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官位について語るスレ

1名無しさん:2014/04/13(日)16:48:12 ID:j8hLhxj1J()
252 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2013/04/09(火) 21:27:04.01
江戸期に京都の庶民(といっても豪商)が天皇家に寄付をした見返りに貰えた位はどれぐらいまでなんですか?

253 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 04:40:11.31
七位。その外の手としては摂家・清華あたりの諸大夫は無理としても侍として
仕官の形をとり六位をもらうとか。

254 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 09:41:43.79
地下家伝を見ると、省寮の史生で従六位下に進んだ例はいくつかあったから、
豪商の例も中には有ったかも。
それと史生は金を出してなるばかりではなく、
食い詰めた人が縁を頼ってさせてもらうこともあったらしい。
2名無しさん :2014/04/13(日)16:48:50 ID:j8hLhxj1J()
20 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2013/04/30(火) 06:27:04.51
自民党の改憲案に「官位の復活」は書かれていないのな。
3名無しさん@おーぷん :2014/06/13(金)15:51:18 ID:LlyYu5AdC
今は没後、追贈の形で与えられているようだが、文字面は明らかに゛官位゛だよね。内閣法なのか、それとも別の法律に基づいているのか。国葬だった吉田茂氏とノーベル平和賞受賞の佐藤栄作氏は従一位だった。

維新回天以前、官位官職は原則、セットだったんで、官位のある人には官職もあった。何時の時代も武士(地頭)は官名を名乗るのが好きだったようだ。僣称は当たり前で、実際に公式に任官しているかどうかなど、度外視されているように思われる。(もっとも、それぞれの私称官位には、先祖が累代拝命した履歴があるとか、何らかの家系伝承的根拠はあったのだろう)

地頭と言うのは、鎌倉時代では御家人と同義語だろう。室町期で申す国人領主で、一郡に数家(多い場合は二桁家)は存在していただろう。地頭は必ず、官位を私称していた。好きだったんだろうね。
4名無しさん@おーぷん :2014/06/13(金)15:54:12 ID:LlyYu5AdC

>地頭は必ず、官位を私称 X

>地頭は必ず、官職を私称 ○
5名無しさん@おーぷん :2014/06/13(金)16:04:23 ID:kPkakSe09
秋田城介(あきたじょうのすけ)と言う官職は武家の間では、大層な名誉ある官名だと聞いたような記憶がある。耳学問でソースもはっきりしなくて、申し訳ないんだが。

他には鎮守府将軍だな。鎮守府将軍任官者には幕府を開く資格があったらしい。

これらは大宝律令よりも後の制定、令外の官かな。ググれば簡単に確認出来るのだが……
6名無しさん@おーぷん :2014/06/13(金)16:16:08 ID:vB9QnXnhV
下総の千葉氏、通称「千葉介」である。この「介」は下総介と言う意味だ。

累代の官職だった。西国の太宰少弐、武藤氏の「少弐」と似ている。

ふと、思ったが、常陸、上総、下総は「介」が地頭(後には大名)の在地者としての極官だったように思われる。
何となくである。誰か有職古実に詳しいエロイ人教えて下さい。
7名無しさん@おーぷん :2014/06/13(金)16:26:24 ID:JD9pMrcr3
゛二位の尼゛と言う時の二位には、官名は伴わないだろうね。

保元の乱の時、無官の大夫こと、源為義が新院方に召されているが、悪左府や崇徳上皇の御前で総司令官として、献策している所を見ると、官名は有さずとも、官位はあったのかも知れない。
8名無しさん@おーぷん :2014/06/13(金)21:57:39 ID:LZP8h0A64
国語の古文の授業で、督(かみ)亮(すけ)丞(じょう)佐官(さかん)と習った。
9名無しさん@おーぷん :2014/06/14(土)04:45:49 ID:VoLWkN40c
>>5

>鎮守府将軍任官者には幕府を開く資格があったらしい。


と言っても実際に開いた例がないからね…。
10名無しさん@おーぷん :2014/06/14(土)04:46:46 ID:VoLWkN40c
>>6

それらの国では親王が名誉職的に「守」になる。
11名無しさん@おーぷん :2014/06/14(土)09:58:34 ID:h6Vxrv773
>>10

なるほど。
疑問が氷解しました。
ありがとう。
12名無しさん@おーぷん :2014/06/15(日)20:32:35 ID:ov7rDZSo4
勝手に上総守・織田信長ですが何か?
13名無しさん@おーぷん :2014/06/15(日)21:40:27 ID:4wtK28EfU
>>12

信長が名乗ったのは「上総介」
14名無しさん@おーぷん :2014/06/16(月)17:44:39 ID:9yOoHFyYy
信長「ふっ。余は総国寺(←自分で創建した)の御神体である」
光秀「え?お寺なのに『御神体』?」
信長「十兵衛、丹波一国召し上げな」
光秀「・・・」

本能寺の変の真相。
15名無しさん@おーぷん :2014/06/17(火)21:05:53 ID:otxu9kbtt
>>13
上総守名乗ったけど、教えられてやめた。
16名無しさん@おーぷん :2014/06/18(水)02:27:51 ID:EpoxJivUy
松平忠輝とか、信長を尊敬した人たちは上総介を名乗る人多いよな
なぜか尾張守を名乗る人は江戸時代には居なくなった

「尾張」は「終わり」に通じるからとかもっともらしい屁理屈があつけど、
そんなダジャレが本当の理由なのかな?
17名無しさん@おーぷん :2014/06/18(水)05:07:36 ID:SjctjxoSo
>>16

元号の「明和9年」が「迷惑年」だというので、改元された例があった。
18名無しさん@おーぷん :2014/06/18(水)17:04:06 ID:0xHR6VkBu
>>16

尾張大納言家、正三位を憚ると言う意味もあるかも。

尾張守は従五位上(下)相当の役職であり、正三位徳川大納言は尾張守従五位より、はるかに上の役職だが、歴とした尾張の国持ち大名であり、実質の゛尾張守゛。形式だけとはいえ、憚りがあるんじゃね。
尾州侯の世嗣ぎの若殿なら、官途に就き始めた少年時代に正五位上尾張守を経験し、そのまま、昇進を重ねる経緯の中で兼任を続けても不自然でないような気がする。史実であったかどうかは知らないが。
19名無しさん@おーぷん :2014/06/18(水)17:24:18 ID:0xHR6VkBu
室町時代なら、管領の畠山本家は時々、尾張守を貰っている。

鎌倉時代の尾張守は斯波足利家の専売特許。只し、ここの室町時代の゛専売特許゛は、左兵衛佐。左兵衛佐の唐風の言い方は武衞。故に、管領斯波氏の通称は斯波武衞家。

細川宗家の唐風の役職は京兆。故に、管領細川家の通称は細川京兆家。

管領畠山氏は特に偏って同じ役職に任官している風に見えない。
20名無しさん@おーぷん :2014/06/19(木)08:12:30 ID:gheKXXlU4
太政大臣ってのは、大体、従一位。正一位は稲荷大明神ぐらいしか、印象がない。

しかし、藤原南家の次男、恵美押勝(藤原仲麻呂)は、在職中、正一位だったそうだ。
21名無しさん@おーぷん :2014/06/19(木)08:20:21 ID:gheKXXlU4
禁裏には位打ちと言う恐ろしい技があり、人格を崩壊させてやろうと言うターゲット認定された官途の者に功績以上の累進を遂げさせ、舞い上がらせて、失脚に追い込むと言う手段があったそうだ。
具体例は、すぐには思い浮かばないが、恵美押勝の正一位も似たようなものかも知れない。
木曽義仲が賜った朝日(旭)将軍と言う特別な称号も一種の位打ちかも知れない。
22名無しさん@おーぷん :2014/06/19(木)08:24:39 ID:gheKXXlU4
太閤秀吉の甥、豊臣秀次は位打ちを喰らったのと同じような茫然自失の態の日々だったかも知れない。
23名無しさん@おーぷん :2014/06/19(木)08:44:18 ID:7Ofw4wzT0
>>20

正一位だった人物が殺害されたのは、この1例だけだと思う。
24名無しさん@おーぷん :2014/06/19(木)08:46:35 ID:7Ofw4wzT0
>>20

>正一位は稲荷大明神ぐらいしか、印象がない。


橘諸兄も。
25名無しさん@おーぷん :2014/06/19(木)18:22:11 ID:GAEZsN46m
源平藤橘、橘氏凄いね。しかし、源平藤橘の代表的四姓ではあるが、藤原以外は皇族の臣籍降下なんだよね。

在原も皇族だったように記憶している。こうして、奈良時代以降を眺めると、公卿以上の官職から、次第に古代氏族が淘汰されていったのが分かる。
大伴、蘇我、巨勢、紀、平群。橘氏は皇族、諸兄に賜る前は母方の実家の姓で、屋号的には、古代氏族。失脚さえ、しなければ、その後、幾世代も藤原の強力なライヴァルたり得たはず。
26名無しさん@おーぷん :2014/06/20(金)10:51:21 ID:0lgt0C86b
奈良麻呂がアホすぎて無理ゲー
27名無しさん@おーぷん :2014/06/20(金)11:21:17 ID:ds8u7H6S6
>>25

紀氏は江戸時代も大納言を輩出していたような記憶がある。

紀州徳川も大納言だから、同格だが。
28名無しさん@おーぷん :2014/07/28(月)23:53:55 ID:Y8oFC2C5L
>>17
>>18
ありがとうございました
勉強になりました
29名無しさん@おーぷん :2014/08/12(火)23:41:42 ID:C6q51mzOE
藤原氏は、本当に調べれば調べるほど「自分たち一族」のことしか考えていない。
藤原氏の全盛期とは、藤原氏以外の者にとっては最悪の時代だったろう。
実際、藤原氏が衰えて以降の「院政と武士の台頭」から日本史は俄然、ダイナミックに動き出す。
30名無しさん@おーぷん :2014/08/13(水)17:38:07 ID:YDlhztcSN
天神さまの怒り(祟り)は凄まじかったらしい。
31名無しさん@おーぷん :2015/04/05(日)07:42:14 ID:ubr
>>5

>鎮守府将軍任官者には幕府を開く資格があったらしい。

「らしい」というのが微妙
32名無しさん@おーぷん :2015/04/05(日)07:42:41 ID:ubr
連続かきこであがるはずだ
33名無しさん@おーぷん :2015/09/02(水)22:51:13 ID:vNm
>>6
>>10
親王任国と言って、財政が厳しい天皇家のために親王しか「守」になれない国のことだ
あと、親王任国は 上野・上総・常陸 の3国だよ
下総は親王任国ではない
源義朝(頼朝の父)は保元の乱以前に下総守になっている
34名無しさん@おーぷん :2015/09/02(水)22:54:02 ID:vNm
存命中に正一位に叙せられた最後の人物は三条実美
故人で正一位に叙せられた最後の人物は織田信長
35名無しさん@おーぷん :2015/09/02(水)23:07:25 ID:vNm
>>5
時代が下るに従って、秋田城介 → 鎮守府将軍という出世ルートが出来たみたい
36名無しさん@おーぷん :2015/09/02(水)23:14:07 ID:vNm
>>5
>>31
幕府開けるのは右大将からじゃなかったっけ?
37名無しさん@おーぷん :2016/06/12(日)07:11:13 ID:W6X
役職の歴代の記録ってどのくらい残ってるのかな?
wikipediaで平安時代の生年不詳の人物の履歴みたら○○守って載ってたから、
いつ頃だろうかと思って○○守の所を見てもないからアレ?と思ったらそもそも前後一世紀位抜けてたんだけど、これは記録がないのかやたら変わってるので記載端折ったのかどっちなんだろ?
38名無しさん@おーぷん :2017/08/15(火)09:25:46 ID:HYF
>>16
太平記の記述で「久我畷の戦い」において北条(名越)尾張守高家という大将が討ち取られている。
名門名越流北条氏の若い大将で慢心があったのかもしれない。そして鎌倉幕府は「終わり」に向かっていった。
こんなことがあったのも「尾張守」が避けられた一因かも?
39名無しさん@おーぷん :2017/08/20(日)04:06:08 ID:GCc
>>25
藤原も天皇の御落胤という説がある。
藤原不比等と中臣鎌足との間には血縁が無いという話がある。
実際、藤原不比等は親の七光りで出世したのではなく、下級官僚から自分の実力で成り上がり、そして日本を支配するまで登り詰めた。
「なぜ中臣鎌足の実子が下級官僚スタートなのか?」
「なぜ下級官僚スタートの不比等がとんとん拍子に出世していったのか?」
「なぜ藤原の姓は中臣鎌足の子孫全員に与えられたはずなのに、不比等直系以外は中臣氏に戻されたのか?」
色々疑惑がある。
40名無しさん@おーぷん :2017/08/20(日)04:06:08 ID:GCc
>>25
藤原も天皇の御落胤という説がある。
藤原不比等と中臣鎌足との間には血縁が無いという話がある。
実際、藤原不比等は親の七光りで出世したのではなく、下級官僚から自分の実力で成り上がり、そして日本を支配するまで登り詰めた。
「なぜ中臣鎌足の実子が下級官僚スタートなのか?」
「なぜ下級官僚スタートの不比等がとんとん拍子に出世していったのか?」
「なぜ藤原の姓は中臣鎌足の子孫全員に与えられたはずなのに、不比等直系以外は中臣氏に戻されたのか?」
色々疑惑がある。

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