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【神話】出雲と大和【歴史】

1久志伊奈太伎:2013/04/29(月)20:07:34 ID:1bv+kZlgI()
 朝鮮半島などから土地を引き寄せて島根半島が出来上がったという「国引き神話」、
オオクニヌシノミコトによる「国造り」に続く天照大御神(あまてらすおおみかみ)への「国譲り」…。
日本誕生にまつわる数々の神話に彩られた神の国・出雲。
実は考古学界では数十年前まで「神話だけの世界で実証性に乏しい」と軽視され続けた。
昭和59年の荒神谷(こうじんだに)遺跡(島根県出雲市)での大量の銅剣や銅鐸(どうたく)発見で「出雲王朝論」が唱えられても、
関西の学者たちは「大和勢力(畿内)が『僻地(へきち)』の出雲に埋めた」と主張。
「出雲VS大和」は、古代だけでなく考古学界でもし烈な火花を散らした。
5月10日は出雲大社の大遷宮。出雲神話が再び熱い。

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130429/wlf13042912000007-n1.htm
2久志伊奈太伎 :2013/04/29(月)20:24:28 ID:1bv+kZlgI()
>>1 続き
 ■論争ヒートアップ
 「荒神谷の発見は、出雲に巨大勢力の存在を示す画期的な成果だ。大和や九州と一線を画した出雲王国が存在した」
 「出雲に大量の青銅器を造る力はなかった。出土した銅剣や銅鐸などは、大和の勢力が、
支配圏の最も縁辺部に埋めることで外敵の侵入を防ぐ祭祀(さいし)の役割があった」
 荒神谷遺跡から、国内の総出土数を上回る銅剣358本、さらに銅鐸6個と銅矛16本がセットで見つかって以来、
各地で「青銅器の謎」をめぐる学会やシンポジウムが開かれ、そのたびに「出雲王国派」と「大和派」が議論を戦わせた。
 出雲王国を唱えるのは、島根などの考古学研究者、文献学者が多く、大和派はもっぱら関西の考古学者だった。
「大和や北部九州の勢力が、それぞれの境界にあたる出雲の地に銅剣や銅鐸、銅矛を埋めた」との第3の説も出されたが、
あくまで大和や北部九州が中心だった。

 ■地下からよみがえった出雲王国
 「島根県内には100メートルを超える古墳がみられない。弥生時代をみても、『銅鐸は近畿、銅剣・銅矛は北部九州』と
いう二大文化圏から出雲は外れ、あくまで縁辺の地とされた」
 数十年前までの考古学界の風潮についてこう話すのは、島根県文化財課の松本岩雄文化財専門官。「神話の世界では
主要舞台でありながら、考古学的には全国レベルで議論されることはなかった。仮に議論を提議しても『実体がない』といわれるだけだった」と、振り返る。
 今では出雲王国のシンボルとされる「四隅突出墳」という弥生時代後期の特異な墳墓についても、関西の研究者からは
「変な形をした田舎の墓だ」といわれるほどだった。

 こうした出雲への偏見を覆したのが、荒神谷遺跡の発見。
さらに平成8年には、同遺跡からわずか3・5キロほどしか離れていない加茂岩倉遺跡(雲南市)で、銅鐸39個がまとまって出土し、
1カ所の遺跡としては全国最多の出土数となった。「国内最多」がこれほど重なる出雲をもはや、考古学者も「辺境の地」と言えなくなった。
 加茂岩倉遺跡の銅鐸と、荒神谷遺跡遺跡出土の銅剣には奇妙な共通点があることも分かった。
それぞれの表面に「×」印が小さく刻印されていた。何を意味するかは不明だが、松本氏は「共通の意識をもった集団が同じような時期に埋めたことは間違いない」と話す。

 ■最大のミステリー
 「考古学最大の謎」(松本氏)といわれる銅鐸や銅剣の大量埋納。
松本氏がここで着目するのが、かつて「田舎の墳墓」と関西の研究者らに揶揄(やゆ)された「四隅突出墳」だ。
方形の墳墓の四隅から舌状の張り出しが伸び、ヒトデのようにも見える奇妙な墓で、今から1800〜1900年前の弥生時代後期に隆盛した。
 荒神谷や加茂岩倉遺跡の青銅器が埋められたのは弥生時代後期初めごろで、四隅突出墳の出現とほぼ重なる。
松本氏は「四隅突出墳に埋葬される強大な統治者が出現したため、これまでの銅剣や銅鐸をあがめる祭祀が終焉(しゅうえん)し、一括して埋められたのでは」と推測する。

 新しい王の出現とは、大和など外部勢力による出雲征服を意味するのだろうか。
これについて松本氏は、荒神谷、加茂岩倉両遺跡の青銅器が極めて丁寧に並べて埋められている点を重視。
「外部の征服に際して緊急避難的に埋めたのなら、これほど丁寧に埋める余裕もない。征服されたとすれば、見せしめのため敵対勢力によって粉々に破壊されたことも考えられるが、
そうではない」と話す。あくまで新たな統治者の誕生は、出雲内部でのことだとする。

 四隅突出墳が集中する出雲市の西谷墳墓群では、弥生時代後期の40〜50メートルクラスの大型墳が見つかり、岡山・吉備地域の土器が大量に供えられていた。
大和や北部九州に対抗した「出雲・吉備連合」勢力の存在をも浮かび上がらせた。
 しかし、これほど独自性を誇示した出雲も、古墳時代になると四隅突出墳が忽然(こつぜん)と姿を消し、一気に大和勢力の傘下に組み込まれていく。
古墳も100メートル以上の大規模のものがないことは、中小の勢力に分断されたことを意味する。
3久志伊奈太伎 :2013/04/29(月)20:25:21 ID:1bv+kZlgI()
>>2 続き
 ■大和に不利な神話は消せ!
 現在の考古学論争だけでなく、1300年前に編纂(へんさん)された古事記や日本書紀をひも解くと、「大和中心主義」はさらに露骨だった。
 「国来(くにこ)、国来」。出雲の神が、かけ声とともに各地から領土を綱で引っ張ってきたという国引き神話。
「出雲の国は最初に小さく造りすぎた。もう少し縫い足そう」と朝鮮半島の新羅から余った土地を綱でたぐり寄せ、
隠岐や能登半島などからも土地を引っ張ってきて東西に縫い合わせたのが島根半島と伝える。

 出雲の領土拡張を物語る国引き神話は、奈良時代に編纂された出雲国風土記の冒頭に記されながら、
不思議なことに同時代に成立した古事記や日本書紀にはいっさい登場しない。
 その理由として、出雲の神が真っ先に新羅の領地に目をつけたエピソードは、朝鮮半島支配が出雲主導だったことに
つながると、大和側が警戒したためともいわれる。
 一方、記紀にしっかり記されているのが、国造りと国譲り神話。
オオクニヌシが国土開拓につとめ、ようやく稲穂の実る豊かな国土になった途端に、高天原の神・アマテラスが「自らが
統治すべき土地だ」と国の譲渡をオオクニヌシに要求した。オオクニヌシの息子が抵抗したが無残に敗れ、国は高天原に譲られた。

 高天原に例えられる大和王権が、出雲勢力を駆逐したという大和中心主義を記紀が強調したことを如実に示す。
 とはいえ、古事記・上巻の中で3分の1を占める出雲神話が、歴史的に重要であることは揺るがない。

 ■出雲神話を発掘が証明
 神話のエピソードが決してフィクションでないことを証明したのが発掘調査だった。
 国譲り伝説の中で、オオクニヌシは天にそびえるほど高層の神殿を建てることを条件にしたと古事記は記す。
この高層神殿こそ現在の出雲大社とされ、平成12年に本殿南側で前代未聞の巨大建物の柱が出土した。
 現在の本殿は高さ24メートルだが、平安時代の文献史料から、かつては高さ48メートルもあったとされる。
しかし、現代の15階建てビルにも相当する高層建築を平安時代に建てられるはずはないと、建築学者からも疑問視され、出雲神話はフィクションといわれ続けた。
 しかしこのときの発掘で、太さ1メートル以上もある柱3本がしっかり束ねられた状態で見つかった。
これほど太くて強固な柱は高層神殿にしかあり得ず、実際に建てられていたことが証明された。

 日本海岸に面した出雲は、中国や朝鮮半島から最新技術や文化が直接渡ってきたとされる。
その結果、大和や九州とは一線を画す強大な勢力が誕生。発想豊かな神話に結びついたようだ。

 国譲り神話に登場する出雲大社の巨大神殿について松本氏は、「天に届くような神殿を建てたという神話があったから
こそ、当時の人たちは高さを追求した」と指摘。「歴史が神話をつくったというより、神話が歴史をつくったともいえる」

(終わり)
4久志伊奈太伎 :2013/05/15(水)19:52:03 ID:Wb5VrhIYz
天孫降臨とスサノオ出雲神話はどこか通じている所がある。
大和朝廷側で体系付けられたものだから当然といえば当然だが。
神話の枠を超えているといえば、現実的に有り得るから混乱してしまうんだよね w
ロマンだな w
9名無しさん :2014/03/07(金)18:51:34 ID:KCICb9Sni
ふむふむ
10名無しさん :2014/03/12(水)23:41:55 ID:AdM02Iy4k
何だか説得力があって自然に最後まで読んだ。
道理に叶っていて全体的に同意。
11名無しさん :2014/03/21(金)18:31:01 ID:1chyzzAte
大和すら南九州の蛮族に征服された国だろ。
天皇家はマレー半島を侵略したスラウェシのブギスみたいなもの。
12名無しさん :2014/03/29(土)23:15:56 ID:bNwT9T3QO
>>1
朝鮮半島支配が出雲主導だったことに
つながると、大和側が警戒したためともいわれる。

この発想おもしろい
13名無しさん :2014/04/26(土)09:09:26 ID:eI0wS4YuZ
日本のはじまりは出雲にあり。
14名無しさん :2014/04/26(土)15:15:35 ID:dnYGl10SI
これ面白いスレだね
15名無しさん@おーぷん :2014/05/01(木)19:18:48 ID:OUSRf7WTN
伊勢津彦と建御名方命との関係
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/isetuhiko1.htm

倭史人物推定系譜私案
http://homepage3.nifty.com/kiya/sehachi/keifu/keizu00.htm
伊勢津彦
■「出雲国造いずものくにつくり・千家せんげ・北島きたじま、武蔵国造」推定系図

志摩氏=志麻氏
■「阿波忌部・安房忌部・度会・斎部」推定系図
━神魂━角己利━五十狭布魂━天底立━天背男━櫛明玉[玉祖宿禰祖][出雲国玉作の祖]・・
・・━天日鷲翔矢━・・━志麻名布━

■「物部・石上・和田・建内・蘇我」・「阿部氏」推定系図
饒速日━宇麻志麻治━・・━国志麻━・・

饒速日━宇麻志麻治 可美真手[磯城1神武]━・・
神武天皇家の氏姓判明です。

伊勢志麻の志麻が天皇家の氏姓だった。
志麻国造家の島氏島族が、元伊勢の祠掌や神主・・
元伊勢外宮 比沼麻奈為神社 祠掌社家について
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1395470649/
16名無しさん@おーぷん :2014/05/07(水)01:38:24 ID:quRPbJyaU
>>15は×

①阿波忌部氏のルーツ(鴨県氏、葛城氏)※度会氏の天日別[伊勢朝臣]系譜説在り
伊勢志摩国造家の島氏島族。
②物部氏・穂積氏のルーツ
元伊勢外宮 比沼麻奈為神社 島谷祠掌・元伊勢 籠神社別宮 和貴宮神社 島谷神主
大宮売神社 島谷宮司の島族。
※天太玉命は天日鷲あめのひわし命、手置帆負たおきほおい命、彦狭知ひこさち命、櫛明玉くしあかるたま命、天目一箇あめのまひとつ命をひきいた。
天日鷲命は阿波国忌部等の祖。手置帆負命は讃岐国忌部の祖。

天津彦根命=天若日子命。その子神が、天目一箇命=天御影命で天日鷲命と天鈿女命は、兄弟の神。北伊勢大神(多度神)
17名無しさん@おーぷん :2014/05/07(水)08:14:40 ID:quRPbJyaU
>>16の事を調べた結果。
どうも、②物部氏・穂積氏のルーツとは、応神代で氏姓のつながりが観えるが
末代には、島谷氏は居ないようで、やはり
①阿波忌部氏のルーツ(鴨県氏、葛城氏)※度会氏の天日別[伊勢朝臣]系譜説在り
伊勢志摩国造家の島氏島族ルーツの縁で
元伊勢外宮 比沼麻奈為神社 島谷祠掌・元伊勢 籠神社別宮 和貴宮神社 島谷神主
大宮売神社 島谷宮司の島族のようだ。
18名無しさん@おーぷん :2015/03/20(金)22:28:33 ID:1zN
出雲って、いくつかの神社名を見れば直感的に分かるけど
土地の古さが一目瞭然だよね

大和も、事代主やアジスキタカヒコネ時代の大和(ってか葛城)と
中臣が台頭して来た後では、本質的に別物

前者は、出雲の延長線上で、スサノヲ~大国主~大田田根子の系統
本来は、こっちが本流
そして、後者の頃に「国譲り」などの神話が形作られ、本当の歴史が忘れられてしまったという訳だ
19名無しさん@おーぷん :2015/03/20(金)22:44:15 ID:1zN
個人的には…
『出雲国風土記』にあるように
出雲大社(杵築大社)は、オミズノの「国引き」の後に
「天の下造らしし大神」であるオミズノの為に、諸神(つまり当時の民)がみんなで造営した宮殿
だと思ってる
つまり、国を開拓した王への感謝で造られたものだった訳だ

それが、一方的な「国譲り」の対価として造ってあげた、って話に作り変えられてしまった
もう、何だかね
20名無しさん@おーぷん :2015/09/23(水)15:21:49 ID:Nly
日本書紀や古事記は歴史捏造の書。

たとえば日本書紀には西暦600年の遣隋使のことが記載されていない。
この件は隋書倭国伝に記載されていて、その当時、日本の天皇は男だった。
年代から考えると、おそらく聖徳太子。
そしてこの「太子」は日本書紀では天皇になっていない扱い。

ほかにもいろいろあるが、とにかく日本書紀の中身がでたらめである可能性がかなり強い。
(荒唐無稽なデタラメというのではなく、確信犯的な、計算され尽くしたような「デタラメ」)

古事記に至っては、成立の時代自体がインチキ。

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