反」と言う。)、始まりとし、それが実現され終りに達した時に初めて現実であるような円環である。(オレ注 ;「反」認識を再出発点として更に(ヘーゲル的表現では)“二度目の否定”であるところの帰納的思考により“止揚”される、
すなわち元認識に客観視点の付加が施された上で思考されて真理となり、その真理をもってしてまた主観的認識とする(戻る)こと。一般的には「合」と言う。)」(樫山欽四郎訳)などと説明されている。)

人は主体的達成意欲/自己批判的観念を発達させ、自分の存在拘束性の客観視(メタ認知)ができるようにまでなると、帰納的思考を極めて論理的に展開できるようになる。
例えば自分の利得を追求すべきか、それとも他者に与えたり譲ったりすべきかとか、自分の未熟さに起因するのか、それとも他者のそれに起因するのか、あるいは他者に感謝すべきこと、逆に感謝などに値しないことなどなどといった、
非常にデリケートかつ高度な社会性認知に関わる問題への解答/判別等、すなわち豊かな実りある人生に必要な無数の判断を将来、経験・実証主義的に為せるようになる可能性が拓ける(※注)。
こうして帰納的思考能力、主体的達成意欲、(養育者による)適切な躾、自己批判的観念、メタ認知能力等からスタートする合理的な主体的認知体系の涵養の際に必要となる諸能力を、今後は『メタ認知系諸能力』と総称する。
(※注 このような人格的基盤を形成できた者が当論的な『優秀者』である。尚、優秀者や凡庸者の定義については当論では、この先随時、掘り下げて提示していくことになる。
(つづく)
12市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/10/29(日)17:12:22 ID:???
5 of 13 (つづき)

ちなみに人は、イデオロギー(非合理的観念)を人生初期に刷り込まれるのが普通なので、優秀者となるためにはまずは第一段階として、
青春期に養育者から心理的に自立し、このようなイデオロギー性観念に対してメタ認知による合理的な批判/評価ができるようになる必要がある。詳しくは次々回(第九回)において述べる。)

メタ認知系諸能力とは、言うなれば自己認識の世界において自分自身を含めた全事物を全世界の中の一箇の対象物に引き下げることによって、合理的判断ができるようになるための主体的認知体系を形成するための前提的能力であり、
(高度かつ複雑な社会の中で生き抜かなければならない動物である人間としての)理性的判断能力の基盤となるものである。人はこれを保持することで、(若干の例を挙げるならば)以下のような認識等を回避できるようになる。
滅多やたらに他者を攻撃したり、またその逆に攻撃されたり恨まれる、またあるいは全く他力/外力/環境のおかげで達成できたようなことについて自力で成したと自惚れる、
また客観的には恐ろしく未熟であるにも拘らず、"当人比"的には以前より頑張っているために自分は凄いと思う、更には既に先覚的グループが体現している観念を後追い追認しているにすぎないのに(自分の後ろには未だ大量の未覚醒グループが居るために)、
あたかも己が人類の未来を背負う"救世主"にでもならなければならないかのような気になる(ゲーテ/トルストイなどが典型例。)など。

しかし不運にもメタ認知系諸能力を十分に涵養できずに成長することを余儀なくされた場合、人は様々な問題人格を形成することになる。
例えば極度に自分の感情/欲求のみに意識が集中し、外部世界で生起していることに全く興味/関心を持たなくなる自閉症系人格、
あるいは無思考・無忍耐・無努力・他罰的傾向の有効的維持のために他者や社会に対して「己の全てを見せたい/理解させたい」と思うような傾向が亢進する場合もある。
ここでは特に後者のケースについて掘り下げて考察していくことにする。
(つづく)
 
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13市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/10/29(日)17:13:14 ID:???
6 of 13 (つづき)

『(メタ認知系諸能力の未熟さに起因して)内面の深み/心の幅/視野の拡がり(有り体に言えば「器の大きさ/度量」)というものがなく、
人が為す真の労苦や努力というものは、往々にしてそれを「開陳して他者に見せたり分からせることなどできない」ことに納得できない。すなわちキリスト教的訓戒であるところの「良いことは誰も見ていない時にしなさい。」的行動ができない。
自分が支払った努力は全て他者に評価され、報われなければ我慢できない。言わば人格の練磨/人としての「度量」や「器」の成長が十分でないわけで、見掛けにこだわるいかにも薄っぺらい人間にしかなれない。
そして更に無思考・無忍耐・無努力・他罰的傾向が亢(こう)じて、(真に立派な人間というものは、そうそう目に見えて立派に見えるわけではないので)己以外のもの全てを見下げたり世間や人生というものを舐めたような、
「誤った自尊心」を持つにまで至った場合において、自己顕示/批判/(その深層意識において他者/世界を処罰するための)賞賛や同調」的パフォーマンスだけを処世術の全てとする。』

このような人格的属性を持つ、言わば“ワガママ/身勝手/薄っぺらな心の小さな専制君主”は、オルテガの「大衆の反逆」(1930)などからも推測できるように、20世紀初頭頃には社会層として認識できるほどの数に達していたと思われる。
しかもこの"パフォーマンス人間"は、近代資本主義社会の開幕と共に急発達を遂げた各種メディア(書籍/映画など)を通じた"レディメード(既製品)の如き人生"のための「ロール・モデル/ライフ・スタイル」を体現し、
これをもってして商人の金儲け便益に強力に与するという、モダニズム期の"生きた商品"として仕立て上げられていった。
そして更に第二次大戦終結後は、アメリカでは「ベビー・ブーマー」、我が国では「団塊の世代」と呼ばれる戦後生まれの福祉国家型民主社会の(後の回において詳説するところの「戦後リベラル思想」に基づく)絶頂期に生を受けた世代において、
時代を主導する人間類型としてその支配的地位を確立するまでになる。すなわち彼らの内の少なからぬ者たちは、
(つづく)
 
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14市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/10/29(日)17:13:54 ID:???
7 of 13 (つづき)

『集団/時勢の威を借りて滅多やたらに増長する、あるいはのべつ幕なしに自己主張する/事物が自分の思い通りでないと癇癪を起こして発狂する/世間や他者からチヤホヤ・取り沙汰されることを至上目的とする(※注)。』
(※注 例えばビートルズにおいて見られるように、彼ら自身は東洋文化へ傾倒(マハリシとの関わり)したりする中でイッパシに"己"に向き合っているつもりなのだが、
その余りにも薄っぺらく、遊び半分なカルト的態度は、正に“パフォーマンス人間”という彼らの本性を、嫌が上でも浮かび上がらせている。)

のであり、このような気質属性を持つ人々が中心的に担うショー・ビジネス界(映画・演劇/音楽興行/各種のレヴューやショーなど。)は、人類史上、
かつて比すべきもののない空前の大繁栄を極め、また折々の名もない一般市民らによるデモ行進/キャンペーン等は、最早、戦後リベラル社会以降の風物詩とまでなる。
この"現代社会の皮相性"、すなわち何かを派手に演じて見せることが“能力/実力”の表れだと擬制される、あるいはそのことによってのみあらゆる問題解決ができると思い込むところの、
人格/主義/生き方の空虚さを体現していると見做せるような人々を、当論では『パフォーマンス至上主義型人間』と呼ぶことにする。

ちなみに第二次大戦後の戦後リベラル思想期には、人類誕生以来の衣食住の不安定さをついに基本的に解消し、さらには各種予防接種の普及/抗生物質の多様化等による医療革命によって人間が頻繁に死ななくなったことにより、
人間文明はついに『暇つぶし文明期(※注1)』の段階に突入するわけだが、このことがかえって仇となり、従前であれば子供/青年が普通に遭遇する”生死の境/人生の重大転機”的局面(例えば伝染病に罹患して重体となる/
空襲とか戦場において九死に一生を得る/農作物の不作で貧農が「娘売」をするなど。)において難なく学習しえたところの、「人間本性/本音と建前/人間感情の多層性(※注2)」にまつわる経験・実証主義知が急激に得難くなり、
その結果、20世紀後半以降の人類の、「嘘/ペテン/偽善/見せかけ/思わせぶりなどを見抜く処世能力」が劇的に退化し、パフォーマンス至上主義型人間にとって極めて有利な生存環境/時代的存在拘束性が形成されたのである。
(つづく)
15市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/10/29(日)17:14:58 ID:???
8 of 13 (つづき)

(※注1 この段階において人間社会は人類史上初めて、七十、八十のジジイ/ババアになるまで思いっきり生きさばらえることの幸せを意識するようになった
(すなわち庶民層は戦場の一兵士として国家のために英雄死することを”至高の最期”だと思わなくなったということである。)と同時に、明らかに能天気で遊び半分のような気分を集合意識レベルで注入されたのであり、
1950年代以降は、ショービジネス/レジャー産業に代表されるところの娯楽・享楽系能力、すなわち"暇つぶし能力"に長けた者が天下を取る傾向が完全に定着するところの「暇つぶし文明期」に人類の文明段階はシフトした。)
(※注2 人の意識が日常において認識している通常の感情は、実は当人が普段は意識できない無意識層の異なる感情の上に(自我の防衛機制などの作用により変形させられて)顕現しているのであり、
その無意識感情は更にもっと下層の動物本能の上に存在しているという、フロイトが創始した精神分析学が端緒となり明らかにされてきたところの人間感情・意識の階層性。)

メタ認知系諸能力のような「(処世についての)基本的な頭の使い方」の成長は、遅くとも10代前半までには終了する。10代後半の思春期以降は、
もうこうした処世能力の基礎的な部分を鍛錬できるような状況はなくなり、日々の生活の全てが、それまでに培ったメタ認知系諸能力を用いた実践段階に移行する。
ところが従前であれば、メタ認知系諸能力不全者/社会適応不適格者として主流社会から厳しく行動の自由を制限されたり、隔離/排除(すなわち地位や権利を与えないようにすること)されるはずのパフォーマンス至上主義型人間たちに対し、
戦後リベラル社会は破格とも言えるほどに甘く有利なエートスを形成し、人々は彼らの事物の外観しか認識しないような「他罰的パフォーマンス」を社会全体で認容してやり、彼らをまるで"民主社会の華/メインプレイヤー"でもあるかのように誉めそやしたのである(※注1)。
その結果、パフォーマンス至上主義型人間の(口先だけ/自らの主張することを率先して実践する気などサラサラない)アピールを間に受けて、本気で努力したり奉仕する者がことごとくバカを見る/ババを引くところの「騙し合い・インチキ社会(※注2)」が顕現し、
(つづく)
16市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/10/29(日)17:15:35 ID:???
9 of 13 (つづき)

具体的には前回述べたような伝統的な価値観/誠実さ/努力性を持つ人々の生活にとって破壊的な作用を及ぼしたところの、巨大な意識革命(第五回 参照)を引き起こした。
(※注1 例えば「TIME」誌は、1966年のマン・オブ・ザ・イアーの第40位に「25歳以下の世代」(すなわちベビーブーマー世代)を選んだ。)
(※注2 三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊での傷害・割腹自殺事件(1970/11)に至るのもこれが原因である。
例えば同年4月の彼の講演では、「今、非常な情報化社会でありながら精神というものはテレビに映らない。そしてテレビに映るのはノボリやプラカードや人の顔です。
それからステートメントです。そして人間は皆ステートメントやることによって何かをしたような気持ちになっているんです。
(中略)今テレビに映っているものは、どんなものが出てこようが結局、情報化社会の中で溶かし込まれて、また忘れられ笑われ、そして人間の精神体系に何物も加えないままで消えていくんじゃないか。(中略)唯モノを言い知識を磨き、
そしてどっかの洋書から引いてきたこととか、どっか外国旅行してきたことを皆さんにお伝えし、そしてまた明くる日、違うことを良いと言うことには、私は死んでもなりたくない。
それで自分の知っていることは小さなことですが、知っていることだけ行(おこな)ってみる。行ってみた結果、失敗するかも知れません。(しかし)そういうところで皆さんにつながる。アイツはやってみて失敗した。
しかしアイツは唯、口で言っただけではなかった、(そういうものに自分は成りたい)ということしかないですね。」と語っている。
その上でオレ的には、三島自身もまたパフォーマンス至上主義型人間であり、彼があのように思いつめてしまったのも、心理的には前年の東大全共闘安田講堂占拠事件などに象徴されるところの、
余りにも身勝手/自己中心的な浅薄なパフォーマンスが横行/氾濫する時代から耐え難いほど身につまされるようなダメージを受けたことが、(後述する)レフ・トルストイなどと同様の多分に自己処罰的人格傾向に作用したためだと考えている。)

ではここから先は歴史の話を絡めていくことにしよう。まず今回の残余部分では、こうした未成熟・問題性を多分に持つ、近代以降の物質文明の極致的本質が、卑近な文化現象として凝縮・矮小化された現象群にまつわる問題を論じる。
(つづく)
17市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/10/29(日)17:16:14 ID:???
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1960年代以前までの民主社会では、「主流社会・文化(体制のメインプレーヤーが参加し、社会の代表/中心となる社会領域)」というものの存在を抜きにした小社会/サブカルチャーというものは存在しなかった。
すなわちたとえアングラ文化であっても、それは”アンチ主流文化”としての強烈な対抗意識か、あるいは逆にあわよくば主流文化に仲間入りしたいという願望のどちらか一つ、
もしくは両方を常に持っていて、いずれにしても主流社会・文化は人間界のセンター/ハブとして、あらゆる人々の意識の中で常に“太陽”の如き中心としての存在感を持っていた。
例えばヒッピーカルチャーは、自らの存在を全世界に認知させたい、もしくは全世界を自らに取り込みたいとする強力な主流社会志向を持っていた(全てのヒッピーがそうではないが、全体としてはマス・メディアの話題になることを大いに楽しんでいた)。

ところが巨大な意識革命の担い手として表舞台に登場したベビーブーマー世代の中から、主流社会・文化へ向かう上昇・出世意識を、
生活・活動維持に必要な部分以外では基本的には断ち切ることが痛みになるどころか、むしろそのようなマインドセットが心地良さを生んでいるような人々が現れてきた。
すなわち巨大な意識革命が始まり、人々がありとあらゆる好き勝手な方向に分散し始め、非常に身近に居る無名の他者たちとコアな小社会を形成することの面白さ/楽しさを肯定するエートスができ始めると、
メタ認知系諸能力が貧弱なことがむしろ幸し、この小社会内で自己全能観的世界観に難なく没入し切れるような人々は、一般社会との関係が薄いことを苦にせず、このことを積極的に楽しんだり利用するようになったのである。
このような人々は、(主流社会を意識することで)自己の表現欲求が阻まれるような心理的障壁を最早、心の中に持たないから、結果的にまるで
「“精神病院”にでも居るかのごとき奇妙奇天烈な矮小文化/小社会」を創り出すこととなり、いわゆる"ポストモダン"らしさを魁(さきがけ)ることとなった。
(つづく)
18市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/10/29(日)17:16:50 ID:???
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では主として1970-80年代に集中的に誕生した、こうした『キチガイ的矮小文化』の実例を、若年層文化の中心である「音楽文化」からいくつか列挙してみよう。
するとパンクシーン(セックス・ピストルズなど)、ボブ・マーリィーを伝道師としたラスタやニューエイジなどのカルト系ムーブメント、野外コンサートシーン(ありとあらゆる違法薬物の氾濫、火災、爆発、傷害致死などの事故、
素っ裸や泥まみれのバカ騒ぎの横行など)やイギリスなどのインディーズシーン、レイヴ・クラブシーンなどが挙げられる。
また我が国の場合では、ハードコアパンクシーン(「非常階段」/「スターリン」など)、それに続いたインディーズシーン(「有頂天」など)などが、この類として挙げられる。
そして更には音楽系ミックスとして、
1970年代末以降に、アニメシーン(「マジンガーZ」「宇宙戦艦ヤマト」を契機とする「機動戦士ガンダム」以降)と、少女系アイドルシーン(「ソフトクリーム」(「スキよ!ダイスキ君」など)/「おニャン子クラブ」などを契機とする)
が合体して誕生した「オタク文化」が、何といっても異彩を放っており、低年齢退行性というキチガイ性を体現したところの、正に"(西洋のキチガイに対する)東横綱"と呼ぶに相応しい。
この「オタク」という日本が生んだ特異な存在は、通り一遍の認識で済ますには余りにも大きすぎるものなので、以下に詳説する。

戦後日本とは、戦前日本とは桁違いの物質・経済的繁栄を享受した社会であり、日に三度の白米を食するために歯を食いしばって働く経験をするならば、誰しも修得するような、
人間の真実/社会の虚実/心の裏表/相手の言動からその心理を洞察する能力等々は、最早、戦後育ちの子供たちには修得する機会が与えられていない。
だから彼らはリアリズムに暗く、学校教育/凡庸知識人等の“絵に描いた餅”のような建前論を真に受けてしまうのであり、人間性というものに対して徹底的に戯画化されたイメージしか持たないままに成長していく。
そして終いにはその内の一部の子供たちが、戯画的イメージを真実の前に打ち砕かれないようにするために、(現実に身を投じて闘うのではなく)
例えば生身の女性等を直視しないように自ら進んで通常の社会生活(結婚/会社勤めなど)から身を引く、
(つづく)
19市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/10/29(日)17:17:31 ID:???
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あるいはあらゆる社会問題/善悪・倫理観等から距離を置くことで己の頭の中の戯画的世界に住み続けようとするようになった。

1970年代以降の日本において顕出してきた、こうしたオタクとは、独特の様式で誇張されたイメージ・空想をもってして、どこまでも人間・社会性の中の自分が見たい側面だけを見て生きようとする点で、
キチガイ的矮小文化の共通ドグマであるところの「己にとって都合の良いことだけを考えたい」という心性を、全面的に顕現させている。
すなわち彼らは、言わば社会集団の一員としての当然の責務であるところのものを放棄した上で「マトモな勤労意欲を持つ多数者に依存する」という「自己中心性の権化」である。
オタクにとって何よりも重要なものは、白昼夢的世界に住むことから生じる、アル中などと同質の病的な幸福・陶酔感なのであり、それらを死守するために備わってくる特異な現実逃避性こそは、オタクなるものの真骨頂なのである。

しかして彼らの精神病質的ナイーヴさは、むしろ暇つぶし文化期においては極めて面白い幼児性という"個性"を得ることで、逆に近年においては既存の主流文化に影響を与えるほどの"出世"を果たした。
例えばAKB48を取り巻く世界のような、従来のショービジネス手法と“化学反応”を起こしたような異次元ビジネス手法が飛び出したりするまでになったのである。
あるいはまた戦後日本人的な極度の没主体性・没個性的属性が大集団化を容易にさせ、「コミケ」のように一開催で延60万人を動員する巨大イベント(ちなみに1969年のウッドストックが延40万人。)が当たり前のように実現し、
その空間の中だけで擬制的な主体性/個性を発揮できるようになるなど、オタク文化界隈は大人気/大賑わいとなったために、21世紀の今も尚、彼らに"雑草(※注)"のような生命力を付与し続けている。
(※注 一人一人のオタクは、正に雑草のごとくにショボく孤独な人生を、世間から踏みつけにされつつも、同類の数の多さと独自の"夢の世界"を心の支えとして生きているのであり、その光景はあたかも地面を覆い尽くして這いつくばるアリの大群のようである。
ま、しかし経済的には堂々の5,000億円の市場規模に達してGDPにも貢献しているわけで、ビジネス対象としてマクロ的に見た場合には中々のものではある。
(つづく)
20市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/10/29(日)17:18:11 ID:???
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ちなみに何故、このオタクなるものが我が国においてのみ発生/隆盛したのかという理由は、この先ゆくゆく分ってくる。)

さてともかくこうしたキチガイ的矮小文化集団に属する一般的な構成員(凡庸者)において以下のような特徴が顕著に現れる。

① (パフォーマンス至上主義型人間らしい外観へのこだわり傾向/(感情・気分的にハイになるための自己全能観に由来するところの)地道な努力や人間修養などの完全否定。
② ①の結果として、極度の自己中心性が“人生が思い通りにいかないことの原因は全て外部に有る/気に食わないものは全て処罰せよ。”という他罰的ドグマを醸成し、
主流社会的価値観に対する大胆な侮蔑的デモンストレーションなどを、まるで“祝祭”のような高揚感をもって為す。

すなわちこれら矮小文化/小社会のキチガイ的な存在拘束性の中で、内輪だけでしか理解されない、通常人には信じ難い異様な作法や内向的な盛り上がり、異なる価値観を持つ者/他社会からの「絶望的孤立・分離」状況が顕現してくる。
その上で彼らの常套句は往々にして「別に誰に迷惑かけてるわけでもない」「自分の人生、どう生きようが自分の勝手」などである。

当論においては、1970年代以降に登場したこうした異常気質性を伴う孤立・分離志向型の矮小文化/小社会を、ドゥルーズ = ガタリがヒッピーカルチャーの様相からアイディアを得たと思われる
「アンチ・オイディプス」(1972)で用いられた用語「スキゾフレニー」にちなんで『スキゾ・クラスター(※注)』と呼ぶことにする。
(※注 ドゥルーズ = ガタリは「スキゾフレニー」という用語を、字義通りの精神病(「考えを取られる/考えを吹き込まれる/操られている/自分と他人の区別ができない」などの異常感覚を持つところの統合失調症)としてではなく、
比喩として「近代以降の国家の主要属性であるところの一元(偏執狂/パラノイア)的管理体制のお仕着せの型に順応・適応的な生き方をしない」「人間本来の欲望のおもむくままに、塊(群れ)から分裂(スキゾフレニア)する/逃走する」という意味合いで用いている。)
(「二つのムーブメントの果てに ④ スキゾ・クラスター」 おわり)
21市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/03(金)22:51:29 ID:???
以下のように4.レスを訂正します

(都市のサラリーマンになるだけでも立派な)
「独立」であったが、大衆とは

       ↓

「独立」であると見なされたものだが、所詮は大衆とは
22市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/09(木)19:36:13 ID:???
概論第七回2(9.レス)で、「主体的達成意欲」について次回に詳説すると予告したが、これは取り消す。
23市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/11(土)21:33:07 ID:???
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「市民層  概論」 第八回

「二つのムーブメントの果てに ⑤ パーティ会場の法則」

ところで民主社会のエートスについて決定的な影響力をもっているのは圧倒的多数の『凡庸者』(一連のコメントレスでの「普通の人/低能者」は今後は、「凡庸者」と統一表記する。「普通でない人/有能者」は『優秀者』と統一表記する。)である(※注)。
(※注 「凡庸者/優秀者」という概念こそは、当論全体の包括的テーマ・中心軸であり、その定義は当論の進行とともに今後もどんどん詳密・深化していく。尚旧2ちゃんコメレスにおいても再三注意を促してきたように、
当論における凡庸者とは、「庶民/大衆」という概念とは全く無関係であり、指導者・特権者階層/大衆層のいずれにおいても圧倒的多数派として存在している。)

凡庸者のエートスへの影響力の伝播メカニズムの内で、極めて不可抗的な部分の機序は次のようなものである。

『あるパーティ会場でマナーを知らない凡庸者グループが大声で話し始めたとする。するとそのすぐ近くの凡庸者グループも、同じパーティに参加しているという心理的な親和性や気安さなどから、互いに同調するようにして大声になっていく。
そうなると会場全体が騒々しくなり最早、小声では会話が全く聞き取れなくなるから、主体性を持ち、節度の効用とマナーをわきまえた優秀者を含む人々のグループさえも、ついには大声で話さざるを得なくなる。』

ちなみに社会心理学で「カメレオン効果」として知られているところの、そもそも人間には、無意識的に顕現する「他者の行動に対する追従性」があるとする知見があるが、
ま、しかしオレ的にはこのような追従性概念単独では無理があり、他の要因(※注)と輻輳する必要があるという考えから、このパーティ会場モデルを考えついた次第である。
(※注 例えば模倣元の人間に対する心理的な親和性/尊敬/共感/気安さなど。)

そして実は「多数者の専制」(過去レスリンク 114. )とは、このパーティ会場での場合のように、或る同一行為に対する多くの凡庸者の追従行動の連鎖が励起されることで、
それがまるでドミノ倒しのようにして社会全体に特定のエートスとして波及してしまった状態だと説明するならば、極めて合理的に納得できるのである。
(つづく)
24市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/11(土)21:36:58 ID:???
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すなわちこのことは民主社会においては、メタ認知系諸能力を駆使したような高度な知的プロセスを全く経ないまま、感情・本能的な条件反射行動のみで、短期間で社会全体の支配的観念をも決定できうることを示すのである。
そこで当論では特に、人間社会、とりわけ民主社会のエートスに対して、このようにそれなりの管理的意思を伴わずして、極めて自然発生的な強制力を発揮し、
最終的には社会構造までも変えてしまう原因となるこの機序のことを、今後は『パーティ会場の法則』と称することにする。

ところでオレはコメントレス(過去レスリンク 116. )にて人間界全体を俯瞰した場合に抽出可能となるような諸原理を当論で随時、提示すると述べたが、
今後はパーティ会場の法則のような、人間社会全般において、明確な人為に拠らずに自然的、かつ普遍性をもって顕現する力動/現象/機序等を『人類学的自然法』
(これ以降は単に『自然法』と記する。)という範疇で括って提示することにする。
ちなみに自然法は人間社会・生活の様々な領域/場面に多数存在するので、今後、当論でオレが発見し紹介していく様々な自然法を、「○○の自然法の●●定理」などと名付けることにする。
そして実は、いくつかの自然法は既に提示されている。まず第三回では以下の自然法が提示された。

『人類は、集合知/帰納的思考様式/弁証法的運動によって継続的に進歩/発展(※注)している。』(『進歩の自然法の第一定理』)
(※注 (人類の)進歩/発展とは、「人類の生命・生活力の増大」だと定義する。)

次に第五回において「豹変現象」が示された。これは上述のパーティ会場の法則がより歴史的に象徴的な事象に関わる場合に現れる苛烈・急進的現象、フーコー的「非連続性」の顕現である。

『時代・エポックを画するような一定の象徴的属性が事象に付与された場合、具体的には或る個人/集団が為した特定の行動とか提示した価値観等に、時代・歴史を画するような何らかの象徴性が顕著に内在する場合において、
同一社会内のほぼ全ての構成員に、瞬時にこれが看取されて承認されることがあり、この場合、人々が極めて短時間(数日~数週間)の内に連鎖的に追従し、社会のエートスが劇的に転換する。』(『観念運動の自然法の第二定理の2(豹変定理)』)
(つづく)
25市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/11(土)21:38:10 ID:???
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そして今ここにおいてパーティ会場の法則が示されたというわけである。

『パーティ会場で凡庸者グループが周囲に同調して大声になっていき、優秀者を含むグループさえも、
この「多数者の条件反射的追従行動の洪水」に抗する術なく大声で話さざるを得なくなってしまう様に、(とりわけ)思想/信条が規制されない民主社会的環境においては、多数派である凡庸者層が、
こうした「ドミノ倒しのような連鎖性」によって、時代のエートス/トレンドを瞬く間に決定する。』(『観念運動の自然法 第二定理(パーティ会場の法則)』)

とどのつまりパーティ会場の法則とは、マルクスの「唯物史観」において、「類的存在」として財の交換社会を構成する個々人の、本来的には主体的意思によって開始されたはずの一連の事象が、国家・社会政策的な範疇に上昇していく際には最早、
各人の意思とか認知能力などによっては把握できない予測困難、かつ抽象・他律的な属性を持つ「共同利害/幻想の共同性」(「ドイツ・イデオロギー」(1846))として顕現するという「疎外(Entfremdung)」状況の中で、最も有意に作用するのである。
そしてもちろんこの疎外状況とは、自然・ありのまま崇拝(第六回 参照)により民主化が推進され、
ついに「擬制的自然界(※注)」と化した近代以降の人間界において最も顕著な特性と成ったものの一つであるというわけである。
(※注 民主体制下においては指導者・特権者階層の地位が固定化されないから、全ての個人は老いるにつれ一様に無力化されていく傾向を持つ。
これは従来、動物界と人間界を分け隔てていたものの枢要な属性の一つ(身分/世襲等がもたらす威厳/威信に依る社会管理術)がほぼ無効化したことを意味し、これをもって人間界は擬制的な自然界となった。)

では戦後世界の中心国であるアメリカ社会が巨大な意識革命以降に、このパーティ会場の法則によって、スキゾ・クラスターの寄せ集めから成る『スキゾ・クラスター社会(キチガイ的矮小文化集団社会)』になるまでの具体的経緯を、サブモデルとして以下に示すことにする。
(つづく)
26市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/11(土)21:38:49 ID:???
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前回述べたようにワガママ/身勝手な小さな専制者であるパフォーマンス至上主義型人間は、その他者依存性 (無責任・他罰性)をとめどなくむき出しにできるものとしてのスキゾ・クラスターという自己保存形態を獲得したわけだが、
このことがついにこれまで長い間、福祉国家型民主社会の支配的観念の下では“日陰の存在”に甘んじざるを得なかったような気質傾向を持つ個人/集団を陽向(ひなた)に這い出させる契機になった。
ちなみに一般的に特定の時代の支配的観念に適応できず、社会の主流から排除された個人/集団というものは、数十年もの長い間、その心に極めて鬱屈した想いを蓄積してきているわけだから、
起死回生の機会が訪れるならば、たちまちにして反社会性をむき出しにして活性化してくる。
当論では、こうした社会そのものに対する積年の怨念を晴らすための手段としての反社会性の担い手となる個人/集団を、特に『魑魅魍魎(ちみもうりょう)』として定義することとする。

まず前述のようにスキゾ・クラスターは、もともとデフォールトで他者を手荒に扱ったり搾取し合うという自己中心的傾向を強烈に持つので、
魑魅魍魎的属性とは非常に相性が良く、魑魅魍魎が表舞台に登場してくる段階においては、スキゾ・クラスター化した魑魅魍魎集団が社会の至る所に登場するという次第になった。
例えばアメリカでは、“インチキ自己啓発セミナー”とか健康食品販売などといった胡散臭い業界(※注)が、巨大な意識革命が始まると同時に急速に目立って形成されてきたのである。
そしてこうした"小さな反社会性の砦"としての魑魅魍魎スキゾ・クラスターが、社会のあちらにもこちらにもに湧き出てくるような段階になると、福祉国家型民主社会の支配的観念に適応した、とりわけ他者に対する思いやり/優しさ/寛容、
もしくはそれらを保持するために自己に対する厳しさ/高い目標設定/高い内省力などを持っている、言わば魑魅魍魎的属性に対する防御/免疫等の対抗力が低い者たちは、"鴨ネギ"の如く魑魅魍魎の餌食にされ始める。
(つづく)
27市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/11(土)21:39:37 ID:???
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ここで主体的認知体系が秀でた者、すなわち「優秀者」(次々回に詳説するが、とりあえずは「帰納的思考様式を使える」という能力的属性が重要。)は、経験/事実に基づいた合理的論理の形成力が優れているから、
「一部の者やグループが際限なく利己的に振る舞うようになれば、やがては大勢の人々が影響を受けて社会全体の健全性が失われていく。」と、この時点で十分に予測できる。
よって、「できることなら、スキゾ・クラスターを制御するなどして社会全体が無茶苦茶にならないように働きかけたい」ものだが、しかし(パーティ会場の法則を発見するならば)、「この動向を食い止める事は、
今の俺たちの力では最早、不可能であり、いつまでも自分一人が博愛精神を持ち続けていたり、自利の積極的獲得に逡巡/躊躇したり自己抑制的に振舞っていたりすれば、やがては
“ケツの毛”までむしられるだけであり、やらなければ、(自分が)やられるのを待つだけである。」こともまた一方では実感を伴って良く理解できる。

このような認識に至り、それでも尚、“聖人/善人”ぶった態度でいられる優秀者は居ない。何故なら全ての人間は自己保存本能に根ざした存在拘束性というものを持つのであるから、
一度限りの人生を、あえて他者の“食いもの”にされることに、いつまでも忍従できるわけがないからだ(※注)。
すなわちパーティ会場の法則の作用により日に日に社会の中で活性化してくる魑魅魍魎的属性によって、健全さが目に見えて滅失していく段階に入ると、優秀者が「もう人々と和みあったり慈しみあったりするようなタイプの幸福が手に入らないのであれば、
社会を救うことよりも、自分も他者から積極的に奪い取ることによって一生懸命生きてきた自分の努力を報わせる/自分だけでも何とか生き残らせるしかない。」と思うようになるのは、この結論に到達するまでの紆余曲折はあるにしても、結局、時間の問題となる。
(つづく)
28市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/11(土)21:40:11 ID:???
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(※注 例えば「一身独立して、一国独立す」で有名な、我が国独特の国家主義的自由主義思想の信奉者である福沢諭吉の思想を見てみよう。
諭吉は西洋の民主社会を支えている建前的理念が国際政治の現実においては全く機能しておらず、アジアに殺到する西洋列強のやり方(帝国主義的侵略)を「正道」に対する「私道/権道」「禽獣の世界」(すなわち魑魅魍魎の世界ということ)だと非難するのだが、
現実問題として、かかる状況に置かれた我が国もまた不本意ながら(パーティ会場の法則によって)「禽獣の一員として行動せざるを得ない」として、諭吉は日本の軍国(禽獣)化を支持する思想を持つに至っている。
このことは、人が一旦、現状の中にパーティ会場の法則的機序を看取するならば、例え相当に知能に秀でた者だとしても、とりあえずは大勢に同調する他には手の打ち様がないことを示している。)

ところで上記の魑魅魍魎集団のみならず、特定の集団が大きな歴史上の転換期に際立った行動を持続的に為すことは、実は良くあることである。
そして一般的に人間界においては、或る社会的力動が持続的に活性化したり弱体化したりすることは、それに対応する『階層の形成と破壊』が伴うことを意味する。
例えば初期資本主義体制期におけるメディチ家(イタリア)/フッガー家(ドイツ)のような政商(都市貴族層)に代表される独占型経済階層を打破したのが、プロテスタントの勃興を契機に発達した近代資本主義的自由貿易階層(中産階層)であり、
それが19世紀後期にはまた、国際金融資本(独占的大企業層)の形成により独占型に盛り返され、更に20世紀中期に入って独占禁止法の全世界的導入によって、また経済的多様性が復活したことなどは、この典型例だ。
また我が国の歴史に目を転じるならば、雑多な民が時代的存在拘束性に基づいて自然的に結集して形成された社会階層が、一定期間の時代の様相を規定するなどということが度々生起する。例えば我が国における最初のこのような事象は、
古代末期から中世全期(織豊期まで)にわたり活動した「僧兵集団」によるものである。
(つづく)
29市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/11(土)21:40:48 ID:???
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「僧兵」とは、有力寺院(古代社会においては“知の殿堂”である。)という高度に権威的な知的バックグラウンドを拠り所としつつ、律令体制が定める社会秩序(公地公民)の回復への望みが完全に絶たれた11世紀頃に、
主として武力行使を伴う示威・脅迫的行動をもってして自分たちの要求に指導者・特権者階層(公家/王家)を従わせようとした「自力救済する市井の人民たち(※注)」である。
彼らは平安時代と鎌倉時代の端境期、すなわち終末思想(「末法の世の到来」を主旨とする。)が蔓延した時代から江戸幕府が開府するまでの、かなりの長期間において、大きな政治的影響力を伴って活動し続けた。
(※注 無頼漢/食い扶持にありつけない貧農/僧尼令が規定する官許に拠らない法師(私人僧侶)などが、仏教寺院が保持する「一切衆生の救済」理念の下で実践された無縁施行/摂待などに集まり、
そのまま寺院の敷地内や門前に住み着き、村落共同体的なコミュニティを形成したのが、その起源である。
彼らはその後、中世全期を通じて高度な分業的専門家集団(例えば武器製造/築城/金融/物流/交易/荘園管理など。)として発展していくことで、
法会(ほうえ)などを取り仕切る学侶を押しのけて実質的に寺院社会内での主導権を握り、僧兵活動を一貫して支援し続けた「生活共同体型軍事集団」となる。)

そして鎌倉・室町期に入ると「名主」として「名田」を持てるほど有力ではないが、一応自立している中間層農民が中心となる自治組織である「惣(そう)」が発達するが、こうした社会基盤的属性を持つ社会階層と上記の寺院コミュニティ(僧兵集団)が母胎となって、
戦国期(15世紀 - )には親鸞信仰を基軸とした、北海道から九州まで全国各地に拡がった浄土真宗門徒「一向衆」が、上層商人から一般農民までを幅広く網羅した上で、合理主義的な思想を持つ社会階層として登場し、指導者・特権者階層とヘゲモニーを賭けて争った。
この「一向一揆」として知られるところの、1世紀以上にも及んだ長期的ムーブメントは、途中約半世紀にわたり北陸(主として加賀国)を実効支配し、そこを拠点に時宜に応じて戦国大名らの加勢も得つつ、
(つづく)
30市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/11(土)21:41:29 ID:???
8 of 11 (つづき)

近畿一円/美濃/尾張/三河といった地域にまで勢力を拡大させるという大躍進をもたらしたのであり、時代転換期的存在拘束性が一時的に育んだ社会階層としては日本史上、最大最強(※注)のものである。
(※注 特に石山本願寺城(後の大阪城の礎)の寺内町などは、自治都市として莫大な富を蓄えて繁栄し、
各地から結集した門徒が警察/防衛の任に就いた。しかしこれは最終的に織田信長の自らの存亡を賭けた攻撃(累計で十数万人に及ぶと見られる大殺戮劇)により、ついに壊滅させられた。)

また更には「東山文化」と呼ばれる町衆を一方の担い手とする市民的文化の開花期には、日明貿易で栄えた豪商などの「高い自尊心」に裏打ちされた市民層が日本各地の港町等に勃興し、とりわけ堺のように市域に水濠を巡らせ市門を設置し、
独自の防衛軍を持つなどといった中世ヨーロッパの自由都市を彷彿とさせるような自治都市が出現した。
しかしこうした自治都市の担い手としての各地の市民層群もまた、間もなく戦国大名らによって直轄されていく運命にあった。

このように我が国では、さながら“善神”と“悪神”の闘いの如く、社会上位層の支配的観念(イデオロギー)に対するアンチ観念を持つ下層民衆が、時代の転換期に満を持して登場しては、階層の形成と破壊を、現代に至るまで幾度となく繰り返してきたのである(※注)。
(※注 例えば大正末から昭和初期に帝大生などのインテリ層を中心に盛り上がった地下共産主義運動とか、
また戦前・戦中期には一言もモノを言えなかった学校教師たちが、GHQ占領下で戦中教育体制が木端微塵にされるや否や、「日教組」という大左翼運動集団を結成し体制(文部省)と真っ向から対決したりとか。)
(つづく)
31市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/11(土)21:42:15 ID:???
9 of 11 (つづき)

というわけでこのような階層の形成と破壊は、時代を画する転換期において一つの社会的力動が成長したり衰退したりする運動の所産と見做せるものなのであり、あらゆる人間社会の歴史の節目において必ず顕現するものであることを踏まえた上で、また元の話に戻ろう。

スキゾ・クラスターが新たな階層を形成し始めたアメリカでは、このこと(すなわち巨大な意識革命の勃発により進行してきた一連のスキゾ・クラスター化事象)が魑魅魍魎集団成長に輻輳したということが、結果的に意味するものは、極めて甚大なものとなった。
すなわち前述のようにパフォーマンス至上主義型人間の人的属性を極端化したようなスキゾ・クラスターの特徴は、基本的に自己完結(全体社会と意思疎通しようとしない見かけ上の孤立)した上での全体社会への実質的な依存性(無責任・他罰性)であった。
そしてこうなると部外の者もまた社会的責任性を放擲したようなスキゾ・クラスターを結成することによってでしか、一連の事象に対抗できないというパーティ会場の法則の機序の下に置かれるために、
優秀者を含む指導者・特権者階層もまたスキゾ・クラスターを組織した上で、人々から積極的に奪い取ることを決意するに至るからである。

ちなみに優秀者というものは一旦、腹が決まれば、凡庸者などは及びもつかないレベルの意志力/周到さ/知力等によって驚異的な「合理性の力(過去レスリンク55.など)」を発現させる。
例えば優秀者のこうした超合理的攻撃に晒された凡庸者は、最終的には通常の社会生活内で受容できる損害や精神的ストレスの限度/閾値を超えて、社会的転落/自殺/精神障害や各種の心因性の疾病等に襲われたりもする(※注)。
(※注 優秀者は、自分が持てる能力を総動員して本気で闘いを挑むならば、抵抗力の弱い相手方(凡庸者)が(場合によっては死に至るような)重度の生活・精神上の打撃を被る場合さえ在り得ることを経験的に知っており、
普段は本気/命懸けで他者を攻撃するということはしない。必ず手を抜いたり手加減したりしている。)

しかしてオイル・ショック/スタグフレーション/ベトナム戦争敗戦/ウォーターゲート事件などといった、次から次へと途切れなく発生する心理/経済両面からの“大激震”の連続の中で、自己保存本能に由来する本気の攻撃性に目覚めた優秀者が、
(つづく)
32市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/11(土)21:42:58 ID:???
10 of 11 (つづき)

魑魅魍魎集団が率いるスキゾ・クラスターを使って、このスキゾ・クラスター同士の熾烈なバトルに、これまでとは次元/桁が異なる影響力をもたらすこととなった。
すなわち優秀者の加勢を得たアメリカの指導者・特権者階層の意思が魑魅魍魎的スキゾ・クラスターに本格的に影響されるようになったことの当然の帰結として、ついに


『(アメリカ社会の)指導者・特権者階層内の個々のスキゾ・クラスターにおいては、人々は完全に自己保身のみに執心し、身内の企業等の便益に有利なドラスティックな税制改革等を政府に迫ることとなった。
この結果、権力にあやかれる者(大企業経営者/高度専門的技能者など)しか安定した生活ができなくなる、すなわち従前まで繁栄を謳歌していた中流階層が壊滅的打撃を被ることとなる「新自由主義型民主社会」へ移行することとなった。』

新自由主義型民主社会とは言うなれば、他者に対する思いやり/配慮などは致命傷にさえなりかねない、まるで“生き馬の目を抜く”ような、
人々が唯奪い合うことによってしか生きられない社会であり、この直前まで一世を風靡していた"優しい人間"たちは、一人残らず社会の主流から葬り去られることとなった(※注)。
というわけで、巨大な意識革命以降、10年弱という極めて短期間でアメリカ社会が、このような“弱肉強食の世界”に劇的に変化したのは、(再三述べているように)キチガイ的矮小文化事象が、
その自己中心的属性において極めて類似した魑魅魍魎集団の活動と輻輳したために、社会のスキゾ・クラスター化に向かうパーティ会場の法則の作用が更にブースト/亢進されたためなのである。
(※注 ジミー・カーターの事例が典型的。)

ちなみにベビーブーマー世代の一部の若者たちが巨大な意識革命以降にスキゾ・クラスターを形成したのは、彼らのメタ認知系諸能力/主体的認知体系が脆弱であるために、
個人的な興味/関心に容易に没入できるからであって、スキゾ・クラスター現象とは決して主体性/個性などの自我の能力の高さに所以して顕現するわけではない。
ゆえにスキゾ・クラスターのメンバーは凡庸者の基本的属性を依然として免れていないために、パーティ会場の法則がスキゾ・クラスター化という一見すると個別化に見えるような事象においてさえも良く作用したのである。
(つづく)
33市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/11(土)21:43:32 ID:???
11 of 11 (つづき)

そしてパーティ会場の法則がもたらす事象に対しては、前述のように優秀者の主体性/個性などは無意味であるために、他の社会的力動と均衡するということが起こらず、スキゾ・クラスターがアメリカ社会全体を完全に呑み込みつくしてしまったというわけである。

ところで「スキゾ・プロセスとは、パラノ勢力と拮抗する」と述べた浅田彰は、スキゾ・クラスター化を社会全体を飲み込むまで一気に進行させてしまう、このパーティ会場の法則という自然法的機序には気づけなかった。
すなわち前回述べたところのスキゾ・クラスターのキチガイ凡庸者の、「別に誰に迷惑かけてるわけでもない/自分の人生、どう生きようが自分の勝手」の如き言い草は、
このように圧倒的多数者のパフォーマンス至上主義型人間を中心にパーティ会場の法則が瞬く間に社会全体に作用し、1930年代から始まった福祉国家型民主社会の歩みとともに成長してきた
中産階層が消滅するという新自由主義型民主社会を招来してしまったがゆえに、誤謬であったことがここに確認できる。
(「二つのムーブメントの果てに ⑤ パーティ会場の法則」 終わり)
(第八回 おわり)      
34市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/23(木)09:53:08 ID:???
「第八回」の内容について著者からコメントを一言。
アメリカ社会がスキゾ・クラスター社会に成る過程を示すモデル内において具体的事例の提示がほとんど為されていないが、
このような類のもの(例えば三菱と早稲田のクサレ縁を示す事例とか)は、表の論文とかメディアには普通は出にくいものであり、事例提示がはなはだ困難なためという理由による。

その上でオレの使命は、事実/史実に整合的なモデル提示/大枠の論理/問題提起だと考えているので、詳細の研究は後続者に委ねたい。
35市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/23(木)11:10:26 ID:???
追記

ゆえに読者はとりあえずは、巨大な意識革命/オイル・ショック/スタグフレーション/ベトナム戦争敗戦/ウォーターゲート事件などといった時代的存在拘束性、並びにレーガン政権以降の
アメリカ社会の制度的変貌ぶり等を有意な状況証拠として、ここで論じたところの「アメリカ社会のスキゾ・クラスター社会化モデル」を認識されたい。
36市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/23(木)11:27:53 ID:???
追記2

あとは過去レス81.(第五回)の「1980年代になる頃には、ニューヨークなどの大都市では横柄でふてくされたような受付の女性の応対などは
当たり前となっていた」のような状況も、当時は既にスキゾ・クラスター社会であったことを示す非常に有意な状況証拠となる。
37市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/27(月)20:22:45 ID:???
追記3

この時期のスキゾ・クラスター社会化を端的に表象する他の一般事例としては、まず「富裕層からの寄付の急減」が挙げられる。
従来、アメリカでは多くの大学の研究資金・施設/美術館の所蔵品等は富豪・富裕層からの寄付により賄われてきたが、この時期にこれが全米において急減し、
例えばハーバード大学などのトップクラスの金持ち大学でさえ、教員が退任しても補充すらできない状況にまで悪化した。

また他の一般的事例としては、経済犯罪の急増が挙げられる。まず万引きは10年前の2倍強増/ホワイトカラー層の職務上の横領等の不正所得は3倍増である。
更には小売店の従業員による、ありとあらゆる手段を駆使した商品・売上金の横領等の増加もすさまじく、この時期の被害総額は万引き被害額の10倍にも達した。
38市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/27(月)20:27:17 ID:???
26.レス(第八回 4 of 11)内の「胡散臭い業界」注釈が脱落していたので以下に補填します。

(※注 この他には例えば、我が国でも「シロアリ駆除」などでお馴染みになるところの詐欺的リフォーム業界/不必要な手術で患者をタライ回しにして“患者のケツの毛までむしり取る”
インチキ医療業界/交通事故等でインチキ診断書を武器にしたボッタクリ損害保険請求でボロ儲けするインチキ弁護士業界など。)
39市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/27(月)22:40:56 ID:???
>>36 追記2の追記

この「ふてくされた女性」が象徴しているものを心理分析するならば、「ベトナム戦争以前には全てのアメリカ人にとっては当たり前であった
「愛国心」が消え去り、「Me(ミー)世代」はありとあらゆる事物にシラけ、最早、「自己中心性」の中にしか自己のアイデンティティを見出せ
なくなっていた。」となる。
40市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:32:04 ID:???
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「市民層  概論」 第九回

「凡庸者」

さてキチガイ凡庸者、すなわちパフォーマンス至上主義型人間が生み出した歴史的狂騒劇について引き続いて論じる前に、
今回はいよいよ、パフォーマンス至上主義型人間を含む上位のカテゴリー、当論の最重要概念「凡庸者/優秀者」の一方であるところの「凡庸者」について集中的に論じる。

パフォーマンス至上主義型人間の如き「メタ認知系諸能力が脆弱であるところに起因して、人格・処世観念等の涵養が極めて不十分な者」は、実は躾が十分に為されない養育環境とは真逆の、行き届いた躾や「かまい(世話/面倒/干渉)」/独善的とも言えるような
信念、信条、信仰等の訓育によって、自然・本来的な人の心の溌剌(はつらつ)さが抑圧され、言わば他者依存性を強いて刷り込まれたような環境においてもまた生まれる。すなわち

「メタ認知系諸能力の脆弱さを後天的(※注)にもたらす要因には、「(躾/面倒見などの」他者の介在の過小/過大」の二類型があり、その帰結として現れる人間属性もまた二類型化する。」
(※注 先天的な要因をも鑑みた上での分類は、今回のところはまだ為さない。それは後の回で論じる。)

そして人類史的には、むしろ他者の行き過ぎた介入に起因してメタ認知系諸能力が未発達となり、「(認識/思惟に関わる)盲目・盲従的な他者依存性とか孤独に対する恒常(気質)的不安」を持たされる人々こそが一般的だったのであり、
いつの時代でも社会が用益するための中心的な人的資源として、この『ロボット型人間』は存在してきた。

ここで「パフォーマンス至上主義型」と「ロボット型」という二類型を持つ人々、すなわち「児童期までにはほぼ完成されるメタ認知系諸能力(主体的達成意欲/自己批判的観念/帰納的思考能力等・・第七回 参照)
が未熟であることに起因する主体的認知体系の不全性によって、理想的な主体性/個性(※注)を将来において獲得できる可能性を完全に絶たれている者」についての、当論のこの時点における、とりあえずの定義付けを以下に示す。
(※注 例えばドストエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」(1880)第五編第五において、このことをイエスを裁くための有名な叙事詩「大審問官」として忌憚なく述べた。
尚、「主体性/個性」の何たるかについて論ずることは、当論の最重要テーマの一つであり、この後も適宜、解説していく。)
(つづく)
41市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:32:49 ID:???
2 of 19 (つづき)

『或る人が「凡庸者」であるということは、メタ認知系諸能力と、その成果物であるところの主体的認知体系(※注1)が脆弱であるということであり、これは根本的には『(自他に対する認識に関わる)単純素朴性/
無謬的信憑性(※注2)』、及び『自他の分離観念の不全(※注3)』という三属性に分解できる。』(『観念運動の自然法 第三定理(凡庸者定理)』)
(※注1 ちなみにカントはメタ認知系諸能力/主体的認知体系を「先験的判断力」と呼び、「判断力は一個独特の才能であり、傍から教えられるというわけにはいかない(中略)生得の智慧の特殊なものであり、それが欠けているからといって学校教育でこれを補うことはできない。
学校教育は、(中略)他人の知解から借りてきた規則を(中略)詰め込むことはできるが、さてこれらの規則を正しく用いる能力となると、これは生徒自身のものでなければならない。」(「純粋理性批判」第二部門第一部第二篇緒言 1787)としている。)
(※注2 例えば過去レス123.で述べた、スキーマのみを用いる演繹的思考のようなものが、単純素朴性の典型例である。よって隠喩/暗喩/婉曲等のヒネリや曖昧さ/煩雑さ/錯綜/連関/相関/非同時性/
本音・建前の意図的使い分けのような複雑性要素が入り込んでくると、もう全く事物を正しく認知できなくなるか、あるいは思考する意欲自体を喪失する。
また「体系・マクロ的把握・認識ができない」ということも単純素朴性に起因する重要な属性だ。すなわちその場限りの思考というものはほとんど無益であり、
思考成果物を蓄積/整理/俯瞰/修正するなどしつつ体系化することで、ようやく己の認識/論理等に真っ当な合理性を付与できることが分からない。
(つづく)
42市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:33:43 ID:???
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というわけで人が単純素朴性/無謬的信憑性を持つならば、一次的認識が即座に自明真理化するヘーゲル的な観念の弁証法的運動の「正」段階に留まるしかなく、合理的に懐疑することで事物にまつわる問題点に気づける可能性が金輪際なくなる(第七回 参照)。
具体的にはあらゆる事物が紋切り型、かつその時その場のノリや気分のままに思い込む/一つ事を一本気に信じ込むようなカタチでしか認識されないのであり、このことは往々にして人を“極悪・極善人(※注4)”的な者にする。)
(※注3 例えば伊藤整「青春」(1938)には、「僕なんかでも、あれはああ、これはこうと、いちいち自信のある理解を物事に対して抱けるようになるだろうか。(中略)物乞いでもするように沖にある少量を話し、
藤山に逢った時には藤山に聞いてもらえるような少量の話を選み出して打ち明け、武光にはまた別な部分を取り出して示す。そういう日常の交流に小刻みに捌け口をやっと見出している自分の内心の息苦しい疼きを信彦は持て余すのだ。」とある。
これは「自他の分離観念の不全」がもたらす自意識の典型例であり、ここには「自分は"自分"という固有の世界に、自分の意思をもってして生きるしかない。」という自意識における自我の健全性が不全であることに起因する苦しみが良く示されている。

例えば人生の或る状況における状況認識は、視点の持ち方次第で、いく種類もバリエーションが存在する。しかして人は多くの異なる観念に対して同時に同レベルの重きを持って対処することはできないから、
行動方針/戦略とは、或る一つの状況認識(例えば「自分の学業の成績が良い」など。)のみを重視したもの(「ゆえに一流大学の医学部を目指す」など。)とならざるを得ない。
そして一旦、そのような特定の行動方針・戦略の実践段階に入った(「受験勉強のために部活を辞め、遊び仲間との付き合いも減らした」など。)後で、
他の方針に心移りしたりすれば(「成績は良いが、俺の家は貧乏だ」など。)、従前の方針に基づいた努力が全て無駄になるという損害(同一方針を保たないことの非合理性)だけが残されることになる。
(つづく)
43市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:34:19 ID:???
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とどのつまり計画性というものの本質を鑑みれば、或る一つのタイプの利得をだけを一貫して負い求め、他のタイプの利得を敢えて顧みないのでなければ、
(「二兎を追うものは・・」状態) (目的追求の方向性において自滅的な判断/行動が双方の目的行動に混入する状態)となり、真っ当に自己実現(成功)できる可能性はなくなる。
すなわち人は己の主体的認知体系に基づく「己にとっての自然体」と言える或る一つの認識に基づいて一貫した行動を採れる、そしてそのような主体的行動ができる自分をひたすら自尊した上で、その結果として生起する不利益については
享受する覚悟(すなわちいざと言う時には“討ち死”する覚悟など)を当たり前のように保持できてこそ、(仮に今回の計画はダメだったとしても)「一貫性」という、
将来、幾度目かの挑戦において成功を勝ち取れる可能性を留保し続けられるのである。人生に、このような根幹的な合理性の力をもたらす能力が、自他分離観念である。
ちなみにこの自他分離観念があまりにも脆弱であれば、からかい/イジメのターゲットにされたり、”玩具(おもちゃ)”のようにヒマつぶしの道具にされたり”(使いっ)パシリ”として奴隷の如く扱われてしまう。)
(※注4 ゴンチャロフ「オブローモフ」(1859)の冒頭節にある「善人だ。きっと単純そのものだ!」の一句が示す通り、単純素朴性/無謬的信憑性の極致を顕現させている者とは、「(ガチガチに凝り固まった道徳・倫理観念に取り憑かれた)極善人」
「(ガチガチに凝り固まった他罰的観念に取り憑かれた)極悪人」を単純/朴訥に演じ(パフォームし)続ける者である。)

こうして人は単純素朴性/無謬的信憑性を持つと、次々に顕現する不手際/失敗から真っ当な自尊心を持つことができず、結果的に『他律・依存性(※注1)』がどんどん亢進していくことになる。
具体的には自他の分離観念の不全と相まって、圧倒的人数を擁する大集団(群れ)を形成し、集団が共有するイデオロギー(エートス)に完全追従することによって
自己保存を図るという戦略を持つようになる。この段階で人は、事物/事象に対する『当事者・責任意識(※注2)』を失う。
(つづく)
44市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:35:04 ID:???
5 of 19 (つづき)

(※注1 例えばジイドはこのことを、「どいつもこいつも、何とかして自分自身には似まいと努めている。誰でもが守護神を見つけ出して、その真似をしようとかかる。
真似をしようとする守護神を選び出すことさえしないのだ。前もって選ばれた守護神を受け入れるだけなのさ。」と、「背徳者」(1902)でメナルクに言わせている。)
(※注2 凡庸者は場合によっては自我の防衛機制によって、異様にがむしゃら/一生懸命になったり、皮相的には非常に思いやり深い、心根が優しく見えるような当事者・責任意識パフォーマンス(擬態行動)を
為すことがあるが、やはり適切なメタ認知系諸能力を持っていないという、“(決定的)ボタンのかけ違い”の弊害は大きく、心の余裕/自分の立場の優位性などがなくなれば、たちまち頭がおかしくなる。
すなわちこうした場合には、「自己愛/演技性/境界性人格障害」もしくは「高機能自閉症」などと呼ばれるような変則的処世術実践者になっていかざるを得ないのである。)

さてこのような在り様の人、すなわち凡庸者は、最終的には周囲の者の様子を見て模倣/追従するだけの『トートロジスト(同義反復者)(※注1)』にまでなる。
トートロジストらは(主体性/個性が必要ない群れの一員と成ったのであれば最早、メタ認知系諸能力の涵養は必要ないために)その関心を、
積極的に快感の追求のみに向けるようになる。そしてこの在り様は、ほどなくして“凡庸者の生き地獄”を引き寄せることとなる(※注2)。
(※注1 当論の重要概念であり、この先、提示される極めて重要な認識において何度も登場することになる。)
(※注2 凡庸者的自意識とその生き様がもたらす地獄の代表的パターンは、近代の「科学の時代」という存在拘束性の中で、克明/微細に記録されてきた。
例えばゴーリキー「幼年時代」(1912)/ショーロホフ「静かなドン」(1928-40)/フローベール「ボヴァリー夫人」(1856)/モーパッサン「女の一生」(1883)などが代表的なものだが、とりわけバルザック/フローベール系の忠実な継承者の手になる「女の一生」においては、
正にその場その場の、過去とも未来とも永久に連関性を持たせられることがない「刹那々々に込上げてくる感情」のみが移ろう「凡庸な人生の典型」とでも言うべきものが精緻に描き切られている佳作である。
(つづく)
45市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:35:57 ID:???
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というわけで19世紀~20世紀前期においては、「写実主義/自然主義」などいった看板を掲げた、主として(フランス/ロシア/日本などの)文学界における人間社会の見たまま/ありのままの観察・報告に基づく「人間そのものについての経験・実証主義的知見」
が大々的に注目された時代であり、社会人類学者にとっては数多の近代文学作品とは、「凡庸者の何たるか」に関して典型的な認識を得るための重要な資料である。)

例えば群れ化万能・全能感/無思考・無努力性/盲従・権威依存性などがもたらす無知の知や謙遜を知らない心/必ずしも外見には表れない内面の一本調子さ/
頑迷さ等は、彼らをして身の回りで日々変転流転する事象の脈絡/意味合い等に全くもって頓着しない人間にする。このために何をやってもマトモな達成からは程遠くなる。
そしてこれらが、一定/安定した情緒の持続能力を蝕み、例えば"正気/冷静さ"を保つためには常に何らかの脳神経活動賦活系物質(コーヒー/酒/薬物など)に満たされていなければならないなどの状態、
すなわち落ち着かない/黙っていられない/些細な変化に対しても動揺する/癇癪、あるいは諦観、自暴自棄モードにはまりやすくなる等の神経症様態を顕現させる(2017/10/27のツイート参照)。

このような状態は凡庸者に更なる無能・低能性を付与し悪循環過程に入らせる。意識下には根元的に解消不能な鬱屈感/ルサンチマン等が蓄積し、
凡庸者はこの精神の慢性的不全状態から一時でも開放されたいがために、最終的には"魂を悪魔に売り払う"かのようにしてまでも、"快感/欲求/欲望の虜"になっていく。
こうして最後には “人生のどん詰まり”的閉塞状況がもたらされ、事物の価値判断基準を「食う/寝る/猟る/癒す(遊ぶ/休む)」などの動物本能的なもの以外には求め得なくなる。

このことは「幼児性」があらゆる行動に顕現してくることを意味し、権勢・物・享楽・性・自己顕示欲(※注1)、あるいは諦観/厭世観等に歯止めが効かなくなり、これらは何らかの契機に、
狂信・奴隷的従属欲求/自殺/反社会性/超集団性/暴力・破壊・攻撃欲求/専制的支配欲求(※注2)にまで転換しうる。これが「凡庸である」ということが終局的に行き着く"生き地獄"である。
(つづく)
46市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:36:45 ID:???
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(※注1 この手の権勢・物・享楽・性・自己顕示欲的属性の告発にかけては右に出る者がないゴーゴリの諸作品(「死せる魂」(1842)など。)を見よ。
また我が国においては、江戸中期以降から大日本帝国期にかけての指導者・特権者階層に蔓延した、「大尽遊び(座敷や戸外での銭貨撒き/惚れ込んだ芸者を身請けして居所を充てがえて妾として囲うなど。)」という風習の中に、この典型が見いだせる。)
(※注2 例えば大正初期の農村における作者の実生活経験を下敷きにした宮本百合子の「貧しき人々の群れ」(1916)とか井伏鱒二の「多甚古村」(1939)などは、ここで言うところの狂信・奴隷的従属欲求の具体的様相を余すところなく伝えてくれるし、
後で詳説する昭和初期の陸軍皇道派の青年将校などもこの類である。超集団性の例としては、一向一揆、打ち壊し、おかげ参り/ええじゃないか、米騒動、昭和戦前期の東京音頭など。)

ハッキリ言うと

『凡庸であることとは、自分自身/自分が置かれた状況を合理的に認知できないことを意味し、このようなヘーゲル弁証法的「正」状態に留まり続けるならば、いづれ人間は確実に“性根がとことん腐ってしまう”、あるいは『キチガイ/鬼畜(※注)』のようにまで成る。』
(※注 凡庸者の認知世界とは基本的には”動物”並である。そしてキチガイ・鬼畜性とは根本的には、凡庸者が動物のように己の存在拘束性を合理的に操作/管理する能力を持たないということが、その主因である。
その上で人間脳は、動物脳とは異なり言語野を持つから多様広範な抽象的概念/イデオロギーを認知することができるわけだが、これが人間をして動物には在り得ないような精神の興奮/高揚/歓喜/焦燥/落胆/動揺/絶望等々の、
人間独特の様々な意識状態をもたらすからして、まるでキチガイ・鬼畜の如くになるのである。)

そして凡庸者三属性のうちの、どれとどれが外部要因によってフィーチャーされるのかにより彼らをして、時には「パフォーマンス至上主義型人間」にし、時には「ロボット型人間」にするのである。
(つづく)
47市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:37:24 ID:???
8 of 19 (つづき)

例えばパフォーマンス至上主義型人間とは単純素朴性/無謬的信憑性が、大衆全員参加型社会である近代以降の産業社会の環境的存在拘束性により、とりわけフィーチャーされており、他者の言葉/行動などの表現行為の内にある含意/真理を汲み取る能力が極めて低い。
すなわち事物の中で「無言/静寂」である箇所/部分(往々にして最も枢要な真理・真実性を包含する部分。)に対する注意、並びにそれらに係る帰納的思考ができにくくなっている。
この結果、言葉や行為の外観的表象のみに囚われたところの、自己認識に対する懐疑心をあらかた捨て去った上での勘違いしまくった自己完全感を持ちやすい。
そして心の余裕/自分の優位性などがなくなれば、たちまち依存・逃避・退廃的な凡庸者的本性を隠しきれなくなる。すなわち彼らは基本的に「良く吠える弱い犬」である。
こうして例えば他者に対してホンのわずかでも身をかがめることができないとか、あるいは事物に簡単に最終判断/答えを出した上で他者に問題解決を委ねる/責任転嫁するなどの「他者依存性(無思考・無忍耐・無努力・他罰的傾向)」を強烈に発揮するのである。

こうしたパフォーマンス至上主義型人間属性の最初の顕著な権化はフリードリヒ・ニーチェである。
ま、しかしこれほど極端なまでに突出しているわけではなく、(己が偽善的擬態者であることを意識下で認識した上で)あくまでクールに計算尽くで自己演出するのが、パフォーマンス至上主義型人間としての、むしろ典型的な姿である。
例えば「職業学者」であれば、事在る毎に最新の学術のトレンドに関してコメントしたり、この間誰それの有名学者に会っただの、あの大学の学風はどうだの、英国人、ドイツ人、あるいはロシア人やイタリア人というものはどうたらなどなど、
ともかくありとあらゆる学究そのものとは無関係な、"周辺事情"とか"概要"とかを、ともかく目が覚めている間中、さも意味有りげにしゃべり続け世間を煙に巻いて、
雑誌/新聞のコラムの連載なんかで名を売る、副収入を得る、「教授/何ちゃら委員」等の肩書きを猟官するなどといった具合である。

次にロボット型人間について。ロボット型人間という人間類型は、古今の哲学者/思想家/社会科学者等にとってはクリシェ的認識であり、人類史においては長らく凡庸者の代表型であった。
(つづく)
48市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:38:05 ID:???
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例えばホッブズ「リヴァイアサン」(1651)ではこのロボット型人間を「自動機械」と表現し、「ドイツ観念論の最古の体系構想」(1917年に発見された著者不明の有名な論文)では、「機械の歯車」と表現し、
E.フロムの「自由からの逃走」(1941)においては「自動人形」と言い表されているといった具合である。
基本的には彼らは自他の分離観念の不全傾向が強く、誰かに己が為すべきことを示唆/教唆されることを強烈に欲する。

ところで満州事変後の日本のように、主体的思考態度が徹底的に抑圧され、権威/イデオロギーへの服従を強要されたりすれば、凡庸者はロボット型人間の代表的サブカテゴリーであるところの「被支配欲求型」になっていく。
そしてこのチャプターでは、この被支配欲求型の現代社会における繁栄種であるところの極めて尊大な人格属性を持つ善人・良識人タイプについてと、
被支配欲求型がギリギリまで追い詰められた特異点において転化するものとしての「専制的支配欲求型」について述べる。

まず先に専制的支配欲求型から説明する。人間心理には、自分に都合が悪いことは顕在意識からシャットアウトする「防衛機制(精神分析学用語)」がデフォールトで常時作用していることは間違いないところだが、問題はこの(例えば「己が無能である。」などという
認識がもたらす神経ストレスを軽減し、神経システム毀損(精神病など)を回避するための)自然が授けた巧妙な防御システムのせいで、凡庸者が追い詰められると、眼前の事物/事実をついに確信犯的に無視するようになることである。
例えば古今東西のクソ真面目な宗教人やテロリスト(イスラム系過激派/戦前日本の陸軍皇道派/KKKなど)の熱烈的心情を分析してみれば分かることだが、彼らはたった一つのイデオロギーを、
論理・合理的整合性などを度外視して一途に狂信(※注)するのであり、それはそうすることで脳内麻薬様物質の力によって非常に勇躍/高揚したような、いわゆる”ハイな気分”を持続できるからなのである。
こうしてアル中/薬中の如くに、一般社会から投げかけられる軽蔑や冷たさが入り混じった視線がもたらす解消しようがない鬱屈等から逃れるために、
彼らは紋切り型認識の明瞭・明晰さを伴う極端かつ特殊なイデオロギーに自ら進んで洗脳されていく。
(つづく)
49市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:38:43 ID:???
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そしてこのことはやがて、“異界”としての外部世界に対する徹底的な対抗観念であるところの「支配欲求」を彼の中に形成するのである。これが被支配欲求型のロボット型人間が「専制的支配欲求型」に反転するモデルである。
(※注 例えば陸軍皇道派においては、「荒木閣下」と呼ばれた荒木貞夫(陸相)、「甚公」こと真崎甚三郎(参謀次長)などといった、親分肌で人気が高かった皇道イデオロギーの典型的垂範者であるトップの、
中間管理職を飛び越えた直接指導下で、無学な青年将校(「無天組」と俗称された。)たちは極右的狂信性を育んでいった。
例えば荒木は、「一切の問題を皇道精神で解決できる。」、「竹槍三千本が有れば列強など恐るるに足らない。」などといったノリで語ったりする。
こうして醸成された皇道派の狂信的エートスがついに輩出すべくして輩出したのが、二・二六事件の下地を造った相沢三郎の如き”本物の狂人”だと言える。)

次に被支配欲求型の亜種の極めて尊大な人格属性を持つタイプについて。人類はこれまでその全歴史において、ロボット型人間の被支配欲求型を大々的に用益してきたし、今後もまた用益していくわけだが、
とりわけ産業革命以降に"産業社会用ロボット"として彼らを仕立て上げるために、公教育の必要性が高まると、こうした勉学に適応的な『ストイシズム』(感情・欲求抑制観念)によって
(己の)付加価値を亢進させて増強された自尊心を支えとして、外見には表れない無知の知を知らない心の尊大さを持つ人々が大量に現れてきた。
すなわち人類は産業革命以降は、ロボット型人間にストイシズムがもたらす「勤勉さ/生真面目さ」を付け加えて、より高性能なロボットと化した『尊大な善人(※注)』を大量生産して、彼らを産業社会の指導・根幹的営みに据えてきた。
(※注 強者に”優等生”的に支配/用益されようとすることの中に自尊のよすがを見出そうとする被支配欲求型の亜種。
彼らは19世紀末以降、あらゆる社会的営為が国家により高度管理・合理化されていく過程において、国策機関としての大学・専門学校の門戸が庶民層に大々的に開放され始めた際に大量に生まれたのであり、言わば「産業社会のエース/要」である。)
(つづく)
50市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:39:17 ID:???
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尊大な善人の大半は、普通の庶民的雰囲気の家庭で養育され、外観的には協調・友愛的行動傾向に富み、「善良かつ無名の中間層市民」としてその生涯を全うする一方で、(三属性を持つ凡庸者であるために)例えば学校教育/世間の常識/各種広報/
新聞・ラジオ・出版物等のメディアなどから得られるが如き「公に流布する情報」のみから、通常人が人間/社会等を知るために必要とする知識/認識の大半を入手できると、本気で信じて疑わない人々である。
このような自らを自明的に取り巻く外界に対する無謬的信憑性こそが彼らの隠された本性たる"尊大さ"をもたらす源泉であると言える。例えば公教育で履修したことが人間が知るべき智慧の全てだと思い込むのであれば、
それは特殊な行動/事象/人物等からしか得られないような根本的に重要な情報/勢力等こそが、個人の浮沈を決定的に支配していることに気づけないとか、あるいは何かのキッカケで偶然に頭に思い浮かんだようなことの経験・実証主義性、
すなわち帰納的思考様式に関わる認識をことごとく、たわいもないと感じる/見下すような心性(※注1)へと必然的につながっていくからである。
すなわちここに、中途半端にシステム化され端正な公教育を施されたために、かえって(無教養の者よりも)人知の広大無辺さ/人間に先天的に賦与されている高度な擬態能力がもたらす人間界の一筋縄ではいかない複雑性/欺瞞性等を
経験・実証主義的に認識するための契機を失ってしまった、いわゆる"無知の知"を知らない尊大さ/凡庸さが人格化したロボット型人間、尊大な善人が誕生するのである(※注2)。
(※注1 自分の頭の中で何となく、「公教育>学術知>ジャーナリズム>世間の噂>自分の気づき」のような知の序列体系を作ってしまうとか。
実際には信憑性に関して、これらの間に明確な序列性など存在しない。何故ならこれらの全てが適宜、特有の存在拘束性を持つからであり、どれが信用できてどれが疑わしいかは一意的には判別できず、あくまでケースバイケースなのである。)
(※注2 例えば寺内正毅の如き人物が典型的である。彼は陸軍大学校教頭の井口省吾に「教科書を作れ。」
と迫った際に、逆に「教科書などを作ってしまえば以降はこれが権威付けされ、これに準拠し、これを踏襲するだけになる。
(つづく)
51市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:39:57 ID:???
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教官も学生も懸命に戦術を研究しなくなる。これをどうしてもやれと言うならば辞めさせてもらう。」旨の啖呵を切られてしまった。)

さて公教育においては、「他者(教師)から習う」という演繹的思考様式形態をとるのが当然であるために(※注1)、学生は自分自身の頭を使ってモノを考えたり気づく(帰納的思考様式)のではなく、
他者が考え出した成果物(知識/問題点設定/方法論など。)を記憶/利用/応用するという受動・事務的な頭の使い方ばかりを、徹底訓練されてしまいがちなのであり(※注2)、これでは元々認知能力に秀でている者さえもこうした演繹的思考様式にスポイルされ、
帰納的思考能力/主体的認知体系等の練磨に関しては無教育の者よりも遥かに不利になる。
(※注1 後の回で詳説することになるが人類史的には、支配者としての存在拘束性を持つ指導者・特権者階層が伝統的に公教育に対して認容してきた知の形態は、イデオロギー的知性(演繹的思考知)であり、
現実/生活に密着/整合するものとしての経験・実証主義的知性(帰納的思考知)は、卑賤な知性として蔑まれてきたという歴然とした史実がある。
例えば近代以前の西洋公教育であれば、ホメロスの叙事詩/聖書/ダンテなどといったものにまつわる薀蓄(うんちく)などを生徒に一方的に継承させるが如きものとなる。)
(※注2 例えば1903年に読売新聞に連載された「東西両京の大学」においては、「我が東京大学の如きは(中略)、いたずらに講義を増設し授業時間を倍化して、学生をして常に筆記の暗誦に寧日なからしむるが如き、(中略)常に試験に次ぐ試験をもってし、
学生をしてその実力を養うを努めずして(中略)徹頭徹尾、小学校流の方法をもって教育せんと欲す。彼らは実に全ての学生を同模型に入れて陶冶せんとするものなり。」と痛烈に批判されたし、
また東大経済学部の生みの親であるヴェンティヒが1910年に文部大臣に提出した「東大における経済学教授法改良意見」においては、東大では講師が教壇から講義ノートを読み上げ、
それを学生に一字一句違わずに正確無比に書き取らせ、その上で試験とは指定教科書と講義ノートを丸暗記して、それを答案用紙にそのまま書き写すことであり、
自分の頭で考えざるを得ない問題に独自の解答を提示できる学生は5%などという指摘が為されている。)
(つづく)
52市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:40:36 ID:???
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こうした我が国の教育慣行は、そもそも古代においては学問の習得法が中国の仏典/諸学、近世においては蘭学(主として医学)の原書の翻訳者(教師)が読誦し、
学生がそれをひたすら逐一筆記するなどという習得法を伝統的に継承してきたことに由来するのである。
その上でこの時期の時代的存在拘束性は、徳川体制という、言わば「“硬直性”をもって本懐とするような体制」が260余年も続いた直後であるわけだ。
例えば「奥医師」という将軍付きの医師団は、「医心方」という平安期の古典的医学書を今だに参照し、本音において己の身分と体面のみを気遣い暮らしていたという按配であった。

さてそして更に追い打ちをかけるようにして、三木清「学生の知能低下について」(1937 「文藝春秋」)によると、満州事変後の学生を「事変後の学生」と呼びならわすようになったと述べた上で、その特徴とは「ほとんど何らの社会的関心も持たずに唯、
学校を卒業しさえすれば良いというような気持ちで大学に入ってくる」ことであり、彼らは学校の過程以外には「キング」(当時、最大の大衆娯楽雑誌)程度のものしか読まない「キング学生」であるとしている。
しからば事変後に何故、このような傾向を持つ高等学校生が増加したのか?それは、事変後に教育政策が変わり、学生の社会批判を禁じたからであるとする。
すなわち「社会の内に矛盾を見出し、現実に対して批判的になることから(中略)知的努力も生じる。批判力は知能の最も重要な要素である。
批判力を養成することなしに知能の発達を期することはできぬ」のに、それが「学校の教育方針そのものにより圧殺されている」からであるとする。
更に三木は、事変後の学生はむしろ成績そのものにはより神経質になっていて、高等文官試験に受かることのみを唯一の目的とする大学生が増えていているとし、
しかしてこのようなタイプの勉学は何ら批判というものを伴わないから、これによって知能が向上するとは考えられないともしている。
(つづく)
53市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:41:23 ID:???
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すなわちこうした一般的な教育方法(※注1)は、自分で問題を設定したり解決したりする主体的認知体系の成長を著しく阻害するように作用する(※注2)。
その上で前回述べたように主体的認知体系を支えるメタ認知系諸能力とは、人生早期に小脳に書き込まれた上で以降は生涯書き換え不能となるアルゴリズム系記憶に基づくものだから、
例えば児童・少年期に”英才教育”なる詰め込み教育を施されたせいで演繹的思考様式のための思考アルゴリズムしか脳神経に書き込めなかった「東大にまで行くような秀才/優等生」の大半は、実は無知の知を知らない
”極めて悪いアタマ”であるところの『脳奇形/脳カタワ(※注3)』に、わざわざ仕立て上げられてしまった者たちである。
そしてむしろ机に向かう勉強が嫌いな低学歴者の側に、私生活上での諸問題を通じて主体・独自的にモノを考えるという帰納的思考能力を鍛錬する契機を得やすいために、かえって真に利口・頭が良い者がより多く生き残りやすい(※注4)。
(※注1 一般的でない教育方法の例としては、日本の職人の徒弟式教育法がある。このような教育の現場においては、おうおうにして親方は弟子に直接モノを
教えようとはしない。まずは雑用を任せて徹底的にコキ使うのであり、有能な弟子はその過程で、親方の仕事を盗み見て仕事のカンを修得していくのである。
こうした教育法のメリットとは、強度の主体的達成意欲/自己批判的観念等の主体性を要することに起因するところの、問題を自ら設定し解決できるメタ認知系諸能力の練磨が自ずと為されることである。)
(※注2 オレ自身について述べておくならば、オレは中学生の頃、自分なりの視点から次々に見出した授業・教科内容に対する疑問点を、授業後に教師に個別質問しに行かなかった日は、多分ほとんどなかったはずだ。
(もちろんこんな生徒は全校でオレ一人しか居ないわけだが)ともかく毎日々々、少なくとも一~二回以上は授業後に職員室にまで押しかけて教師に自分が独自に見出した疑問点を質問しまくったものである。
すなわち与えられたモノを機械的に黙々と取り込むのではなく、唯々泉の如く溢れ出る知的欲求を充たすための勉学を為しまくったのである。)
(つづく)
54市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:42:01 ID:???
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(※注3 例えば与えられたテーマに対して嗜癖的な執着心を持ち、こうしたものに対しては圧倒的な調査・研究能力を発揮するも、主体的意欲・努力を要するところの一般教育的教養/帰納的思考能力が極めて低く、簡単に騙されるなど。)
(※注4 これの典型例は松下幸之助。尋常小学校中退であり、書物などから知識を得ることは不得手だったようで、当時、社会的影響力が大きかったラジオの宗教番組等から専らアイディアを得て素朴に処世観念を形成したらしい。
しかし演繹的知性は素朴ではあっても、素朴な認識を強力に実践できる類稀な行動力こそ彼の最大の武器であったことは疑いようがない。
ちなみに彼は学歴がある者に対しても小僧・丁稚生活等から得るような経験・実証主義知/帰納的思考能力を磨かせることを重視した、生粋の「反エリート・優等生主義者」である。)

というわけでここに「尊大な善人問題」という、新たな看過できない問題が持ち上がることとなった。彼らは以上のような思い込み/偏向性を持つために、ミクロ・短期的には有能である場合があってもマクロ・長期的には人類の進歩/発展を確実に阻害する(※注1)。
何故なら上述のように彼らはこの世に日常的に山のように生まれてくる"世界初"とか"前人未到"に類する創案の芽、あるいは前例/手本とは異なる気づき/才能等をことごとく珍奇/奇矯なものとして見下し嫌悪する傾向を持つからである。
すなわち己の演繹的知性を超える知性の在り方(すなわち己の尊大かつ欺瞞的自尊心を否定し傷つけるようなもの)を、
そのどこからどう見ても"善人/良識人"にしか見えない外観のみからは凡そ想像だにできない”悪魔”的本性をもってして、やんわりと踏みにじり静かに黙殺/排除しようとするのである(※注2)。
(つづく)
55市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:42:41 ID:???
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(※注1 彼らは「大枠」の方向性が定まった後の「中・小枠」レベルに求められるような型にはまった演繹(事務)的思考において有能だが、
例えば創生・成熟・闘争・転換期等に求められる帰納的思考能力において悶絶/卒倒しかねないほどの無能、あるいは勘違いぶりを発揮する。)
(※注2 平塚らいてう(雷鳥)「とざしある窓にて」(1913)は次のように述べる。
「新しきものの発展に有害なるは、過酷に見ゆる権力者と無智なる民衆にあらずして、むしろ温和な分別顔の識者ではあるまいか。識者は徹底と端的とを恐れている。
彼らは事物を根本的に考察しようとしない。(中略)是を是とし、非を非とし、善を善とし、悪を悪とする正当な、合理的な根本的の価値の批評、判断を下そうとは最初から努めもしない。」)

そもそも公教育が教える「汎用知」とは、本来、あらゆる常識から一定の距離を保った上で常に時代の風潮/エートスに対するアンチ・テーゼを提示するという、
学術本来の進歩・発展的使命とは凡そかけ離れたところの、それ自体では周回遅れでカビの生えた、もしくはあくまで現時点までの到達点を示すものでしかない。
しかるにこれは法華経が示す「開三顕一/三乗の教え」の如くに本来、その受領者たち各人のその後の人生における経験・帰納的努力によってどんどん取捨選別/更新/改善/廃棄されてゆかなければならない”叩き台”のようなものである。
ところが尊大な善人は所詮は凡庸者の三属性を持つ者でしかないために、公教育的汎用知の修得とこれからの未来を生きなければならない自分たちに必要とされてくる自己開拓的な先端知の探求の違いが分からない。
すなわち公教育においては汎用知という"(過去の知性の)剥製/ミイラ"を尤もらしく見せがちであり、その上で彼らは受動的であることに慣らされ切っているがゆえに、教わらないことは必要がないことだと短絡的に思い込む。
すなわち主体的人生経験から何をかを汲み取ろうとする意志を持つことがなく、そもそも"気づく/懐疑する"ことの重要性が分からない。
彼らにとっての知性とは、あくまでも例えば「オマエ、"フランス革命"って知ってる?俺は知ってるヨ。/東大のナンタラ博士はこう言ってましたけどネ。」的なものでしかないのである。
(つづく)
56市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:45:11 ID:???
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こうしてその本質的部分において、思考停止した“歩くコピー機/文科省推薦図書”に仕立て上げられている尊大な善人は、たとえ当人なりには帰納的思考しているつもりだとしても
実際には釈迦の掌の上で暴れ回るだけの孫悟空の如くであり、せいぜいが既出の大物学者・学説への批判/別解釈とか精緻化を為すことしかしていない。

では彼らは日々の生活において、実際に如何なる知恵をもって暮らしているのか?それはエートス/常識/マナー/習慣等であり、その人生には帰納的思考がもたらす進歩・発展性が入り込む余地がないから、真の意味での問題解決とかドラマがない。
とどのつまり彼らが持つところの実質的生命力は、"事務作業員"としてのソツのなさ/演繹的知性をフル活用した、もっともらしいレトリック能力に由来する連帯・同調性と、(無意識レベルでは己の”支配的観念の異常さ”に気づいているために、
往々にして自己防衛のために顕現させる)集団的専制性などのみであり、一方で非予定調和的な問題と如何に関わるべきかを金輪際知らないから、口先だけでモノを解ったり、善良なフリをしていても、
現場の第一線の者や巷の苦労人からは胡散臭い目で見られまくることとなり、結果的に彼らは心の内だけでの自己肯定観(※注)ばかりを強めていくしかないという“ジキルとハイド”的二律性にハマってゆく。
(※注 魯迅「阿Q正伝」の主人公のように。)

そしてこのような生き方が行き着く先は、老境に入った頃に重篤化する脳器質変成(細胞死/萎縮など。)、すなわちボケ/認知症/行動障害の類である。
すなわち主体的達成意欲/自己批判的観念が脆弱であるために自己変革・改善行動を適宜為せない人生は、年齢を重ねるほどに事物への対処不能がもたらすストレスが漸次、静かに亢進し、これが前述のキチガイ・鬼畜性を否応なしに顕現させる。
ところが良識人ぶることに自尊心を見出す尊大な善人は、込み上げてくるキチガイ・鬼畜性を力尽くで押さえ込もうとする無理がたたり、彼らの脳神経に甚大なストレス/損傷を蓄積させるのである(※注)。
例えば大量の尊大な善人を擁して一等国となった我が国には、現在、数百万人のボケ/認知症/歩行困難などの日常生活障害者が居ると思われる。
(つづく)
57市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:45:58 ID:???
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(※注 一般的に動物は、かなりのストレスを一時的に被ったとしても、それを回避する手立てを自力で講ずることができる限りにおいては心理的ストレスはさほど亢進しない。
ところがストレス源への適切な対処が自力では不能な場合、例えば胃潰瘍・穿孔にまで至ったり、脳神経・脳生理機能自体に甚大な損傷を被ったりすることとなる。)

というわけでトップクラスの尊大な善人、例えばTVでシタリ顔の大学教授、あるいは典型的NHK/”文科省推薦図書”系、はたまた大江健三郎/瀬戸内寂聴などといった
毒にも薬にもならないような文化人の雰囲気に典型的に表れているところの、どこまでも慇懃(いんぎん)/謙虚な語り口と振る舞い、ソツのない公教育に由来する教養/好感を持てる建前的人柄、
そしてそのような外観を形成するための気苦労の反動としての内面の不遜きわまりない尊大さを持つ人々は、(経験・実証主義的な認識を持つことでしか分からない)身の回りの人々とか社会システムの即妙な智慧に謙ることなどは絶えてないから、
"発見する/開発する資質/才能"が巷にいくらでも在って、それらの集積こそが人間界に真の進歩/発展をもたらしてきたことを理解できない。

すなわち世人が「知性と自意識が現代人の苦悩の源泉」などと言う時、往々にしてこの手の「良識人・善人風の外観の裏に潜む、“(中途半端な教育を受けたことに所以するところの、
中途半端な自負心がもたらす)煮ても焼いても食えない尊大さ(※注1)” vs. 一事に極めて秀でていたとしても客観性から遠く隔たった狭隘な主観/教養/世界観がもたらす、“頑迷/意固地なゲリラ性”」に因る
衝突/相互不信等が撒き散らす混迷/閉塞を想起して言っているのであり、「主知主義vs. 反主知主義」(※注2)のいわれもまたここに在る。
(※注1 例えばゴーゴリの前掲書における中間層的地位を持つお歴々の人物描写の中などに(帝政ロシアを舞台にした物語なので、外観的には上記の産業人的な人々ではないにしても本質的には)、
こうした良識人/善人ぶったカモフラージュをもってする尊大な善人的在り方の典型が見いだせる。)
(つづく)
58市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/11/30(木)00:46:38 ID:???
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(※注2 主知主義者の典型例としては芥川龍之介が挙げられよう。彼は例えば菊池寛「芥川の事ども」(1927 「文藝春秋」)/松本清張「芥川龍之介の死」(1965 「週刊 文春」)といった資料などから、
(両親が共に発狂しており、自身も頻繁に幻覚を見る精神的虚弱体質であるために)学校の勉強とか書物から得た(芥川自身が”人工の翼”と呼ぶところの)教養を偏重し、その帰結としての純粋/初心(うぶ)な倫理・正義感しか持たず、
人生の実経験を通じた処世術系の知(各人なりに世俗を大過なく世渡るための経験・実証主義知)の重要・必要性をイマイチ認識できない、言わば”元祖オタク”のような人であったことが窺い知れる。
そしてこのような主知主義者の対極に位置するところの、どこをどう切っても”俗、俗、俗、また俗”しか出てこないような反主知主義者の典型例は、田中角栄(立花隆「田中角栄研究」(1976)などの資料が著名)である。)
(「凡庸者」 おわり)
(第九回 おわり)
59市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/12/21(木)11:51:29 ID:???
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「市民層  概論」 第十回

「凡庸者 vs. 優秀者 凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」

ところで“尊大な善人の大量生産”と言っても、何処かの個人/集団がこのような生産・管理を大掛かりに為す意図を持っているというわけでなく、
実はこのようなことは人類の集合意識の力によって極めて自然な成り行きで遂行されている(※注)。その辺の認識については論者によって様々だが、オレ的には以下のようなサブモデルを提示したい。
(※注 とりわけ近代産業社会の確立以降は、マルクスの言説通り、人々はすべからく"疎外(第七回 参照)"されているから、最早、特定者・集団の意図を全社会的に計画的に体現することは、(ファシズム体制以外では)不可能である。)

人類集団には、幼少期に獲得した観念/習慣から成る「認知世界」が決定づける己の初期存在拘束性を絶対に変えられず、
漸次その振る舞いにおいては自堕落・追従・放縦的傾向を増し、どんなに追い詰められても紋切り型の行動(演繹的思考的行動)しかできず、時を経るほどに人生そのものが閉塞していく者と、
まずはメタ認知系諸能力の中でも強い主体的達成意欲/自己批判的観念という、言わば『人格的諸能力』とでも分類すべき能力を基としてその他のメタ認知系諸能力を開発し続け、自ら設定した生き方/
人生における夢や理想等の追求のために、最終的に高度な帰納的思考能力を獲得して、あらゆる事物/事象を己独自の認知様式(主体的認知体系)を用いて合理的に認識し、
己の存在拘束性を適宜、かつ主体・個性的に操作/管理することで現状打破に成功できるタイプの者とがいる。
数の上では前者が圧倒的であり、もちろん凡庸者がこれであることは言うまでもない。そして後者が「優秀者」だというわけだが、凡庸者の人数に比べるならば、優秀者のそれは圧倒的に少ない。

そこでオレたちは、まずはこの歴然とした両者の人数差が意味しているものを見出すべきである。ちなみに
(つづく)
60市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/12/21(木)11:52:34 ID:???
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『「プロト優秀者(優秀者になるための所与的要件を満たした状態に在る者)」とは、例えば過去における何らかの挑戦の失敗、己の養育者や世間一般が”正しい”とする事を為すことがもたらす理不尽/不幸、孤独や貧困等から生じる苦境、
満たされた境遇/虚栄から生じる倦怠/不全感、日常性への疑問や問題意識、親などの養育者の無関心や劣悪性(いわゆる“毒親”問題)、何らかの契機による世界観の崩壊、社会や人間全般に対しての懐疑を抱かざるを得ない状況等の経験を経ることによって、
自明的に提示された事物を単純かつ無謬的に信憑することに対する根源的懐疑を抱き、ヘーゲルの弁証法的な意識の展開過程(正→反→合)の「反(メタ認知/己の素朴な認識を懐疑できる)」段階に達した者のことである。

その上で彼の内心においては元々健全に発達していた主体的達成意欲/自己批判的観念/メタ認知能力等に所以して、己の生き方、あるいは社会についての強い目的・理想像が形成され始め、更に開発され続けてきた帰納的思考能力ゆえに、
己の"人生の質"を高める(己の存在拘束性を操作/管理する)ための“自分自身/他者/社会に対する本気かつ大きな戦い”の必要性を認識するに至る。』(『観念運動の自然法 第三定理の2(プロト優秀者定理)』)

そうこうするうちにプロト優秀者の一部は『本音/建前の使い分け』を為すようになる。というのも社会そのものに対する闘争・対抗観念の類を不特定多数者が看取できるようなカタチで、あからさまに表示/提示することは、社会生活上、
自殺的行為であることを経験・実証主義的な帰納的思考により悟るからであり(※注)、順調に成長していくプロト優秀者は、様々な失敗経験を経た後、「本音/建前を適宜、使い分ける者」になる。
すなわち大半の者(凡庸者)は、公教育/世間の常識/メディア等の言説といった建前/イデオロギーを本気で真理のつもりで信じ込んでいるから、まずはプロト優秀者は、彼らから異常者扱いされないためにも建前/本音、あるいはイデオロギー/
経験・実証主義知を、状況に応じて使い分けることを自ら学んでいかざるを得ないわけである。
(※注 例えば立花隆「天皇と東大」(2004/2005)によると、明治初期に我が国の歴史学に経験・実証主義的な考証概念を初めて導入した重野安繹/久米邦武は、
(つづく)
61市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/12/21(木)11:53:12 ID:???
3 of 9 (つづき)

旧来的通説・権威主義に次々に容赦ない批判を浴びせまくったことで学界から激しい怒り/怨みを買い、東大を追われる羽目となり、以後、彼らが為したような科学的考証を伴う歴史学を我が国で復活させるには、第二次大戦後を待たなければならなかった。
また戦前の大きな学問人弾圧事件の犠牲者の一人である滝川幸辰は、実は”歯に着せるべき衣を持たない人物”と評されるほど事物に対する思慮が足りない人物であり、
例えば大学の刑法の講義の中で、天皇を「天皇君」呼ばわりした上で法規の解説のための犯罪者に見立てるなどといった調子であった。)

ちなみにプロト優秀者が、この本音/建前の使い分けを知る者になるにしても、その到達年齢はケース・バイ・ケースで異なり、生き方によっては中年・老年期に入ってから、ようやくこれができるようになることも有り得る。
では社会生活の必要上の本音/建前の使い分けをマスターしたプロト優秀者がどのようにして、更に優秀者に成っていくのかを更に提示する。

『本音/建前の使い分けをマスターしたプロト優秀者は、優れたメタ認知系諸能力により、更に主体的認知体系を練磨し続けていくならば、次は主体的行動・認知傾向、すなわち「主体性(※注1)」を強めざるを得なくなる。
主体性を伴った生活に入ることによって、
並行的に「個性(※注2)」という己の天与の資質を認知的に発見し、これをはっきりと活性化するような生き方を為すための契機にも気づきやすくなる(※注3)。
主体性/個性を伴う処世は、経験・実証主義的な思惟・思弁能力を益々涵養し、認知可能なあらゆる情報(全ての経験/伝聞/記録など。)を受動的な演繹的思考様式ではなく、能動的な帰納的思考様式により体系化していく。

こうして形成された当該人物に固有の主体的認知体系を経て、プロト優秀者の自意識は、ヘーゲルの観念の弁証法的運動における「合」段階にまで達することが可能となるのであり、プロト優秀者は、世間のエートスや周囲の人々の
支配的観念などとは全く無縁であるところの、事物/事象に対する確固とした合理的認識である『合理主義的因果・方法論(※注4)』を自意識内に持つ「合」状態において「優秀者」と成るのである。』(『観念運動の自然法 第三定理の3(優秀者定理)』)
(つづく)
62市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/12/21(木)11:54:07 ID:???
4 of 9 (つづき)

(※注1 プロト優秀者は行き過ぎることのない適度な自他の分離観念(※注5)を保持することで、孤独感/厭世観等からAC(アダルトチルドレン・・慢性的な情愛飢餓感のために、落ち着いた情緒性や自然なマインド・セットを持てずに
普通の人間関係を構築できない者。)的属性/神経症/精神異常などに苛まれることを免れることができれば、主体性をどんどん強化していけるのであり、
このように気が変にならずに確固とした主体性を獲得することが、プロト優秀者が優秀者に成るための最大の難関だと言える。
ちなみに事物の非合理性に気づいたり、合理的に認知すること自体は、ある程度以上の知能があればさほど困難なことではない。しかして真の関門とは、自分が正しいと判断した思考結果を、
気持ちが揺らがずに堅持し続けることなのである。これができないと、人は『適宜・経済性(※注6)』に適う判断・行動ができない。

尚、プロト優秀者の大半は(所詮は凡庸者に三本毛が生えたような段階でしかないので、演繹的思考様式の大枠を越えられず)、文学者の例を挙げるなら芥川龍之介/太宰治/林芙美子などのように、
自分の自然な、もしくは合理的な感じ方と世間のエートスとの折り合いをつけるための処世術を見いだせず、苦悶/苦悩の果てに訳が分からなくなって、せいぜいそんな閉塞状況を作品にぶつけて気を紛らわすくらいが関の山で朽ちていくわけである。
あるいはまた三島由紀夫のような、完全に「東大を動物園にしろ!」的にオチャラケつつ(要するに、これまた事態にマトモに対応しうる帰納的思考能力を自主開発できないのでオチャラケでも見せるしかない。)、
派手に特攻的パフォーマンスをぶち上げて有終の美を飾るなんていう、如何にも戦中・戦後ミックス派のパフォーマンス至上主義型人間的な変則パターンもあった。)
(※注2  人間脳は小脳のROM的記憶と高い整合性を持つ短期記憶を優先的に長期記憶に転換するという記憶システムの生理的ルールを持つために、
良く主体的に思考/行動するほどに、独自性、すなわち個性を練磨することとなり、個性的生き方に目覚めるための契機をモノにしやすくなる。)
(つづく)
63市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/12/21(木)11:54:46 ID:???
5 of 9 (つづき)

(※注3 とどのつまり人生における目的/理想を持つ者にとっては、天与の資質(個性)を開花させることのみが、己を目的/理想に向かって安定的に成長させるための現実的な処世法なのである。)
(※注4 これは当論においては極めて重要な意味を持ち、本質的には事象を客観視できる能力(メタ認知能力)に由来する。
人が心の健康/健全性を保ち続けるためには、常にアンテナを張り巡らせて己が遭遇する事象に鋭く、かつ頭を冷やして反応(思考/評価)する必要があるのだが、
これができるためには、この基礎論理(合理主義的因果・方法論)を予め自意識内に持っていて、ついつい演繹的思考に陥ってしまいがちになることを着実に回避できる必要がある。)
(※注5 プロト優秀者であれば、人はそれぞれ固有の小宇宙の中に生きるしかないものであるという自他の分離観念を持っている。
例えばジイドは前掲書で、「死者の国から帰ってきた男のように僕は他人と一緒に居ても、いつも異邦人だったからだ。
最初のうちは、ただもう深刻に煩悶ばかりしていた。でもじきにこれまで知らなかった新しい感情が生まれてきた。(中略)これが己の真価を意識した最初だった。僕を他人から引き離し区別するものこそ肝心なのだ。僕以外の者の語っていない、
また語ることのできないことこそ僕の語るべきことなのだ。」と、自他の分離観念に目覚めることの意識の様相を語っている。
人間は皆、自分の脳が形成する“自分の認識世界という小宇宙”の主だから、この世には人の数だけの小宇宙が存在することになる。
ところが例えば凡庸者であれば、基本的には「自分の小宇宙 = 全世界」という単純素朴性(もしくは自己中心性と言っても良い。)しかもてず、例えば五人家族の世帯であれば、五人の心には五つのそれぞれ独立した小宇宙が在り、
それら絶対に融合/統合されることが不可能な“個(小宇宙)”が、互いに他の個と交通しつつ共存共栄しようと目論み、時には自分を殺して相手を立てたりするといった配慮をしなければならないことを理解できない。
例えば自分が楽しいと感じることは他者も楽しいはずであり、あるいは自分が不愉快なものは他者も不愉快であると思い込む、それ以外の状況を認められない。)
(つづく)
 
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64市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/12/21(木)11:55:21 ID:???
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(※注6 例えば人は時と場合などに応じて、事物/事象をマクロで見るか、ミクロで見るかという視点の選択をしたり、あるいは気宇壮大に大勝負を仕掛けるか、手堅く小さな利益を求めるかなどの判断を為す必要があり、
適宜・経済性とは、このような判断/行動の際に求められる適切・妥当・合理性のことである。)

ちなみに個性とは、見方を変えれば「多様性」を減衰させるものである。何故なら人は個性的であるほど、いくつかの事物に対する興味/関心/意欲、すなわち多様性を失っていくからだ。
だが一方でその代償として、個性は失った多様性を遥かに凌ぐ大きな「自己保存能力」を当該者にもたらすのであり、この本質とは「一貫性」である。

一貫性とは、進歩の自然法の第一定理(長期的な集合知/帰納的思考様式/弁証法的運動による進歩/発展)が成立するための前提的要件であり、
生物界の各個体、もしくは人間界総体は(個性がもたらすところの)一貫性という属性を持っているからこそ進化できる(※注)。
尚、一貫性は、凡庸者的な頭の悪さがもたらす"一本調子"などとは、厳に区別されなければならない。
そのようなものの中には単純性に基づく極端さ/意固地に基づく頑迷さは在っても、合目的・合理性がもたらすような強靭さと柔軟さ/七転び八起き的な不屈さがもたらす無駄なく生きる効率性はない。
(※注 例えば鳥類は、祖先である恐竜が持った「気嚢システム」という身体的個性を一貫して持ち続け、「飛ぶ」というタフな有酸素運動に対応した。
更にダチョウは地上生活において、またペンギンは水中生活においてこの個性を活かし、特殊な生活様態に適応した動物として進化した。
このように個性というものが持つ本質的属性であるところの「一貫性」が、(一定の洗練/可能性の追求としての)集合知/帰納的思考様式/弁証法的運動を展開させるための前提的要件となる。)

では以上をもって当論の現時点における凡庸者/優秀者それぞれの、とりあえずの包括的属性を認識できたところで、(先ほど提示したところの)人類集団の圧倒的多数派が凡庸者であることの理由の考察に戻ろう。
(つづく)
65市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/12/21(木)11:56:04 ID:???
7 of 9 (つづき)

人間が生存するためには、自然界における各人の非力さを補うための社会生活を営む必要があり、その単位要素は家族を始めとした少人数グループとなる。
ところがこうした少人数グループの場において最重要視されることとは、往々にして「真理・合理性」などよりもまずは各成員間の「連帯/相互扶助」なのである。
というのも真理・合理性に関わる問題への対応は広く社会の万機公論に委ねることができる場合が多いのに対し、成員間の連帯/相互扶助に関する問題は、とにもかくにも自分たちが主体的に当事者として為さざるを得ないからである。
そしてその際に一意的にポイントとなることは、まずは各人同士の「安定的な信頼関係・円滑なコミュニケーション環境」の構築である。

さてもし、ある小グループの構成員Aが、単純に小脳的ROMに則り習慣及び個人的性癖に従って行動せずに、その都度いちいち問題を俯瞰したり懐疑しつつ思惟/熟考した上で行動するような、
すなわち己の存在拘束性の自己管理に適した人格・能力個性を持つならば、何が起こるであろうか?
それは、他の者はAとのコミュニケーションに際して、常に高度な思考を伴う判断とか逡巡を強いられることになり、人々の感情が落ち着かないということである。
つまり”いちいち考える人”であるために決まりきった思考・行動パターンを持たないAは、何をしでかすのやら、他者には容易に予測できないために周囲の者を常態的に緊張させる。

そしてもし構成員Bが、常に習慣及び個人的性癖に没入して、己の存在拘束性の自己管理などとは無縁の行動を為している場合、他者はBに対しては、より少ない思考や心労でコミュニケーションできることから気持ちの落ち着き/生活の小康を保てるのであり、
これすなわち上述の安定的な信頼関係・円滑なコミュニケーション環境の構築に直結する。
すなわち「真理・合理性」などよりもまずは各成員間の「連帯/相互扶助」こそが第一義的に重視される必要がある小人数グループ内においては、グループ内の大半の者が、
習慣/性癖のみに依り思考をしない凡庸者であるBのみと共働したり、Bに対してより大きな親近感を持つようになる。
(つづく)
66市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/12/21(木)11:56:43 ID:???
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そして以上の因果は優秀者であるAにとって致命的な不利益をもたらす。すなわちAの異性者は、Aとの共生を通常の習慣生活を前提とした一意的な方法によるのみでは管理しきれないことに気づくやいなや、普通は苦労が多い人生が予測されるところの
Aとの関わりを動物本能的に避けることになり、この結果、Aは己の子孫を残しづらくなるからである。
こうしてAは、集団化したB型の者たち、すなわち凡庸者のグループから排除される可能性が高くなるのである。ちなみにこの傾向は、人間が当面の間
とりあえず生存するという背に腹は変えられない切羽詰まった目的のためには、合理性を持つがゆえに、一般的に回避できないことである。

もちろんA型人間である優秀者は人格的諸能力において優れているから、グループから排除されない様に様々な状況で困難を克服してみせたり、利便性を向上させるための方策を案出し、皆の役に立とうとする。
ゆえにその“重宝さ”によってグループの他の凡庸者からは一意的には疎まれないのだが、皆が困っている時以外の平時は、
その己自身をも対象・相対化することを辞さないメタ認知系諸能力/群れることを知らない堅牢な主体性/個性等が、今や多数派となった凡庸者たちの生き方とは相容れない。
その上で凡庸者は、自他分離観念が不全であるから多様な個性の共存に耐えられず、主体的認知体系が単純であることがもたらす長期的不利益・非合理性を、集団パワーをもってして理屈抜きで無効化しようとする専制性を自然的に持つようになっていくために、
当該グループはほんのわずかに生き残る優秀者を除けば、相対的に相互に御しやすく、かつ連帯しやすい凡庸者が圧倒的多数派になる。
そしてこの段階でわずかに生き残った優秀者は、人間関係を、あるいはグループの人々が生きるための処世観念等を意図的に操作/管理することでしか、最早、効率的に自己保存することは不可能であることに気づいていく。このように

『人間は社会性動物であるがゆえに自己保存の為に普通は集団化するわけだが、生物の行動をもたらしている本源たる自己保存本能が、
単位集団内においてはまずは、「連帯/相互扶助」を当事者たちの切迫した意識を伴って当然の如くに集団内の多数者に優先視させる。
しかしてこの選択においては、集団内のエートスは凡庸者に適したものとなり、「真理・合理性を一般的行為属性において担保できない集団/社会は、
(つづく)
67市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/12/21(木)11:57:25 ID:???
9 of 9 (つづき)

最終的には存続できなくなる。」という当然の理が、集団の多数者が凡庸者となるがゆえに訴求力を持たない。
このゆえに当分の期間は、個人間の安定的な信頼関係/円滑なコミュニケーションを保つことに特化したような凡庸者同士が優秀者を駆逐しやすい傾向を持ち続けることとなる。

そしてこの傾向は、なし崩し的に社会全体の大きな傾向とも成っていかざるを得ない。
何故ならほぼ全ての人間は必ず何らかの自己保存のための単位集団に属するという基盤上で、社会的な活動を為し続けるからである。』(『観念運動の自然法の第四定理(「凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」)』)

ちなみに、この「凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」とは、当論的には決定的に重要な認識であり、実はこの程度ではまだ全然足りず、読者は更なる「観念運動の自然法」の提示によって、その人類史的レベルでの作用様態を知らなければならないのである。

ともかくこれで判然としたことは優秀者とは(前述の)その発生機序からも分かるように、凡庸者がもたらす社会環境の劣悪性に所以して特殊的に真理・合理性追求のための努力を為した者なのであり、
そもそもデフォールトでは人間は全て凡庸者にしか成らないということ。
すなわち真理・合理性の追求傾向を全うする者とは、人間としては「特殊な運と契機をモノにした者」であり、ゆえに上述の自然法的機序によって人数的には優秀者集団は親集団であるところの凡庸者集団には勝てない。
しかしてこうして少数派であるがゆえに、優秀者は強度の主体性を持たざるを得なくなることで、人間界そのものをメタ認知し、人々の生活や思想を操作/管理することを通じて己を生かすという行動習慣を、極く自然に修得していく。
すなわち“尊大な善人の大量生産”的なことを指導者・特権者階層に働きかけて為さしめる際にも、この優秀者的属性が優秀者を含むグループ内の集合意識的力動(例えばフーコー的な下から上る権力など。)
を形成させて、極めて無主的な様相/成り行き(※注)で遂行しうるようにさせるわけである。
(※注 凡庸者側から観ると、誰かに操作/管理されているという認識/実感を持てずに、優秀者の意思が実質的に体現している。)
(「凡庸者vs.優秀者 凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」 おわり)
(第十回 おわり)
68市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/12/21(木)13:18:05 ID:???
>>67

訂正

(前述の)その発生機序からも分かるように

         ↓

(前述の)観念運動の自然法 第三定理の2-3からも分かるように
69市井の居士◆dgvbGqecqY :2017/12/21(木)18:05:16 ID:???
>>65 訂正

習慣/性癖のみに依り思考をしない凡庸者であるB

          ↓

習慣/性癖のみに依り思考をする凡庸者であるB
70市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:11:24 ID:???
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「市民層  概論」 第十一回

「感情系習慣的自動思考様式」

さて前回までに凡庸者/優秀者の、とりあえずの包括的属性を提示し終えたわけだが、今回(第十一回)から次々回(第十三回)までにおいては、人間脳のデフォールト状態としての凡庸者の認知(思考)活動の一般的機序、
並びに当該機序が如何に進歩/発展することで優秀者のそれとして確立しえるのかについて論じ、更にそれのみでなく、関連ある付随的論説も適宜、為していく。
ちなみにこうした社会科学的認知システム論の必要性について一言申し添えておくならば、自然科学からのアプローチのみならず、「個々人の認知過程の一体如何なる意味的要素・構造・機序等において、頭の悪さ/良さの本質的差異を見い出し得るのか?」という、
経験論的因果論の視点からのそれなりの意味解明が為されているのでなければ(例えば前回までに提示した「凡庸者/優秀者に係る分別概念」などが認知されているのでなければ)、社会生活の場/社会政策立案の契機等における実地の展開の段において、
とてつもない錯誤/思い込み等に拠る方向違いや危険性が生じえるからだ。(我々は既に教育政策等の立案/実践の場における“非合理(直観)的確信に基づいた失敗”を、これまでに嫌というほど見せつけられてきた。)

さて前回の最後に「凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」を提示した。そして更にこのことは、漸次、形成されていくところの凡庸者中心社会におけるエートスが、(凡庸者的三属性の顕現により)自らの『存在拘束性の陥穽(かんせい)(※注)』に
“蟻地獄”的様相を伴いつつ嵌まり込んでいくしかないという不可抗的悪化亢進過程に入ることをも運命づけている。
(※注 存在拘束性に対するメタ認知的自意識がないために、これを注意深く自己管理するための契機がない。ゆえにあらゆる認知が存在拘束性がもたらすバイアスにより歯止めなく歪みまくるのであり、結果的には自らを甚だしく追い詰めるような状況を生む。)

パスカル「パンセ」(1670)の中に、人がこの存在拘束性の陥穽にはまり込んでいく機序を看破している名文があるので、少し長いが以下に引用する。
「自愛。(中略)この人間的な「自我」の本性は、自己のみを愛し、自己のみを考えるところにある。(中略)彼は自己の愛している対象が欠陥と悲惨に満ちているのをどうすることもできない。
(つづく)
71市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:12:31 ID:???
2 of 17 (つづき)

彼は偉大であろうとして、自己の卑小なのを見る。(中略)彼は人々の愛と尊敬の対象であろうとして、自己の欠陥が人々の嫌悪と侮蔑にしか値しないのを見る。
彼がぶつかるこの困惑は(中略)罪深い情念を彼の内に生じさせる。何故なら彼は、彼を責め彼の欠陥を自覚させるこの真理に対して徹底的な憎しみを抱くからである。
彼はこの真理を根絶したいと思うが、真理をそれ自身において破壊することができないので、せめて自分の意識や他人の意識の中で、できるだけそれを破壊する。
言い換えれば彼は自己の欠陥を、他人の目からも自己の目からも隠すことに心を砕く。人がそれを自分の前に指摘したり、それを他人に見られることに、彼は耐えられない。」(第二篇100)

また更には19世紀の文豪ドストエフスキーの主要作品はおしなべて、登場人物が独自の存在拘束性に由来する様々なイデオロギーを、実に自由闊達/好き勝手に創り出した上での行動の奇妙奇天烈な展開描写に、重心が置かれている。
すなわち彼は、如何なる社会体制であろうとも、人がはまり込む心の世界/身勝手な思考までは抑制できないのだ、そしてその陥穽を世の人々に伝えるということの面白さ/楽しさにとりつかれていたと言って良い。

凡庸者的存在拘束性の陥穽とは、「自己保存本能に支配されることを運命づけられている人間において、客観的事実・因果論を無視/黙殺させてまでして、自己中心・便宜優先的観念を形成させ、もって (事物の実態や己の能力とは無関係な)やる気/欲求を鼓舞さしめる傾向」
にはまることであり、当然ながら凡庸者においては、この手の”やる気/欲求”によって思考/判断の歪みが常に亢進していくために、当人的にはどんなに頑張っているつもりでも、当初に望んだ成功/達成からは程遠い結末しか引き出せない。

例えば戦後、完全な高度福祉・大衆中心社会となった日本社会において、こうした結末がとりわけ顕著である。
福武直「日本社会の構造」(1981)によると1979年に出版されたNHK世論調査所の発行資料においては「まず社会のことを考える」者は10%であるのに対し、「まずは自分の生活のことを考える」、具体的には家族の団欒を大切にする者は50%、
家族の団欒だけでなく、各人の自由な時間をも確保することが大切であると思う者が28%である。
さらに統計数理計算所が実施した
(つづく)
72市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:13:17 ID:???
3 of 17 (つづき)

「国民性調査」において、「その日その日を呑気に暮らす」ことを望む者は、1953年の32%から1978年の61%へと倍増したのに対し、「社会の不正義を憎み、どこまでも清く正しく生きる」ことを望む者は、29%から11%へと6割以上の激減となっている。

ちなみにこのような国民の自意識における歴然たる変化とは、観念運動の自然法の第四定理(凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向)が示すところの、
「単位集団内においてはまずは、連帯/相互扶助(※注1)を当事者たちの切迫した意識を伴って、当然の如くに集団内の多数者に優先視させ、真理・合理性(※注2)を一般的行為属性においてあまねく担保できない集団/社会は、
最終的には存続できなくなるという当然の理が、訴求力を持たない。」という自然法的機序が、人間営為の根幹に普遍的に作用し続けていることを知るならば、当然の変化であると納得できる。
ともかくこの国民意識の変化が、この数十年後にもたらした結末については、もう改めて提示する必要はないであろう。
(※注1 連帯/相互扶助に適う生活行動の帰結としての「集団的満足・充足感/個人的満足・充足感」が、まずは人々の当該行動への心理的報酬となるのであり、上記世論調査の結果とは、このことへの執着心の反映。)
(※注2 この文脈における真理・合理性を持つものとは、「人間社会の持続的健全性を保つためには人々が求める自利の分量と釣り合いがとれた「社会正義」的(他利)観念を保持しなければならない。」という認識。)

人間には、見田宗介「価値意識の理論」(1966)第二章第一節2が言うところの「内的強制による非選択性」という属性を持つ行為(※注)しか採れない者、すなわち具体的に言うなら、眼前の事物/習慣、あるいは気分/感情等に対して懐疑心を持つことを
“タブー”の如く忌避/恐怖し、何処かでそれらに対する歴然とした反証的結果が出たとしても、そんなことは「見なかった/聞かなかった/知らなかった」フリをして、まるでそれ(反証的結果)が無かったことのように振舞うしかない、
あるいはそれを受け止めざるを得なくなるが否や発狂せんばかりの大騒ぎになるしかないなど、思考・判断過程における合理的な意思選択能力が不全である者と、意思決定を合理性を基準としてある程度まで、
(つづく)
73市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:13:55 ID:???
4 of 17  (つづき)

感情的なものから理性的なものへ止揚できる、すなわち具体的には事象が持つ因果的属性を相対(メタ認知)化できるだけの前提的要件であるところの、相応の「人格」的能力を持ち、もって多様な意思の顕現の中から最も適宜・経済性に適ったものを選択できる者とがいる。

数の上では前者の圧倒的多数派であるところの“非選択的行為”しかできない者(演繹的思考者)が、人間のデフォールト状態としての凡庸者であり、後者の選択的行為もできる者(帰納的思考者)が優秀者である。
その上で観念論ではなくして、経験論としての自然科学的判然性を追求している科学論文においては、「内的強制」とか「非選択性」などという哲学的用語が、経験的事象において対応しているところのものにこそ注目する必要がある。

演繹的思考(ただひたすら固定観念化している認識のみを用いて、紋切り(非選択)型認知プロセスで処理される思考。)のための認知的アルゴリズムは、上述の如き“やる気/欲求”とか自我の防衛機制などの自己中心的心理力動を生産する感情(恐怖/不安/安心/親近感等)と、
決定的に連関して作動しており、「いつもと同じ(感情的)心地良さ/安定に至りたい。」という暗黙の目的性を持つ条件反射的(すなわち非選択的な)判断をもたらすのが普通である。

このような、その本源において動物と同様の「気分・感情と完全にリンクした上で、固定化された判断パターンのみに支配される習慣化した認知傾向」について、更に以下に詳説する。 

『演繹的思考様式とは、その事務的・紋切り型的な単純な認知構造のゆえに、例えば「安心/頼もしい/気遣われている/可愛い/カッコいい/可愛そう/慈悲/情けない/沽券に関わる/謙虚/良心的/不敬/粗野/堕落/良く頑張った/立派/真剣/不浄/破廉恥/
面倒/つまらない・・」などの気分・感情的認知要素に、認知の指向性が強く誘導され(※注)、必然的に心地良さを感じる固定感情に支配されざるを得ない思考様式である。』(『観念運動の自然法 第五定理(演繹的思考様式定理)』)
(※注 脳神経学的には小脳系と感情・意欲生成の中核装置である大脳辺縁系、及び習慣形成に多く関与する大脳基底核や大脳皮質の言語野/全頭連合野などの特定領域で構成される神経回路が演繹的思考様式の本体。
(つづく)
74市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:14:50 ID:???
5 of 17 (つづき)

その上で認知心理学的には、これは経験/感情/パターン(思考アルゴリズム)から成る「三点記憶」を相互に関連付けて、一つの「認知-判断-行動セット」としてチャンク(固定回路)化していると推定できる。
こうして演繹的思考様式においては、システム上、あるチャンクと同じタイプに分類される事実認識が感覚受容器から入ると、自動的に当該チャンクが援用されて、常に同じ強制力をもってして同じ判断が決定される。これが判断上の紋切り型/癖/意固地さ/習慣等を生む。)

というわけで上掲自然法の定理と神経生理学上の知見を併せてみることで、演繹的思考様式とは、過去に形成された事象記憶を、小脳皮質の脳神経ネットワーク上に固定回路化した紋切り型思考アルゴリズムとリンクさせた上で、
「感情/情動の生成系」回路によって起動/誘導し、思考・判断を誘導するシステムであることが分かる。
例えば嫌いな人から逃避する/魅力的な異性に接近する等のような日常生活上のあらゆる紋切り(演繹)型判断は、このシステムによって即決させられているのである。

その上でこの演繹的思考様式という思考・判断システムに、人間意識が素直に服従するならば、このシステムは、人に「安心/安寧/高揚/満足/怒り/不満/絶望」などといった、
当該者の自意識内で“快”系と“不快”系に生来・本能的に分別されていて、快系なら是、不快系なら非と自動的に決定される気分・感情的回答を、即座に与えることをもってして報いるというわけだ。

こうして快・不快的是非に完全支配される演繹的思考者においては、例え如何なる高学歴者であろうと、幼児/児童でさえも認めざるを得ないような自明極まりない事実認識(例えば「ボクが◎◎したから●●ちゃんも◎◎し返した。」など。)でさえ、
往々にして(真実を認めることが生む不快感から)都合の悪いことは全て、見なかった/知らなかったフリなどをすることで、認識の埒(らち)外に置かれる(※注)。
(※注 これの有名な事例を挙げるならば滝川事件(第十回 参照)においては、美濃部達吉が鳩山一郎(文相)による滝川幸辰の追い落としに加担した理由とは、美濃部が滝川の論説(著作)に感情的に反感を持っていたこと、
(つづく)
75市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:15:35 ID:???
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更には美濃部だけに限らず他の大学人の大半においても(この騒動に対して)まるで闘争心が燃え上がらなかったことの理由が、滝川幸辰本人の人望の無さという、極めて”感情由来的なもの”のみであった。
そもそもこの事件の発端にしてからが、蓑田胸喜が京大講演会で赤恥をかかされたことの怨みを、当時、京大の講演部長であった滝川に向けたという、感情的極まりないものであり、事件全体が関係者各位の「感情一色」で彩られたものと言える。)

ところで「合理主義」とは、基本的には「客観性に対する相当の注意」を払った上で、被操作因子に対する論理的な分析、並びに適宜・経済的に妥当な程度の計算的操作を経て真理/真実にできるだけ近い認識に到達しようとする態度であると定義できる。
しかして凡庸者的存在拘束性の陥穽に陥った状況、例えば上記注釈事例のように、本来であれば軍国化に向けてひた走る体制側と学問人連合が対決すべきだった重要な契機を、つまらない感情に支配されて逸するが如き顛末においては、
感覚受容器からの一次認識を合理主義的たらしめることが、ほとんどできていないというわけである。
ところが演繹的思考者においてはこのような状況下においても尚、例えば以下に挙げるような要因/属性が影響力を持つことで、彼らの主観においてあたかも認知が合理主義的であるかのように感じるという倒錯が、生み出されている。

誰かの意見の中に、慣れ親しんだ論理/美辞麗句/賞賛/肯定的レトリックが使われている、また自分の意見との間に親和性がある、更には発言者の態度において、自信と落ち着きがある、あるいは和やかさ/謙虚さ/
親しみ/微笑などの快感系の情動に満ち、はたまた情熱/毅然さ/断固さを持つなどといった要因(※注)。
更には提示された論理等を包括的に把握するのでなく、自分が気分的に気に入ったり腑に落ちたりする箇所が部分的に存在することをもってして、全体をも承認/認容する、ないしは文のレトリックが非常に整っていたり美的であることのみをもってして承認/認容する「短絡性」。

ちなみ念の為に断っておくが、こうした感情・気分的要素とか短絡性の如きものからの影響は、演繹的思考者のみならず帰納的思考者にも見いだせるものである。
(つづく)
76市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:16:21 ID:???
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しかし事実認識に対する分析/思惟等を、その中心とするところの帰納的思考においては、これらが認知の本筋である部分に対して決定的影響力を持つことは、基本的には在りえない。
ちなみに帰納的思考者は、特に本気で思惟/思索を要しない時には感情・情緒的表現がむしろ豊かな者が多いが、これは重要な何かを判断する際には、事実認識を歪めずに、これら感情・気分的要素/短絡性をその本筋には持ち込まないという分別を持つがゆえである。

しかして一方の演繹的思考者とは、ヘーゲル的「正」段階に居るために、認知の認知たるメタ認知を知らず、ゆえに演繹的思考を為そうとする傾向を“気づき”により調整する契機を持てず、同一類型の外観を持つ事象に対して、
十年一日の如くに常に同一の気分/感情により自動的(すなわち見田的“非選択的”)に、意思決定せざるを得ない。こうしてあらゆる思考/判断が根本的な非合理性の下で為されることとなる。

『演繹的思考においては、 往々にして“木を見て森を見ず”的な認知の狭窄性/決めつけ等が感情により亢進し、思考を客観視した上で合理的に統合する論考過程を排除する。この状況は演繹的思考というものを一言で言うなら、「自動判断」システムと呼ぶべきものにする。
そしてこの"自動判断的な物の理(ことわり)"は、人間の成長/進歩/発展に不可欠であるところの『破壊と創造(スクラップ・アンド・ビルド)(※注)』過程に飛び込んでいく、
ないしはこれを受容しようとする際に必要となる覚悟/勇気/度胸等を伴う自意識/認識等を、何一つもたらすことがない。
こうして演繹的思考者は最期には、現状に対する際限なき不平・不満意識を吐露し続けるだけの“性根がとことん腐った廃人”となるのであり、もって自らが真に幸福な人間に成ることをもってするところの、
人間社会のマクロ的安定・持続や進歩/発展のための貢献を成す事が(当人の気負い/努力があったとしても)できない。』(『進歩の自然法の第二定理』)
(※注 この類型としては、J.シュンペーターが唱えた「創造的破壊」観念などが著名。)

例えば我が国の人々は、世界的な教育大国の非常に高度な基礎教育制度の恩恵に浴しているにも拘らず、大半の者が帰納的思考ができずに、"公教育的な物の理"を
(つづく)
77市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:16:57 ID:???
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そのまま信じ込む傾向が強いために、我が国よりも遥かに教育制度が劣っている国の人々よりも更に、英会話修得のための方法に対して”開き盲(めくら)”である。
すなわち外国語修得においては、第一に当該言語の統語法をカラダ(脳の言語野)で覚えること(英語であれば「SV/SVO/SVOC」等の語順のままで直に意味を採れるようになるまで徹底的に反復訓練すること。)、第二は言語的有意音声群を、
これまた脳の言語野に"音真似"(ネイティブスピーカーと瓜二つの発音をすること)によって記憶させてしまうことの二点が肝心である。
そしてこれらの真理・真実性に基づく物の理というものは、例えば英語を本気で修得しようと努力し続けることで、観念上の破壊と創造の過程を経て、経験・実証主義(帰納)的に得られなければならないものである。

このように人間は高度・複雑化された社会生活を営む動物であるから、適度/適切な破壊と創造の過程に入ることなしに、欺瞞・恣意性に満ちた自動判断システムの目論見のままにいつもいつも行動しているだけでは、現実には実に多くの難題を招来することになる。
そしてそのうちに、何らかの不可抗力によって自動判断システムに従えない/当人が意識的に抵抗するなどということが生起してくるわけだが、この手の無闇な抵抗は、やがてイライラ/ノイローゼ/神経質・強迫観念/
パニック障害/うつ/アルコール等の薬物摂取欲求などの神経症様症状や犯罪やDV等に至る反社会・攻撃的衝動等を顕現させる。(ちなみに前者は特に女性において、後者は特に男性において顕著である。)

またこれとは正反対に、自動判断システムがもたらす快感的報酬が過剰になり、これを当人が制御不能となった場合にも最終的に不快感やストレスが発生してくる。
例えば夢にまで見たような"達成/成功”状態に身を置いた場合には、緊張感や自制心の急激な消失/極度の安心・開放感が、落ち着いて居ることが困難になるほどの躁(そう)状態の後に心身が疲れ果てて、もって絶望的な鬱(うつ)状態ををもたらすことがある。

この一般的には「荷下ろし症候群」などと呼ばれる精神状態においては、日常生活に支障をきたさないようにするための躁の自制に要する脳神経の労働量が恐ろしく増大するために、この状態に耐えることに失敗した場合には、 (達成/成功に対する)激しい
(つづく)
78市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:17:51 ID:???
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懐疑・絶望感等が発生して重度の鬱に陥るというわけである。場合によっては自殺にまで至る。

そもそも「鬱病」などというものは、己の存在拘束性というものに対するメタ認識を一切持てない認知の“蛸壺”性が、落ち着いた帰納的論考の不能状態をもたらした結果であり、言わば「演繹的思考病」の最たるものである(※注)。
(※注 また鬱病とは真逆の演繹的思考病例としては、「リジリアンス(回復・復元力)」などと呼ばれるところの「重度の深刻さを伴う危機的状況においてさえも、心の平静さを保つ能力」が、先天的に格別に優れている人々が存在し、
このような「サイコパス系気質」を持つ人々が演繹的思考者となる場合は、往々にして鬱病などとは正反対の社会的不適応状態となるものがある。
すなわち彼らは、非常に直情・攻撃的な反社会的行動(騒乱/犯罪/放蕩など)や奇矯な行動を躊躇/葛藤等を伴わないで難なく遂行し得るのである。)
  
というわけで人はこのような人間脳にデフォールトで設定されていて非選択的行為を強いる自動判断システムのみでは、適切に対応しきれない様々な事態に対処するために、
進化論的には動物が数億年の時を経て開発してきたこのシステムとは別個に、「合理性を追求するための新規の判断システム」を開発する必要に迫られる。
しかしこの新システムについて詳しく考察し始める前に、この演繹的思考(自動判断)システムについて、更に十分に意味的な理解を持っておくことが、(チャプター冒頭部で述べた理由から)必要なのである。

動物はこの自動判断システムを採用することで、第一には決まりきったパターン行動群を、"神がかり的レベル(※注)"に達する完璧・流暢・安定性を伴って為すことができるようになる。
第二には脳が個々の状況において思考/判断のために費やすエネルギー量を減少させるという経済性(言わば“資本利益率”、すなわちコスパの増加)を得ると同時に、第三には第一点の定形的行動に適宜・経済性が運良く備わった状況に限っての最大級の効率性を得ている。
そして更に第四にはこの極めて予定調和的なシステムが発生させる快情動によって、自らの情緒を安定化させると共に、他者の情緒をも或る程度の正確さをもって同様に操作/管理でき、自他の気質/情緒というものを安定させることができる。
(つづく)
79市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:18:30 ID:???
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(※注 これは例えば、0.01秒/0.05g/0.1mm程度の精度、かつ相当複雑な組み合わせを伴うような行動(例えば音楽演奏/絵画/料理/職人技など。)を可能にしている。)

以上のような属性を持つところの(人間を含めた)動物脳のデフォールトであるところの演繹的思考様式を、
今後は当論においてシステム論的見地から言及する際には、『感情系習慣的自動思考様式(エモーショナライズド・イデオロジカル・シンキング)(※注1)』と呼ぶことにする。
(※注1 感情系習慣的自動思考様式は、ある認識に対して「論考」するようには決して働かず、同一型の事象と感情発露の下でドライヴされるチャンクによって判断を予定調和させる(※注2)。このような思考様態は、常に「イデオロギー」を生み出す。
ゆえにこれを「エモーショナライズド・イデオロジカル・シンキング」とも別名するということ。)
(※注2 例えば、誰かの欠点を考え始めたとしよう。するとその者を"嫌だ"と感じさせる感情がどんどん自動亢進するにつれ、それに引っ張られて思考も(その者の)欠点を強調するような方向に予定調和的に亢進する。
このように感情に囚われて、自意識が一点(ヘーゲル的「正」状態)に執着している状態での思考は、最早、当人のIQなどの如何に拘らず、狭隘な視野の下で非合理的に推移するしかない。)

そして感情系習慣的自動思考様式について当論的に注視すべき点とは、(この思考様式が)刻々の頭脳労働がもたらす情緒の不安定化をできるだけ抑えることで、「凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」的な「連帯/相互扶助におけるコミュニケーション」
の際に必須であるところの、個々人の性格/気質を(いくつかの習慣的行動の下で)落ち着かせて、もって生活グループ内での人間関係を良好に保つという自己保存便益に直結する、言わば『生活能力的ホメオスタシス(恒常性)』とでも名付けるべきものを供給する点である。
つまり『エモーショナライズド・イデオロギー』を無闇に否定することは、人が生活するための人間関係基盤を喪失させかねない危険を伴う。

とどのつまりエモーショナライズド・イデオロジカル・シンキングとは、人間脳が進化の過程で獲得した、思考/判断に関わる労働力の省エネと人間関係形成に与する「基幹的認知システム(コンピュータの「OS」に相当。)」だと見做せるのである。
(つづく)
80市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:19:06 ID:???
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つまりこのことは、何人もこの感情系習慣的自動思考様式が求める凡庸者的な紋切り型/十年一日的な振る舞い方を、全否定したり免れ得たりできないことを示している。

『全ての人間はデフォールトでは単純な演繹的思考者であり、一部の“秀才(※注)”を除く凡庸者は、このデフォールト状態から一歩も出られるものでない。
その上で例え優秀者だとしても、日常生活的人間関係においては感情系習慣的自動思考様式を用いるしかないのであり、その意味では優秀者であっても一意的に凡庸者的認知行為から免れ得るわけではなく、
彼が優秀者的自意識や緊張感を失い、メタ認知不全状態となるならば、いつでも演繹的思考様式に全面的に支配されるしかなくなる。』

見方を変えれば単純素朴性/無謬的信憑性/自他の分離観念の不全という凡庸者的三属性、並びに感情系習慣的自動思考様式が、実は人間であるならば誰もが利用せざるを得ない能力を担保しているという側面が在るのであり、
ゆえに第十回で提示した優秀者的人間属性とは、これを当該者の全行為において100%顕現させているような者は、現実には存在しえない。我々が実人生において実際に遭遇する者は全て、その行動において「演繹的思考様式・帰納的思考様式属性ミックス者(※注1)」である。
実際には、むしろ演繹的思考属性を主としつつ、その上で帰納的思考を適宜、為せる者を、当論では「優秀者」と呼んでいるに過ぎないのである。
(※注1 学説の拠り所が大まかな認識の域を出ないとしても、そのことのゆえに科学的合理性が損なわれるわけではない。
その理由は科学においては、往々にして万人が共通に保持する「直観的自明性認識(※注2)」が論理上でのつながりを形成することによって、論者は非実測的な経験・実証主義知見からも合理性を見出せるからである。)
(※注2 ディルタイが言う「現象性の原理/基本的な思考機能」と同義。例えば「100°Cの湯に指を突っ込んで、「心地よい」と感じる者は居ない。」こと、あるいは「事物がどんどん粗末・瑣末化することを一意的には進歩/発展だと感じる者は居ない。」などの認識は、
各人毎の主観に基づく思考の前段階に在る基本的自明性であり、このようなものを万人が抱く直観的自明性認識だとする。)
(つづく)
81市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:19:55 ID:???
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ではここで無自覚な演繹的思考様式というものが、人間にとっては如何に低劣な判断/行動をもたらすものであるかを具体的に示すために、戦前期に繰り広げられた論争の内で最重要であるところの「天皇機関説論争」について述べる。
尚、この事件の俗的な経緯/推移は、ここでは関心を持つところではなく、学説の内容にまつわることだけを以下に論ずる。

上杉慎吉らを主唱者とする「天皇主権説」と美濃部達吉らを主唱者とする「天皇機関説」の真っ向からの対立において、合理的観点からどちらが正しいかを判じるならば、極めて明快に後者が正しいと言える。
というのも前者の本旨は「天皇という一個人が(大日本帝国の)主権者であり、その意思のみが(大日本帝国の万事において)絶対的な(すなわち超法規的な)効力を持つ。」というものであり、これすなわち中華思想とか王権神授説などと同類の、
君主と君主以外の者の人的価値において絶対に超えることのできない質的分別を設けるものであり、もしこれを是とするならば、憲法を始めとした、合議/意思決定の分担性を担保しようとする目的性を持つところの諸法規は、
最終的には存在価値がないし(すなわち天皇は立憲君主ではなく、自分以外の何者によっても規制されず、かつあらゆる気まぐれ/思いつき等が是認される独裁者となるから。)、明治憲法第55条の大臣が天皇の判断をすべからく輔弼し、
その輔弼した内容に関する責任は当該大臣に在るなどという、天皇が最終的に下す判断における妥当性を担保しようとする目的を持つ規定なんかの存在意義ともまた矛盾するわけだが、しかし主権説論者側から、
この輔弼規定自体の存在価値とか、更には国会/内閣などという概念の本質について取り沙汰されたことは唯の一度もなかった。

以上のことから天皇主権説には論理上、極めて稚拙な瑕疵を伴う恣意性があり、その上で慣習上においても、それ以前の大正年間の二度の護憲運動の勃発の経緯を見ても分かるように、
天皇とは現実には、紛れもなく「帝国」という抽象的主権体に従属する一機関に過ぎない、但しそれは他のあらゆる機関に優越するところの比較最高“機関”的地位に在るに過ぎないと見做されてきているのである。
(つづく)
82市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:20:39 ID:???
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ともかく、この一機関の意思のみで万事を決するなどということについては、憲法を始めとした諸法規により厳に禁止されているという解釈(天皇機関説)の自明さに疑いの余地はない。

しかしここでこの事例を採り上げている意図は、今更、両論に対する分析のみを読者に念押しするためではもちろんなく、当時の主権論者の行動を通じて、演繹的思考者というものの危険/心底嫌気がさすバカバカしさを、読者が理解するようにするためこそなのである。
すなわち主権論者は、再三述べている気分・感情的要素としての、自意識内での快・不快的是非に基づいて当該者の頭の中だけで勝手に創り上げられた「天皇観念」こそを、絶対だと思い込むという、
演繹的思考の自己中心性(凡庸者的存在拘束性の陥穽)の虜になっていて、だからこそ実在の昭和天皇本人が本件について、「それ(天皇機関説)で良いではないか。」と機関説を支持しているにも拘らず、
その事実を平然と黙殺し、あくまで自説に拘泥し続けるという、完全な自家撞着を為したのである。

とどのつまり天皇主権論者の本音とは、現に実在する天皇などは全く眼中にはなく、その上で(第九回で述べた専制的支配欲求型ロボット型人間としての)頭に取り憑いている”支配欲求”と”天皇主権説”を便宜的にリンクさせることにより、
現実政治・政局を自らの意のままに操ろうとするものであり、すなわち実在する”(今上)天皇”とは、彼ら自身の想いを象(あらわ)すためのお神輿(みこし)/用益物に過ぎないのであり、
主権説とは”彼ら自身が日本の専制君主に成りたくて仕様がない説”だというのが、そのオチなのである。
そして余談ながら、このようなキチガイ・鬼畜性が顕現する心理的構造は、そのまま二・二六事件を引き起こす原動力となっていったのであり、例えば自分たちを天皇が頼みとし、かつ自分たちが天皇と一心同体であるかの如き幻想にとり憑かれた皇道派青年将校一派の一人、
磯部浅一は、いよいよ銃殺刑を目前に控えた土壇場において、「陛下 日本は天皇の独裁国であってはなりません。(中略)明治以後の日本は天皇を政治的中心とした一君と万民との一体的立憲国であります。
(中略)左様であらねばならない国体でありますから、何人の独裁も許しません。」などという直諌文をしたためてその本性を暴露している。
(つづく)
83市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:21:24 ID:???
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もちろんこの手の虚実が併存する二律的心理構造とは、21世紀の現在においても相変わらず氾濫しまくっている(※注)のであり、すなわち演繹的思考者により祭り上げられた対象物 (すなわち己自身の欲求の体の良いカモフラージュのための媒体)を用いた擬態を為す輩と、
その本性を見抜いている者との果てることがない闘いが今日においても相変わらず続いているのである。
(※注 例えば或る保育士のtwitterにこんなのがあった。「待機児童の問題など、保育の現場では憲法が守られていない。子供の健やかに成長する権利、働く親の働く権利、子供の安全と発達を保証するためには、
今の保育士の安すぎる賃金と人手不足の解消も必要。大好きな子供たちのために声を上げて変えていきたい!」
この意見の心理構造は、「憲法/大好きな子供」を「天皇」に置き換えれば、天皇主権論と全く同一である。すなわち「憲法/子供」のどちらも、実は発言者の本音においては眼中には無いのであり、自分たちの「収入upと労働量のdown」のみこそが、真の関心事なのである。)

というわけで感情系習慣的自動思考様式とは、高等社会性動物である人間においては、生来・普遍的な「擬態行動」を支えるという機能をも持つのである。

では以上を踏まえた上で更に病跡学的な個別事例研究を為していこう。感情系習慣的自動思考様式は人間をして、例えば以下のような愚かしい生き方を為させるように仕向けてくる。

平林たい子の自伝「砂漠の花」(1957)によると、この生来の“アバズレ/チンピラ”的気質を持つ女(当時17歳)は、判で押したように誰からも一様に嫌われ、人としての見込み/将来性のなさから
周囲の皆が(平林に)交際しないことを勧めるアナーキスト青年に、同類としてのシンパシーを感じ、周囲の批判的な目に対する反抗心から逆に一途に惚れ込んで、お決まりの破滅的な転落(※注)を辿る。
これについて当人(平林)は、己が単なる“あまのじゃく”であることを悟るために、これほどの辛酸を経験しなければならなかったとは何たる不幸であるかという旨の述懐を為している。
しかし己の性根が必然的に宿す破滅性を知り、それを何とか抑えようとする決心まではできなかったようで、この出来事の後も放蕩三昧の生活は止まない。
(つづく)
84市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:22:01 ID:???
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(※注 関東大震災の折には社会主義者/アナーキスト/サンディカリスト等が一斉検挙され、多くの者が不法裡に殺された。平林もアナーキストの女であったために捕らえられ、処刑場とおぼしき所にまで連れて行かれたが、幸運にも九死に一生を得る。
その後、東京から出ることを条件に釈放された身寄りもない平林カップルは、絶縁状態の親類を頼り大連に渡るも、男は頼った知人に警察に売られ懲役刑となり、
一人残された平林は、入籍を許す者もいない私生児としての女児を栄養失調状態で産み、満足な世話も受けられず一週間で赤子を死なせる。)

また平林などとは異なるタイプの、言わば“逆噴射型”とでも呼ぶべき、生来的気質が単純すぎることからくる、己の求道者的一本気/不器用さ等に対する徹底的嫌悪感から、
生涯にわたる自己否定的な(己自身との)不毛な闘いを為し続け、自殺衝動にとりつかれるまでになったレフ・トルストイの人生にも、
この感情系習慣的自動思考様式がもたらす悲惨さ(己や社会を感情の束縛から離れてメタ認知することを未だ知らないので、一途な思い込みが最悪の苦悩/破滅につながることを理性的に回避できない。)が溢れている。
彼は「アンナ・カレーニナ」(1878)で、「君は非常に純粋な人だ。これは君の長所でもあり、短所でもあるんだ。君は君自身の純粋な性格から、全人生が純粋な現象から成り立つことを望んでいるが、そんなことはとても在りうることじゃない。(中略)人生のあらゆる変化、
あらゆる魅力、あらゆる美は、全て影と光(※注)とから成っているものなんだからね。」(第一篇十一)と述べ、平林と同じく理屈の上では己の弱点/人の世の真実を把握している。しかして彼の自己否定・嫌悪的執着は、現実には非常に哀しい不毛の努力を為すように仕向ける。
すなわちトルストイの主要作品を特徴づけているところの、例えば起承転結の如き筋立てを持たせることを嫌悪しているかのような、物語展開における徹底的な複雑・輻輳性と一回性事象の連続がもたらす各事象の非連続性等は、
言わば己の天与の単純明瞭な気性に対する絶望的嫌悪がその根に在ると考えれば、「なるほど」と納得できるのである。
(つづく)
85市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:22:40 ID:???
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(※注 “影と光”とは、例えば或る人物がどんなに“善良/好人物”に見えたとしても、それでも尚、彼が人間である以上、彼の人格の中には、例えば残酷さ/自己中心性などといった醜悪な部分を必ず見出すことができる、
というような類のことを示唆しているわけで、こうしてこの世のあらゆる事物は、影と光のコントラストの中にこそ、その本質を宿している旨を述べたものである。)

更にトルストイについて重要なことを言い添えるならば、彼の出世作の「戦争と平和」(1869)などを読んでいても、外形的には物凄い事件がどんどん起こってくるのだが、(その優れた文章表現力とは裏腹に)全く臨場感というか感情移入が読み手の心中に起こらないのである。
これと対照的なのがツルゲーネフの諸作品であり、それらはどの作品においてもドラマチックな場面の最中には、あたかもオレ自身が登場人物になってしまったかのようなリアルな共感/実感が沸き起こってくるのである。

では両者の作品におけるこのような本質的違いをもたらしているものは何なのか?それはトルストイとは、自分を自分が憧れている何者かに似せようとしている偽物(主体性/個性がない凡庸者)だが、
ツルゲーネフは己の真実に真っ直ぐに向き合って生きている優秀者であり、そこで掴んだ真理(彼の個性を形成するもの)を作品として端的に表現しえているということである。

さてこれらの事例を通して見えてくることとは、感情系習慣的自動思考様式のためのチャンクは、思考アルゴリズム部分が小脳ROMであるために、理性的にはその内容の滑稽さ等をメタ認識できたとしても、ここから直に思考様態を修正できるわけではないということである。
すなわち感情系習慣的自動思考様式の低劣性を免れるためには、思考の進捗につれて、その全体的方向性・方針を合理主義的たらしめるための何らかの『思考統御・監督系諸機能』が、適宜、働く必要があるのである。
結論から言えば、これは第十回において「人格的諸能力」としたものに由来する機能である。この思考統御・監督系諸機能についての詳細な論説は、次回以降(第十二~十三回)に持ち越される。
(つづく)
86市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)17:23:08 ID:???
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さて、とにもかくにも破壊と創造過程に入れず、テンプレート化した意思決定チャンクの継続的利用による自己限界的特異点に至った場合、凡庸者の多くは社会的不適応段階に移行する。
そしてその状態が慢性化すれば、ストレス系ホルモンの過剰分泌等による脳神経器質自体の破壊/変成/機能不全と精神病等の段階にまで、必然的に行き着かざるを得ないのである。
(「感情系習慣的自動思考様式」 おわり)
(第十一回 おわり)
87市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/01/19(金)18:21:08 ID:???
>>80

“秀才(※注)”の注釈が脱落していたので以下に補填する。

(※注 「秀才」は凡庸者のサブ・カテゴリー。これについては後の回で詳説する。)
89市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:13:59 ID:???
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「市民層  概論」 第十二回

「論考と人格」

すなわち人がどこまでも感情系習慣的自動思考様式のみで生き抜こうとするならば、本来、我々が「人類」に成るよりも遥か前に既にその基幹構造が完成されており、もって「特有の高度・複雑さを持つ人間社会での生活」については全くその“設計思想”
の想定外であったところの、単なる“動物界”仕様でしかなかったそれ(感情系習慣的自動思考様式)は、人間的「擬態行動や騙し合い」が錯綜/輻輳する特殊環境(人間社会環境)においては、
全く対応不能となる日がいずれは到来することは、最初から目に見えていた。すなわち人間社会においては一定割合の凡庸者は確実に、重篤な社会的不適応状態にシフトしていく。
しかしこうした不適応状態も初期段階であれば、実は簡単な気晴らし/気分転換をもってするだけで寛解させられることもまた事実である。

すなわち人は自己保存本能が健全に機能している状態(正気)であるならば、本能的な危機回避行動を採れ、(例え容易には解決できない処世上の問題を抱えている真っ最中にしろ)簡単には精神破綻前状態にまでは至らないものである。

ところで気晴らし/気分転換は、己の気分の状態を意図的に変えるという行為であるから、立派な「自己の存在拘束性の操作/管理」の一種である。
存在拘束性の操作/管理とは、システム論的には「現在の存在拘束性を新たな存在拘束性に“変える”、あるいは“(変わろうとする存在拘束性を)変えない”ことの組み合わせ行為」だと定義付けられるものだ(※注)。
(※注 存在拘束性とは、人の認知の様態/傾向に影響をおよぼす全ての内・外的要因。読者は例えば見田宗介の前掲書 第一章第三節「価値の機能的次元と類型」に提示された四類型・次元、
並びにそれらが第二章第二節「価値判断の規定要因」中の第2図が示すところの連関性を伴い顕現するところの様態等において、これらを包括的に良く看取し得るであろう。
これらに含まれるところの個別的要素には、例えば国籍/年齢/性別など普通には操作できないものも多いが、
(つづく)
90市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:15:13 ID:???
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心理状態/健康状態/職業/居住地/人間関係などなど自由な意思により変える、もしくは変えないようにすることをもって操作/管理できるものも多い。)

すなわち

『「破壊と創造」的事象とは、存在拘束性の変化/無変化としての、無数の微分的な破壊行為と創造行為が因果/連関し続ける“積分的”集合である。
そしてこれは、第一定理的作用(集合知/帰納的思考様式/弁証法的運動)をミクロ的に見た際の中枢要素に他ならない。』(『進歩の自然法 第三定理(「破壊と創造」定理)』)

例えばリー・ヴァン・ヴェーレン(進化生物学)の「赤の女王」仮説(※注1)が看破するが如くに、あらゆる生物は敵対的環境因子が無数に存在する中でのたゆまぬ破壊と創造としての「存在拘束性の操作/管理」競争を
強いられるのだが、これが地球上の生物界における自己保存には最も合理的な方法だから、誰もこのゲームから下りることはできない。
その上で前回言及した感情系習慣的自動思考様式に対抗するための「合理性を追求するための新規の判断システム」とは、実は気分の操作/管理などという簡単なものから、生活や職業などにまつわる比較的大きな事象/事物の操作までを包含するところの、
正にある意味でこの生き残りゲームのトップ・アスリートである人類のための「(生物学的)適応度(※注2)の上昇を目指している存在拘束性の操作/管理を為すための思考・判断システム」として位置づけられるものである。
とどのつまり当該システムによって為すことこそが、人が非合理的な好ましからざる状況(存在拘束性の陥穽に嵌った状況など)からの脱出のために為している、若しくは為さなければならないことの全てだ。
(※注1 常態的な進歩/発展が生物が絶滅を免れるための王道であるとする理論。)
(※注2 「適応度」は生物学用語。生物個体・種が保持するところの、自己の生き残り/進歩/発展に対して貢献的に作用する諸属性の保有度。)

ところで前回の平林たい子/トルストイの事例に見るように、人は理性的には感情系習慣的自動思考様式の滑稽さを認識できたとしても尚、感情系習慣的自動思考を直ちに捨てられるわけではない。
というわけで、この新規の判断システムには、しぶとい動物仕様の感情系習慣的自動思考様式的強制力に対抗して思考の過程においてその全体的方向性・方針を合理主義的たらしめるための、
(つづく)
91市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:15:54 ID:???
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何らかの「アンチ - 感情系習慣的自動思考様式機能」が備わっていることが当然の如く期待できる。そしてこれについて具体的に論考する前に、まず以下のことを説明しておく。

存在拘束性の操作/管理を為すための思考・判断に際しては、何をさておきまずは、この「己の存在状態自体がもたらすところの
(感情系習慣的自動思考的)強制力」自体が届かないような“圏外”に己の自意識が予め置かれているのでなければ、そもそも「必然的に心地良さを感じる固定感情に支配されざるを得ない(すなわち存在拘束性の陥穽に
はまらざるを得ない)演繹的思考様式」(第十一回)の中で存在拘束性の操作/管理などできるものではない。
すなわち今、現実に己の身を縛っている存在拘束性の操作/管理を為すためには、まずはその方法を案出する思考段階において既に、
「自意識」だけは一足先に存在拘束性の“圏外”に脱出し終えているのでなければ、これ(思考/判断)を成しようがない。

そしてこの自意識が存在拘束性の圏外に脱出できている状態こそが、実は「メタ認知」状態、すなわちヘーゲル的「反」状態なのであり、人の自意識は予めこの状態に在って初めて、存在拘束性の操作/管理を為せる。というわけで

『新規の判断システムにおける「思考統御・監督系諸機能」(第十一回 参照)の第一義的な目的とは、自意識を感情系習慣的自動思考様式の圏外に置いてメタ認知状態に置き、かつこれを保ち続けることにある。』

ところで実はこの「メタ認知」ほど、他者に説明するには厄介なものはない。もちろん現状の世界の公教育においてこの概念、及び認知における重要性を教えている処など一つもないであろう。
ただ世俗の界隈において、これに近似する注意喚起を為すことが時たま在る程度である。
すなわち「頭を冷やせ/よく見ろ・考えろ/相手(もしくは第三者)の立場で考えろ」等であるが、これらは必ずしも当論で言うメタ認知についての的を射た認識に人々を行き着かせるわけではない。

人の通常の自意識は、或る一つの習慣的、かつ快感系の観念に取り憑かれた状態に在り、ここに無頓着に留まり続ける、あるいはしがみついている限りにおいて当人の教養とか知能などとは無関係に、
(つづく)
92市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:16:33 ID:???
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凡そ合理性などとは無縁の思考/判断を為す、すなわち己の存在拘束性の陥穽にはまるしかないことは前回、述べた通りだ。これが凡庸者的な自意識状態である。
一方でメタ認知することそれ自体は、第七回で述べた「自己批判的観念」と極めて密接に関わるところの自意識状態であり、
己自身の有様を客観・合理的に認知/分析できるような、ある意味で“透明で澄んだ”意識状態であり、かつ妥協や曖昧さを許さない“冷厳な裁判官”のようでもある。
その上で優秀者の自意識は、適宜、感情的な自意識状態からジャンプして、この純粋に理性的な状態にシフトできる。
具体的にはこのシフトを為すべき必要性を示す契機に際しては適宜、「気づき」を得て、もって自意識の状態を速やかに「正」から「反」にスイッチできる。

そしてここで「メタ認知系諸能力(第七回 参照)」を、当論的視点からの定義付けとして、「メタ認知を可能にするためのプロト能力/メタ認知能力/メタ認知成立状態においてこれを基盤として動作する能力(帰納的思考能力)」の三能力の集合とするならば、
思考統御・監督系諸機能とは、このメタ認知三能力を適切かつ効率的に作用させるためにこれら自体に働きかけたり、あるいはこれら(三能力)を感情系習慣的自動思考様式の影響から免れさせてくれる機能ということになる。
その上で結論から言うと(もう既に幾度か言及しているように)思考統御・監督系諸機能を担っているものとは、
このメタ認知系諸能力自身の一部分であるところの「人格的諸能力」であり、これは上記メタ認知三能力の中の「メタ認知を可能にするためのプロト能力」に該当する。
ちなみに大半の読者は今、オレが何のことを言っているのか急にチンプンカンプンになってしまったはずだが、心配は無用だ。とりあえず今は軽く読み流しておいてくれれば良い。これの経験論的な解説は、
もう少し後で為すので、その際にまたこの箇所を読み合わせてくれるならば、キチンと理解できる。

ではここからは「何故にこの『人格』なるものが、新規の判断システムの中でメタ認知系諸能力に対する統御・監督系諸機能として、あるいは感情系習慣的自動思考様式の低劣性を免れさせ、もって思考を合理主義的たらしめられるのか?」を説明していく。
(つづく)
93市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:17:08 ID:???
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まずは「人格」についての当論的定義を得ておこう。ウィリアム・D・ハミルトンが提示したところの生物の利他主義的行動に関わる理論等からは、動物の種、あるいは個体レベルにおいて歴然とした差異を見出し得るような
固有かつ多様な「行動特性・性質・気質型属性」、すなわち(人におけるところの)「人格/気質」該当物は、自己保存目的下の戦略的判断の場において、顕著に有意であることを演繹できる。更に

『行動特性・性質・気質型属性としての人格は、人の思考/判断の全体に対して包括的な位置から影響力を行使する因子として、(思考/判断の場においては)思考能力それ自体に匹敵するほどの重要性を持つ。』

という仮説をここで立てる。その上で人類史を振り返る。2000万年前頃までは、大洋からの湿った風が海岸部まで密生する熱帯雨林を繁茂させていたアフリカ大陸において、類人猿と現生人類の共通祖先であるドリオピテクスが
多種多様な食草/果実が手近に満ちた快適な樹上生活を謳歌するも、1800万年前頃から始まった大陸のプレート移動によりテチス海が消滅し地球は寒冷化し、東アフリカの大地溝帯の両サイドにはそれぞれ長く連なる山脈が現れた。
このために東アフリカでは乾燥化が急速に亢進し、豊かな“恵みの森”は消え、ただ果てしなく広がるばかりの草原と閑散と生える樹木のみの「サバンナ」が出現した。

この環境的存在拘束性の下では従前の多くの種が絶滅する中で、人類の祖先たち(ラマピテクス)は、
脳を大きく発達させ生活の細部に至るまでの経験的事実認識を無駄にせず、これを徹底的に利用するための思考システムを新たに開発するという破壊と創造(進化)過程に入った。
すなわちこの過程においては、二足歩行と両手を自由に使うことによる草原における武器使用を伴う狩猟技術の向上/仕留めた獲物の運搬と分配等に適った能力を高めることができた血縁集団が、
更に個々のラマピテクスの人格的能力の差異に所以するところの、例えばチンパンジーなどの現生類人猿にも見られる「物乞い」行動、つまり非常に切ない目で食事中の相手を見続けて、相手を「ショーがないな。少しだけおすそ分けしてやっか。」気分にさせる、
あるいは“おじぎ”とか“肩を叩く”的な「挨拶」行動などによる
(つづく)
94市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:17:40 ID:???
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様々な集団生活に与する、高度な心理操作能力の開発を伴うホミニゼーション過程に入っていった。
こうして「人格」能力の差により自然淘汰・選別されることとなったプロトホミニド(人類祖先)の脳においては、更に経験記憶を戦略的行動能力開発のための素材としうるための更なる破壊と創造、
すなわち徹底的な脳器質的進化が始まり、コミュニケーション能力等を始めとするところの包括的知能が劇的に亢進していった。

そしてこれらの新規獲得能力はプロトホミニド段階においては、「凡庸者が優秀者を駆逐しやすい傾向」(観念運動の自然法の第四定理)的な人格としての、例えば「思いやる/毛づくろいし合う/ジャレ遊ぶ」などといった、
主として生活時間の大半を占めるところの集団内秩序形成に与する「連帯/相互扶助」的能力に類するものの開発に偏向する傾向を持ったことについては、何ら疑問の余地はない。
すなわち現生人類(ホモ・サピエンス)に至った現在においても尚、このことは今だに歴然と(自意識的にはプロトホミニド的な人格能力しか持たないと思われる)凡庸者/下層大衆の生活様態において歴然と顕現しているからである。
そしてこのような段階に留まる人々の認識においては当然の帰結として、人格(的能力)と言えば即、集団内自己保存目的に与する調和・協調型能力を促進するようなもののことを意味するのである。

しかして現生人類の中の「ホミニゼーションの結果として現出するに至ったとこの高度/複雑な特殊社会の中で生き抜かなければならない動物」としての自覚を持てる優秀者は、理性的判断能力としてのメタ認知系諸能力、具体的にはこれがもたらす
最高到達物としての帰納的思考能力を駆使した経験的事実認識に整合した(第七回の当該箇所で幾つかの具体例を示したところの)「合理的認識」こそが、人が生き抜くための真の知的財産であることを正しく認識している。
(つづく)
95市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:18:21 ID:???
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その上で当論が関心を持つところの人格とは、(第七回において提示した)主体的達成意欲/自己批判的観念などとしての『始原人格』とその合力的作用から発展的に形成され、
もってメタ認知系諸能力を涵養し、更にはこれの統御/監督を為すところの、幾つかの人格能力なのである。以下に詳説しよう。

まず始原人格能力には、三種ある。第一は「主体的達成意欲」、第二は「自己批判的観念」、そして第三は「欲求抑制観念(ストイシズム)」である。(ちなみに第一と第二は第七回において既に説明している。第三についての説明は次回になる。
ちなみにストイシズムは、他の二つとは質的に異なる特殊な属性を持つ。)
そしてこれら三種の始原人格のそれぞれから三系統の発展的な諸人格が発生する。今、とりあえずこれらを包括して人格的諸能力として捉える。すると

『人格的諸能力とは、(前述したように)メタ認知系三能力の一つであると同時にこれらメタ認知系(三)諸能力全体の統御/監督をも担うのである。
その上でメタ認知系諸能力は、常に人格的諸能力からの動機付け/活性化/統御/監督等の作用を受けつつ、個々が単独で動作したり連関し合ったりしながら働く。』

ところで例えば気分的存在拘束性の操作/管理などは単なる動物本能に基づく「快感追求欲求」が、その開始のための端緒となり得るわけだが(すなわち感情系習慣的自動思考様式の場合と同じ)、例えば職業(生活様態)/居住地/人間関係などといった
『高次存在拘束性』の操作/管理については、既に自意識内にプロト優秀者定理(第十回 参照)的な人間界の事象一般に対する確たる「問題意識」が常在していて、
これに基づいた「論考欲求」が端緒となるのでなければ、おいそれとはこれを開始できるものではない。すなわち

『人生や社会にまつわる高次存在拘束性問題にあたっては、当該者 (プロト優秀者以上の者)が既にそれなりの問題意識と人格的諸能力を保持していて、これらが媒体となることで、「論考欲求」を生起させる必要がある。』
(つづく)
96市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:19:04 ID:???
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具体的にはプロト優秀者等の自意識内において、背に腹は代えられないようなギリギリの状況において、彼の主体的達成意欲系の人格が、
脳内に既に「存在拘束性の操作・管理チャンク(破壊と創造チャンク)」(※注1)を形成しているならば、必然的に押し出されるようにして発生してくるものが、「論考欲求」なのである。
(※注1 人格が未熟である場合はこのチャンクが存在せず、論考欲求も発生しない。もって進歩の自然法の第二定理(第十一回 参照)的な自動判断過程に入るしかない。
こうなると存在拘束性の陥穽にはまり「無いモノねだり(※注2)」を始め、現状に対する際限なき批判/非難等の不平・不満意識を吐露し続けるだけである。)
(※注2 眼前に“在るモノ”を自動判断的に“悪の根源”だと決めつけ、“無いモノ”をひたすら狭隘なる思い込みにより希求しまくるところの感情系習慣的自動思考様式の典型的自動思考アルゴリズム。
例えば「戦前期の国民が太平洋戦争を積極的に支持したワケは、警察/憲兵等による弾圧、教育勅語制定に代表される教育政策/大本営のウソ報道等に因る不可抗力のせい」だとするところの自己責任回避論などが好例。
ちなみにこの責任回避論は、戦後は民主化/基本的人権の尊重/思想・信条の自由等が保証されて、従前の“無いモノ”は全て補填されたにも拘らず、
日本国民の大半が重大な社会問題に対して、相変わらず寡黙、かつ無知蒙昧であり続けているという経験的事実の提示により反証できる。)

ではここで始原人格から派生した代表的な個別の人格能力を以下に挙げる。

「真理性/卓越性を好む/重視する」人格こそは、人をしてプロト優秀者や優秀者たらしめる根幹的人格的能力である。これが無ければ、都合が悪いことは「見なかった/聞かなかった/知らなかった」振りの典型的凡庸者となるしかない。
すなわちこの人格を持たなければ、そもそも納得できるまで事物を追求しようという意志/態度を保持できないから論考開始点にすら至れない。
あるいは公教育等で得た専門的知性をもっぱら素人を騙し煙に巻くために用いようとするが如きの典型的パフォーマンス至上主義型人間、すなわち確信犯的な詭弁論者/衒学者に成るしかない。
(つづく)
97市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:19:39 ID:???
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また「真面目さ」人格の機能も同様だ。但し上記人格(「真理・卓越性愛好」)を併せ持たなければ、むしろ無謬的信憑性が強いだけの典型的ロボット型人間の形成を促す。
その一方で真面目さの反対人格であるところの、他者の意見/教唆等を受け入れる意志自体を持たないために、屁理屈だの言葉尻のみを捉えて反駁するがごときの「頑迷性/認知努力の“門前払い”性」、
すなわち「教育不能」人格しか持たない者はいずれは確実に、キチガイ・鬼畜性(第九回 参照)の顕現にまで至る。

また己が過去に為した努力に対する誇り/成果等に由来する「自尊」人格を涵養できていなければ、論考を始めたとしても、これを情緒安定的に進捗させられない。
更に他者の知恵に対して適切に心を開けるような「無知の知」的な意思/人格もまた論考行為にとっては決定的に重要であり、全世界に散在する有意な智慧の吸収を円滑ならしめる。
そして「几帳面さ」人格が無ければ、いい加減さが、「責任感」人格が無ければ結果に対する投げやり的態度が論考に終始ついて回らざるを得ない。

このように、そもそも論考の開始点に到れるか、はたまたその進捗過程における適切さの担保力は、
当該者が予め持つところの、実に多種多様な人格的能力、すなわち人格的諸能力が統御・監督的な力を発揮することで生成される。というわけで

『論考の開始・包括的な質とか内容を規定したり方向付けているのは、決して狭義の知力(教養/論理構築能力など。)だけではなく、まずは当該者に固有の人格的諸能力が、如何なる問題意識を持つかを規定し、更には論考過程に入る前から、
如何なる質/精度を備えた論考を為せるかの可能性をも規定している。』

すなわち論考という行為において、知能と共に決定的な影響力を発揮するのが人格なのだ。人は知能(論理性自体をもたらす能力)が高いだけではダメで、論考行為に深く関与するところの
幾つかの人格的能力がもたらす統御・監督的作用が適切に機能しているのでなければ、論考の開始/進捗/終結を優れたものにすることは絶望的というわけである。

では次に上記の個別の人格/意思(的人格)がどの人格系統に属するのかを、幾つかについて同定してみよう。(但しさっきも述べたように、今回は第一と第二の系統に関してのみ。)
(つづく)
98市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:20:15 ID:???
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まずは「真理性/卓越性を好む/重視する」人格だが、これは論考欲求の本体であり、これがなければ人は、そもそも論考などという重労働を為そうとする意欲を永遠に持ち得ない。
すなわち思考統御・監督系諸機能に関わる諸人格の中でも最も根幹的なものである。
アリストテレスは「ニコマコス倫理学」第六巻(B.C.4c)において(「智慧」に勝る価値を持つものとしての)「思慮」について、『「思慮がある」とは、「自分にとって良き事柄とか功益ある事柄に関して立派なやり方で思量できる」ということであり、これは
(珍しいこと/驚きべきこと/難しいことなどを知っていることであるところの)「智慧」を用いた上で、人間的な諸々の「善」(オレ注 ; 進歩/発展)を追求させるもので、すなわち「思慮」は、論考の過程の個々に対して
「何を為し、あるいは為さざるべきかを規定し命令し真っ当な論考を開始させる」動機をもたらす。』旨を述べている。

つまり如何にモノ知りであろうとも進歩・発展的方向性を持たなければ、論考という行為が価値を持つことは絶望的だ。その上で論考における価値の本質が、
「真理性/卓越性を好む/重視する」ことであり、更に人が為す事の全ての進歩・発展性の始原人格は「主体的達成意欲」なのである。

というわけでオレがtwitterで度々言及するところの“天才”と“秀才”の間の大きな隔たりも、(狭義のIQの差異とかよりも)主体的達成意欲とその系列人格能力の隔たりに因るところの方が、ずっと大きい。
つまりこれこそが、人と社会の進歩/発展の源泉であり、オレが優秀者的属性として何よりもまず「主体性」を第一に挙げていることの所以なのである。

そして「教育不能」人格とは、逆に主体的達成意欲系人格能力が不全であることの帰結である。つまりこれは、一切の真理・真実性/卓越性への無関心性の源泉であり、
(つづく)
99市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:20:48 ID:???
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第七回で述べた「無思考・無忍耐・無努力・他罰的傾向」、すなわち極めて他者依存的で自らの側で状況を操作しようとする能動的能力を持とうとしないパフォーマンス至上主義型人間の主要人格である。
これは、例えば知性において己よりも数段も格上の相手に対してさえ平然と批判を為せるような心性の源泉である。そもそも批判する相手の主張を凌ぐ対案の提示を伴わない(言わば“相手の主張の存在”に依存しているだけの)結果論的批判だけで良いならば、
子供でも馬鹿でも簡単に為せるのであり、口先だけ/善人振り/利口振りをもってするパフォーマンスには打って付けである。
もちろんこうしたものは人と社会に対して著しい幼児的退行性をもたらすことは言うまでもない。(同じ凡庸者カテゴリーの中でも生真面目なロボット型人間は、教育不能人格は持たない。)

次は「無知の知」意思/人格について。これは集合知を有意に利用する際に必要であるところの「謙虚さ/分際を知る」「真面目さ/几帳面さ」人格の源泉。
その上で「無知の知」人格とは、「自己批判的観念」に由来している。そして自己批判的観念系の最高派生物は「責任」人格である。これら「無知の知」「謙虚さ/分際を知る」「真面目さ/几帳面さ」「責任」人格が、「自己批判的観念系人格能力」の代表例。
ちなみに自己批判的観念系は、主体的達成意欲系が健全に備わった後でなければ保持できないところの、より高次の(理性の働きを要する)系統だ。

では次に論考システムの機序を示すサブモデルを提示する。

プロト優秀者以上の者においては、感情系習慣的自動思考様式のための固定回路(正規チャンク)の援用のみでは、自己保存本能が求めるものに適切に対処できないことが歴然となった時点で、世間の一般常識に対する根源的懐疑/個別事象に対する問題意識、
並びに諸人格が既に自意識内において十分に成長しているならば、それらが、まず強い不快情動を発生させる。
すなわち目的達成のために期待をもって援用された正規チャンクが予定通りの結果を生まなかったという経験的認識は、これと人格/破壊と創造チャンクが相互に交通することで、
「何故なんだ!?/やっぱりこうなるの・・」的な激しい煩悶/疑問/ショック/沈滞した気分等を心に生起させるのである。
(つづく)
100市井の居士◆dgvbGqecqY :2018/03/25(日)13:21:24 ID:???
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その後、破壊と創造過程に先立って必要であるところの「覚悟/勇気/度胸」系の意思/マインドセットも破壊と創造チャンクに主体的達成意欲系人格が作用することで漸次、醸成され、ついに論考欲求が発生してくる。

そしてこの際に重要なことは、人格的諸能力の思考統御・監督系諸機能により自意識がメタ認知状態にシフトすること、そしてこの状態を論考終了まで保つことである。
というのも「反」状態でないと、論考欲求の発生にまでは至っても、ゴチャゴチャと考えた挙句に結局、感情系習慣的自動思考様式に舞い戻ることになるからである(※注)。
(※注 例えば「結局、奴は何故、怒ったのか?オレが●●と言ったからか?しかしそんなことで腹立てられる筋合いはない!人間というものは◎◎しなきゃならんものだろうが!胸糞悪い奴だな。あ~ぁ、ウゼェなぁ。」みたいに。)

ちなみに宗教などは、こうした高次存在拘束性問題を、(凡庸者的「正」意識に留まったままで)日常そのものから隔絶した何やら神秘的な認識に結びつけて、何とかしようとする。
例えば仏教的修行では、あらゆる事物/事象への執着のない「空」、没我的自己投入である「三昧」(「フロー」・・脳波はα波、またはθ波に近いα波)状態を解脱(破壊と創造)のための要件だとして、
これに自在に到達するためのノウハウの獲得(悟り)をもって、存在拘束性の操作/管理を成せるつもりでいる。
しかして現実には、高次存在拘束性の操作・管理法を、真の意味での合理性を伴うもの(すなわち現実生活における成功/自己実現に直結しうるもの)として樹立するためには、
こんな“世捨て人”みたいなメンタルでは到底不可能であることは、誰もが薄々は気づいている。

とどのつまりこの手の非メタ認知・非論理的方法論が今だに堂々とまかり通ることの理由としては、まずは「主体性」の獲得という困難を極める過程を回避しようとするからである。すなわち第十回で示したように、
何らかの"真理めいた認識"を得たとしても尚、主体性が希薄だと、それを自分自身が信じ切れない。ゆえにどうしても主体性の獲得を避けることはできないのだが、しかしてこれは容易にできることではなく、そのハードルは極めて高いのであった。
(つづく)
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