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後白河法皇を追憶するスレッド

1名無しさん:2014/04/13(日)17:11:53 ID:j8hLhxj1J()
1 名前:日本@名無史さん
投稿日:2011/09/07(水) 11:13:03.40
特に政治力、政治手腕について語ろう。

2 名前:日本@名無史さん
投稿日:2011/09/07(水) 11:14:27.69
大天狗=マキャベリスト、という解釈でいいのだろうか?

3 名前:日本@名無史さん
投稿日:2011/09/07(水) 13:58:45.22
後白河に政治手腕があったかどうか謎である。そもそも登極自体が中継ぎであり、
在位2年で退位させられた後は、二条帝親政派との軋轢に懊悩し、二条夭逝の
幸運の後は清盛の政治壟断、院政停止の憂き目に二度も遭っている。
むしろ政治面よりも天皇家の荘園を集中し、経済的に生き残ることに成功した
手腕を評価すべきである。お手本は保元の乱後の藤原忠通による摂関家領の防衛行動だろう。
2名無しさん :2014/04/13(日)17:12:29 ID:j8hLhxj1J()
13 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2011/09/21(水) 05:27:39.52
ヘイシが倒れたので保守

14 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2011/10/01(土) 22:35:47.36
ヘイシが倒れたので保守
3名無しさん :2014/04/13(日)17:13:11 ID:j8hLhxj1J()
18 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2011/10/19(水) 01:12:15.45
権力闘争をくぐり抜けたのだから相応の政治力は持ってただろうが
結局は美福門院、平清盛、源頼朝などに翻弄された印象だな
4名無しさん :2014/04/13(日)17:14:22 ID:j8hLhxj1J()
32 名前:日本@名無史さん
投稿日:2011/10/22(土) 20:09:50.75
日本史上での後白河の功績ってなに?
頼朝が武家政権で高評価を受け
後白河は保守反動扱いにされがちだが

33 名前:日本@名無史さん
投稿日:2011/10/23(日) 10:53:00.29
後白河がいなければもっと天皇家の地位低下は早かったと思うけどな
・天皇家に代わり政治を牛耳った摂関家から天皇家家長(上皇)の手に
政治を取り戻し新たなパートナーとして平氏を選んだ
・平氏も台頭しすぎて第二の摂関家になろうとすると
源氏に上洛を命じて平氏を追討した
・源氏にも追随せず頼朝の征夷大将軍就任を阻止した
武士の台頭が顕著だったから朝廷の政治が失速したように見えるけど
逆に朝政の主導権は摂関家や平氏ではなく天皇家家長である自分にあることを結論付け
頼朝を関東にとどめて朝廷の政治には一切口出しさせなかったことから
都における天皇家の地位は摂関全盛期などよりずっと高かった
5名無しさん :2014/04/27(日)15:36:36 ID:bCcgZEgbN
『新書で名著をモノにする 平家物語』(長山靖生著、光文社新書)

「後白河は若いころは暗愚といわれた人だったが、後白河の暗愚とは、誰
にも本心を見せず、誰をも信用せず、誰もまだ考えたことのないやり方
で、終わりの時代を生きようとする底知れなさの別名だった」
6名無しさん@おーぷん :2015/04/05(日)07:48:35 ID:ubr
>>5

岩倉具視を連想させる。
7名無しさん@おーぷん :2015/04/05(日)08:27:19 ID:ubr
タレイランも連想される。
8名無しさん@おーぷん :2015/04/20(月)18:27:22 ID:Dvv
梁塵秘抄は無視ですか、そうですか
9名無しさん@おーぷん :2015/04/24(金)22:15:02 ID:Snm
この上皇と言うより、問題は父君の鳥羽上皇なんだよね。

堀河天皇が夭折された時、その皇統は終わってるんだわ、白河上皇的には。孫(鳥羽天皇)なんか眼中になかったのだろう。
保元の乱が新院方の勝利に帰結しておれば、本来は崇徳上皇こそ、没後の諡が後白河になっていたはず。実在の後白河上皇(天皇)は祟り封じで崇徳と言う諡号でいいんじゃね。

富家殿や悪左府は、そう言うニュアンスを理解していたので、生前の鳥羽上皇に嫌われていたのだろう。
10名無しさん@おーぷん :2015/09/02(水)22:57:53 ID:vNm
義経に頼朝追討の綸旨出したのは致命的失敗だった

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